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「古代アンデスの染織と文化」-透ける織り布技法-アンデス独自のレース 上野 八重子

2017-11-08 11:27:51 | 上野八重子
◆紗と羅の複合組織に刺繍(小原豊雲記念館蔵)

2008年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 50号に掲載した記事を改めて下記します。


 「古代アンデスの染織と文化」-透ける織り布技法-アンデス独自のレース  上野 八重子

 前号までの4千㍍の地から今回は一気に下って、ペルー中部海岸チャンカイ川周辺に興ったチャンカイ文化(紀元約900年~1500年)をたどってみましょう。
地図上では首都リマがペルー海岸線のほぼ中央とすると、リマの上側に位置する場所にあたります。
インカの勢力が及んだにもかかわらず土器などは素人が見ても一目で判別出来る特徴を持つ程に独自の文化を保っていました。もちろん、染織品にも同じ事が言えるでしょう。
 リマ市内には日本人旅行者が立ち寄る天野博物館(天野芳太郎氏創設)があり、生前、天野氏が主としてチャンカイ文化の研究に没頭されていたという事もあり、多くのチャンカイ文化期の染織品、土器等が収蔵されています。ペルーに行かれたら寄ってみるとよいでしょう。 余談ですが、私にとってこの博物館はアンデス染織品との出会いと、人生180度転換の出発点となった場でもあります。

◆透ける布・刺繍レース(刺繍薄物)
 このチャンカイ文化期のみに製織されたものに「刺繍レース」と呼ばれる透け布があり、これはアンデスのみの特殊な織物と言われています。
通常、「レース」という響きから想像すると、鉤針やボビンを使ってのレース編を思い浮かべるかと思いますが、この「刺繍レース」とは、後世の人がただ単に「見た目がレース編に似てるから」と、名付けたのではないかと思います。
一部の説に「スペイン人の持っているレース編みを真似て作った…」と言われていますが、年代的に見るとスペイン侵略以前に既に作られていた事からしてチャンカイ独自の技法に違いないのでは…と思います。「真似ではないですよっ!」とアンデス人の名誉にかけて言いたい気持ちです。たしかにマンドリンを見てチャランゴを作ってしまった民族ですから疑われるのも仕方ないかな~とも思いますが…
 刺繍レースには大きく分けて次の4種類があり、それぞれ製織法も違ってきます。  
※羅基布に刺繍 ※紗基布に刺繍 ※紗と羅基布に刺繍 ※紗と羅もどき基布に刺繍

どれを見ても「手間暇かかる仕事だなぁ~」と思うのですが、これらは庶民の墓からも出土している事から考えると決して高貴な人だけが使っていたものではなく万民が平等に生活出来る社会が出来上がっていた事が察しられます。

 数ヶ月前、探検家・関野吉晴氏の講演会で入手した本の一節に「…旧大陸では墓を掘ってみると、王侯貴族の持ち物と庶民のものとでは雲泥の違いがある。 -中略- 技術的にも芸術的にも優れた文明は他にもある。それらの技術や芸術を皇帝や貴族だけでなく一般庶民つまり普通の人でさえも享受出来る社会を作り出したインカ帝国。普通の人である私は、そこに魅せられた。」(インカの末裔と暮らす・関野吉晴著より)とあります。 同感です。

◆写真1 羅基布に刺繍  (小原豊雲館藏)
◆写真2  羅基布に刺繍(部分)  小原豊雲館藏

◆ 羅基布に刺繍(写真1・2)
刺繍レースの中では一番簡単で自由に模様を描けるのではないでしょうか。まず、基布として羅(網捩り-3本羅)を織っておきます。使用糸は木綿S撚り単糸
次に織り上げた基布に太い刺繍糸(数本引き揃えたもの)で絵を描く様に線を入れていきます
特徴としては羅の輪郭に沿って刺繍していくのでラインが斜め方向に行く事になります。(図1)
使用糸は木綿甘撚りZ撚り単糸 を別糸で固定。

◆図 1

◆写真 3  紗基布に刺繍  (小原豊雲記念館藏)


◆写真 4  紗基布に刺繍(部分)  (小原豊雲記念館藏)

◆紗基布に刺繍(写真3・4)           
 こちらは一見、簡単そうに見えますが… しかし、きれいなマス目を形成するには難しくはないけれど相当な労力を要します。

※まず、紗で基布を織り上げマス目状になったところで(図2)
※捩られた経糸2本と交差する緯糸をもう1本の緯糸で結んで固定しながら次に進みます(図3)従って経緯糸4本が固定されるので、紗の組織だけでは動いてマス目がくずれてしまう欠点をこの「結ぶ」という一手間で補っているのです。中には紗を2回捩り、3回捩りをして基布としているものがありますが、それでも経緯糸4本の固定を施してマス目の崩れを防ぐ努力を惜しんでいません。こうした基布を作る事で刺繍もし易く、出来上がりも美しくなります。 使用糸は木綿S撚り単糸
◆図 2

◆図 3

※ 次に羅基布と同じように、織り上げた基布に太い刺繍糸で模様線を入れていきます。特徴としてはマス目に沿った縦横直線的な模様が多くなりますが、もちろん斜線も入り自由に描かれていきます。 使用糸は木綿甘撚りZ撚り単糸

◆写真 6 紗と羅の複合組織に刺繍(部分)  (小原豊雲記念館藏)

◆紗と羅基布に刺繍(写真5・6)
 これは刺繍レースといわれる中では一番難しいものかもしれません。
なぜなら、前者2種類は基布を紗なり羅で作っておいて後から刺繍を施す工程なので途中での模様変更、直しも可能でした。しかし、こちらは紗と羅の複合組織で模様を表している為、基布を織る段階で紗(地)と羅(模様)を織り分けていかなくてはなりません。その代わり、基布が出来上がれば模様も出来ている訳ですから刺繍は縁取りするだけで楽だったのかもしれません。
「紗(地)と羅(模様)の織り分けが大変そう!」と思うのは未熟な我が身が感じる事であって、実は織りにたけたチャンカイ人達は難なく織っていたのでしょう。 また、結ぶ工程もない事から意外と簡単だったのかもしれません。 これも又、基布は木綿S撚り単糸、 刺繍糸は木綿甘撚りZ撚り単糸です。

◆写真7  紗と羅もどき複合組織に刺繍 (小原豊雲記念館藏)

◆写真 8  紗と羅もどき複合組織に刺繍(部分)  (小原豊雲記念館藏)

◆紗と羅もどき基布に刺繍(写真7・8)
 紗を織るところまでは(図1)と同じですが、次の結ぶ工程でひと工夫…というか、賢い手抜きというか、これも手仕事から生まれた知恵なのでしょうか。ちょっと見には`紗と羅基布に刺繍´と見間違えそうです。効果としては同じなのですから…

※マス目状の紗織り布を2本目の緯糸で結びながら進む工程で、模様部分にあたる箇所では捩られた1組の経糸のうちの1本は、隣の組糸の1本と結び合わせる事により羅の様な網状の基布が構成されます。この操作は1段おきに行います。(図4)
◆図 4

※その後は刺繍で縁取りをして模様を浮き立たせ て完成です。
先程、手抜き…と言いましたが、よく考えてみると結びをする分、かなりの手間である事を思うと、`羅と羅もどき´ どちらが楽なのかなぁ~などと変に考え込んでしまいます。 どちらも織りの段階で模様を作っていくのですから、その点を同じとすると`紗と羅もどき´の方が労力大ってところでしょうか。
さて、この両者の技法はどちらが先に生まれたのでしょうか? それとも作者が違うのでしょうか?

 現在、私達が目に出来る布の殆どは埋葬品であり、それらは生前に使われていた物も多くあります。
故に模様はかなり歪み使い込んだ形跡があり、機から外した時の綺麗さは想像するしかありません。 今回紹介した刺繍レースのいずれもが、基布は木綿強撚S撚り単糸 、太い刺繍糸は木綿甘撚りZ撚り単糸(別糸で固定)を使い分け、撚りの違いで 刺繍を安定させているといわれています。糸の使い分けは長年の経験から得た知恵と思われますが、フッと「最初は~?」 と疑問が湧いてきました。 現代人に左利きがいるように、古代にもいたはず…スピンドルで紡ぐには右利きと左利きでは撚りの方向が左右されるはず…? 
何だか耳元で 「私の織りには、向かいの娘が紡いだ糸を使うと綺麗に仕上がるんだょ!」 なんて声が聞こえた様な気がします。   

「古代アンデスの染織と文化」-伝承されている技法(標高4千㍍の村で③) 上野 八重子

2017-10-28 08:54:24 | 上野八重子
◆一辺を階段状に織り、その後絞り染めして組み合わせたもの

◆写真1.タキーリ島、男性の民族衣装 帽子の先が白色は独身男性の印

◆写真2.ウロス島、葦で作られた浮島と家

◆写真3.織り合せ織り (小原豊雲記念館蔵)

◆写真4.薄地布 経緯同色なのが良くわかる(小原豊雲記念館蔵)

◆写真5.無地と絞り 変形平織に絞り布を配置 (小原豊雲記念館蔵)

2008年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 49号に掲載した記事を改めて下記します。

「古代アンデスの染織と文化」-伝承されている技法(標高4千㍍の村で③) 上野 八重子
◆チチカカ湖内の島
「染料は何だったの?」と、ふと入手経路を考えてしまいました。前号でタキーリ島の編と織物の事を記しましたが、伝統的なタキーリ島のエンジ色と紺色は昔は何で染めていたのだろう…と。
赤やエンジ色はコチニール。紺色は藍…と勝手に決めつけてしまいがちですが実際にはまるで違う染料…と言う事もあるかもしれません。広い湖内に孤立した島での交通手段はモーターボートが就航する以前は手漕ぎの葦舟だったはず… 何日もかけて湖岸の町、プーノやラパスに出向いて毛や染料を仕入れていたのでしょうか。それとも島内の植物だったのでしょうか?島で羊(標高4千㍍に住む羊はとても小さい)は見かけましたがアルパカはいたのでしょうか? 残念ながら、私がこの地に行った時点では染色も織物もしていなかったので気にも止めていなかったのです。

 我々は、とかく現在残っているものから憶測であれこれ考える場合が多いのですが、違う視点で考えてみると、案外今のようなタキーリカラーになったのは化学染料を使うようになってから…だったりするのかもしれません。染料のルーツを調べたら古代の行動範囲や生活圏がわかってきて意外な方向に展開するかも…などと考えていると「もっと知りたい!」と言う意欲が湧いてきてワクワクしてきます。等々、今になって疑問ばかり出てきて調べてこなかった事が悔やまれますが又の機会に…。
いずれにしても人間は現在から古代に遡ってみてもファッション性と言うか美意識と言うか、色に関してはナチュラルカラーだけに留まらず、色で模様を作り出す事にかなりの意欲を持っていたと言う事でしょう。実用性だけなら無地で充分だったはずなのですから…

 ここでタキーリ島の衣装を見てみましょう。男性は白いシャツにベストを着て三角帽子(独身男性は先端が白の無地)をかぶり腹帯をしています。帯も帽子もこの島の貴重な収入源、土産品として作られています。女性は赤いセーターを着てチュコオという日よけの黒い布をかぶり、膝までのスカートは10枚程の重ね着(汚れたら上を脱いで中に新しいのをはく)隣のアマンタニ島の女性は上着は白、と言うように、ここでは地域ごとの民族衣装が保たれています。リマやクスコなどの都市部では私達と同じ格好をしている人が殆どなのです。が、遅かれ速かれいずれこの島にも文明の波は押し寄せてくる事でしょう。「そうなる前にもう一度行きたい」と言う思いを胸に残し、そろそろタキーリ島を後にしましょう。


-伝承されてない技法-
織り合わせ織り

 ◆何故、面倒な事を?
 「織り合わせ織り」「はめ込み織り」「経緯掛け続き平織り」と博物館によって呼び方が違っていますが、大きく分けて2種類の製織法があります。  

1)染め糸を模様に応じて経緯同色で織り上げたもの。実物を見ても「あ~、綴れ織りね」と軽く見過ごされてしまう程です。しかし、整経や製織工程でとても手が込んだ仕事をしているのです。
は地味な市松模様ですが縦166㎝横150㎝に3㎝平方角が千三百以上にもなるという…
ウーン…と、うなってしまいませんか! 3㎝ごとにインターロックをしながら整経、その為、通しの綜絖は使えない…毎段手拾いなのか?

古くから織りに精通していた民族が古代染織末期とも言えるインカ時代、簡略化が進む中にあってどうしてこんな模様を考えたのでしょう。いくらアンデスびいきの私でも「ここまでしなくても~、こんな技法には手を出したくないな!」と言うのが本音です。
(写6)はガーゼ位のスケスケ布、経緯糸が同色というのが良くわかりますね。この様な柄を織るには、通常の綴れ織りでも可能ですが、色の違う経糸を見せない為には緯糸密度を上げる、故にスケスケにはならず重さも出てしまいます。この布は同色の経緯糸で織られるので、この様にざっくりと織ってもより鮮やかな色彩の布になり、軽く仕上げる事が出来ます。これだったら経緯糸同色にする意味もわかるし、多色できれい、軽い。納得です。

 この他にも一見、単純な縦縞に見える布にこの技法が使われていて、又しても「ここまでするか~」と言ってしまいます。腰帯機での平織りは通常、経密なので経糸の色しか見えません。故に縦縞は簡単に織る事が出来ます。しかし、(写6)のような緯糸が見える程の軽くて薄地な布はやはり一工夫必要だったのでしょう。単なる縞なので整経は多色で好みの縞に掛け、製織時に経糸色に合わせて同色の緯糸をインターロックしながら入れていきます。…と言ってしまえば単純な発想です。だが、合理性を優先させる傾向にある我等現代人には彼らの意図するところが理解できない一面もあるのですが、「アンデスらしい発想だね~」と簡単に片付けるのではなく、先のタキーリ島の染料ルーツと同じで、あれこれ理由を考えてみると新しい発想への出発点に繋がるのかもしれません。ふと、東テキ、三宅所長が言われている「まず原点に戻ってやってみろ」の一言が頭を過ぎります。
 これらの技法は、出土品を見ると3世紀頃にはすでに行われていたようですので、一部地域では連綿と続いていたのでしょう。

2)何色もの絞り染め小片を寄せ集めて織り込んだ布。 こちらは前もって綿密な計画、染めと織りの両方共に極めて緻密な技術があって初めて可能な仕事なのです。大胆な模様構成と高水準な技術を持ち、能率や手間を厭わない手仕事から生まれた裂と言えるでしょう。アンデス染織文化の独創性を示すものであり、アンデスのみの特殊技法の一つと言えるものです。
「絞り染め小片の織り合わせ織り」と称していますがこの技法を知った時、本当に面白いと感じました。
一見パッチワークの様に見えますが、縫っているのではなく、織りなのです。織り、絞り、染め、接ぎ、を思いのままに組み合わせて1枚の布が出来上がっていきます。

 この絞りを組み合わせた織り合わせ織りはワリ文化系海岸文化(約10世紀)と言われていますが、この時代はアンデスどの地域でも緻密な技法(綴れ織り、疑似ビロード)が多く作られていたようですので、ワリ人達の意識の中には緻密な技法は当たり前で大変、面倒などというものはなかったのかもしれません。それに腰帯機の複雑な多重織りを思ったら、こちらの方が楽だし染め上がりの出来映えを
見るのもワクワクするし…と本当に楽しんでいたのかもしれませんね。
「絞り染め小片の織り合わせ織り」には何パターンかあり、それぞれ最初の織り方が違っています。

(写7)は同じ大きさの小片を染め分けて接ぎ合わせています。
(写8)は無地染めと絞り染めの組み合わせ。
(写9)は一辺を階段状に織り、その後絞り染めして組み合わせたもの。

この3枚、いずれも1枚ずつ織ったのではなく、織り上がった時は全部が繋がっている状態なのです。 私、個人的には特に(写9)が好きで直線に限らず斜線、円形にも応用し着て楽しんでいます(写10)
 緻密な技術だ、手間を厭わない手仕事だ、と大変さばかりを誇張して言ってきましたが、ちょっとした工夫と使う糸を加減すれば初めてでも充分に織り合わせ織りを楽しむ事が出来ます。今期の夏期講座にはこの技法を取り入れてみましたので織り、絞り、草木染めでアンデスを楽しんでみませんか。
(つづく)



「古代アンデスの染織と文化」-伝承されている技法(標高4千㍍の村で②)- 上野 八重子

2017-10-17 10:08:33 | 上野八重子
◆左、不思議な編み方の帽子 右、タキーレ島の帽子

◆写真1.返し縫いによる両面刺繍  紀元2世紀  (小原豊雲館蔵

◆写真2.左 薄い綿布にほどこされた返し縫い両面刺繍 
紀元2世紀 (小原豊雲館蔵)
◆写真3.右 ポンチョの縁回りに付けられている両面刺繍 
紀元2世紀  (小原豊雲館蔵)

◆写真4.タキーレ島の織物

◆写真5.タキーレ島 紡ぎながら歩く女性 この島の女性は黒いベールが特徴

◆写真7.タキーレ島 編物をする男性、この島では男性が編物をする

◆写真6.タキーレ島 歩きながら編物をする少年

◆写真8.不思議な編み方の帽子拡大 左:表 右:裏
◆写真8.タキーレ島の帽子拡大 左:表 右:裏

2008年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 48号に掲載した記事を改めて下記します。


「古代アンデスの染織と文化」-伝承されている技法(標高4千㍍の村で②)- 上野 八重子

 ◆チチカカ湖
 ここは標高3812m、琵琶湖の約12倍、最深部は370mもあり大型客船も航行可能。又、インカ帝国始祖である王が、妻を伴って現れたと言う神話で知られる聖なる湖でもあります。
25本の川が流れ込み、出口はテスアグワデロ川の1本だけと言う事で雨が多く降ると線路や畑、プーノの町も洪水になってしまうそうです。万年水不足のクスコと比べ、どちらがいいとも言えませんが…
湖にはウロス島、タキーリ島、アマンタニ島他、幾つかの島が点在しています。
中でも日本で一番馴染みなのが浮島で知られるウロス島ではないでしょうか。その名の通り、湖に自生するトトラ(葦)を湖面に積み重ねて作った浮島で、20年程前までは約50の島に二千人程のウロ族が住んでいました。しかし、此処にも時代の波が押し寄せていて島外の学校に行き、そのまま島を離れてしまう若者が多くなっているそうなのです。

 この島に足を踏み入れると、落ち葉を踏み固めた山道を歩いてる様ないい感じを受けますが、時々ズボッと落ちるので要注意です。でも、修理は簡単!トトラを乗せるだけですから… マイ・ハウスならぬマイ・ランドも可能なのですが難点は臭い事でしょうか。
 島の主な生計は漁業と観光客相手の刺繍布です。いかにも土産品という感じの刺繍であまり食指が伸びません。数ヶ月前のテレビ番組で、カノン・デ・コルカ(コンドルの飛ぶ渓谷)が案内され、画面上には刺繍布の土産品が映っていました。
カノン・デ・コルカはプーノから夜行列車で12時間以上かかる太平洋側の町アレキーパ(標高2360m)に行き、更に車で5時間、4800mのパタバンバ峠を越えてたどり着く観光地です。プーノとカノン・デ・コルカ、この遠隔地の二つの場所で同じ刺繍をやっていた事になるのです。今でこそ交通の手段があるので交流が考えられますが、古代にはどのようにして技法が飛び火していったのでしょうか。

◆古代の刺繍
 少々チチカカ湖から離れてしまいますが、刺繍の話が出たところで古代の刺繍を紹介してみましょう。刺繍とは通常、模様部分を色とりどりの糸で刺すので柄が浮かび上がります。が、アンデス古代刺繍の多くは地布部分も刺繍されています。地と柄の凹凸が嫌だったので全体を埋め尽くしたのだ…と言う説もありますが真相は定かではありません。 彼等なりの美意識がそうさせたのでしょうか?こうした返し縫いによる刺繍(片面、両面)は紀元前4世紀頃から紀元4世紀頃まで盛んに作られていましたが、やがて織り機による高度な文様表現が出来るようになると織りに移行していきました。
刺繍糸として使われている糸は…と見ると、現代の染織品に劣らぬ多色を染め出しています。 化学的な知識や媒染剤も無い2千年も前にこの様な染色技術を確立していたと言う訳です。
現在では染着の邪魔になるとされている汚れや油分は染色前に精練し落としてから染色する…が常識となっていますが、ふと「昔は~?」と考えた時、「原点に立ち戻ってみよう…」と染色に限らず多くの事を考えさせられている自分です。

◆タキーリ島の編み物
 湖岸からモーターボートで3時間の所にタキーリ島はあります。この時間をみても湖の大きさが伺えるのではないでしょうか。この距離があったからこそ外部からの情報が入りにくく、島の技法が守られていた…とも考えられます。
この島の染織品は極細糸の織り物と編み物です。
織り機は地面にセットする水平機で文様は必ず島のシンボルマークが入り、色もエンジ色地に緑、白、紺の配色と、ほぼ決まっているので土産店で他の染織品に混じっていても一目でわかります。

 船着き場から長い階段を登ってやっと村の入り口。標高4千㍍近い村から見る空や湖面は限りなく青く、まるで絵ハガキから抜け出したようです。
歩いていると、焼き魚売りのおじさんやら、歩きながらスピンドルで紡ぐ女性、編物をする少年。水場で洗濯する女性、日なたでは編物する男性を見かけます。道端には実り間近なキヌアが生えていて…と標高4千㍍を感じさせない生活がそこにはありました。島の食材キヌアは今でこそ日本でも自然食品店で見かけるようになりましたが、島民に白髪や薄毛の人がいないのはキヌアを食べているからとの事。ここでも「豊かな食生活とは何ぞや~?」を考えさせられてしまいます。

 さて、本題の伝承されてる技法に戻ってみましょう。先程も触れましたが、その地本来の技が受け継がれる条件の一つに立地条件が大きく関わってくると思われるのです。この島でもモーターボートが就航するまでは島への出入りはごく限られたものだった事でしょう。交通の介入と共に観光化され、いずれは他の地と同じ道を歩むかもしれませんが、幸い今はまだ親から子へと受け継がれる伝統は残っているようです。

 アンデスでは織物は高度な技術が確立されましたが編物に関しては博物館でもほとんど見かけません。現在、編み製品が多く並んでいるプーノの市場ですが、日本のアルパカ糸輸入会社が講師を送り込み編み物を定着させたという話を聞きました。

しかし、タキーリ島の編手法は日本の編み方と大きく違うところがあるのです。2本針による編み込み模様が主ですが、よく見ると針先がカギ針になっていて一目編むごとに糸をキュッと引き、目を引き締めています。2色の糸の持ち方は指にかけるのではなく、首にかけ左右に振り分けて垂らし押しつけるように糸換えをしています。速い、綺麗の凄い技でした。ちなみにこの編み地のゲージを記してみましょう。56目、70段/10㎝。編物している方ならわかる驚く細かさなのです。これと同じ編み方を見たのはクスコ郊外のチンチェーロ村。組紐おじいちゃんに連れられて行った陶皿作りの家で奥さんが赤ん坊の帽子を編んでいたのです。「もしかして実家はタキーリ島ですか?」なんて尋ねたくなってしまいました。織りの村チンチェーロに新しい伝統の始まりを感じます。 

 もう一つ、不思議な編み帽子があります。クスコ市街を友人達とぶらついていた時、目に入った房飾りが付いたカラフルな帽子。皆、同時に手を出して…カルタ取り状態でその帽子は私の手中に!見るとタキーリ島の技法とは全く違う編み方で未だに良くわからないでいます。糸はアクリル系を使い化学染料で染色されているのを見ると近年のものかと思いますが、どの地方の技法かもわかりません。市場では時々見かけるのですが。
この様な緻密な編物は帽子のような小物に限られていて大きなポンチョなどは作らなかった為に「古代アンデスには編物はなかった」と言われているのかもしれません。 (つづく)


「古代アンデスの染織と文化」-伝承されている技法-(標高4千㍍の村で①) 上野 八重子

2017-10-06 10:20:15 | 上野八重子
◆プーノのアルパカ牧場 手前2頭は一才未満のベビーアルパカ この毛は高価

◆クスコの中心、アルマス広場 午後になると雨雲がたちこめる

◆雨期のクスコ空港 標高3400m以上の山にも緑。乾期は茶一色になる

◆クスコ フォルクローレライブ付レストラン

◆手描きビーズ

◆クスコ ブラックマーケット(ドロボウ市場)

◆高山列車の事故 牛が巻き込まれ、その事故の処理中

2008年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 47号に掲載した記事を改めて下記します。

 「古代アンデスの染織と文化」-伝承されている技法-(標高4千㍍の村で①) 上野 八重子

 日本がこれから冬に入ろうという頃、南米ペルーでは緑の季節を迎えます。直行便で約24時間、ちょうど日本の裏側に当たるこの地は季節も逆になり、10~3月頃が雨期、その他が乾期に当たります。雨期…というと梅雨を連想されるかもしれませんが、ナスカやリマの海岸砂漠地帯は年間を通してほとんど雨は降らず、クスコやマチュピチュ、プーノの山岳地帯では午後にサーッとスコールが降る程度。そんな少しの雨でも乾期が終わった高原には緑が広がります。

◆クスコの町で
 海の町リマから空路1時間、インカ期の主都クスコに到着…短時間で標高差3430mは高山病になる人も多いのですが、空港に降り立っても息苦しさも感じず、目の前の緑の山並みを見ていると富士山と数百㍍の差とは思えず油断しそうです。迎えの友人を見つけて駆け出し「オッと危ない、酸欠注意だぞ、ここは高地なのだ!」と自分に言い聞かせながら歩をゆるめます。 
 翌日、体調がおかしい、パンが喉を通らない…それから一週間というもの食欲がなく、口にしたのはインスタント蕎麦だけ。クスコ暮らしが長い友人夫婦への土産蕎麦だったはずなのに結局全部食べてしまったのです。「やっぱり私は日本人なんだ…」を嫌でも感じた一幕でした。体調不良の原因は到着した夜、美味しくてお腹いっぱい食べた石釜ピザでした。後でわかった事…高地では内臓の働きが弱くなるので腹八分目が鉄則との事。
 クスコは町の其処此処にインカ期の名残があり旅行者には人気の町…と言うよりも、観光スポットであるマチュピチュに行く玄関口である為、多くのホテル、土産店、飲食店があり、活気溢れる町です。近頃はヨーロッパ系列のハイセンスな店が多くなり「これはケイファセットのセーターでは?」と思える日本で買ったら10万以上はするアルパカセーターが1万~3万円で並んでいます。日本女性が何枚も買っていくとか…そんな高級店とアンデス雑貨が並んだ土産店とが軒を並べているのも面白い光景です。又、賑やかなメーンストリートを離れ一歩裏通りに入ると、「ひなびた田舎町の商店街」みたいな店が並び、中に入るとなかなか面白い掘り出し物もあるのです。こちらは「安いよ、買ってかないっ!」と声をかけられる表通りと違い、地元客相手なのか観光客慣れしてなくて欲しい物を手に入れるには身振り手振りで大変です。探していた手書きビーズもここで見つけました。以前は沢山あったのですが今は量産品になっていて個々の味がなくなっています。見つけたのはきっと売れ残っていた物なのでしょう。ラッキーと言えますね。 
 町の中心部を取り巻くように市民の生活圏が広がり目に入る光景が全く違ってきます。中心部の「金と人の動き」を見てきた目には貧しいインディヘナの生活を垣間見た時、一観光客として歩いている自分の心の整理に時間を要しました。道路脇に並ぶ食材料の店、いろんな匂いが入り交じった空気。汚い、臭い…と観光客はほとんど足を運びませんが、でも、其処には生きる為の底力の様な活気が溢れていて元気を取り戻してくれるようでした。
 ある日、通称「泥棒市場」と呼ばれている線路上に店を張った市場に行ってみました。此処は観光客は絶対に行ってはいけない危険な地域なのだそうですが、友人は私の面構えから現地人として通用すると思って連れてったのでしょうか?その市場とは…見渡すと鍋のフタだけ、靴片方、怪しげなカセットデッキ、ねじ1本まで身の回り品なら何でも揃う感じです。泥棒市場と言われてるだけあって仕入れ先は?でしょうか!そんな中で少女が割れ皿にビーズを入れて売っていたのです。怪訝な顔をしている少女を尻目にもちろん全部ゲットです。
 明暗がある町クスコですが、観光で行った人が住み着いてしまう位魅力な町でもあります。自分をどのレベルに置くか、考えるかで心の快適さを求められるのでしょう。電気、ガス、水を不自由なく使える日本にいると、それが当たり前になっていますが、クスコでは水は朝の数時間しか出ないので1日分を容器にストックさせておきます。ゆえに風呂などには入れません。友人宅に滞在した一週間で体を洗えたのは行水が1回だけでした。風呂好きな日本人にはちょっと困る事かもしれませんね。水に限らず異国にはその場の事情があるので、それ等もひっくるめて理解すると古代から築かれてきた文化も納得できるのではないでしょうか。 

◆高原列車
 クスコ駅にはマチュピチュ行き客の列が並びます。それとは反対方向には4千㍍以上の高原を抜けて向かうチチカカ湖畔の町プーノ駅行きです。
チチカカ湖はペルーとボリビヤの国境になっておりペルー側がプーノ、ボリビヤ側がラパスの町となっています。
クスコからプーノへは12時間の列車の旅になり、朝出発して到着は夜の8時半。景色を見るのも飽きてきた頃、突然急停車!外では人が走り回っているのが見えます。平原の真っ只中、何事か?…どうやら事故らしいが車の道がある訳でもなさそうだし…何と、牛が飛び込んで車輪の間に挟まってしまったとの事。牛から見たら列車は縄張りに入ってきた侵入者だったのでしょう。果敢に戦いに挑んだ結果の出来事の様です。この後がアンデスタイムの素敵なところで、いつ発車するのかわからぬ列車を待ちながら平原に腰を下ろしてくつろぐ乗客達。「日本だったらどうだろう?きっとズーッと車中でイライラしながら待つんだろうなぁ~」と、牛には気の毒でしたが、ドアを開けてくれる鉄道と「早くしろ!」と騒がぬ乗客を見ていて青空眺めながら思いもよらぬ幸福感を味わっていました。日本も両者共にこの様なゆとりが欲しいものだと痛感した一場面です。
2時間遅れで出発し、途中この路線で標高が一番高いラ・ラヤ駅(4319m)を過ぎた頃から車窓のコヤオ高原にはアルパカの群れが見え始めてきました。アルパカ毛は柔らかく艶があり、古代アンデス染織品には欠かせない素材となっていました。…と言うよりアルパカだったから緻密な染織品が生まれたといった方が正しいかもしれません。
ラ・ラヤ駅付近ではさすがに深呼吸状態で息をしていたのですがプーノ駅(3870m)に着いた頃には
平常に戻り…とは言っても4千㍍に近い場所なので油断は出来ません。

◆プーノのアルパカ牧場
 牧場と言うと、つい木の柵に囲まれて…が頭に浮かんでしまうのですが、ここプーノのアルパカ牧場は彼方の山の裾まで見渡す限り全面が「アルパカ住人使い放題」って感じです。これではストレスもなく良い毛がとれるだろうなぁ~が実感でした。牧場の中を一般道路が走り人影もなく出入り自由なので写真を撮りまくり、アルパカ三昧を満喫です。
しかし、ペルーに行くと何処でもアルパカが見られると言う訳ではなく生息地域が4千㍍に近い場所なのでクスコあたりでは観光用に見られる程度です。
 今回は技法から抜け出してアンデスの生活・文化を記してみました。今までと見方が少し変わるかも知れませんね。次回は続いてチチカカ湖内の小さな島の技法を訪ねてみたいと思います。


「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの紐・Ⅴ(綴織)-  上野 八重子

2017-09-28 10:33:28 | 上野八重子
◆ 写真 2 収納ケースに並ぶ頭帯 (豊雲記念館蔵)


◆写真3 ハッリ孔の補強の綿細糸   豊雲記念館蔵


◆写真5 薄地に1cm角の絞り   豊雲記念館蔵

◆写真6 絞りを思わせる織地 豊雲記念館蔵


 ◆写真7 中心と袖が二重織  豊雲記念館蔵

◆写真7 の拡大部分  豊雲記念館蔵





2007年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 46号に掲載した記事を改めて下記します。

「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの紐・Ⅴ(綴織)-  上野 八重子

 ◆アンデス・綴れ織りの特徴
 連載Ⅱ-②で経19本、緯104本/㎝というワリ文化期(8世紀)の緻密な綴れ布の話をしましたが、今回は紐にしぼってお話ししてみましょう。  

 綴れ織りはご存じの通り、世界中で好まれ古くから使われている技法の一つです。絵画のように微妙な色遣いで織れることからタペストリー、劇場の緞帳等に多く使われています。それらは複数の色糸を重ね合わせ濃色から淡色、色から色への変化へと微妙なグラデーションを可能としてくれます。

 しかし、古代アンデスの綴れを見ると色は多く使うものの、模様は単色で形成している為クッキリと柄が現れます(写真1)。その点が特徴と言えるのではないでしょうか。(ただし、これは限られた場所でしか見る事の出来ない私の見解ですので、他に多色重ねが有り得るかもしれませんが)
 豊雲館内、綴れ織りの収納ケースで一際目を引くのが(写真2)の赤色地・頭帯です。1枚が長さ45㎝、幅9㎝、経18本、緯42本/㎝前後で織り上げてあり、両端を縫い合わせて輪状にして頭帯として使っていたと言われています。両端共、端までキッチリ織れる後帯機の利点をうまく生かしています。

こんなカラフルな頭帯を付けた男性の姿をちょっと想像してみるのも楽しいですね!
先に記した経19本、緯104本/㎝という布と同じワリ文化期に作られたものですが、時代は同じでもこちらの帯は10世紀、この200年の差は織り地にも大きな変化をもたらしていました。
この頃の綴れは面倒な色替えごとのインターロックはやめ、2越、又は6越ごとにインターロックをし、そのままだとハツリ孔が空くので間に細綿糸で平織りを1段入れハツリ孔を補強しています(写真3)地色の赤色の箇所を見ると白い緯糸が微かに見えます。この操作は「時代の変化と共に手抜きを覚えたな…」と眉をひそめるよりも、「とても賢い知恵だなぁ~」と思えるのですが…いかがですか!

◆8世紀ワリ人・怒る!
 それよりも「オヤッ」と思ったのは、頭に付けた時、模様が横になってしまう…と言うことです。  
8世紀のワリ人はあの緻密なポンチョを織るのに、着る時の事を考えて複雑な模様を横向きにして織っていましたね。この頭帯を8世紀のワリ人が見たら「まったくぅ~、今の奴らはなっとらん、ちゃんと考えて織れ」と小言が飛び出すのではないでしょうか。又、綴れ織りのほとんどは目の粗密は別として、表裏の見分けがつかぬ程に両面が綺麗なのです(写真1)が…しかし、これも人の成せる技で例外もありました(写真4)。織り人の美意識というものはいつの時代も「人それぞれ」という事でしょうか。
又々この帯を8世紀ワリ人が見たら「まったくぅ~、今の奴らはなっとらん」と言うのでは…

◆絞りを真似て?
 14世紀、チャンカイ文化期に絞り染めが発展したと言われています。私が見た中でも、ガーゼのような薄手布に1㎝程の四角い絞りが1㎜にも満たない間隔で連なっているものがありました(写真5)。
(写真6)の1、5㎝幅の紐を見た時、「絞り布を見て同じように織ってみたくなったのかな?」と勝手に想像した私です。他に二重織りで織られた貫頭衣にも絞りを連想させるものがあります。(写真7)

 話が少々横道に逸れますが、アンデスの楽器でチャランゴという弦楽器(複弦で10弦)があります。もともとアンデス地方にあった楽器ではなく、スペイン侵略後にヨーロッパから入ってきた楽器を真似て作られたもの。音楽好きのアンデス人達はマンドリンの音色を聴いて「いいなぁ~」と思ったのでしょう。そこで目についたのが身近にいるアルマジロです。(別名:ヨロイネズミ)マンドリンの共鳴部分に似ている甲羅を見て「これだっ!」と直感したのかどうかは定かではありませんが、もともと食用として捕えていたので甲羅はゴロゴロころがっていたのでしょう。
今でも立派な楽器として使われています。顔の部分もしっかりついていて甲羅には毛も生えていて、まるでアルマジロの剥製のようです。但し10数年前、ワシントン条約で捕獲禁止動物に指定されたので今では作られていないはずですが。
 この様に古代の人々は織りであれ、楽器であれ、そのまま真似をするのではなく、自分の得意分野を生かしての物創りをしていたように感じます。

◆飾りとしての綴れ
 (写真8)は投石紐の一部分です。実用品として作られたというよりも、きれいな状態…なので埋葬品ではと思われます。4世紀頃のもので綴れの緯糸以外はアロエ又はパイナップル繊維といわれています。端の握り部分は配色を変えて6層に織られ厚みを出しています。石を投げた時に紐を掴みやすいのと、もしかして6層の中に手を入れて更に手が離れないようにしていたのかもしれません。知恵者のアンデス人ゆえ、どんな事を考えながら作っていたのでしょうか。機能と美的感覚を既にこの4世紀に持っていたのですね。(アンデスだけにのめり込んでいる私ゆえ他の世界の事はあまり知識がなく、ついアンデスは~と絶賛してしまうのですが語弊がありましたらお許し下さい)(写真9)の4本は縁の飾りまで考えられた紐です。
ハツリ処理等はあまり綺麗とは言えませんが、縁を後でかがっていたのを思えば一歩前進でしょうか。

 それにしても(写真1、2、3、4、)を見ての通り、この模様は何からデザインを起こしているのでしょうか? 宇宙人、バイキンマン?等、見る人は様々な想像をかき立てられます。ペルー人の説明では神様を表していて頭上の冠みたいのは神だけが持つオーラなのだそうです。ペルー人の彼らは一応キリスト教徒なのですが、その他に侵略以前から信仰している神様がいて、その両方を上手くミックスさせて生活しています。彼らが家に来ると、夜明けを待って裏山に登り、神が居そうな所に敷物を敷き、持ってきた食べ物を東に置き、東西南北にそれぞれ酒を振りまき、太陽の神と大地の神・パチャママにひざまずいてお祈りをし、ホラ貝を吹くのです。何度かついて行きましたが、なかなか厳かなものでした。(写真9)も簡単なパターンですが見ていると「自分でも模様を考えてみよう」などと遊び心がうごめいてきませんか!これらの写真はほんの一部ですが、見ての通りパターンも色遣いも自由なのです。
私自身、綴れはあまり興味がなく、見本作り程度にしか織った事がないのですが豊雲館に通っている内にとても織ってみたくなってきました。色も形も自由…とは言っても、さて…なかなか難しい!

◆夏期講座を終えて
 今回はスプラングポシェットという事で3日間苦戦させてしまいましたが、何とか皆さん完成することが出来ました。アンデスカラーのポシェットに大満足!

講座修了後に嬉しいお便りを頂きました。「講習の時に “自分で考えなくちゃ” と言うアドバイスを頂いて、“どうしても出来ない”と何度も試みていた紗と羅の組み合わせの織物を織る事が出来ました。大変簡単に織れる事がわかり、これからの作品作りが広がると思います。考えなくてはならないということを教えて頂けて本当に有り難かったです」とありました。講座の中で「どこからそういう発想が…」の問いに発した言葉だったと思うのですが、「自分で考える」と言う事…物創りの原点ではないでしょうか。古代アンデスの繊細緻密な技を見るにつけ自分の心に改めて言い聞かせています。 (つづく)