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「和紙の居場所」 七海善久

2016-06-02 14:11:02 | 七海善久
◆anbient works 2(LIGHTS)-七海善久作-
1999年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 15号に掲載した記事を改めて下記します。

和紙の居場所            七海善久

 和紙は「古くて新しい素材」と言われる。もっとも、このコピーを目にしたのは10年近く前、インテリア系の情報誌にあった言葉と記憶している。今の和紙の流行を、この言葉と結び付けるのはいささか短絡的であるが、その当時から続き、現在に至っている気はする。当たり前にあったものが衰退し失われ、何かの拍子に再び表舞台に現われる。流行のパターンの一つだ。ファッション系のレトロブーム等と違い、純粋素材の和紙の場合、本物嗜好やエコロジー、健康追及等の需要、過去の功績、そして長いスパンでものを見る人間が係わっていることから静かではあるが確実に長く続くものと思う。

 和紙は今更いうまでもなく、洋紙の技術が渡ってくる以前から日本で作られていた、日本的な生活に根ざした、日本人が使っていた紙だった。明治維新、太平洋戦争の敗戦等の波を経た現在、我々は西洋風の文明生活を送る為の必需品、洋紙を使っている。それは即ちワイドバリエーションで、均等な品質、しかも低コストなものを短期間に大量消費しているということだ。洋紙がどれほど多く使われているか、具体的な姿は部屋をちょっと見回してみればいい。本、ノートは勿論、箱、什器類、障子、襖、壁紙等のインテリアから紙皿や紙コップ等の食器。ティッシュ等の衛生品。オフダといった信仰具にまで及ぶ。かつて和紙のもっていたシェアのほぼ全てが洋紙に切り替わったと考えても間違いではないだろう。そんな中でも洋紙に真似のできない、和紙ならではのものもある。紙衣や紙布はそれに該当するものの一つだ。紙衣は和紙に蒟蒻糊を引き、強くしたものを布同様に服に仕立てたもの。紙布は細くカットした和紙に縒りをかけ糸にし、(多くは)それを緯糸に用いて織ったものだ。かってはどちらも普通に出回り、使われていた。綿織物に比べ、やや格下ではあったらしいが、今のウールと綿程度の違いだったのではないかと思う。和紙の衰退、洋紙が代用に適さないこと。なによりも安価な綿織物の流通により紙衣や紙布は作る者も激減し、見かけなくなった。しかし紙布はその手間こそ大変なものだが反面、極めて高い耐久性と優れた着心地をもつことを御存知だろうか?

和紙の布

 先月、その数少ない紙布作家の桜井貞子さんの個展が、東京御徒町の「きもの美術館」で開かれた。桜井さんの紙布は奥州白石の流れをくむもの。細い糸を用いた密度の高い織り、複雑な組織がその特徴だ、その研究と実践は20年にも及ぶ。展示初日のオープニングパーティ、桜井さんは挨拶の中でこんなことを言われた。「私が紙布を織り続けられたのは、全て菊池正気さんのおかげです。」菊池さんは茨城の西ノ内紙の漉き手で、桜井さんに紙布用の紙を供給している。実は紙布を織る為には、それ用に漉かれた紙が必要なのである。さらに紙布紙は和紙の中でも特別な紙で、誰でもが漉けるものではないのだ。そして厚手が特徴の西ノ内紙の紙漉きが、薄い紙布紙を漉くきっかけは20年前、桜井さんの相談が元だったのである。当時、菊池さんも漉いたことのない紙布紙。当然マニュアルなどあるはずもなく、数年間試行錯誤を繰り返している。その間、作家と職人の激しい衝突もしばしばあったと聞く、伝統的な紙布は織り手と漉き手の二人三脚によって、今に生きているのだ。展示品の中に「正気の詩」とタイトルのついた藍染め絣の着物があった。桜井さんの菊池さんに対する感謝の気持ちと、良い紙を漉こうと簀桁をふるう菊池さんの姿が、藍の涼し気な色に重なって見えた。

和紙のアート
 昔から和紙は海外のアーティストに人気がある。だが決して「紙」としての人気ではない。紙面に絵画や文書をのせるに良いと評価されたのではなく、「素材」としてユニークと賛えていたのだ。この薄っぺらで極めて丈夫な素材は、叩く、捩じる、擦る、水に浸す等のハードな扱いに耐え、姿を変えていく。例えば1970年頃ピークを迎えた「破壊による創造」を掲げる現代美術の作家達にとっても、恰好の素材の一つだった訳である。そしてその流れは現在まで続いている。最近では紙に漉かれる前のパルプ状のものや、紙を砕いてパルプ状にしたものも創作の素材として、よく見かけるようになった。只、気になるのは(紙をくだいたものはまだしも)紙料という言わば紙粘土で作ったものを「和紙の作品」と銘打つ傾向である。さらに、わざわざ楮を使う必要があったのか等、作品評価以前の部分でかんがえさせられてしまうことも多々ある。和紙とはあくまでも「靭皮繊維を材料に紙漉きが流し漉きで作る紙」を定義と考えたい。手漉き紙を何でも「和紙」と称するのは、最終的に和紙そのものの評価を下げることに他ならない。和紙の特徴を生かしたものを和紙の作品と呼ぶべきである。

和紙のあかり
 現代までその姿を残す伝統的な和紙製品というものもある。イサム・ノグチの「あかり」シリーズ等はまさにそれだ。昔ながらの提灯の技法を用い、現代のスタイルに合うフロアライトやスタンドに仕上げている。驚くのはこのシリーズが30年前から続いているという事実だ。目新しさは全く無いはずなのだが、未だに新鮮に映る。そんな理由もあってなのか、和紙を使ったライトは実用よりもインテリアのアクセントとして使われる傾向が強いように思う。そして実際、和紙の透けるような繊維感と光との組み合わせは、実に美しいものである。かつて提灯の産地だった岐阜県美濃市。毎年秋に美濃和紙を用いた創作照明のコンペ、「美濃和紙あかりアート展」が開催される。今年で6回目と、この手のものとしては新参ではあるが、昨年は300点を越える応募があった。プロ、アマ問わず、「工芸」という呪縛にもとらわれず、形態も和紙の扱い方も自由である為、実に多種多様な作品が集まる。しかも夜間の屋外展なのが特徴だ。(昨年は台風の為、近くの体育館での展示となってしまったが) コンペというよりは祭りの雰囲気をもつこの展示は、美濃における民具「和紙」の姿を今に映しだすものだ。紙郷・美濃のお祭りとして長く続けて欲しいと思う。

「紙の里・西ノ内-菊池正気氏を訪ねて」七海善久

2016-05-19 09:57:20 | 七海善久


◆紙のさと工場
◆菊池氏自宅谷川の楮畑

◆楮

◆紙を漉く菊池正気氏

◆漉いた紙を紙床にうつす

◆菊池氏作品



1998年8月1日発行のART&CRAFT FORUM 11号に掲載した記事を改めて下記します。

 茨城県水戸市よりやや北に位置する那珂郡山方町。国道118号線が、いなかの一本道のように南北に抜けている。添うように東側は久慈川が流れ、西側は山が迫る山裾に民家や店舗ポツンポツンと建ち並ぶ。そんな道からほんの100メートル程山側に入った所に菊池正気氏は和紙工場を構える。

 工場を訪れると、真剣な表情で黙々と槽に向かい簀桁を揺らす菊池親方の姿が見られる。私は恐る恐る挨拶をすると、その突然の訪問者にさほど驚いたふうも無く「お、いらっしゃい。」と簀を紙床に伏せ、手を休めてしばらくとりとめもない話に付き合ってくれるのだった。

 親方の漉く西ノ内紙の起源は西暦700年代とも900年代とも言われ、定かでない。しかし産地の多くがそうであるように、仏教布教の写経事業によりその需要が増していったのは確かなようである。そして、なにより山方町西野内には当時多くの楮が自生し、良質な水を入手できたことが、山間の村落に紙漉きを定着させた所以であろうと思われる。

 因みに西ノ内紙の名は、水戸光圀公にその紙質を高く評価され産地の名から付けられたとされている。その特徴は那須の楮の繊維だけを使う生漉きであることから、南の紙には無いしなやかさと強靭さを合わせ持っていること。故に書画用に留まらず傘や合羽にも用いられた。

 そんな西ノ内紙も戦後、コストの安い洋紙や、ナイロンシートの傘が出回るようになると苦戦を強いられるようになる。結果的に西ノ内紙を作る職人に独自の道を歩ませることになった。

「西ノ内はね、もともと栃木の鳥山の問屋の下請けだったの。」

和紙産地の流通は今でも問屋が握っている所が多い。それは紙の納品、販売のみならず、原料の楮の仕入れから関わっているのである。

「でもここは先ず問屋がバタバタといっちゃったから、楮は自分で確保しなくちゃなんない。漉いた紙も自分で売んなくちゃなんないってんで店だしてんの。」

しかし前述の通り、和紙が売れなくなったから、問屋さんが無くなった。当然、店を出したからといって売れるものではない。

「だから困ったよ。俺は紙漉きだし、何か他と違うことったって何も思いつかねえし(笑) ビニール和紙や、改良和紙なんてのもやったよ。でまた売れねえんだこれが。」

して現代の和紙の在り方を模索する「紙創り」としての顔。

「今こんなの店に出してんの。」と黒ずんだ歪んだ楕円と台形の紙を見せてくれた。「溜め漉きした紙に漆塗ったんだけどさ、日本人には全然売れねんだ。皆外人が買ってくの。勾玉だって。こっちが管玉(笑)」

親方の創作的な紙は「四角形であることの否定」から始まったように見受けられる。そして創るものは(当たり前だが)常に紙である。作品そのものが誇らしげに自分が紙であることを主張している感じを受けるのである。新しく、さりげなく、懐かしい。

「べつに新しいこたねえよ。すげえのは昔の人の知恵。俺はそれを見直しているだけ。地球に優しいとか考える前に、そもそも地球に優しいの。ほんと今こそ温厚知新カムバックょ(笑)」

「でも俺はそもそも紙漉きだからぁこれは遊び。」と言う親方の販売を兼ねた個展が今年の六月、秋田で行われた。盛況のうちに終了したようだ。詳しい模様を知りたかったので、その時の関係資料を尋ねたところ完売して何一つ残っていないとの返事。個展を開いてその記録を何も残さない人が居るだろうか? しかしこれが本当に無い。私は少々釈然としない気持が残ったが,今にして思えば、紙は買ってもらって、そして使ってもらってこそという親方の職人としてのこだわりとこだわらなさを象徴するような話ではあった。