ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「音の力」 榛葉莟子

2016-03-18 14:41:15 | 榛葉莟子
1997年7月25日発行のART&CRAFT FORUM 8号に掲載した記事を改めて下記します。

 北に向かう各駅停車の夜汽車に飛び乗った。
流れていく景色は、しだいに夜の色に染まり、その輪郭をあいまいにしていく。パッパッと見え隠れする人家の灯が妙に赤く感じられる。硝子窓には、まばらな乗客の明るい車中がそっくりと映っている。食べる人や雑誌をめくっている人、うずくまって眠る人、それぞれがそれぞれの物語りの続きをさがしに、カタコトと揺れるリズムにその身をまかせている。停車駅を知らせるアナウンスが流れると、まもなく白々とした明るい駅が浮かびあがってくる。いくつもの駅を経由するたびに車中は人の気配が消えていき、窓硝子にはからっぽの車中と自分の顔だけが映っている。なにも考えずただボーツと闇の外を見ているうち、幾重もの深い闇の波間にひっぱられそうになる。と、ガラッと戸の開く音がした。登山だろうか、大きなリユックをかついだ丸いめがねの太ったおじさんが窓硝子に映った。汗の匂いが横切っていく。後ろ姿をみているうち、あの人はハノハノおじさんじゃないかしらと思えた。
 それは、ずっと昔こどもの頃、ハノハノおじさんの歌がラジオからよく流れていた。ワッハハのワッハハ、ハのハのハのハのハ、笑ってくらせば世のなかは、ワッハハのハのハで楽しいな、ことしもきましたハのハのくすり。という呑気な歌だった。太ちょの古川ロッパというコメディアンがハのハのおじさんで、あちらこちら旅をしながらの、ハのハのくすり屋さんだった。ハのハのおじさんのリュックの中にはいろいろな色の夢の種がぎっしりはいっている。つらく悲しい人のそばに、どこからともなくそっとやってきて、ぽとりと種を置いていくのだ。そんなふうに、おじさんはまだ旅を続けているのかもしれないなあと、話地味た空想がひろがる。ふと、掌をみる。なんだろう、ぽっと赤いもの。闇夜のなかに見え隠れしていた妙に赤い灯色の、ひとつぶの小さな種があった。口に入れた。「ああ、せいせいするなあ」と、背伸びする目の前をひとひらの花びらが舞いおちていく。ふっと、息を吹きかけた程の振動にもひらりはらりと散る。そこいらじゅうを明るく染めあげた満開の時を経由し、花はおしまいの気配に彩られはじめている。それはまた、はじまりの気配をも含んでいる。おしまいとははじまりの狭間に見え隠れするドラマに魅かれる。ぴゅーんと音を鳴らして吹いてくる一陣の風は、あっというまに花びらをほぐす。花びらは宙に舞い踊り、吹雪の空間を出現し風は吹き抜けていく。ほぐされ、散りじりの花びらは其処いっぱい一枚の薄布を織りおえている。陽が西に傾く時刻、それはまた、おしまいとはじまりの狭間だ。花びらの薄布にも、夕焼の光は滲み溶け入り、連なり重なるひとひらひとひらの花びらを染めていく。そして、まもなく花びらは乾燥し、変色し枯れてまるまりパチッと砕け散る。そこに感じとれるのは、花を脱した光の粒子。散ったあとのつかのまの余白にかがやく瞬問がみえてくる。
 雨降りの日が続き、やっと晴れた朝がきた。そこいらいっぱい、いっせいに緑はパチパチはじけて光かっている。なんと強固な音だろう。

「染織の道具が楽しい」 斎藤義晴

2016-03-17 10:40:27 | 斎藤義晴
1997年7月25日発行のART&CRAFT FORUM 8号に掲載した記事を改めて下記します。

 信号のないクロスロードからお日さまの方向に少し歩くと、この町の人々や大きな荷物を背負い山から下りてきた人たちが集まってくるところがある。広場のように道は少し広くなっていて、捨て水で水溜まりができたところにもリキシヤや自転車が乱雑に停められている。まぎれもなく市場だ。
 途上国へ出かけた時に、必ず覗いてみるのがこのようなマーケット。そして、日常の生活用品や食料品を見て廻るのが楽しみだ。このような町は界隈性を持っていて、場所がわかりやすい。
 もうひとつ、どうしても探したいものがわたしにはある。骨董屋だ。目的は、いまも根強く生活の中に入り込んでいる、染織関係の道具達と出会い、買い求めるためだ。以前は(国によって事情は異なるが)、織物をしている村などで実際使っているものをわけてもらう事もあった。近年はそれができない。わたしが魅力を感じる、手垢のついた使い古されたような、そして昔ながらのデザインと機能を持ちあわせたものに出会うことが少ないからだ。また、生活の糧として重要な仕事である場合、それらの使い慣れた道具を無下に取り上げてしまうようなことは、できなくなってきた。以前は、無理矢理現金を見せて、取り上げるような事をしたという反省もある。学者でもコレクターでもないわたしには、見つかれば儲けもんくらいのことなので、系統立てて収集していない。織りや紡ぎの道具が、単におもしろいからである。必ずと言っていい程、道具は骨董屋の片すみに眠っている。少し具合の悪い状態のものではあるが、現在使われていない形態のものも見つかる。使用方法の定かでない道具もあって、聞き取りをしてもなおも不明のものがたくさんある。道具に贋物も本物もないが、やはり手垢のついた埃まみれのそれらを見付けると、『やった!』と言う気分になる。また、装飾された道具を人手できた時は、本当にうれしい。今ではきれいに絵柄等のついたそれらを見ることは稀だからである。
 手織物、手紡ぎ等で使用される道具は、世界各地でいろいろな形態のものがあり、機能的にもさまざまである。羊毛や綿など素材によって、当然の事ながら異なる、織物組織や糸番手等によっても、道具は変化し興味ある対象となってくる。ほとんどの場合、その地域に生育する材木によって作られる。
 手紡ぎ道具は、羊毛産地や綿産地には、必ずドロップスピンドルがある。大まかな分類ではあるが、綿や細番手の場合は軽い小さなスピンドルだし、羊毛等で特にキリムくらいの厚手のカーペット等に使用する、太い番手を紡ぐものは重く大きい。歩きながら紡ぐのに都合よく工夫されたスピンドルのなかには、コマ部分が2枚のものや移動するコマがはめられているものもある、つむ先にフックのあるもの、またその反対の場合、使用方法もつむ先を下に、あるいは上にする場合や、真横に向けたくさんの糸が紡がれ重くなったとしてもそのまま紡ぎ続けたりもする。このように道具を見ていくと、なるほどと感心してみたり、お隣の国ではもっと簡単で楽な方法で紡いでますよ、と教えたくなる時もある。手紡ぎは、今ではわたしたちは紡毛機という大きな横型、縦型の違いはあっても、早く大量に紡ぐことができる。ドロップスピンドルは、手紡ぎの基本として教わるに過ぎない、しかしまだまだ発展途上の国では、ドロップスピンドルが生活の中で生きている。
 手織物では、世界共通にシャトル(杼)がある。通常のボート型シャトル以外に、筒型や刀抒、タペストリーボビンや、それらに工夫を施した特殊なものもある、諸条件によって納得できる違いがある。織機の構造についてはもっと、変化に富む。高機での組織を織るための工夫ひとつ取り上げても地域によって違い、これもまた非常に興味わくものである。詳細まで書き記すのは今回の目的ではないので中途半端な取り留めもない話で申し訳ない。
 世界中、人の住むところには衣服や住まいのための布はある。食の分野でも必要である。ということは織る、編む、組む、刺すなどの道具がその地域に存在するはずである。生産技術の進歩によって忘れ去られてしまったこれらの道具たちから、先人たちの文化に触れてみたい。また、これら日々の手仕事を捨て去ろうとする傾向にある途上国の職人には、勝手ではあるが、技術を保存し続けてもらいたいものだ。

「ハンドウィバーとインダストリーテキスタイルデザイン」 堀内雅博

2016-03-15 11:03:43 | 堀内雅博
1997年7月25日発行のART&CRAFT FORUM 8号に掲載した記事を改めて下記します。

 ハンドウィバーは言うまでもなく自分のアイデア、デザインを自分の手で織る事を仕事としています。一方インダストリーは量を目的とし、他人のアイデア、デザインを効率よく機械生産する事に主眼があり、両者の姿勢には大きな隔たりがあります。
 しかし、私はこの一見遠く離れているかに見える両者を結び付ける事に、今後のテキスタイルの魅力と可能性があると信じています。
 手織りはペーパー・デザインでは気づかない多くの体験を与えてくれます。この無限の可能性を秘めた手織機での実験により、初めて創造的、革新的な布が生まれます。
 ハンドウィバーとインダストリーを結び付ける上で一番の問題は、共同作業者としての「もの作りの姿勢」、コミュニケーションです。
 私たちによって提案された布がインダストリーに移され、プレ・プロト、プロト、試作、多量生産と進むにつれそのコンセプト、英気が稀薄になり、最終的に面白味のない布になりがちです。
 私か作り出す布は、現実にそのまま生産できないと言う点ではプレ・プロトタイプの布です。生産を前提とし用途を規定されながら、それをも越える創造性豊かな布は、今後のインダストリーを変える力を秘めていると自分に言い聞かせて制作しています。 幸い私の住む信州には糸加工、染色、製織と一貫した仕事が出来る小規模織物工場が数多くあります。
 そんな工場の皆さんと心を通わせ、ハンドウィバーとインダストリーの理想的な関係を模索している毎日です。

もの作りは微細な世界から
 私が作品を作る時の発想、何かを表現してみたいと感じる源は、ほんの微細な自然界の表情(樹木の樹皮、草木の葉脈、小石の凸凹、昆虫の羽etc)に起因している事がほとんどです。
 この表情を布に乗り移せないか、服に表現できないか………と、思考が続いて行きます。ですから、使う技術は固定していません。草木染めからコンピュータ、化学加工まで表現したいものに合わせて、手織で出来る最善の手段を使います。
 写真1~6(1994~1997年作成)は量産を目的としたプレ・プロトタイプ・ファブリックです。いずれも織物組織、絹素材と収縮性素材の組み合わせにより表情を作ったものです。長野冬季オリンピックの会期中に行われるファッションショーに使用されます。
 写真7~10(1996年作成)は捩り織と絣技術を組み合わせ、昆虫の羽をイメージした生地です。捩り織、絣技術は共に信州に古くからある和装品の製織技術を応用したものです。
 写真11.12 は現在試作しているコンピュータ一応用作品と織フェルトです。

 手織からデザイン原型を作るという事は何も新しい試みではないですが、ハンドウィバーが創造性の上に用途と市場を学び、インダストリーが創造性を最大限に生かす心と技術を確立すれば理想の「布作り」が可能になると確信しています。

「イタリアで思う」 松山修平

2016-03-11 15:06:32 | 松山修平
1997年7月25日発行のART&CRAFT FORUM 8号に掲載した記事を改めて下記します。

 前回 書かせて頂いた6号では、イタリアの全体像を出来るだけ伝えられるように努めたつもりだが、今回は、私のイタリア生活21年に考えたことと、現在の作品のテーマとなっているSHIN-ONと、そこに至るまでの経緯を書いてみたい。
 今、毎外に住むということ自体は、そんなに重要なことではない。海外に留学したり、旅行したから、作品が急に良くなったり、深くなったりするということは、けっして言えない。しかし、いろいろ異なったものを見、経験すれば、視野が拡がったり、何かの切っ掛けになることは事実であろう。そして今吸っている空気そのものを考え始めた時、自分自身の人生を顧みるようになり、そこから、なぜその作品を制作する必要があるのかという定義も生まれてくるように思う。もちろん作品というのは、もっと純粋であるだろうし、何かを作りたい、作らざるをえない衝動から生まれているのだろう。
 まずイタリアで感じたことを、いくつか上げておくことにしよう。イタリアの街を歩いていると、不思議な印象を感じさせてくれる。たとえば夕方、薄暗い道を歩いていると、現実から遠のいて過去に戻っていく、いろいろな時代のものが時として不完全な形として残っており、それが、同居している時代の錯綜……。時間を肌で感じさせてくれる一瞬だ。 また街を歩いていると至る処で話しかけてくる壁に出くわす。『ただの壁か?』と思われるかもしれないが、イタリアに来てまもなくの頃は、何でこんなに感じさせてくれるのか、何かの形で、その感動を残しておきたいと、カメラを片手に自分に問いかけてくる壁を撮りまくったものである。この写真のシリーズを『壁の詩』と名づけた。今も、その数は減っているにしても、特に気になる場所は写真に残すことにしている。そのとなりの壁を見ても、同じ色・材質なのに、何も感じないことがほとんどなのに、何故、その壁だけが何かを感じさせるのかと、いろいろ考えてもみた。それはやはりエネルギーなのだと思う。
 それからイタリアで絶対に見落してはいけない場所が、VALCAMONICA(ヴァールカモニカ)であろう。ミラノより北東約120km(イセオ湖の北30km)にあるCAPODIPONTE(カーポ・ディポンテ)を中心に約12000年前よりローマ時代に至るまで、その地に住んでいた人々が岩に彫り残した生活の跡が点在している。他の地方では、メソポタミア、アッシリア、バビロニア、エジプト、フェニキア、エトルスクなど古代の輝かしい文明が築かれていったが、このアルプスの南の谷あいには、先史代からの生活が、ゆっくり展開されていた。この強靭な山岳民族は総称してCAMUNI(カムーニ)と呼ばれている。約10kmにわたる谷あいVALCAMONICAには、200、000以上の図像があるといわれ、ところどころの聖なる場と思われるところには、信仰・祈祷のために示された国像もかたまっている。猟の様子等、生活様式が伝わってくるものもある。その中心としてCAPODIPONTEのNAQUANE(ナクアーネ)に野外美術館となっている国立公園として1955年より谷あいの中腹(海抜500m)に、カラマツ・モミなどに守られるように約30ヘクタールの神聖な場として開放されている。ここを訪れると、いろいろな美術表現の源があるように思う。長い年月に耐えて、しかも現在に生きつづけるエネルギーを感じさせる。他にもいろいろいい場所はあるが、イタリアに来られたら、ぜひ、ここを訪れてほしい。
 これらの場所、壁、街なみとの出会いいは、時代を越えるエネルギーというものを考えさせる切っ掛けになった。
 イタリアについて語っていると尽きないので、話を変えて、ここでSHIN-ONについて、お話したい。展覧会の説明に下記のような文章をよく使うので一応載せておきたい。『SHIN一ONとは、心からの叫びとか、自分自身に同調する周波数の波の表現などと説明しています。たとえば周波数の波と言えば、われわれの身の回りの空間にも常にいろいろな周波数の波が存在していますが、ラジオとかテレビとかいう媒体を介さなければ、その周波数の番組を見たり聴いたりすることは出来ません。必ず媒体が必要です。アートの場合の表現というのもアーティストという媒体を通して、いろいろな波のうちから、そのアーティストに同調するものを何等かの形に具現化するようなものでしょうし。見る側がもし、その周波数の波に同調すれば即座にその表現を理解出来るはずです。つまりSHIN一ONとは、その自分自身に、まさに同調する表現です。』
 今世紀初頭、カンディンスキーは、絵画と音楽との間に等価性があることを察している。色彩は内面の音なのだと言っている。ここで音とはなんなのか? 私は、この音というのは、そのものが持っている波長だと思っている。すべてのものが、発している波長である。そして世の中は、それぞれの音の響き合いでありシンフォニーなのだろう。これをどのように感じるかということだろうかと思う。当然、そのとき他のものに心を奪われていたり夢中で我を忘れて、ぼーと生活していても、気がつかないし、伝わってこないものである。 もう一つ自分の作品制作のときの考えを加えると、日記を書くような………というか、その時の気持ちを出来るだけ正直に表わせたらいいなあと思っている。たとえば何年か前の日記でも、ちょっと自分を恰好よく、そのときの気持ちとは別にたとえばドラマの主人公のようなものとして書いたものとか、人の文をちょつと借りて書いたものだと、あまり読みかえしたくないものになっているだろう。それとは反対に素直にそのときの気持を表現したものであれば、何度となく読みかえして今の自分を考えることもできるだろう。

 『作品とは、いろいろな物、人、本、場所、自分をとりまくものから発せられるエネルギーを自分白身が秘めている生命の根源エネルギー“気”に問い、そこから再び発せられる己の表現である。』と思う。

 ここで、制作のことについて少し触れておきたいと思う。基本的には、いろいろな技法を、その度、使っている。簡単に説明すると、一番多いのが、合板上に石膏あるいは、スタッコでレリーフ状の平面を作り、そこに岩彩やアクリルなどで何回か重ねて塗り、描き、その上から何層か、うすい紙を、ずらしてはり、最後に水彩で染み込ませながら色を決めて完成させていく。色を付けると言う行為の中に、塗ると染めるがある。色として考えると同じようなものなのだが、色の方向性が異い同じ色にはならない。このちがいは、同じ画面上にならべてみると歴然で、両方を使いこなすと思ってもみなかった表現の幅が出来るようである。奥行きや拡がりが充分期待できる。同一画面に下から出たがる色(油彩、アクリルなど重ねていって仕上げていく技法から生まれる色)と上から染み込んでいく色(水彩、水墨画など、もとの紙の白を活かしながら染み込んで決まっていく色)そして、ときどき、それを、ひっかいたりして、下の色が出たり交ったり二つの方向からの色が、ぶつかり合い、そこに、すばらしい響きが生まれる。重要だと思っているのは、心に響く色、心に問いかける色、心から、そこに引きこまれるような色、心に安らぎを与える色……である。ここで言う色は、やはりエネルギー(気)なのだと思う。
 このような作業工程は、一つの分野の技術から生まれたというよりも、自分自身のイメージにより近づけたい、自分白身の気をどのようにか表現したい、そして、その感覚にピッタリした材質を探しているうちに、このような方法になってきたということだろう。これは、また、今後イメージが変われば、その表現方法、選ぶ材質も変わることも示している。当然より深く心に響く作品にしていきたいつもりである。
 SHIN-ONのテーマで、もう一つ重要な要素に線がある。具象作家は、その対象に美を感じそのものに恋してしまうのでなければ表現出来ないのだろうが、私の場合の線への思いも、それと同じことだと思う。そして、あるとき、その線が水平線のようになり、そこから世界が生まれる。この場合、生命エネルギーそのものの線である。画面上では同じ線でも全く意味が異なることがある。たとえば縦の線と横の線とを比較すると、横の線は、地平線、水平線だったり、拡がりだったり、時間の経過を示すのに対し、縦の線は、もっと強い表情を示し、個性的となり、何か上下をつなぐもの神秘性をかもし出すことさえあり、時をきざむ時刻ということになるのだろう。最近は好んで横の線で表現している。そして、その横の線がつながり、いづれ世界に大きなSHIN-ONの輪(和)が出来上がる。目の前の作品が、その一部の弧だと思うと、その拡がりがイメージされるだろう。 活動としては、今後も、いろいろな場所で発表し、その度にSHIN-ONの輪(和)を拡げていきたいと思っている。そして前に日記を書くようなつもりで……とか書いたが、いづれ20代、30代、40代、50代……の、それぞれのSHIN-ONの作品を一同にならべて見られたらすばらしいなと思っている。
 もう一つ重要な要素に音楽そのものがあり、展覧会場には必ず音を流している。1993年、1995年、1997年のベネッイア展に、それぞれ作曲家の協力を得てCDも制作している。このことは、また別の機会にお話ししたいが、絵をかんじてもらうための空間には無くてはならない要素である。機会があったら私の作品を直接見て頂きたい。朝、昼、夕、そして人工灯のもとでいろいろな表情に出合えるはずである。
 今年は5月31日~6月30日までベネッイアビエンナーレの時期にカナーレグランデに面したサンタルチア駅とリアルト橋との間にあるサンスクエ会場での個展のあと7月19日から8月2日まで東京・青山の「ギャラリーたからし」と8月1日から8月29日まで東京・箱崎の「インフォミューズ」で、それぞれ個展がある。
 最後に日本で制作発表されている方々にお互いの立場を生かして、どのように世界に発表の場を作っていくか、世界の作家と交流出来る場を作っていけるかを考えていって頂きたい。そのことは、一方通行の情報ではなく、発信する回路を見つけることでもあると思う。そのためにも世界各地にいる日本人作家も重要な使命を担っているのだと思う。
 21世紀は気の表現(アート)の時代だと思う。世紀末の混沌としている世の中で表現者は重要な立場であり、特に日本人アーティストには、より固性的なアイデンティティーのある表現がもとめられているようにも思う。これからも一緒に模索しながら意見の交換をし、より世界に問うことの出来る作品を生み出して行きましょう。
この時代のメッセージとして……。

「天然染料に拘る」 高橋新子

2016-03-05 12:21:20 | 高橋新子
1997年7月25日発行のART&CRAFT FORUM 8号に掲載した記事を改めて下記します。

 世をあげて高速道路上を疾走しているような高度経済成長やバブル景気が終ってみると、経済破綻が待ち受け、今では官民あげて戦争に負けた後のような瓦礫の片づけ作業同様の混乱状態となってしまった。そのさ中も、ずっとそれぞれの個性、経済力、体力に見合う生き方で手仕事を続けて来た「時代おくれの人々」-私もその一人であるが-は今もマイペースでコツコツと工夫を重ねている。先人達の勝れた技術を次の世代に伝える為と、何と言ってもものを作り出す楽しさに引かれるからである。私の20年の染めと、まだ数年の織りをする生活は無意識に呼吸をしているのと同じ程に、肉体の中に浸み込んでしまった。わざわざ手間ひまのかかる天然染料で染め、さらに材料の入手さえ困難な原始布を織りたいと思うのは理屈ではない。ただもうそれを作らずには居られないからである。つまり病気である、この慢性疾患について三宅氏から紙面を頂けるのは千載一遇のチャンスかも知れない。思いの丈を書いてみようと思う。いささか退屈かも知れないが何故天然染科で染めることになったのかという経緯を少し書いて、現在の状態と、こうありたいという欲張った希望まで書かせて頂けたら幸いと思っている。
 私は特に美術系の学校を出たわけではない。「染め色」と正面から向き合うようになったのは30代の終り頃、主人の転勤で一家あげて岡山に住むことになった時からである。これを潮に今まで関わってきた様々な問題、例えば染めものをしたいという気持はかなり長い間私の意識の底にあって、今まで何度か拙文に書いた「美しい衣装で踊る優雅な西馬音内(にしもない)の盆踊りを見た時」つまり小学校5年生の夏に溯る。特に藍の絞り染の浴衣は今でも目に焼き付いて離れない。何時か自分で染めた藍染の衣装で踊りたい。これがそもそもの始まりであった。そんな経緯があって30年暖めて来た「染めもの願望」は岡山移住を期に、何とか始められる運びとなった。そこで染色の先生に師事し勉強を始めたが、根っからの不器用と荒けずりの感性に加えて染料の使い方が下手で、家族からは「古着の色よりずっとひどい色」とさんざんの不評を受けた。街に溢れている色はどんな染料を使っているのだろうか。目まぐるしく変る流行色やデザインや素材を器用に取り入れるには、60年安保の横を通り過ぎて来た、いく分アンチテーゼ気分の残っている子育て専業主婦には、いささか難儀なことだった。
 天然染料で染めた完成品と初めて出合ったのは岡山美術館(現在の林原美術館)の能装束だった。こんなに濁りのない鮮明な色が次から次へと顔をだし、激しく自己主張しながらお互いに調和を保っているのは何故なのだろうか。さらに大胆なデザインと全体から発散して来る眩惑するような美しさに、しばらくは声も出ず時の経つのも忘れて見とれていた。一般に「格調高い幽玄の美」と評される能装束だが、この時はただもう染め色の美しさに圧倒されていた。安土桃山や江戸時代の染め屋と織り手はどんな技術を持っていたのだろうか、大名家の庇護があって金に糸目をつけない充分の仕事をさせてもらえた職人達と、その作品を充分に管理保存できた大名家の財力とのシステムは、どこかルネサンス期のヨーロッパを思わせるものがある。それにしても300~400年を経て尚輝くばかりに美しい沢山の能装束がそこにはあった。
 濃い色、淡い色、中間の色、激しい色、優しい色、様々な色とその組み合わせは思い付く限りの絵の具、クレヨン、色鉛筆を並べても、混ぜ合わせても出せない色であった。そしてどれも自己生張する凛とした色だった。
 大原美術館の芹沢蛙介館で彼の型染と向き合った時も、息をのむ思いだった。高名な作家のデザインの中に息づく顔料と染料の使いわけの妙技に、このようにも染められるのだ!という感動が走った。
 急き立てられるように染織品の展覧会を見て廻り図書館で美術本を借り出し、染め方の本を買い、手当たり次第に自分で染めてみた。勉強すればする程分からないことばかりが出て来る。特に藍染に関しては皆目見当も付かない有様だった。図案も色合も出来映えも眼中になく、ただ「じきに色落ちしない染め方」を模索する毎日が続いた。疑問を山程かかえて窒息しそうになった頃、神戸への転勤が決まった。
 神戸へは子供達の新学期に合せての転居となったが、私は友人の伝手で引っ越し荷物を解かないうちに吉岡常雄先生の天然染料のクラスに入り込んでいた。先生には岡山の図書館の美術本を通じて充分に存じ上げており、実際に師事できた時の嬉しさは格別なものであった。これは幸運の一言に尽きる。私はもう40才を少し過ぎていたがこの時から生き方が変ったと思っている。
 これも拙文で何度か書いたことであるが、吉岡先生からは天然染料の染め方のみならず、化学染料も含めて広い視野に立った染織全般にわたる考え方、扱い方、技術、実物の染織品、応用、歴史的な広がり、さらに工芸全般に関する材料に至るまで、とうてい持ちきれない程の教えを受けることができた。心に深く刻まれている先生の教えは「天然染料は決して万能なものではなく欠点も多い。日常の衣類を染めるには不向きの色もある。しかし目的と素材と染料と技術の息がぴったりと合った時には、長い間の使用に耐え、美しい作品として生命力を持つようになる。自分達の技術はまだ「延喜式」を越えられないのだから、工夫を重ねることです。そして世界に目を向けることも忘れないように」というようなことだった。
 現在では染織関係の情報誌、技術の紹介記事、技の探訪番組等によって日本のみならず世界中の工芸品や製作現場の様子、さらに材料までが人手できるようになった。目まぐるしく変る流行や素材、扱う人の技術の相違点まで伝わるようになると、かえって情報に押しつぶされ、自分を見失いそうになることもある。しかしどんなに大量の情報や技術を仕入れたとしても、作品として姿を現す時は本人そのものの生きざまを映し出すことになる。作品は「私小説」と似たところがある。良くも悪くも生きざまや健康状態までが詰め込まれて仕上って来る。第三者の立場で見れば、「上手か下手か」ではなく「好きか嫌いか」つまり「惚れたかどうか」ということになる。いささか下世話な言い方だが、私はそう思っている。
 藍を染める場合、おおよそこれで良しとするかと思われる醗酵建が出来るまで10年以上かかった。今年で20年目になるが一瓶づつ状態も色も違うし、天候による藍の作柄次第で色相も違って来る。つむぎ糸と生糸では明らかに発色が違うし、木綿も麻も毛もそれぞれ産地や糸の撚り加減で百面相のように変る。オチョクられているなと思うことさえある。私の力量が足りないからである。17年程前野洲で先代の紺九さんにお会いした時のこと、「昨年納屋の二階から足を踏みはずしてからどうもね」とおっしゃりながらご高齢にもかかわらず染め場に立たれていた時の爪は美しい浅黄色に染まっていた。「毎年少しづつ貧乏になって行くようです」と静かに話されていた。私は藍染めを止められないのである。紺九さんに惚れてその姿が忘れられないから。
 紅も茜もラックも書き始めたらきりがない。グレイも黒も茶も黄色も使う染料はさまざまで染め方もいろいろ違う。染めるのに最適な季節まであって、染め手を追い立てる。それぞれの材料が個性を主張して生きもののように動き廻っている。見る人を眩惑するあの能装束の中に棲み付いている色を思うとき、もう一度もう一度と染めの深みにはまって行く。
 4~5年前から和紙を染めて糸にする勉強を始めさらに2年前にシナ糸と出合った。これは素材の一つとして扱ければ作り手は充分に応えてくれないような気がする。古来からの行程による手仕事の紙漉きの現場を見ると、この紙を使って手軽にひともうけできる商品を作ろうなどという考えは絶対に浮かんで来ない。作り手と同じように地を這うようにして糸を作り染めて織るべきものだと思うようになる。やはり「時代おくれ」の生き方が最もふさわしくなる。
 紙の糸もマニラ麻系の繊維をドロドロにつぶして、機械漉きしてカットし、撚りかけして糸にする方法で工業生産品として安価に出廻るようになった。染めにも耐えるし強度も耐久性もあって、アパレル関係で時折見かけるようになった。けっこうイケルという評判である。レーヨンや麻糸と撚り合せをしたお洒落なものもある。
 一方手仕事の糸作りの能率はかたつむりより遅い。当然のことながら大量生産や流行をねらっての儲け仕事をしているわけではない。自分の不器用な生きざまを自嘲しながら。でもきっとこんなことが好きだからに違いない。この紙糸には手仕事でなければ表現できない工夫がある。今それを作っている。きっとうまく仕上ると思い込んでいる。
 シナ糸も作り手が高齢化してだんだん入手がむずかしくなって来た。シナ糸は素朴で強烈な個性を持ち生命力に満ちあふれている。この糸と出合ったとき、40才で若死した鷹匠を思いマタギの姿が思い浮かんだ。惚れて買い込んだが実際に織ってみると、疲れはてる程手強い糸である。織り上ると端が歪んで波打っている「よし、もうひとはた織ってみよう、そして好きな文様を染めてみょう」
 今年、小倉遊亀展で「磨針峠」を見た。使いなれた針を無くしたので、斧を研いで針を作ろうとしている老婆と峠で出逢う若い修行僧の図である。針は町へ行けば買えるのに。心に滲む絵であった。