ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「アイデンティティーのかご」高宮紀子

2016-11-28 13:55:08 | 高宮紀子
◆高宮紀子(ツヅラフジ、シュロ・14×14×10cm・1996年) 

◆アメリカ・南西部地域のインディアンの伝統的なパターンのかご

2001年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 22号に掲載した記事を改めて下記します。

民具のかご・作品としてのかご⑧
 「アイデンティティーのかご」高宮紀子

 先日、アメリカインディアンのかごを見に、ニューメキシコ州サンタフェ付近に行ってきました。実はこの原稿も時差ぼけの状態で書いています。
サンタフェはお金持ちの別荘が並ぶ美しい町で、高級なギャラリーがあり、いろいろな美術品を売っていました。現代のインディアンの作家の絵とか、彫刻、かごなども売られていて、見て歩くだけでも、(ほんとうは高くて買えないのですが、)楽しい所でした。
サンタフェにはインディアンの物質文化の研究所がいくつかあり、Museum of Indian Arts&Cultureにはかごの展示がありました。他にもリサーチセンターがあり、公開されていないのですが、古いかごをたくさん収蔵しているようです。

一口に、アメリカインディアンといってもたくさんの部族がいます。それぞれの地域にあった生活をしていたわけですから、さまざまな文化的違いがあり言葉も異なります。私が博物館で見たのはニューメキシコ州、アリゾナ州を中心にした部族のかごでしたが、さまざまなものがありました。毎日の生活の中で使われていた、とうもろこしなどの食物を入れるかごのほか、焼いた石を入れて鍋にしたり、水を入れる壺状のかご、儀式やゲーム用のかごもありました。周辺には遺跡がたくさんあり、そこから出た編み組み品の断片なども見ることができました。

右の写真は、この地方で作られたかごですが、同じようなデザインのものを他の博物館でもみかけました。そのデザインの発祥については不明との記載がありましたが、その意味は一目瞭然です。
人間が一人いて、その周りにこの人間が行こうとする道があります。壁に遮られた迷路です。この道をたどると、中心に行けなく、かごの外側に抜けてしまいます。まるで人生の現実を映したようなパターンですが、かごに編みだしたことが面白い、と思いました。
このかごはコイリングという技術で作られています。中心から渦巻き状に束を巻きつないで作るものです。この他にもさまざまな技術で作られたかごを見ましたが、コリイングのかごの模様が印象的でした。模様には、人間や動物、波や雷などのいろいろな意味の形があり、部族の中で長い時間をかけて継承されたものです。だから、インディアンのかご作りというのは作り手の部族に対するアイデンティティーの意味がありました。力強くて存在感を感じるのはそのためだろうと思います。

このようなかごを目前にしますと、私自身も自分と自分の作品との結びつきを再考することを、つきつけられたような気がしました。作り手として、自分で作ったということ以上に、自分と作品との関係が必要なのですが、ここのところの深さをどんどん掘り下げて考えていけばいくほど、作りたい!という衝動にかられる領域でもある、と思います。ただし、アメリカインディアンのように部族としてのアイデンティティーではなく、非常に個人的な意味での関係、造形に対する自分の考えの何を形にするか、という所まで掘り下げる必要が出てきます。

写真は少し以前の作品ですが、同様な疑問があった時に作ったものです。もともとかごには物を入れるための空間があります。だから、その空間には存在理由があります。私が作る作品にも空間があるのですが、物を入れるための空間ではありません。空気が入っている、といえばそれまでですし、空間が閉じられていて物が入らない、という答えでは、自分で納得できませんでした。それで、中に何か入れてみよう、と思いシュロの繊維を詰め込んだのです。スペースが黒っぽくなり、形が明白になったのですが、この行為が、私が出した一つの答えでした。

作品を作りだすプロセスは、言いかえれば、自分と作品とのあるべき関係を現実にする行為だと思います。作品そのものからは、技術的な問題だけでなく、形のでき方、全体の構築の在り方などに対する自分の考えが全てあらわれることになります。だから、作品を実際に作る以外に、自分の造形的なアイデアについて時間をとって考え、練り直すことが必要だと思います。アメリカインディアンのかごを見に行く旅は、その重要性を改めて感じたいい機会になりました。

「ひらひら蝶は舞う」 榛葉莟子

2016-11-27 10:44:06 | 榛葉莟子

2001年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 22号に掲載した記事を改めて下記します。

「ひらひら蝶は舞う」 榛葉莟子


 早い朝、台所に立ってコーヒーを入れながら窓の外の緑の裏庭を見る。緑は木漏れ陽を受け容れ、動いている庭を感じさせる陰影。緑の間に間に朝顔が咲いている。朝顔の数をなんとなく数える。草々に巻き付いて四方八方につるを伸ばし、其処此処にぽっぽっと咲いている漏斗形の青紫色とうすい桃色。昼間でもしぼまず咲いている小ぶりの野朝顔は、道ばたの草むらに咲いていたのを見つけて種を採って撒いた。増えるに任せていたらその一角が朝顔の藪になった。けれども藪は朝顔だけが占領している訳ではない。鉄錆色のルコウソウ、名前に似合わずレース状の縁がおしゃれなヘクソカズラや露草の青やらなにやら、さまざまな草花が絡み合いもつれあって、ちいさな花が見え隠れしながらちょんちょん咲いている。藪のかくし味の様で藪の味を活かしているなあと感じつつ眺める。藪っぽいものが好きだ。それは実際の藪そのものというだけではないし、当然植物とは限らない。藪的と感じるものの先に見えてくる。自在な動き、無理のなさに引き寄せられる。なんだかいいねと感じるそこには、いきな風が吹いている。口笛が聞こえてきた。なにか楽しげな口笛の方に目をやると、道の向こうに大きく膨らんだゴミ袋を持った顔見知りの男の子が見えた。ゴミ置場に袋を置いてくるりと踵を返しピッピピッピピーと即興の口笛を吹いてスキップしながら帰っていく。楽しげな口笛はだんだん遠のいていった。藪的な風が吹く。そういう空気感というのか空間感に反応する身体のその心とはと、自分のなかをのぞき込む。

 或る昼間、窓の外をなにか黒いものがひらり通り過ぎる。あっ、もしかしてと庭に出る。やっぱりそうだ黒あげ羽蝶。ひらひら舞う蝶を眼で追いながら、今年も来てくれたと、ちょつと感動する。毎年春から秋ぐちにかけて庭先にひらひらいくつも黒あげ羽蝶を見かけ、不思議に思い図鑑を開いて見た。揚げ羽蝶はサンショウの葉が食草である事をその時はじめて識った。なる程、裏庭にはサンショウの木がある。それからは毎春、最初の黒揚げ羽蝶に会うのを心待ちにしている。裏のサンショウの木のどこかで、たまご幼虫さなぎ成虫へとひそかにかたちを変え脱皮している。ひそかにというのはこちら側の言い分でにすぎない。庭先を低く高くひらひら舞う蝶にじゃれる猫がいる。蝶の動きをまぶしそうに眼で追う犬がいる。蝶を見上げる自分がいる。その先に青い空が広がっている。ゆっくり薄雲が動いている。立つ地面に陽射しが照り映える。どうということのないそれだけのここに藪的風が吹いている。

 この季節、畑の回りや庭先、道ばたや原っぱは花盛りだ。いつもより花に眼がいく。農家の庭先に群生して咲いている鶏のとさかのようなマゼンタ色のケイトウがあった。毛羽立った肉厚の動物の匂いを感じる造形物をつくずくと眺める。その根元にはマツバボタンが這うように咲いている。「あっ、チミクリソウだ」とこどもの声になる。色水を作るのにマツバボタンの花を摘んではぎゅっと指先でつねると赤い汁がぽとり、花を摘んでは汁を作った。丸坊主になっていくマツバボタンの花を摘みながら姉がいった。ちみくっても、ちみくってもちゃーんと明日になれば花が咲いてるんだからチミクリソウは強いのよ。そんなこどもの頃の夏の日が浮かんだ。つねる事をチミクルというのが、方言だったのかはもう忘れてしまった。ちみくりたいと思った。さっと赤い花をひとつ失敬する。指先でぎゅっとちみくった。赤い汁は指先をまっかに染めた。

 群生する月見草の道を歩きながら、数本手折って持ち帰る。たっぷり水を入れたガラス瓶に差しておいた月見草は、まるで今夜デビューする役者の様に、ぴんと背筋を伸ばし青いつぼみの先の先まで張りつめ夜の幕があがるのを待っている。と言うのも、花が開花していく過程を目の前にした事があり、その花が月見草だった。或る夜、何か動く気配にふとコップに差してある一輪の月見草に眼がいった。ガクの中に巻き込まれ隠れていた花びらが、ガクを押し開いている。動いている。はじめて見る開花の瞬間。見る間にくるっと黄色いひとひらの花びらが弾き出た。それからふっふっと呼吸するように二枚め三枚め、そして四枚の花びらは完全に開花した。観客は私だけだけれど月見草の花のデビューの瞬間に立ち会った訳で、思わずパチパチ拍手した心の内側では、括っていた包みがぱっとほどけたような明るい広がりとの、結び目がもらえたような拍手も混じっていた。月見草の花は次の日のひるには、たたんだ古びた傘のように赤みがかってしおれていた。引っ張るとすっと抜けた。

「FEEL・FELT・FELT-フェルトの魅力-」田中美沙子

2016-11-26 11:46:52 | 田中美沙子
◆フェルトフェスティバル・ノルウェー 

◆フェルトフェスティバル・ノルウェー

2001年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 22号に掲載した記事を改めて下記します。


「FEEL・FELT・FELT-フェルトの魅力-」 田中美沙子    
          
 ●フェルトの文化 
 子供の頃、手の中に土を入れ少しだけ水を加えて丸めたり、こねたりしながら遊んでいると、固くなつた球や蛇のような紐が表れ、驚きの声をあげた記憶は誰にでもあるもので、次々と想像をふくらませ無心に作ったものです。子供にとって手のひらは、一つの宇宙で空や海へと限りなく想像をふくらます事ができる場所です。これはもしかすると物作りのよろこびを感じられる最初の原風景だつたのかもしれません。その時の場所や友達の声そこに吹く風など、体の中にうれしい記憶として残され、時が過ぎ忘れてしまつても何時か又形を変えて表れる事があるでしょう。
 土だんご同様、暖かく優しい羊毛を手にとり少しの湿り気で、手のひらをしばらくまわしていると、何時の間にかそれは固まり、球へと変化してフェルトボールが誕生します。これは羊毛だけが持つ不思議な力なのです。この力はどうして生まれて来るのでしょうか?
 羊毛の繊維は鱗状(うろこじょう)のスケールやちじれのクリンプからできています。これらは温度や湿り気により開き絡みやすくなり、さらに振動を加えると繊維は、縮じゅうされ密になり一枚の布が出来上がります、これがフエルトの誕生です。素材の羊毛、獣毛は正に生きた材料と言えるでしょう。ではこのフェルトは何時頃から存在したのでしょうか。ノアの箱舟伝説のなかで動物達の毛が床に落ち適度な湿り気と踏み付ける圧力が加わり、何時の間にかそれは敷物に変わっていたという言い伝えがあります、これは、羊を人間に与えてくれた神からのすばらしい贈りものなのです。何時の時代にも偶然から生まれる新しい発見に人々はおおいに助けられて来ました。
 古代、人々が体を保護し身を守もるために身近な植物の繊維を、裂いて繋げて、強く長い糸を作りたい気持ちから道具を工夫し編んだり、織ったり、組むなどのテキスタイルの組織へと展開し広げて来ました。フェルトは不織布と呼ばれ、作る方法が大変原始的なため織物より以前から作られており、メソポタミア文明は羊の文明とも言われ人間と羊の関係は一万年も前から既に存在したと言われています。確かなことは分かりませんが、最も古いフェルトは、西アジアのトルコ・アナトリア地方の遺跡から、中央アジアの凍土地帯アルタイ山麓からは数多くのフエルト製品が出土しています。

●遊牧の生活
 西・中央アジアの遊牧の生活から生まれた移動する住居は、アジアの生んだすばらしい産物の一つと言われています。中国では包(パオ)、モンゴルでは(ゲル)、トルコでは(ユルト)と呼ばれ、これらの地方の人々は、土地を耕し穀物を作るのが不可能な場所で、人々は家畜を媒体に草原に草を求め、季節の移り変わりと共に条件に会った場所へ移動する生活様式が遊牧を作りだしました。冬は北風をさけ麓へ、夏は川沿いの草原へ水平移動や、山から麓への垂直移動をします。天候や家畜の状態におおじ共同作業をしながら厳しい自然条件に適応して来ました。家畜の肉や乳はチーズやバターの食料に、毛や皮はゲルの中の敷物・天幕・手幕帯・食料袋などに利用してきました。又トルコでは羊飼いのケパネックと呼ばれるマントがあります、これは寒さを防ぎ寝袋として一人用テントになります。これら生活の全てを家畜との深い関わりの中からまかなってきました。モンゴルでは、一年に二回春と秋に羊の毛刈りをします。春の長い毛は下に、秋の短い毛は上にと使い分けられ刈り取りの時期は、大変重要で毛刈の後の寒さは凍死につながります。モンゴルのフエルト作りの方法は、刈りとった羊の毛を細い棒で叩きゴミを落とし解毛し、動物の皮や簀の子の上に毛を並べ、芯になる棒といっしょに水を掛けのり巻きのように巻き込み、芯の棒と耳と呼ぶ道具をつけ動物からの紐と結び草原を馬やラクダが曵きまわしフェルトが出来上がります。その後馬乳酒を掛け祝詩を唱い羊の丸煮など食べ宴会をします。

●ゲルの構造
ゲルは組み立て解体、移動が大変合理性に富み数人で2~3時間あれば組み立てられ半球状の円型は、直径7~8メートル高さは2~3メートルあります。床の部分は家畜の糞を下に敷きその上にフェルトの敷物を重ね壁の部分はハナと呼ばれるジャバラ式の木を何組か組み合わせ円形を作り天井には天窓があり天窓から壁に何本もの柳の木が渡りそれとハナは紐で結ばれます。天幕全体は張力帯びで固定され外への反発力を防ぎ、更に白い布をかぶせて夏は裾を上げ涼しく、冬は何枚ものフェルトを重ねて部屋内を暖かくします。入り口は南に面し反対側に祭壇、中央はストーブ、円形の壁にそって食料袋、長持ち、寝具など置かれ壁全体はもの入れにもなり、右側は女性、左側は男性の座る場所と決められています。モンゴルの人々はゲルを宇宙と見たて天窓を太陽、天井の木は光の差し込んでいる姿と考え、部屋の色は全体が朱色で塗られ草原の緑と対象的なコントラストを作り出しています。人々はゲルを日時計としても利用し太陽の当たる場所で時間を理解して日々の労働を決めていきます。ゲルの中では外からの音が良く聞こえ家畜の健康状態や明日の天気を知ることができます。日中の温度差は大きく冬には零下40度、強風も吹き荒れますが、自然と一体になれる住居なのです。草原にはゴミはないと言われています。財産を所有せず最低限度の物と家畜と厳しい自然条件の中で生活して行く循環型の生活スタイルには私達に教えられる沢山のことがあります。

 ●ノルウェー・リポート
 昨年7月ノルウエーのベルゲンでフェルトフェスティバルが開かれ参加しました。デザインの国北欧には一度行つてみたいと20代からずつと思っていました。この催しの主旨は『フェルト加工に永い伝統を持ち古い工芸の文化遺産を現代に適合させる。』と言う内容でした。参加者は30ヶ国に渡り、ベルゲン市の中心に設けられたステージへは各自が作ったものを身につけて参加する事になっていました。その光景は個性的と同時に作品の質は高く大変興奮させられました。7日間のワークショップは、おおよそ14クラス設けられ、高校や近くの小学校が解放され会場が作られました。希望するワークショプはもちろんのこと、野生の羊を見る遠足やレストランで食事をしながら演劇鑑賞(小道具は、全てフェルトで出来ていました)、フェルターたちによるファッションショーなど沢山の充実した内容でした。市内の何百年も経つ古い倉庫を利用したギャラリーでは、ノルウエーやヨーロツパのフェルターの作品が展示され、クリエイティブな帽子、絵画的表現にステッチ効果のタペストリーやレリーフのまっ白な作品など見ごたえのある作品が揃っていました。私が特に興味を持ったワークショップは子供を対象にしたクラスで、早くから北欧では幼児の情操教育の一部としてフェルトが取り入られ、各自で作るのはもちろんのことグループでゲルやタペストリを作る指導が行われてきました。残念な事にワークショプの様子は、場所が離れていて見ることができませんでしたが、常に大人達と共に楽しむ場が設けられ子供をサポウトしていました。障害を持つ人や家族での参加もあり、背中に子供を背負つた若いお父さんの参加などは、ほほえましく改めて羊の国ノルウェーの伝統の深さと次の時代を作る子供への心配りと豊かさに感心しました。            (つづく)

「素材を変容させる」シェリル・ウェルシ/吉田未亜

2016-11-24 10:48:59 | シェリル・ウェルシ
◆シェリル・ウェルシ「Untitied」 28×25×30cm・2000年 

◆シェリル・ウェルシ 「Neck Coil」 2001

◆シェリル・ウェルシ「Bowll」 1999


2001年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 22号に掲載した記事を改めて下記します。


 「素材を変容させる」 シェリル・ウェルシ・吉田未亜

 シェリル・ウェルシは1973年、テキスタイル専攻で学士号を取得し、イギリスのローボロ-・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインを卒業した。同校のアート&デザインコースは、学生たちに現代の美術とデザインの理論や芸術史に裏打ちされた実習を通して様々な実験を試みる機会を与えた。テキスタイルでも理論の学習と実習を通して、その科目の伝統や意味について根本的に再考することが重要視された。なぜなら多くの学生たちのテキスタイルの経験の土台にあるものは、家庭や義務教育過程でのニードルワークだったからだ。

 「私のテキスタイルの知識は英国の小学校教育によって培われました。1960年代のイギリスでは、学校教育の重要なカリキュラムの一環として、女子にはニードルワークの授業がありました。教え方は伝統的な技術の習得に重点を置いていました。ニードルワークの授業では手縫いの方法やギンガムチェックの布などに規則正しい縫い目を作る方法が教えられました。私は縫い目が作る規則正しいリズムや縫うことで生地の表面の構造が変化して行くことが気に入っていた事を覚えています。」

 ローボロ-・カレッジの2年目、ウェルシは刺繍を専攻することを決めた。ウェルシは個人指導教官に何か特定のステッチ技法と素材を探求するように勧められた。その探求は既存の技法の改作や新しい技法を生み出し、今日的な考え方やごく個人的な問題をテキスタイルで表現することに重点を置いてなされた。またウェルシは、技術や素材を探求すると共に古いインドのテキスタイルや、アメリカの画家ジャスパー・ジョーンズを初めとする現代アーティストの影響を受け、異なる質を対比させるようになった。その結果彼女の作品には、ステッチとコラージュ、ありふれた廃棄物と貴重な素材、大衆的なイメージと歴史的な刺繍などが組み合わせられるようになった。
この二重性がウェルシの作品への取りくみの特徴となっている。形式性と自然性、貴重な素材とありふれた素材、この二重性のうちに比較対照を見つけ出すことは、ウェルシの作品の一貫したテーマとしてつづいている。
 「ロ-ボロー・カレッジでは手刺繍の歴史を学ぶと同時に、セロテープ、新聞紙、ニスなどのありふれた日々の廃棄物を作品に組み込んでいくことを学びました。歴史を学ぶことは、同じステッチでも扱う人や文化によって全く異なる物になることや、刺繍は様々な素材を容易に用いることができる技法であることを私に教えてくれました。
私はその頃、手刺繍、特にスタンプワークと貴重な金属刺繍に強い関心を持っており、キャラコなどの簡素な布地にステッチする作品を実験的に制作していました。キャラコのような普通の布地を用いることで刺繍の豊かさを強調し、刺繍の豊かさで簡素な布地の美しさを見せようとしていたのです。この異なる素材や技術を組み合わせるというアイディアは、現在でも関心を持って取り組んでいます。」

 ローボロ-・カレッジ卒業後、ウェルシは手刺繍への関心からロンドンのロイヤル・スクール・オブ・ニードルワークでテキスタイルの修復の仕事をすることに決めた。同校は歴史的なテキスタイルの修復と王家の表章、聖職者用の刺繍品の製作に特化している。ここでの経験を通して、ウェルシは金属糸を用いた刺繍の技法と様々な貴重な素材を用いる知識を深めた。

 「ロイヤル・スクール・オブ・ニードルワークで仕事をしたことは、大変伝統的な刺繍技法と修復技術を学べたことで、私の作品の展開にとって重要なことでした。ローボロ-・カレッジでは技術や素材を即興的に扱うことを学んだことに対して、ロイヤル・スクール・オブ・ニードルワークでは貴重な素材を扱うことで伝統的な技法を学ぶ機会を得ました。私が新しい形のステッチを生み出したり、対照的な素材を独創的に組み合わせたりすることの出発点は、ここで学んだことにあります。
私はゴールドワーク刺繍の技法も使いました。このことは私が後に光沢のある素材とマットな質感の素材の組み合わせによる装飾的な効果を探求することに繋がりました。ここで私が特に関心を持ったことは、薄いレリーフ装飾とステッチで繊細な形を創ることを習得することでした。」

 このロンドンで過ごした期間に、ウェルシは英国のThe 62 Group(現代テキスタイル・アートの振興のために結成されたグループ)の展覧会に出品した。ここでも金属糸は使い続けたが、金属糸は使い続けたが、金属を使った作品はバーミンガム・インスティテュート・オブ・アート・アンド・デザイン(ヨーロッパの主要な銀細工と宝飾の研究所)で銀細工と宝飾で修士号を取得のための研究の中で、1988年に全く新しい方向を取りはじめた。

 「彫金を研究しょうという考えは、金属糸の質感や感触を変えたり、その個性をより強く発揮させ現代的にしたいと考えたからです。金属とテキスタイルを融合させることで素材がどのように変容するか、という研究になりました。私は異なった金属の質に着目すること、布の様な金属をつくること、から彫金に取りかかることにしました。 

  Hitec-Lotec(www.hitec-lotec.com)プロジェクトに出品されたウェルシの最近の作品は、テキスタイルと金属において彼女がどのように歩んできたかをたどることが出来る。12人のアーティスト、デザイナー、メーカーはハイテク・ローテクと題されたプロジェクトにシリーズ彫刻を制作するために英国South Westアート協会から制作を依頼された。大意は手作業と工業の関係を試みることだった。ステンレス・スチール網、モノフィラメント、そして表面にステッチを用いたウェルシの作品は彼女が引きつづき素材表現の可能性、そして又形式性と、即興性の対比に関心を持ってきたことを示している。この作品の本質は素材の特性を変化させるプロセスにある。

 「私は素材のステンレス・スチールが徹底的に破壊される直前まで仕事を続けました。ステンレス・スチールは強い弾力性を持つ素材ですが、私の仕事の結果、もろい布のような特質を持つに至りました。このように素材を変容させる過程で、その素材が完全に破壊される一歩手前で装飾的な性質を帯びるということを予想外に発見しました。素材は柔らかくもろくなると同時に工業製品の精度と強度を保ち、装飾的であるばかりでなくこれら相反する性質によって緊張感も生まれるのです。Hitec-Lotecプロジェクトのために私は紙ホイルと工業用のアルミシートから抜き取られたブランク(硬貨や鍵をつくるのに用いられる金属素材片)などを選びました。私はこれらに実験的に手作業でひだをつけたり、つや出しをしたり、皺をつけたりしました。」

ウェルシはハイテク・ローテクのために軽量の金属で6つの四面体を基にした立体作品を制作した。それぞれの立体は同じ型を持ち、大きさ、基本的な素材も同じである。そこに異なる手作業による処理を施し、それぞれの個性と装飾性を持つ作品として仕上がっている。素材の扱い方と制作の過程で施された処理を明らかにすることはウェルシの作品の重要な要素である。

 「私は谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」からも影響を受けています。この小説は素材が使用されることを通して歴史を積み重ねていくということをわたしにはっきりと教えてくれました。暗闇と影の認識そして表面と古つやの質は、私を奮い立たせてくれました。」


 ぜんたい我々は、ピカピカ光るものを見ると心が落ち着かないのである。西洋人は食器などにも銀や鋼鉄やニッケル製のものを用いて、ピカピカ光るように研き立てるが、我々はああ云う風に光るものを嫌う。我々の方でも、湯沸かしや、杯や、銚子などに銀製のものを用いることはあるけれども、ああ云う風に研き立てない。却って表面の光が消えて、時代がつき、黒く焼けて来るのを喜ぶのであって‥‥。
                       (谷崎潤一郎全集「陰翳礼賛」P424)

 ウェルシは自身の作品について語る時、手作業と機械技術の関係が重要であること、そして実際につくる過程でアイディアが発展することを許容することをしばしば自分の制作を引き合いに出して述べる。

 「私はどちらかというと手作業や単純な機械が好きです。機械で処理を施す時には、機械のスピードを落します。そうすることで予期せぬ質が生まれることがあるからです。このような実験的な側面と同時に、機械のスピードを落すことで作業の精度を高めたり微妙な効果を出したりその特性を発揮させたりすることもできるのです。
制作の計画を立てる時は、使用する素材、技術、大きさ、平面か立体かの選定も計画の内に含まれます。最近の作品は単純な幾何学形体です。これらの要素に直に仕事をする過程で私の考え方が発展する方向も決まってきます。最終的な目標はモノをつくることですが、つくることを通してコンセプトやアプローチの方法を発展させることは大切なことです。私が素材を探求する目的は、それらが何を表現できるかを示すためです。豊かに装飾された美しい表面、繊細さ、軽やかさ、量感のある作品にしたいと思っています。」

 目下、ウェルシはロンドンで開催されるチェルシー・クラフト・フェア2001(www.craftscouncil.org.uk)に向けて、身に纏うことができる新作を制作中である。それはテキスタイル、金属、紙、そして須藤玲子が日本の布社のために制作したステンレス・スチールを撒き散らした布を組み合わせている。

 「ロンドンのサザビーズ(コンテンポラリー・デコラティヴ・アート2001)で作品を公開してから、皆さんが私の身に纏う最新作を楽しんで下さったことに気付きました。皆さんがそれぞれ個性的に私の作品を着こなし、良い反応を示して下さったので、チェルシーではこのタイプの装飾的な製品を更に発展させることにしています。」    
(訳:吉田未亜)

※ お知らせ
 シェリル・ウェルシのワークシヨップを2001年12月25日(火)~27日(木)の三日間、当研究所で開講します。詳細はお問い合わせ下さい。

造形論のために『方法の理路・素材との運動②』 橋本真之

2016-11-21 11:46:14 | 橋本真之
◆橋本真之「自転する人体」(1969年制作)鉄、クロームメッキ

◆橋本真之「林檎の肖像」 (1969~70年制作)  鉄、クロームメッキ、ポリエステル樹脂(東京芸大資料館蔵)

◆橋本真之「林檎・馬糞・乳房」 (1970年制作) 鉄

2001年7月1日発行のART&CRAFT FORUM 21号に掲載した記事を改めて下記します。

連載1 造形論のために
 『方法の理路・素材との運動②』   橋本真之

 円形の金属板を、同心円状に打ち絞り続けていると、人はやがて、その回転運動から中心軸の存在に思いを致すことになるだろう。金属板のつくる張りぼてに過ぎない形態に、仮空の基軸ができはじめるのである。同心円の歪んだ等高線をたよりに打ち絞る「変形絞り」も、この基軸の変化の動きを考えるならば、形態の変形の仕組みを理解しやすいだろう。鍛金による造形は、この回転運動の軸と等高線状の形態把握が基本なのである。

 私が初期の鍛金制作の中で、林檎に仮空の中心軸を求めることによって、張りぼてに造形性を求めていたのも、後の「作品構造の展開」という観点から見れば、あながち見当はずれのことではなかったのである。むしろ、中心軸の問題が、作品構造の展開を導き出したのである。実際のところ、この認識なしに形作っていても、時代遅れで不自由な劣った技法として、彫刻技法の内のひとつにおとしめられるのが落ちであると、学生時代の私には思えるのだった。‥‥不自由な技術というものなぞ、実は無くて、その技術の本性を取り違えているために、不自由を余儀なくされていると理解すべきなのである。いかなる技術にも、その展開の道筋を見誤まらなければ、充全な開花のダイナミズムが必ずある。……と自覚したのは、もっと後のことである。私のこの中心軸の認識の芽は、当時すでに顕われていた。私は大学の卒業制作の直前の夏休みには、旋盤を使って、直径80ミリの鉄の丸棒を削り、人体の回転体を作っていたのである。私の卒業制作は、最初、鍛金による人体の回転体と林檎の回転体の対比による作品制作の予定だった。

 当時、自宅から東の方角の雑木林や耕作地の続く一帯を越えて散歩に出かけると、あたり一面すすき野が広がっていて、私はひと気のない、その荒れ野の真中で、子供の頃の遊びを一人で繰り返していた。自ら立っていられなくなるまで自転して、あたりの風景がメリーゴーランドの様に回転するのを楽しむ遊びである。自らが回転軸となって、世界が回わる遊びが私をとらえていて、一人で幾度も幾度も繰り返していた。そうした青年の姿を誰かが見つけたなら、異様な情景だったに違いないが、私にはワラをも掴もうとする試みだったのである。そうした私の中心軸を見い出そうとする行動が、ある時、造形化し得るように思えて、「自転する人体と林檎」という考えが始まったのであった。この回転することによって、中心軸が自ずと成立するという考えが私をとらえたのである。

 けれども、幾つかの試みの後に、私がそれらの計画を放棄したのは、学生仲間の一人に自転する人体の類例を示されたがために、急速に意欲を殺がれてしまったからである。そのことによって、私のひと夏の旋盤を扱う強引な努力は、鉄の丸棒から回転体の器を削り出して、そこに赤いポリエステル樹脂を満たしたものと、鍛金による鉄の林檎とを、菱形の台上に等価な形で対置する作品に展開することになった。その旋盤の回転運動がもたらす回転体のフォルムとして林檎の器はできたのである。その器にあふれるように満たして、表面張力で静止している赤い液体、それは林檎の象徴であり、私の自我の象徴であった。器を一個の具体的林檎の形態と対置することによって、そのふたつの間に、仮空の膜が等号として成立するのを、私は望んだのである。しかし、最初の計画では、菱型の3っの角には林檎のシワのよったものを含めてそれぞれに配置し、ひとつの角に器状の形態にポリエステル樹脂を満して構成する予定だった。全てが完了して、作品を見ている内に、シワのよったふたつの林檎を取り去ってシンプルな対比にしたのである。

 私の卒業制作が、他の四苦八苦している学生達よりも、かなり早くできてしまったので、私はもう一点作ることにしたが、その一点は、私にとって跳躍であった。ひとつの林檎を作る時、上下ふたつの半球を同時に作るのだが、そのふたつの半球を並べて、矩形の台上に溶接したものである。ただし、そのふたつの形態は歪み波打っていて、観照者には一見して林檎の形態とは判断できないに違いない。『林檎の肖像』からシワの寄った林檎を取り除いたことによって、私はそれらの新たな発芽を必要としていたのに違いない。短期間の内に作品は出来上がり、私はそれを、『林檎・馬糞・乳房』と題した。すなわち、ここでは比喩を連続して全てから等距離にあるような、ひとつの概念に固着させずに、ひとつのフォルムが全てを包含するような、つまり何ものも意味しない、ニュートラルな方向に向かっている。これは明らかに、私が一歩を踏み出した問題だったのである。

 これが鍛金によって、22才までに獲得した私の造形の理路である。後者の作品には、明らかに、かの日常を踏み抜いた経験が反映していて、その後の展開の芽となるものである。そのような作品は、当然だれからも注意を向けられることもなかった。密度の点で比較的完成度があった『林檎の肖像』が芸大資料館の買上賞となった。

 これらは、いずれも私の初期の造形思考を如実に示している点で、ひとつの出発を示しているが、『林檎の肖像』はこの後、この種の象徴的作品の直接的な系譜が途切れることになる。けれども、ここで密度を獲得した造形の、「等価の構造」の萌芽は別の形をとって顕われて来ることになる。私にとって等価の構造に向かう理由は何処にあるのか?そうしたバランス感覚が、私を充足させるのに違いないのだが、それが何処からやって来る感覚なのか?私にはまだ充分に理解できていない。おそらく、五月の風に吹かれるような、毛穴を開放する皮膚感覚に近いのだが、私はこれらの感覚をめぐって、試行錯誤して来たのでもある。

 卒業制作というものは、当の学生にとってそれぞれ意味は異なる。あるものにとっては終わりの制作であり、また始まりの制作である。あちらこちらから引っぱって来て、ようやくなされたでっち上げの場合もあれば、長い研究の後のささやかな成果である場合もある。第三者が卒業制作を見る面白さは、若い鋭敏な学生が時代に何を見て自ら反応したのかが、あからさまに見えるという点である。けれども、卒業制作の成果をもって、後の仕事を想像して期待するのは、過大評価というものだ。彼の仕事は、いまだ前例の後を行く成果を出ないことが殆どだからである。学生時代の半年間というものは、後の四・五年に匹的する。様々な知的経験や感覚的経験が目白押しにつまっているために、三日前の彼と同一の思考の圏内に居ることは、稀有のことと思わねばならぬ。そうした時代の内的経験を、ひとつひとつ思い出すことは至難のことだ。当時の私の覚書ですら、真の記録とは言えぬ程に、経験は日に日に充満していて、真に重要な転機となる出来事が、出現の当初は適切な言語表現に成り得ずに洩れていることが起こる。ようやくにしてまとめ上げられた、やわな思考のノートは、常に新たな経験の覆兵にくつがえされて、新たな筋道をたどりなおすことになる。それが若年の造形思考の姿である。

 私もまた、筋道をたどり踏み迷っては突きくずし、また筋道を立ち上げて踏み迷うという繰り返しをしていたのである。経験と実作が自らの実証であると思うより他はなかった。言語表現はようやく後からついて来るより仕方がなかったのである。