ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

教育の場としてのギャラリー  三宅哲雄

2018-02-19 10:53:24 | 三宅哲雄
1991年6月20日発行のTEXTILE FORUM 16号に掲載した記事を改めて下記します。

教育の場としてのギャラリー  三宅哲雄


 教育の場としてギャラリーはどのように機能するのか……、三年前に大きな希望と期待を抱いて設立したギャラリーも昨秋から今春にかけて開催された多様な作品展と作者そして多くの来場者の反応等から確実に機能し始めていることを感じました。
 今日迄、私共は染織文化の向上と普及を願いつつ創作を志す人々の育成に努めてきましたが最近の多様な展開と活動は目を見張るものがあります。しかしながら、今日の状況は創作活動をする基盤がようやく整ってきたという段階で創作者にとっては一昔前のように技術や素材の斬新さだけでは勝負出来ない環境になってきたのは喜んでばかりはいられない状況でしょう。
 通常テキスタイルの教育の場では技術指導と知識教育に重点が置かれ完成度を求めていまずが、これだけでは創作活動の継続に壁が生じます。もちろん壁は個人の問題で個人が克服することですが教育の段階でこのことを考えさせ自ら噴きでる創造の泉の形成に役立てればと努力しています。生みだされた作品の展示は、まず自らの為にあり、人に良く見てもらうことを第一目的にしていません。このあたりまえのことをギャラリーという空間を使って学ぶのです。



「近代化という落し穴」 三宅哲雄

2017-10-19 11:24:33 | 三宅哲雄
◆写真6 修理後のダブルフライヤー手紡機     ◆写真7 亜麻を紡ぐ女性

2008年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 49号に掲載した記事を改めて下記します。

 「近代化という落し穴」 三宅哲雄
 
早いもので当研究所を目黒区碑文谷に設立して28年になります。開設初年度(1981年)には長野県白樺湖畔に蓼科工房を設立し自然の中だから可能な講座を夏期に開講しました。別荘として利用していた時は周辺との交流は全くと言っていいほどありませんでしたが宿泊型研修施設にしてから近隣の人々や施設との繋がりが除々に生まれる中で障害者授産施設「山の子学園」との交流も始まりました。
 学園スタップの案内で白樺湖から大門街道を下り砂利道の林道に入ると左右には個人別荘や学校寮が点在し、その道の突き当たりが山の子学園、車を降りると園生が「こんにちは!」「いらっしゃい!」とにこやかな顔で迎えてくれたにもかかわらず私は変にかまえて応対できなかったことを思い出しました。私はこの日まで多くはないものの数ヶ所の障害者施設を訪問したことがありましたが、ほとんどの施設の第一印象は全体的に暗く、園生も外部の人々への警戒心なのか挨拶をしても返事はなく怖い顔で見られたのに比べて山の子学園の園生はなんて明るいんだという思いを持ちながら施設の中を園長先生の案内で畜産や陶芸など多くの授産事業を見学することで園長先生の夢と生涯の生活の場として生きる多くの園生のつながりの温かさと深さがこの園の空気の心地よさを形成しているのだと園生からいただいた絞りたての牛乳を飲みながら感じました。ただ授産事業の中でこの環境でなくても出来る屋内の単純作業には違和感を感じ「せっかくこのような自然の中に施設はあるのに、その利点を生かしていないのでないか」といつもの苦言を呈すると園長先生が「何かアイディアはありますか?」と問われ「園の回りは全て植物ばかり、これを利用しない手はない。草木染をしたらいかがですか」と答えたことが以後5年程続く原毛の草木染です。
 いたどり、よもぎ、小梨、くるみ、くり、山桜、すすき、刈安、茜、など施設周辺で採集した植物の他にコチニールやインド藍も加わり年間数十キロの染色原毛が毎年届くようになり研究所の倉庫は染色原毛の在庫で埋もれました。このままではいけない、何とか原毛を有効に消化しなければとの思いから一つの方策として草木染手紡糸の販売と手紡糸を使った手編み・手織りのマフラー・ショールの制作でした。手紡糸の制作コストの軽減のため糸の制作は私がすることになり毎日毎日電動手紡機で一日一キロを目標に糸を紡ぎました。当り前のことながら同一姿勢で座ったままの作業は身体にはいいはずがなく五年は続けたでしょうか結果として椎間板ヘルニヤになり歩くことも出来ない状況になって原毛の染色を断ると共に手紡糸の制作も中止しました。

◆ダブルフライヤー手紡機
 草木染の原毛は以後少しづつながら現在も使用していますがほとんどは布団圧縮袋に固く圧縮された常態で倉庫の片隅に積まれています。研究所も振り返れば夢と現実の中での悪戦苦闘の日々を送ってきましたが数年前より無理をせずに静かに前に向かって歩んでいく方針に転換してから私は糸を紡ぐことを再開しました。最初は慣れ親しんでいた電動手紡機で紡いでいたが何故か違和感をおぼえ上野勝夫氏に修理していただいた300年前のイギリス製Two-Flyer Spinning wheel(ダブルフライヤー手紡機)を使うことにした。この手紡機は研究所の卒業生から譲り受けた二台の内の一台で当初はDriving wheel(輪)などが虫食いで完全に欠落していたのを上野さんが修理用道具の製作から始めて数年をかけ修繕し、使用可能な状態で現存する貴重な手紡機です。(写真4.5.6)

◆写真4 修理前の手紡機◆写真5 修理後の手紡機

 産業革命前の1681年にThomas Firminによって公表された写真によると女性が亜麻(リネン)を両手で紡いでいる姿が描かれています。(写真7) 産業革命と後世に呼ばれている時代(1760~1830)以前は機械ではなく道具を使った手仕事で繊維品も生産されていましたが織るスピードは糸を紡ぐスピードよりはるかに速いことから糸の供給が追いつかず糸の量産と効率を求める傾向が強まりダブルフライヤー手紡機が開発されたと推察します。この種の手紡機はイギリスにとどまる事もなくフランスでは1750年代、スウェーデンでは1760年代、ドイツとオーストリアでは1780年代に使われていたという記述があります。
 1700年代にゆっくりとそして静かに胎動しはじめた量産と効率化の動きは綿紡績機の発明により加速されいわゆる産業革命という時代を生み出しながら量産と効率に均一や収益を加えわずか300年で全世界に浸透することになりました。私たちが生きている日本も戦後63年になり平成生まれの子供も成人を迎える時代です。焦土と化した時代そして高度経済成長、バブル、このわずか63年で物は溢れるように生産されると共に半導体の発明によりアナログからデジタルの時代への転換をもたらし一層均一化の道を歩むことになりました。パソコンや携帯電話はもとより家電製品、自動車等々私たちの生活を取りまく物のほとんどにコンピュターは内蔵され最も無縁と思われている野菜などの農産物も都会のビルの一室でコンピュターに制御された人工照明と肥料により栽培される時代になりました。このスピードで近代化という道を突き進むならば地球上に人の介しない自然を見つける事が困難な時代になることも現実味を帯びてきました。
 確かに物質的豊かさや便利さを否定は出来ません、だが貧困に苦しむ途上国ではなく先進国といわれる国々で生活している人々が豊かさや楽しさを実感しているのでしょうか。政治や宗教の諸問題を根底に抱えてこなかった私たち日本人でも得てきた豊かさに比べて失ってきた豊かさの大切さを感じることが日々の生活の中で日増しに膨らんでくる思いがします。道を歩いていても、電車に乗っていても、又は車を運転していても、多くの人々が集う都会生活で私の目には疲れている、イライラしている、という表情と行動をする多くの人々と出会うことが日常になっています。均一化された物と情報そして経済第一主義の社会の中で一つとして同じ個体(人間)でない生物がどう折り合いをつけて生き続けることが出来るのかが問われています。電動手紡機に違和感を感じ300年前の手紡機で糸を紡ぐ時は落ち着いて静かな気持ちになるのは私が老いてきたからだけでは解決しない生物としての自然な反応であるように思えます。
 量産と効率そして均一と収益を追求してきた社会が成し遂げたものばかりに注目するのでなく、切り捨てたり失ってきた文化や身のまわりの生物に改めて眼差しを向ける事で見えてくるものがあるのでないでしょうか。

◆染色と油
 先日、当研究所の元スタップから大量のグリージーウール(刈り取ったままの羊毛)をいただいた。無駄に使うのではなく有効に使わせていただきますとの約束もあり授業用教材として使用する他に研究用素材として使うことにした。
 通常ウールに限らず絹や綿そして麻でも染色をする場合は精錬をして油や汚れを落としてから染めることは常識で精錬は教科書やその他専門書には当り前のこととして記されているが私は以前インドネシアの絣(イカット)の茜の染色方法で染色前に植物油(クミリ)に糸を浸してから染めるという話とメキシコの貝紫染においては染色前に牛油(セボ・デ・バカ)の石鹸でよく洗い、乾かしてから染めると聞いている。いずれも染色前に油に浸したり、油の石鹸で洗わなくても染色は出来るがきれいな色に染める伝統的な染色方法として伝承されてきたという。たしかに手染めによる綿の染色は現代の化学染料を使用しても白ずみが出やすく鮮やかに染めるのは難しいとされ日本に限らず綿織物に永年従事してきた世界の人々の創意工夫が地域ごとに伺われる。

◆写真2  グリージーウールの草木染
◆写真8 グリージーウールの草木染

◆写真9  グリージーウール.洗毛、未洗毛の比較

 綿の染色で油をわざわざ付けて染色する伝統的な知恵があるならば他の繊維の場合はどうなのか?という疑問がわき当研究所で草木染の指導をしている上野八重子さんにグリージーウールを染めていただいたが現物を見る限り精錬をして染色した場合と遜色がないように見える。(写真2.8.9) では「水と油」ではなく「染と油」は決して一緒になるものでないという常識はどこから生まれたのであろうか。同じ天然繊維でもその組成と性質が異なることから精錬の意味と方法も異なる。ただ自分達の身のまわりの素材を用いて自分達の生活に役立つ物を作っていた時代からお金のために商品を作る、そして機械化によって大量に均一の物を作る時代に移行していく流れの中でおのずと染色にとって邪魔な油や汚れを除去してから染める染色方法が確立したと推察される。企業が量産品を生産する場合に求められる品質を異なった環境や風土、生活習慣、文化の中から生み出される少量生産の品々にまで同様に求める風潮が物の画一化に留まるだけでなく多様な文化を駆逐してきた道筋であったような気がする。現在私たちが個人で作るその素材や制作手法まで量産品の手法をただ盲目的に学ぶだけでなく多様な人類の英知にいま一度目を向けることがあってもいいのでないか。

◆フェルト化しない羊毛、接着する絹
 セーターは洗濯機では洗ってはいけないと教えられている。羊毛は熱と湿度と力を加え縮み絡めることで固まるという性質を持っているので、この特性を利用して人は過去から現在に至るまで服地や敷物を作り、今日では多様なフェルト製品や作品が身のまわりに見られるようになったが羊は日本で飼育されるようになって日の浅い動物なので生き物としての存在より冬期衣類素材として馴染みがある。たとえ自然素材であっても加工され製品になった状態で知っていることが元来その素材が持っている特性を知っているとは限らない。ムートンは毛皮、糸やフェルトは羊毛、これらは別物として人の役に立っているが素を糺せば羊に帰結するにもかかわらずムートンは他の動物と一様に毛皮の範疇を越えることはなく使用され、毛糸もアルパカやモヘアーそして絹などの動物繊維だけでなく植物繊維の綿や麻などと同じ糸という括りで何の疑いも無く日常生活の中に浸透している。天然繊維を越えることを目標にして生産されている均一な人造繊維は別として動物にしろ植物であっても生物である限り同一のものはなく、その種や個体個体に他とは異なる性質や表情そしてかたちを持っている。
 先日、北海道の牧場に無理をいってムートンに加工する前の生毛皮を送っていただいた。羊、ムートン、羊毛、毛糸などは知っているが頭、耳、足だと誰でも窺える生々しい毛皮に触れ毛皮を表面から見るだけでなく内側から観察することで知っていると思っていた毛皮や羊毛の特性は表面的であったと思った。当り前のことながら羊毛は羊皮から生えている。この状態でフェルト化の作業をすると羊毛はフェルトになるのであろうか?という疑問が生じ、早速実験をしていただいたが少し毛が絡む程度で固くはならなかった。「羊毛は全てフェルト化する」という常識は覆され条件次第ではフェルト化しないこともあるのだ。(写真10)

◆写真10  フェルト化した毛(黒)、しない毛(白)

 日本人にとって馴染みの薄い羊と異なり寒冷地を除く日本の中山間地では養蚕が盛んで蚕が桑の葉を食むシャカシャカという音が屋根裏から聞こえた体験や絹糸を座繰りで上げる姿を垣間見ることは日常であったという話を聞くように最近迄養蚕業は国によって管理され均一な絹糸を製糸するために改良を重ねた幼蚕を農家に委託して繭を生産するという制度が永年にわたり続けられてきた。絹は毛とは異なり蚕が600mから1500mに及ぶ一本の糸で繭を作る動物の習性を利用して生まれたものだが、その用途が着物に偏重した歴史の中で細くて、艶があり、柔らかい糸を安定して大量に生産する工夫だけが営々と続けられてきたことが衣服の多様化と輸出入の自由化の波で姿を消そうとしている。
 昨秋、桑だけで飼った生繭を入手することが出来たので早速座繰りで糸に上げると乾繭とは異なり滑らかに糸が解除された。同じ繭でも蛹が生きているのと死んでいる場合や生皮苧(きびそ)と生糸の差など市販の生糸や絹紡糸だけを使用していては知りえなかったことが見えてくる。生皮苧は生糸を取る場合、繭から最初に除去される部分で生糸に比べて安価である。繭の25%はセリシンと言われているが内部と中層部では含有量は少なく外部は多い、一般的な絹糸では生皮苧は除去され尚精錬された糸なので、このことに気づくことはない。(写真3)セリシンの含有量や特性も座繰りで糸を上げ邪魔物として扱われてきた生皮苧と中層部の美しい生糸、蛹が透けて見える内部の糸を分けて観察し、共にアイロンで熱を加えることで接着する生皮苧と接着しない中層と内部の生糸の違いや太さ、表情等により絹糸とは、生皮苧とは、セリシンとはを理屈ぬきで知ることになる。(写真1)

◆写真3  繭を先染して座繰りした糸  (右、外側  左、内側)

◆写真1  接着する生糸

 ウールは全てフェルト化する。絹は艶があり、柔らかいという生物の表面的で優れた性質にだけ捉われることなく、あるときには欠点と伝えられていることに注目することで新たな発見に結びつくこともある。

◆こんなコンニャク見たことない!
 昨年の夏、群馬県沼田市に在住で当誌vol.44の特集でもご承知の小林清美さんが両親と共に蒟蒻の栽培をしながら作品を作っている場に子供造形教室夏期合宿で小学生、保護者、スタップなど計15名で伺った。
 蒟蒻は東南アジアから中国・韓国を経て伝わったが、この姿を見る限り亜熱帯系の植物に似ていて日本の風土・環境では簡単には育ちにくいように思えるにもかかわらず日本の食卓に欠かせない食材として定着している。一般にコンニャクと問われると「おでんやすき焼きの具材」「でんがく」等しかイメージしないが過去には紙幣や風船爆弾そして現在では強制紙として紙を補強する助剤としても少なからず使われている。
 紙は水に溶けるはかない素材として認知されているが二枚の和紙に蒟蒻を塗布して張り合わせ乾燥させ、石灰で煮ることで洗濯可能な強い紙になる。この糊としての役割と性質に着目し、製法は食するコンニャクと同様に作り、乾燥させるとどのような表情を見せてくれるのかという思いつきから実験を試みた。その結果、蒟蒻芋を擂りおろして作ると灰汁が強く乾燥させると黒っぽい木根のようなコンニャクや製粉工場で製造されたパウダーから作ると樹脂のようなコンニャクなど様々なコンニャクができることに気づき全国有数の蒟蒻産地群馬県の専業農家と近隣の人々、そして見渡す限り蒟蒻畑が広がる環境の中での合宿に結びついた。(写真11)
◆写真 11  コンニャク畑に設定したコンニャクオブジェ  (子供造形教室夏期合宿)

 合宿では予期せぬさまざまなことに遭遇することになったが子供達は食事からオブジェの制作までコンニャク尽くしの三日間で食材と造形素材との区別はないことを体感する良い機会になり、蒟蒻栽培農家の方々からは「こんなコンニャク見たことない!」という話を伺って何かが生まれる気配を感じつつ群馬を後にすることが出来ました。

 私は今日も300年前のダブルフライヤー手紡機で糸を紡いでいる。二個のフライヤーの内使っているのは一個で残りの一個は糸が紡がれることもなく、ただ空回りしているだけだ。効率を求めて製作された手紡機はその製作意図に反する使われかたをしているのにもかかわらず静かにカラカラと心地よい音をたてながら動いている。

「三本の糸」   三宅哲雄

2017-06-06 13:35:40 | 三宅哲雄
◆礒辺晴美 Time Space & Place 245×457cm 撮影:河辺利晴 所蔵:滋賀県立近代美術館 

◆礒辺晴美「遊体展-フェルトワークとゲルのミラーワークス-」に出品した作品

◆礒辺晴美「遊体展-フェルトワークとゲルのミラーワークス-」に出品した作品


◆礒辺晴美「The Misa Flora(野の花)」375×157cm
撮影:河辺利晴
所蔵:京都国立近代美術館

◆礒辺晴美、ロジャー・ニコルソンの絵画を織った作品(タイトルなし)

◆林辺正子・二人展  1996  ギャラリーいそがや

◆林辺正子「多能な表面体Ⅴ・都会の遊牧民たちの為に」
個展  1990

2005年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 35号に掲載した記事を改めて下記します。

 「三本の糸」   三宅哲雄

 日が昇り、日が沈む。生まれそして死す。このような当たり前のことを私は日常意識することは少ないのですが、昨年(2004年)ほど考えさせられた年はありません。頻繁に上陸した台風や新潟県中越地震などの自然災害と共に世界中で今尚続く戦争による犠牲者、そして最も大きな衝撃は礒辺晴美さん、林辺正子さん、小林正和さんの訃報を受け止めたことでした。
 日本におけるファイバーワークの歴史はわずか40年たらずですが、今日では作家の数や作品の多様性と質の高さは世界のトップクラスに位置していると言っても過言でありません。しかし何事も一夜にしてならずと言われているように、このような環境に育て上げるには強い意志を持ち続ける個性的な作家と教育者そして研究者、編集者などの協力がなければ生まれないと思います。特に独自の制作を続ける作家が数十人の規模で地域を超えながらも同一の団体に属さず交流を継続的に続けていった結果でしょう。1977年に京都国立近代美術館の内山武夫氏の協力を得て37名の作家を紹介する「ファイバーアーティスト日本」を川島文化事業団より出版しましたが、今振り返ってみるとこの本に掲載された作家を中心とした制作活動と教育が根幹をなしているように思えてなりません。
 私は30余年自由な造形教育の場つくりに関わっていますが、一人で維持継続できたわけでなく、この間ひたむきに作品を制作し続けてきた作家の存在が私の夢を大きく支えてくれていたと痛感したのは三人の逝去により内面に大きな空洞が出来、隙間風が吹き抜けるのを感じた時でした。一人で生きて、一人で仕事をしているのでは無い。多くの人々によって支えられて生きてきたのだ! と改めて思い直し、三人の思いを再び内面に取り込み私がなすべきことは何なのかを常に自問しながら続けていきます。
                 ◆
 「はあいー 三宅さん」と満身の笑みをたたえながら、今にも研究所の入口から入って来る礒辺晴美さんの顔が浮かびます。礒辺さんとの出会いは私が川島テキスタイルスクールに関わった1974年頃で、当時、礒辺さんは㈱川島織物のデザイン室に勤務し主にインテリアテキスタイルの織物のデザインを担当していました。時折、昼食を学校に食べに来るなどの機会から面識が出来、その後彼女の軸足は徐々に織物会社から学校に移っていきました。第一印象は京都生まれで、控えめだが根気強い性格を持っているように見受けられましたが後に以外な側面を見せてくれるようになつたのです。織物作家としての特異性は本誌(6号)で記したので今回は触れませんが、今でもタペストリーの作家として礒辺晴美さんを超える作家と作品に出会っていません。
 何年前でしたか、千疋屋ギャラリーの個展会場である作品について痛切なコメントをしたことがあります。礒辺さんは黙って聞いていましたが、私は誰もが出来る表現方法を何故礒辺さんが作品の中に取り込むのか理解出来なかったし、又、礒辺さんにはしてほしくなかったからです。それなりの年月を付き合い十分に理解しているつもりでいましたが、実は表面だけしか見ていなかった自分に反省しています。礒辺さんの織物はスウェーデンで学んだ表現方法に基づいていますが、所謂スウェーデン織ではありません。かといって西陣の綴織でも勿論なく礒辺晴美の織物です。こうした作品を創るように何故なったのかと考えると、いくらか想いあたることに気がつきました。彼女の身体は長期間同じ場所に留まることを求めず、ある周期で移動することを欲していると思われます。その彼女にとって最もふさわしい生活パターンであったと思われるのがロジャー・ニコルソンとの結婚により英国と日本の生活、そして北欧とのつながりなどを有機的に持つことが出来た時代ではないでしょうか。礒辺さんは日本人としての血をしっかり持つた上で自分が生き、生活してきた風土、環境、文化などを無意識のうちに積極的に取り込み、自分の中で燃焼させて作品に表す。この持って生まれた感性と己に忠実に生きようとする姿勢がある時、ある作品については欧米の作家がよく使う安易な表現方法で制作したと私には見えたのかもしれません。
 彼女の作品のほとんどは自然素材を使って織物技法で表現していますが、ハンドフェルトの楽しさ、美しさを日本で始めて作品と教育で紹介したのも礒辺さんだと思います。自由に素材を選び、最もふさわしい表現技法として織物を選択して制作しているわけですが、これらに拘束されて制作しているのでなく、結果的に選んだ素材を用いて機の上で絵を描くのです。素材の糸が絵の具で機はキャンバスなのです。原画(下絵)があり忠実に織るという織物の制作をしたことが無い彼女が原画のある織物を織ったのは亡くなったロジャーの絵を織ったのが始めてでした。ロジャーが生きている時には織りたいとも思わなかったようですが、彼が亡くなり、残された絵に向かった時始めて織ってみようと思ったと話してくれました。たしかに原画と大きく異なることの無いタペストリーに仕上がっていましたが、ただ絵柄を忠実に織ったわけでなく、彼を内なるものとして受け止め、彼が表現したいものは何なのか、それを私が表現するとどうなるのかを考えながら制作した結果だと思います。身近な人の死は、残された者の心に大きく残り、受け継がれていくものなのでしょう。
 思いのままに、少女のごとく自由に世界を飛び回り、美しい作品を数多く生み出した礒辺晴美さんに会うことは出来ません。ただ彼女が残した作品からは今後とも失われることの無い自由へのメツセージが永遠に発せられています。
                  ◆
 オープニングパーティー後の二次会、三次会で相当お酒が入り酩酊状態で不用意な発言を私はしばしばしていました。そのような折に「そうとは私は思わないわ!」と林辺正子さんに良く意見されたことが脳裏をかすめます。林辺さんは前に記しました1970年代に作品を発表し始めた作家から10年程経て次々と衝撃的な作品を発表し始めた作家です。
物づくりの出発点はいかなることや、いかなる場所からでも生まれるものですが、日本では久しく工芸のジャンルに位置付けられてきた結果、染織造形の作家で言語を出発点にする作家は生まれてきませんでした。林辺さんの実質的なデビュー作「多能な表面体」は絹糸と真鍮線を経糸と緯糸にして織り上げてから成形する手法でテクスチャーは布の暖かさを維持しながらも平面の布から形状保持された立体の織物彫刻として表現されたものです。
以後、彼女の使用する素材はラテックス、木、粘土、石膏、鉛、蝋、胡粉、ナイロン糸、アルミニームなど染織のジャンルで一般的に使用する素材とは全く異なる素材を使用しながら、技法も織にとどまらず自由に使用しています。このような制作手法に基づいて生まれた作品に不慣れな人々に林辺さんは「人間の出現以前、つまり人間が介在することのない世界をイメージして制作しました」又「素材である物質との接触を通じて『私』を見いだす作業」と応えています。
 現代美術の世界ではコンセプトが重要とされていますが、ときにコンセプトとは似て非なる作品に出会うことが多々あります。私はこのような作品はたぶん「私」への問いが浅いまま形にした結果でないかと想像するものです。林辺さんの経歴を読むと東京外国語大学ドイツ語学科卒、ストックホルム大学大学院にて宗教史を学ぶと記されています。たしか数ケ国語を話し、作家活動の他、翻訳家としての顔ももたれていたようです。こうした彼女が生み出す作品の出発点はリアルな物質を前にして、多様な言語と自己が同時に脳裏で重なり、その結果イメージされた形を制作していると思います。素材や技法を誇示したり用途や機能の制約から生まれる形に逃避しない状況に身を置いたとき、残るは内面でどこまでイメージを熟成させることが出来たか否かで作品が発するエネルギーが異なってきます。このような制作姿勢と手法を選択し作品を作り続けることは現代社会では今尚困難を伴い位置する処はありません。ただ作品は誰の為に創るのか、どこを向いて創っているのかが明確に定まっていれば困難を困難と思わず、制作し続けていくことが出来ます。こうした数少ない作家の一人林辺さんは己に正直に又芸術の本来あるべき姿で素直に表現し続けてきたのだと思います。
                  ◆
 当研究所の前身で川島テキスタイルスクール東京工房時代であったでしょうか、特別講義を小林正和さんにお願いしました。小林さんは住まいを京都市内から北桑田郡京北町に移されて間もない頃で、講座の終了後、東京の空を眺めながら「洛北では山々から静かにおりてくる霧の一つ一つが水滴として見えるのですよ!」と穏やかに話されたことが忘れられません。
 ご存知と思いますが、小林正和さんは京都市立芸術大学塗装科を卒業後、㈱川島織物デザイン室に勤務する傍ら作家活動を続けスイスのローザンヌで開かれる国際タペストリー・ビェンナレーには第6回展(1973)から第9回展(1979)迄連続出品するなど国内外で高く評価された日本を代表する作家の一人で、小林正和さんと言えば染織に関わる多くの人が「ああ!あの流れるように糸をたらした作品を創る作家さんですね」と、答えるように染織の世界の常識を覆す美しい作品を次々と発表してきました。当時タペストリーの多くは綴織の技法で制作されるのが一般的で織巾がほぼ作品巾であり、大きな作品を作るには自ずと大きな織機が必要でありましたが、会社勤めの小林さんにとって個人の作品作りは自宅での制作が主となります。もちろん若い夫婦が生活する場にゆとりがあるはずがなく、限られた環境の中でも創意工夫をして最大の効果を生む作品作りに取り組んだ結果「Windシリーズ」が生まれたと想像します。小さく織って、大きく見せる。制作途中では出来上がりの全体像を確認することが出来ませんが緻密な計算に基づいて織り上げ、仕上げをして、極端な話としては会場で展示して始めて最初のイメージとおりに制作出来たか否かを確認する間違いの許されない仕事だと思いました。
 1981年に私は居を東京に移すことになり小林さんとの接点も少なくなり、ほとんど作品との出会いになりました。同年、ギャラリー・ギャラリーの個展で発表した「Room Ⅱ」から使用する素材は主として身近にある藁や樹木を取り入れ、のびやかで心安らぐ作品を制作しているように見えました。小林さんはいかなる環境も前向きに受け入れ、そこからしか生まれない作品つくりをしてきましたが、彼が求めたのは自然の多様な営みの中に身を委ねての静かな生活と制作活動だと想像します。
 小林さんの仕事は今日の人々が失った大切なものを再び思い起させてくれます。
                  ◆
 便利な都市に人々が集中する傾向は日本だけでなく世界的問題で、人々の関心は金銭と物に偏り、世界中に降り注ぐ太陽の光や雨、風などの自然現象、そして動植物の営み、国籍や宗教を超えた人々の交流、等々は身近でありながら遠い存在になってきています。
自然はしっぺ返しに台風や地震等によって警告を与えていると思いますが、こういう時代こそアーティストからのメッセージに目や耳を傾け豊かに生きることが求められているのではないのでしょうか。
 三本の糸は今後新しく織られることはありませんが、織られた布(作品)を通して語りかけてくる裏糸の想いは永遠に受け継がれることを願うものです。


[お詫び]
 私事でありますが、本原稿を書いている途中に次男の交通事故の知らせを受け混乱した状態が続き、小林正和さんの掲載写真の依頼をする時間が失われ、写真の掲載が出来ませんでしたことをお詫び申し上げます。

橋本真之著「造形的自己変革」-素材・身体・造形思考 が刊行されました。

2016-07-08 13:18:51 | 三宅哲雄
橋本真之著「造形的自己変革」-素材・身体・造形思考 が刊行されました。

 このたび美術家の橋本真之氏の著作『造形的自己変革-素材・身体・造形思考』が、美学出版より刊行されました。
 『Art&Craft forum』で連載された「造形論のために」(加筆修正・改題:造形的自己変革)をはじめ、工芸と美術の境界を超えて造形の本質を探究してきた、橋本氏の造形論が本書にまとめられています。

ネット書店ほか、全国の書店で注文取り寄せが可能です。また版元の美学出版のHPからも直接購入ができます。
ぜひご一読ください。

三宅哲雄


『造形的自己変革 ─素材・身体・造形思考』
著 者:橋本真之
発行所:美学出版
    Tel.03-5937-5466/Fax.03-5937-5469
    URL: http://www.bigaku-shuppan.jp/
    E-mail: info@bigaku-shuppan.jp

「無為の風」 三宅哲雄

2016-06-01 09:38:45 | 三宅哲雄
◆桜井玲子個展-かすり99-

1999年10月1日発行のART&CRAFT FORUM 15号に掲載した記事を改めて下記します。

 無為の風                三宅哲雄

 六月は何故か展覧会に足を運ぶ機会が多かった。練馬美術館で開催された「和紙のかたち」展は、いつもの強引な企画と作品群に失望したが千疋屋ギャラリーで開催された「榛葉莟子展-転写-」「桜井玲子個展-かすり99-」そして、きもの美術館での「SHIFU(紙布)桜井貞子展」、横浜美術館「世界を編む展」は21世紀を見据えた展覧会であった。こうした展覧会が開催されることは昨今の方向性を見失った美術界にとって意味ある月であったように思う。

◆「転写」 榛葉莟子

◆「転写(部分)」 榛葉莟子
                   
榛葉莟子展-転写-

 車を駐車場に止め喧騒の銀座通りから階段を上り画廊に一歩足を踏み入れると、そこは別世界であった。壁には版画や小品のオブジェがかかり、会場の中央には錘に巻かれた大きな糸玉のようなオブジエがエアコンの風で静かに回っている。「なんと心地良い空間なのか」私は傍らの小椅子に腰掛け煙草を吸いながら何と二時間近く画廊に居座っていた。

 榛葉莟子は山梨県大泉村に住み作家活動を続けている。雪が積もることはあまりないが四季を肌身で感じることができるごくありふれた日本の田舎の佇まいを今でも残す地で自然の営みに溶けこんで生きている。雨が降り、風が吹き、暖かい日差しを感じるようになると草木の芽吹きにあふれ、鳥のさえずりや木の葉のざわめきを聞きながら紅葉を迎える。都会生活に慣れ親しんだ人々にとって忘れてしまった耽々としているが変化に富んだ自然に身を委ねることにより見え聞こえてくる世界を榛葉は「転写」として捉え作品に顕すのだ。その表現素材や手法は固定されたものでなく、紙や木など身の回りにある素材を用いながら絵画的あるいは彫刻的手法などで自由に制作している。

 作家に限らず日本社会で生きていくには誰もが理解する身分や職業、肩書きなどを暗黙の内に求められ、無職や自由業などの特殊な職業に従事していると社会的信用を得にくい。又、複数の職業を持つ人には不安を覚えるらしい。このような現象は一般社会だけでなく芸術家にも求められ、既存の核組みの範疇に入らなければ評価の対象にもならない状況が存在している。県展などに応募したが額縁に入っていないので受け付けてくれないという話も現実にあり、作品を作り発表するとなると作家もこの世界の枠組みを理解し、どの枠組みの中で制作していくのかを決め、その作風も大きく変化させずに継続して制作することが作家として生きていく条件であることを思い知らされる。美術大学の学科構成や公募展等で油絵、日本画、彫刻、工芸、デザイン等に分類されているが、これは日本だけの枠組みで世界共通でない。もちろん、世界共通の枠組みなど存在するはずがない。作家が何を感じ何を表現したいかでイメージが形成される、実用性を持つか鑑賞性に重点をおくか、そんなことはたいした問題でない、むしろ、作家にとってイメージを最大に表現できる素材や技法を永年の慣れや親しみだけに甘んじて制作するのでなく、例えば音楽や美術という枠組さえにもとらわれずに制作する姿勢が求められているのでないかと思う。

 榛葉莟子はそうした創作活動を続けている数少ない作家の一人である。

 画廊は作品が展示されていなければ、ただの箱。この空間に大泉村の空気と自然を榛葉莟子が転写して届けてくれた。この作品群は自然の中に身を委ねて感じる心地良さを超越し鑑賞者に穏やかな豊かさと安らぎを実感する場として存在させたのである。

◆「個展-かすり96-」 桜井玲子

◆「個展かすり-99-」 桜井玲子

桜井玲子個展-かすり99-

 何年前の個展であったか、同じ千疋屋ギャラリーの全壁面を完全にタペストリーで埋めた作品を桜井玲子は発表した。通常タペストリーの展示では壁面の余白を額縁的に利用して展示される手法が一般的であるが天井と床を除いて全壁面を埋めたタペストリー展は類がない。切り抜いた枠の中で表現する手法はタペストリーだけでなく一般的に絵画はほとんどこの手法で制作されている。鑑賞者の視点を制約し、作者の意図を伝えやすくすることで多くの作家はこの手法を選んでいるのだが、桜井は大きく自らの制作手法を変えることなく全壁面を作品で埋めることにより鑑賞者の視点を一点から解き放すことで鑑賞者を作品に対峙する関係から作品の一部に取り込む関係に生み出した。こうして、平面の作品は壁から離れ三次元の世界を創出する。桜井玲子は「かすり」の技法を用いて平面の織物作品を制作し続けているが枠組みに閉じこもる制作意図を持たず穏やかであるが広がりのある作品作りに挑戦している作家である。

 今回の個展は、その挑戦の姿を如実に表していた。会場の入口近くには近作を並べ、正面の作品とその左右の3点の作品は桜井玲子の生々しい制作姿勢を臆することなく素直に表現していた。桜井の作品は「縦かすり」で鮮やかな色合いを大胆に構成しているという定評があるが、今回は大胆さは維持しながら深みを感じさせる三様の作品で一点は鮮やかな地色の染色後に墨染を加えることで生々しさを打ち消す試みをし二点目は全体に地組織を織り込むことにより布の表情に深みをもたせている。三点目に私は注目したのだが前記二点のような作家の制作意図をほとんど放棄して、ただ思い入れだけで制作したことである。表立った計算をせず、自らに主眼を置かず、他者への思いを鮮明にすることで、余分な力を取り去り顕された作品はすがすがしい表情をみせてくれた。人が創作する限り作者の力の入れようが作品に反映することは間違いない。だが、経験を積んでくると手が勝手に動き一定の水準を満たす作品になるが、社会はこうした作品を作風として捉え、結果的に作家を拘束している。このような環境を心地良いと判断するか否かは作家が判断する問題なので外野がとやかく言うことではないが、鑑賞者の一人として経験を積んだ作家には多くを期待する。作家は多種多様であるので、勿論一律ではないのだが、願うことは無心で制作した作品との出会いを私は心待ちにしている。今回、桜井玲子個展でこのような作品に出会えたことは至福の喜びであった。
 
 きもの美術館で開催された「SHIFU(紙布)桜井貞子展」については当誌にて七海善久氏が触れるので詳細は譲るが菊池正気氏などの協力を得て失われようとしていた日本独自の紙文化を再興し和紙の可能性を再認識させた業績には敬意を表したい。こうした活動が多くの人々に感銘と勇気を与え、世界に類のない日本の紙文化の発展に大きく寄与するであろう。

 横浜美術館では「世界を編む展」が開館10周年記念企画展として開催された。経済のグローバル化や情報化が国境の壁を低くしたと言われているが美術の世界でも国家や文化圏ましてや油絵や日本画、彫刻、工芸等々などの枠組の中だけでは方向性は見えてこないという現状を打破する一つの試みとして画期的な展覧会であった。日本の美術ジャーナルを形成している人々によると美術と工芸を鑑賞性に特化しているか実用性を持っているかで区分し工芸は常に美術より低く位置付け、席を同じくすることはなかった。今回の展覧会の意味することは日本流でいうならばジャンルの異なる日米欧24名による作品が一同に会し相互刺激をすることと、研究者の鑑賞性を押し付けられることはなく一般の鑑賞者が「世界を編む」という切り口で企画された展覧会を鑑賞することができたことでないだろうか、残念なのは研究者の視野の狭さから的確な作家と作品を選んだとは思えず、作品の展示に十分な配慮がされていない、などの疑問点が残るが多様な問題を抱えている日本でこの展覧会が実現したことに賞賛をおくりたい。縦割りで一律の展覧会しか開催されない現実の中で、企画者の顔の見える多様な展覧会が生まれる契機になれば幸いだと思う。
 
 榛葉莟子と桜井玲子そして桜井貞子、「世界を編む展」の企画者である沼田英子を同一の尺度で語ることはできないが、僅か一ヶ月に同じ画廊と近隣の美術館でおのおのが「無為の風」を吹かせたことは間違いない。こうした作家は国内はもとより欧米においてもグローバルな視点を持ちながらも世の中の動きに翻弄されることもなく創作活動を続けているために表出することはあまりない。21世紀はインターネットや図書でのバーチャルな交流から展覧会などのリアルな交流迄もが国家、人種、宗教、等々の枠組みを超えて世界各地で日常的に多彩に催されると予想されるが、こうした時代こそ美術館学芸員の独自の切り口による企画が求められ、結果として優れた展覧会に結びつくことになるのであろう。世界の人々が豊かな生活を送る時が訪れるのか否かの一端を学芸員が握っていると言うのは無理な要求なのであろうか。

桜井玲子個展主旨
 私は、忘れられない思い出となって ふっと戻ってくるものには、なにかしら同じような匂いと色があると感じている。それらの情景や気配のなかには、静かに そして ゆっくりと動いているもの、移ろうものの途中の美しさとでもいえるような不思議な魅力が内在していると思っている。

 濃密な大気の中 ぽっかり浮かんで漂っているような風を感じて ゆらりと揺れるような 雨をもらって 流れて沈んでゆくような 光を浴びて 溶けてゆくような ほんの少しだけの ひんやかな変化のなか 止まることのないある時間 ある空間になんともいえない心地良さと懐かしさを感じるのである。この感覚をタペストリーに再現したいと思う。

 そのことは、風や雨や光や空気の中に、私の感じとれる色や形を みつけ出してゆくことでもある。私は常に、その とてもたよりない程の小さな感覚を大切に制作してきた。これからも 同じ心持で制作してゆくのだと思う。その過程で、つくったタペストリーをみてもらおうと思っている。                   桜井玲子