ART&CRAFT forum

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編む植物図鑑⑨『ラフィア、ミョウガ』 高宮紀子

2017-11-10 10:42:32 | 高宮紀子
◆写真2  草ビロード(クバ・ヴェルベット)

2008年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 50号に掲載した記事を改めて下記します。

編む植物図鑑⑨『ラフィア、ミョウガ』 高宮紀子

 ◆ラフィア:ヤシ科
 2008年の東京テキスタイル研究所のかごの夏期講習は素材を徹底研究してみようということでラフィアを取りあげました。輸入された素材でありながら園芸やラッピング用品として比較的簡単に手に入る素材です。そのままのベージュ色の他、いろいろな色に染めたものを売っています。以前は水に濡れたような光沢の防燃加工された柔らかいラフィアを見かけましたが、今は違う技術で処理しているのか、みかけなくなりました。

◆写真1

 写真1は造園会社が輸入したもので、硬い葉の端っこが少し残っていました。ラフィアはもともと接木の枝同士をぐるぐる巻いて繋げるために輸入されましたが、ラッピング用や織物、編み糸、刺繍糸にしてもいいということで、ラフィアを使った製品が作られるようになりました。日本にラフィアがいつ入ってきたのかはわかりませんが、大正時代から続く佐原市のイシイクラフトという会社で今も織物や刺繍製品が製造され、千葉県の指定伝統的工芸品になっています。
昔、ラフィアをまねた人工繊維の編み糸が販売されていて、私もバックを作ったことを覚えています。たくさん穴のあいたプラスチック板に刺繍のように通していく方法で作るのですが、その頃のものはいかにも人工といった感じでした。今ではペーパーラフィア(紙製)やラフィーという編み糸が売られています。どちらもラフィアのようです。

 さて、今度は本物の話、ラフィアというのはヤシ科です。ラフィアは属名で、20種類あります。その種は中央、南アメリカ、そしてマダガスカルに見られます。私が集めた資料には(疑わしいインターネット資料が含まれていますが)アフリカの他の地域にも生育しているようです。ラフィア属の中には葉の長さが20mに成長するのがあり、ヤシ科の中でも一番巨大な種と言われています。たいがいのヤシの木がそうであるように、葉、葉柄、実など全てが利用され、屋根材などの建築材、編み組み品、お酒や食料などを作ります。ラフィアの繊維をとるのはその中の数種。まだ開いていない若い葉のクチクラ層の薄い膜をとります。はがした時は透明で、日光に当てて乾燥するとクリーム色になるそうです。ややこしいのは東南アジアのBuriと呼ばれるCorypha属のヤシ。この木からも繊維がとれ、ラフィアと呼んでいます。

 日本では園芸用のラフィアの印象しかありませんが、同じ素材で作られたアフリカの民具が売られています。写真2は旧ザイールのクバ族が作ったテキスタイル、クバ・ヴェルベットと呼ばれるものです。これはラフィアで織られた地に細かく裂いたラフィアをパイル刺繍していったもの。全体を埋めるようにいろいろなパターンを刺繍しますが、この刺繍のパターンには意味があり、所有者の社会的な地位を表現していると言われています。以前に日本でも草ビロードと紹介され注目されました。もともと腰巻から発展したようですが、刺繍が施されたものはその技術の難しいものほど価値が高く、王座やベッドの上にかけられ、その権威を表したようです。

◆写真3

 写真3は織った地にラフィアの細かい房がついているもので、桑原せつ子氏が北欧のお土産として下さったもの。草ビロードと同じくラフィアで織った地に細いラフィアの束が付いていますが、刺繍と違って束を組織に通して絡めて留めています。ラフィアの房の微妙な色の違いが美しいものです。

◆写真4

 写真4はカメルーンのラフィアバッグです。細かく長方形に織ったものを二つにして側面を縫い、袋にしています。バッグの縁で端に残ったタテ材をしまつして、そのまま三つ編みの持ち手へと繋げています。このバックはシンプルなただの入れ物といったふうですが、同じバッグに特別な刺繍が施されたものがあることを知りました。写真5はその一つ。真ん中に房がどんとある、使いづらそうなバッグですが、この房は持つ人の格式を表しているようで、これらの特別なバッグについては研究者の井関和代氏が国立民族学博物館から出版されている『民族学』などで詳しく述べています。

◆写真5

◆写真6

 3日間の夏期講習(写真6)では、このようなラフィアをどのように扱えば、作品や製品になるだろうか、というテーマで実験と作品作りをしてもらいました。ラフィアにはどうしても民芸品のイメージがある、というUさんからの意見がありました。なるほど、世界の民芸品を売っている店に行くとたいがいラフィア製品があります。ですからどうしたら既存のイメージを打開できるかということも問題でした。
現代的なバスケタリーの作品でラフィアが主役の作品といえば、アメリカのエド ロスバックのラフィアを撚ったかごの形をした作品を思い出します。ラフィアで自立した立体ができることを知り感動しました。他には同じくアメリカのナンシー モアー ベスさんの小さなかごの作品に使われていたように思います。
京都の小西誠二さんはラフィアを使ったコイリングの作品を長い間ずっと作ってこられました。コイリングは芯材と巻き材の二種類を必要としますが、どれもラフィアで作っておられ、いつも作品キャプションにはラフィア100%とあります。最近、ついにマダガスカルにも足を運ばれたと聞きました。

◆写真7

私の場合、ラフィアといって唯一思い出すのは、写真7の作品の続編。写真の作品は籐を芯にしてとうもろこしの皮で巻いたのですが、次の作品をラフィアで作りました。でもその後続いていません。今度の夏期講習では自分のためにもラフィアに取り組みたかったのです。

 ラフィアは編み材として便利で、どんな編み方にも対応できますが、その自由な点が主役にしにくい、かえって抵抗のある素材の方が何かを発見するきっかけになるような気がします。何にでも使えるラフィアに対して“ラフィアでないとできない”ことを見つけるのは容易ではありませんが、ラフィアでこんなこともできる、という観点で探していくと、少しずつ道は開けるような気がします。一つの素材を改めて見直し、自分との関係を構築するのは作る上でもっとも楽しいことだと思います。講習では縄の発展したもの、既存の編み方をラフィアでトライしたものが並びました。

◆写真8

◆ミョウガ:ショウガ科
 今年の夏は亜熱帯なみの暑さが続きました。最近は涼しくなりましたが、私の庭のミョウガ(写真8)もそろそろ暑さにくたびれて、傾きかけています。先日繊維をとりました。この植物は、どこまでが繊維なのかはっきりしないのが特徴です。表面の皮を剥ぐと、ある程度の長さで剥げますが、どんどんたまねぎの皮のように剥けて最後は茎の真ん中が残ります。その真ん中も乾かすと丈夫な繊維の束になります。

◆写真9

今回は葉と茎の部分に分けて乾燥させました。そうすると二種類の性質のものが得られるからです。写真9は乾燥したもので、左の白いのが茎の繊維。右が葉です。茎の繊維は非常に細くても丈夫ですが、葉の方は耐久性がさほど無いものの、柔らかい縄になります。乾燥させた後、たいがいの場合は何か作ってしまいます。このまま素材のままで保存すると、どうしても虫の餌食になったり、葉先がもろくなってしまうからです。今年は縄にして『無人島ジュエリーシリーズ』を作っています。コンセプトは“超素朴”ですが、縄でできることや、その植物の繊維の性質をなるべく縄に残したいと思っています。

 アート&クラフトの『編む植物図鑑』のシリーズは2006年の10月から書き始めました。植物図鑑といえば、30年前に牧野富太郎著の植物図鑑を紹介され、その当時よく見ていました。今では既に分類や科、種名が違っているものがあるのですが、繊維植物の利用方法が少し載っていて重宝しました。
その頃から繊維植物の自分なりの図鑑がいつか作れたらと思い資料を集めてきました。織物の糸にする方法の資料はあるけれど、バスケタリーのように繊維の使い方が幅広い場合は、もっと個人的な体験に基づく知識が必要になってきます。研究所でかごのクラスを教えるようになって、どうしたら素材探しの面白さが伝わるだろうかと思い、見慣れた素材の加工方法を工夫したり、雑草などそれまで使われなかったものをかごの素材に用いるようにしました。また自分の創作活動で得られた植物に関する知識を、インターネットの自分のウエブサイト“かご・アイデアの器:バスケタリー”(http://www001.upp.so-net.ne.jp/basketry-idea/)の中の『かごの植物図鑑』で少しですが紹介しています。『かごの植物図鑑』ではそれぞれの植物に関する記事が独立しているのですが、それらの記事にエッセーを加えてつなげてみようと『編む植物図鑑』を書き始めました。読み物としての評価には自信がありませんが、これからもどこかで書き続けられたらと思っています。

「古代アンデスの染織と文化」-透ける織り布技法-アンデス独自のレース 上野 八重子

2017-11-08 11:27:51 | 上野八重子
◆紗と羅の複合組織に刺繍(小原豊雲記念館蔵)

2008年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 50号に掲載した記事を改めて下記します。


 「古代アンデスの染織と文化」-透ける織り布技法-アンデス独自のレース  上野 八重子

 前号までの4千㍍の地から今回は一気に下って、ペルー中部海岸チャンカイ川周辺に興ったチャンカイ文化(紀元約900年~1500年)をたどってみましょう。
地図上では首都リマがペルー海岸線のほぼ中央とすると、リマの上側に位置する場所にあたります。
インカの勢力が及んだにもかかわらず土器などは素人が見ても一目で判別出来る特徴を持つ程に独自の文化を保っていました。もちろん、染織品にも同じ事が言えるでしょう。
 リマ市内には日本人旅行者が立ち寄る天野博物館(天野芳太郎氏創設)があり、生前、天野氏が主としてチャンカイ文化の研究に没頭されていたという事もあり、多くのチャンカイ文化期の染織品、土器等が収蔵されています。ペルーに行かれたら寄ってみるとよいでしょう。 余談ですが、私にとってこの博物館はアンデス染織品との出会いと、人生180度転換の出発点となった場でもあります。

◆透ける布・刺繍レース(刺繍薄物)
 このチャンカイ文化期のみに製織されたものに「刺繍レース」と呼ばれる透け布があり、これはアンデスのみの特殊な織物と言われています。
通常、「レース」という響きから想像すると、鉤針やボビンを使ってのレース編を思い浮かべるかと思いますが、この「刺繍レース」とは、後世の人がただ単に「見た目がレース編に似てるから」と、名付けたのではないかと思います。
一部の説に「スペイン人の持っているレース編みを真似て作った…」と言われていますが、年代的に見るとスペイン侵略以前に既に作られていた事からしてチャンカイ独自の技法に違いないのでは…と思います。「真似ではないですよっ!」とアンデス人の名誉にかけて言いたい気持ちです。たしかにマンドリンを見てチャランゴを作ってしまった民族ですから疑われるのも仕方ないかな~とも思いますが…
 刺繍レースには大きく分けて次の4種類があり、それぞれ製織法も違ってきます。  
※羅基布に刺繍 ※紗基布に刺繍 ※紗と羅基布に刺繍 ※紗と羅もどき基布に刺繍

どれを見ても「手間暇かかる仕事だなぁ~」と思うのですが、これらは庶民の墓からも出土している事から考えると決して高貴な人だけが使っていたものではなく万民が平等に生活出来る社会が出来上がっていた事が察しられます。

 数ヶ月前、探検家・関野吉晴氏の講演会で入手した本の一節に「…旧大陸では墓を掘ってみると、王侯貴族の持ち物と庶民のものとでは雲泥の違いがある。 -中略- 技術的にも芸術的にも優れた文明は他にもある。それらの技術や芸術を皇帝や貴族だけでなく一般庶民つまり普通の人でさえも享受出来る社会を作り出したインカ帝国。普通の人である私は、そこに魅せられた。」(インカの末裔と暮らす・関野吉晴著より)とあります。 同感です。

◆写真1 羅基布に刺繍  (小原豊雲館藏)
◆写真2  羅基布に刺繍(部分)  小原豊雲館藏

◆ 羅基布に刺繍(写真1・2)
刺繍レースの中では一番簡単で自由に模様を描けるのではないでしょうか。まず、基布として羅(網捩り-3本羅)を織っておきます。使用糸は木綿S撚り単糸
次に織り上げた基布に太い刺繍糸(数本引き揃えたもの)で絵を描く様に線を入れていきます
特徴としては羅の輪郭に沿って刺繍していくのでラインが斜め方向に行く事になります。(図1)
使用糸は木綿甘撚りZ撚り単糸 を別糸で固定。

◆図 1

◆写真 3  紗基布に刺繍  (小原豊雲記念館藏)


◆写真 4  紗基布に刺繍(部分)  (小原豊雲記念館藏)

◆紗基布に刺繍(写真3・4)           
 こちらは一見、簡単そうに見えますが… しかし、きれいなマス目を形成するには難しくはないけれど相当な労力を要します。

※まず、紗で基布を織り上げマス目状になったところで(図2)
※捩られた経糸2本と交差する緯糸をもう1本の緯糸で結んで固定しながら次に進みます(図3)従って経緯糸4本が固定されるので、紗の組織だけでは動いてマス目がくずれてしまう欠点をこの「結ぶ」という一手間で補っているのです。中には紗を2回捩り、3回捩りをして基布としているものがありますが、それでも経緯糸4本の固定を施してマス目の崩れを防ぐ努力を惜しんでいません。こうした基布を作る事で刺繍もし易く、出来上がりも美しくなります。 使用糸は木綿S撚り単糸
◆図 2

◆図 3

※ 次に羅基布と同じように、織り上げた基布に太い刺繍糸で模様線を入れていきます。特徴としてはマス目に沿った縦横直線的な模様が多くなりますが、もちろん斜線も入り自由に描かれていきます。 使用糸は木綿甘撚りZ撚り単糸

◆写真 6 紗と羅の複合組織に刺繍(部分)  (小原豊雲記念館藏)

◆紗と羅基布に刺繍(写真5・6)
 これは刺繍レースといわれる中では一番難しいものかもしれません。
なぜなら、前者2種類は基布を紗なり羅で作っておいて後から刺繍を施す工程なので途中での模様変更、直しも可能でした。しかし、こちらは紗と羅の複合組織で模様を表している為、基布を織る段階で紗(地)と羅(模様)を織り分けていかなくてはなりません。その代わり、基布が出来上がれば模様も出来ている訳ですから刺繍は縁取りするだけで楽だったのかもしれません。
「紗(地)と羅(模様)の織り分けが大変そう!」と思うのは未熟な我が身が感じる事であって、実は織りにたけたチャンカイ人達は難なく織っていたのでしょう。 また、結ぶ工程もない事から意外と簡単だったのかもしれません。 これも又、基布は木綿S撚り単糸、 刺繍糸は木綿甘撚りZ撚り単糸です。

◆写真7  紗と羅もどき複合組織に刺繍 (小原豊雲記念館藏)

◆写真 8  紗と羅もどき複合組織に刺繍(部分)  (小原豊雲記念館藏)

◆紗と羅もどき基布に刺繍(写真7・8)
 紗を織るところまでは(図1)と同じですが、次の結ぶ工程でひと工夫…というか、賢い手抜きというか、これも手仕事から生まれた知恵なのでしょうか。ちょっと見には`紗と羅基布に刺繍´と見間違えそうです。効果としては同じなのですから…

※マス目状の紗織り布を2本目の緯糸で結びながら進む工程で、模様部分にあたる箇所では捩られた1組の経糸のうちの1本は、隣の組糸の1本と結び合わせる事により羅の様な網状の基布が構成されます。この操作は1段おきに行います。(図4)
◆図 4

※その後は刺繍で縁取りをして模様を浮き立たせ て完成です。
先程、手抜き…と言いましたが、よく考えてみると結びをする分、かなりの手間である事を思うと、`羅と羅もどき´ どちらが楽なのかなぁ~などと変に考え込んでしまいます。 どちらも織りの段階で模様を作っていくのですから、その点を同じとすると`紗と羅もどき´の方が労力大ってところでしょうか。
さて、この両者の技法はどちらが先に生まれたのでしょうか? それとも作者が違うのでしょうか?

 現在、私達が目に出来る布の殆どは埋葬品であり、それらは生前に使われていた物も多くあります。
故に模様はかなり歪み使い込んだ形跡があり、機から外した時の綺麗さは想像するしかありません。 今回紹介した刺繍レースのいずれもが、基布は木綿強撚S撚り単糸 、太い刺繍糸は木綿甘撚りZ撚り単糸(別糸で固定)を使い分け、撚りの違いで 刺繍を安定させているといわれています。糸の使い分けは長年の経験から得た知恵と思われますが、フッと「最初は~?」 と疑問が湧いてきました。 現代人に左利きがいるように、古代にもいたはず…スピンドルで紡ぐには右利きと左利きでは撚りの方向が左右されるはず…? 
何だか耳元で 「私の織りには、向かいの娘が紡いだ糸を使うと綺麗に仕上がるんだょ!」 なんて声が聞こえた様な気がします。   

『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの染料<Ⅱ>特別な赤(後編)- 富田和子

2017-11-05 10:06:00 | 富田和子
◆写真 1 絣括り後、藍と茜で染めた糸束

◆写真.2 絣括りを解いたばかりの糸束

2008年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 50号に掲載した記事を改めて下記します。

『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの染料<Ⅱ>特別な赤(後編)- 富田和子

 ◆正体は油
 経緯絣の伝統的な技法が継承されているバリ島の村で、驚くほど鮮やかに染まった下染めの正体は「油」だった。確かに実習の結果を見ても、油で下染めをした糸が最も濃く染まっていたが、「油+何か」が必要なはずだと思い込んでいた私にとってこの事実は驚きであった。では、なぜ油が良いのだろうか。いったい油はどんな役割を果たすのだろうか。資料を探しているうちに他の地域でも、木綿に赤色を染める時に油を用いる方法が昔から行われていることがわかった。

 トルコやギリシャの様々な地域で行われていたのは、西洋茜の根から採れるアリザリンを染着させ、トルコ赤(Turkey red)と呼ばれる色を出すために、まず石灰の入った酸敗したオリーブ油に浸し、次に硫酸アルミニウム溶液で処理し、最後に蒸気をあて媒染した木綿の布を、水に細かく懸濁させた染液で処理するとコロイド状の金属水酸化物が繊維に付着し、それが染料分子と結合して錯塩すなわちレーキを形成するという方法である。(*1)17世紀~18世紀にはトルコ赤で染めた糸は高価であるにも関わらず、ヨーロッパでは飛ぶように売れ、織物や刺繍や縫製作業のために欠くことのできないものになったという。しかし、「トルコ赤」の染色法にあるオリーブ油の果たす役割については、資料の中から見つけることはできなかった。

◆植物繊維の構造…セルロース分子が長く連なり、結晶部分と非結晶部分を適度におりまぜている(*3)

◆アリザリンの分子模型  C14H8O4

 当初、油を用いる下染めは赤を染めるためにこそ必要なのだと思っていたが、メキシコの貝紫染めで「牛脂石鹸」を下地に使ったという体験談を耳にした。木綿糸を貝紫で染める前にセボ・デ・バカ(牛脂)の石鹸でよく洗い、乾かして染めると良いと教わったことを精練の意味だと解釈し、糸を石鹸で洗いきれいに濯いだところ、その糸の染まり具合は良くなかった。実は…『貝の染液は糸に何の細工(処理)をしなくても紫色に染着発色はするが、濃いきれいな紫色に染めるにはセボ・デ・バカで洗った後、濯がずにそのまま糸を乾かして染めるという“秘訣”があったのである。彼等、染め人達にとっては、このことは公然の秘密、いや常識になっているのだろうが、ドンルイス村で最初に出会った染め人ビクトリオもセボ・デ・バカのことは一言もいわなかった。』(*2)という事である。糸に必要とされたものは石鹸ではなく、牛脂であり、貝紫の染色でも油は一役担っていることを知った。

 一般的に動物繊維の絹や羊毛に比べ植物繊維の木綿や麻は染まりにくい。絹は主にフィブロイン、羊毛は主にケラチンというアミノ酸から構成されるタンパク質でできている。タンパク質は各種の染料の物質と結合しやすく、染着性にすぐれている。また媒染剤の金属塩やその他の物質を吸収したり、反応する性質に富んでいる。一方、木綿はほとんど中性のセルロース分子から構成されていて、タンパク質のような性質を持っていない。さらに木綿繊維の構造上からも色素が繊維の内部まで浸透しにくいことが「苦労を伴う木綿の草木染めとなっている。 いかにして木綿に処理を施し、染料が染着されるような性質を持たせるか、古来より先人達は知恵を絞ってきたのだった。

◆実習の分析結果
 木綿の草木染めに油が有用であることはわかったが、なぜ油なのかという疑問は解決しなかった。そこで、長野県情報技術試験場・繊維科学部に実習結果の糸サンプルを送り、分析を依頼したところ、次のような見解をいただいた。

 クミリによる下地は油の酸敗によって生成した脂肪酸が染着を促しているのではないかと考え、糸に少量の水を付け、そのpHを調べたが、着色前、着色後ともに中性であり、促染効果があるほどのpHにはなっていないと判断した。また、着色された糸を40~400倍の顕微鏡で観察すると、染色されている、つまり、繊維に着色していると評価できるのはタンニン酸で下染めした糸だけであり、木の実で下地をした糸は、繊維にはほとんど色が着いておらず、繊維の表面あるいは隙間にある付着物(油脂等)に色が着いているにすぎない、また、油は木の実での下染めよりはなめらかに繊維を覆っており、一見染まっているようにも見えるが、まわりに滲み出してしまう。ただ、バリ島で着色された糸は付着物の粒子が小さく、実習でクミリ下地したものよりもかなり工夫されたものと思われる。また、通常、油汚れはリグロインまたはエタノールで溶かし出せるが、バリ島のものはほとんど溶け出さず、実習の油の糸は溶け出してしまうので、この点に於いても、かなり工夫を重ねた方法だと思われるということであった。

◆木綿染め研究グループで実習した、クルミ(胡桃)で下染めした糸をインド茜で染色

長野県情報技術試験場での顕微鏡による観察結果を映像で見たいと思い、今回この原稿を書くにあたって、撮影してみた。綿コーマ糸4/10を使用したので、まず4本合わせてある糸の撚りを戻して1本にした糸をさらに細い繊維一本ずつが見えるようにほぐした数本の繊維を顕微鏡で見たもの。
70倍顕微鏡 撮影:富田和子

繊維はその種類に関わらず、細長い形をしている繊維の分子が多数集まって、さらに細長い束をつくり、目に見える1本の繊維となっている。「糸が染色されている」と言えるのは化学的に結合をしているか、もしくはある程度以上の堅牢度を持つ状態であるという。指摘されたように実習した糸サンプルの撚りを戻し、細い繊維一本ずつが見えるようにほぐしてみると、確かにタンニン酸下地以外の糸は染まらずに残っている白さが目立っている。残念ながら実習結果は糸を染めたとは言えない状態であった。分析していただいた結果からもわかることは種実をそのまま潰して使うよりも、やはり油の方が適しているようである。しかし、油ならば良いというわけではない。エタノールで溶け出してしまう実習の下地のものと、溶け出すことのないバリ島のクミリ下地のものとの違いは何なのだろうか。油の成分、灰の成分、灰汁に使う雨水、灰汁の作り方、そして費やされる月日…。 全てが違っていたといえばそれまでだが、このバリ島の糸の「工夫されたもの」が一体何であるのか、謎はなかなか解き明かすことができなかった。

◆それから月日は流れ…
実は実習を行ったのは13年も前のことである。恥ずかしいことにその後の不勉強のため油の謎は未だにわからぬままである。 ただ、木綿染め研究グループで必死に染めた3年間の糸サンプルは今も貴重な資料となっている。赤を染めるための下染めの実習は糸を確実に染めるという点では不十分に終わったが、常識というものがくつがえされたことは実に興味深かった。糸を染める時には火に掛けて煮るのが当たり前だと思っていたが、木綿糸の場合は水温でも充分に染まることを実感した。 また、糸を染める前には精練をして染色のじゃまになる脂肪分やその他の不純物を取り除かなければならないと習い覚え、十数年その通りにしてきた私の頭には、未精練の糸にしかも油を付けて染めるなどということは、想像もつかないことだった。だが、それは繊維産業の発達した日本における機械生産のための常識であったことを改めて認識させられた。色素の染着しにくい木綿糸が堅牢に生き生きと染まりあがるために、その土地にふさわしい方法で「工夫」は必ず行われているのだった。

 5年ほど前から、イカットクラスの授業でも、木綿糸の下地にクミリを取り入れてみるようになった。その結果、以前行った木綿染め研究グループの実習方法では、用いた油の分量が多すぎたこと、また、糸を浸ける期間が短すぎたことに気付き、クミリの量は半分に減らし、浸ける期間は2~3日から1ヶ月へと変更した。油の分量が多いと、色が滲み出して周囲を汚し、ベトベトした感触で糸同士もくっついてしまい、織る時の開口が困難で、非常に扱いにくいものになってしまったが、油分が適量であれば、いつまでも油が滲み出てくることもなく、蝋引きした糸のように丈夫になり、かえって扱いやすくなる。また、クミリと灰汁を混ぜた液に漬け込んだ糸はしばらくすると、独特な臭いを発散するが、その臭いが強烈なほど染まり具合が良く、その時の気候はインドネシアのように暑い時期の方が適していることも、生徒達の体験からわかってきた。トルコ赤の染色には酸敗したオリーブ油が使われる。「酸敗」とは油脂が空気や水分との接触、光、熱、細菌などによって分解し、不快な臭いを生ずるとともに酸っぱくなることと辞書には書いてある。以前の研究グループで行ったよ・u桙、に2~3日では酸敗には至らないので、ここに謎を解く鍵の一端があるかもしれない。

◆もうひとつの重要な役割
 そしてもうひとつ、イカットの下地にクミリの油が使われる重要な役割に気付いた。
イカットの製作手順としては、木綿糸をまずクミリで下染めし、漬け込みと乾燥で約1ヶ月半、糸が充分乾いたら、整経し、糸束ごとに分け、重ね合わせ、絣括りをする。写真1はビニールテープで染まらずに白く残す部分を括り、 藍と茜で染めたあと、乾かして絣括りを解いたものである。クミリで下地をした糸は、染料をたっぷりと含み膨らむ一方、テープで防染した部分は、まるで蝋を塗ったようにクミリの油で覆われ固まっていて、テープの内側でしっかりと防染の役目を果たしている。 このクミリの効用は実際にイカットを製作して初めてわかったことである。渋いイカットに極彩色の色糸が使われたりするように、天然染料と化学染料が併用されたイカットは多くの地域で見られるが、なぜイカット部分だけは、変わらず天然染料で染められているのだろうか。昔から行われている絣括りの技法が糸染めまでを含めた工程の一貫として捉えられていることで、天然染料の使用がかろうじて保たれているとも考えられると以前書いたが、イカットの技法のうちで重要な絣括りにおいて、天然染料をよりよく染めると共に、括った部分の防染効果にもすぐれているとなれば、クミリは欠かすことのできない重要なアイテムであり、この関係性ゆえに、化学染料が発達し身近な染料となっている地域でも、未だにイカット部分は天然染料が使われているのではないかとも実感している。

◆未精練の木綿糸(約500倍) 

◆クミリの油で下染めした木綿糸 (約500倍)

 ◆ 今後の展望
この夏より新たに、当研究所三宅所長の紹介で、武蔵工業大学知識工学部自然科学科の吉田真史先生に実習結果の糸サンプルの分析を依頼している。先日、大学の化学実験室にお邪魔して、電子顕微鏡や分析装置などを拝見し、分析方法を説明していただいた。クミリの下染めについては、電子顕微鏡写真の撮影のみが行われたところであり、まだまだ、分析結果を報告するには至ないが、電子顕微鏡写真のデータをいただいてきた。撮影は未精練の木綿糸、クミリの油で下染めした木綿糸、未精練の木綿糸を染色したもの、クミリの油で下染めした木綿糸を染色したものに分け、約40倍~10,000倍の映像になっている。まだ始まったばかりの試みで、今後どのように展開していくかはわからないが、謎の正体を少しでも化学的に解き明かすことができればと思っている。 染めへのこだわりは人によって違うが、バリ島のトゥガナン村で作られる経緯・u槭Rの染色で、本当に良い色を染め出すためには数年間を費やすという。そんなw)風に染めた糸で織られた布は、油のおかげかどうか…まだ定かではないが、年月が経つほどに濃く、深く、すばらしい色になっている。村人たちは50年物、80年物といったグリンシンを誇らしげに、ひろげて見せてくれた。簡単に堅牢に染色するためには化学染料を使った方が便利なことは確かだが、天然染料から化学染料へと移り変わる中で、私たちが見捨ててきてしまった価値あるものも確かに存在するのである。インドネシアの染め方に習って始めた研究は楽しい謎がいっぱいで、自然と向き合って生きてきた人々の知恵に、今の私たちはまだまだ追いつけずにいる。

[引用文献]
(*1)「フィーザー有機化学(下)」  p.876 丸善(1971)
(*2)京田誠・星野利枝『月紫染紀行」 p.94~98 染織と生活第25号 染織と生活社(1979)
(*3)「原色現代科学大事典(9一化学)』p.191 学研(1968)
[参考文献]
(1)吉岡常雄 「天然染料の研究」 p.164 光村推古書院(1974)
(2)前川悦朗「天然染料の不思議を考える(上)」 染織αNo.184染織と生活社(1996)(3)高橋誠一郎「木綿の草木染-その特性と技法」 染織αNo.54染織と生活社(1985)

 研究報告の執筆にあたり、長野県情報技術試験場繊維科学部 堀川精一先生、 名古屋工業大学名誉教授 前川悦朗先生、武蔵工業大学博士 吉田真史先生には多くのご教示を頂き、心より御礼申し上げます。

「蟻の行列」  榛葉莟子

2017-11-03 09:55:13 | 榛葉莟子

2008年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 50号に掲載した記事を改めて下記します。

「蟻の行列」  榛葉莟子


 雨音に眼がさめる。あたりはまだ薄明のなか。三日目も雨で夜が明けた。雨雨雨、、、雨音を聞きながらうとうとした二度ねの朝の重たさ。それは、全身にまとわりつくようなぎゅっと詰まった湿り気の皮膜を剥がしたい感覚だ。カンカン照りが続いて今度は雨ふりが続いて極端なお天気模様に、けれども作付にはちょうど良かったよの声が聞こえてくる。乾ききっていた畑の土を雨は深く濡らし湿らせた。冬野菜の苗を植えつける時期がきたのだ。農業はオテントウサマ次第と顔見知りのベテランの老農婦はある日、予想外の空模様を見上げしわがれた声でさらりと言っていた。オテントウサマ次第、なぐさみにもにたそのせりふの落ちつきをふと思い出す。人間優先のあげくのはてのしっぺ返しを喰らっているいま、天然自然への畏敬の念なくしてそのせりふは出てこない。

 それから雨がやみ、この曇天のもやっとした乳白色に覆われた空から、漏れ出る太古の匂いを思わせるひかりの気配に、いつものことながら魅かれる。さんさんと照り輝くひかりの奥のずっとずっと奥底のしんとした静けさの気配は、たとえばあのなぐさみにもにた落ちついた老農婦のしわがれた声に重なると感じる。しわがれた音もそうだ。しわがれた風の音。とぎれとぎれの口笛のそこにも。破れた紙のギザギザのリズムにも、なにかの縁どりのすり減った角の輝きにもそれは在る。ある日、道路を横切る黒く細い線に出くわしたことがある。何だろうと眼を近ずけると蟻の行列だった。チリチリと繋がる黒い蟻の線は、まるで黒糸で縫っているたどたどしい縫目のようで、そこにもあの詩的ななぐさみにもにたおちつきの気配が漂っている。

 森の入り口の二メートルもない道巾を、いや蟻にとっては大変な距離だ。その両側の草薮から草薮に、何かの線をたどってでもいるかのように途切れることなく続く蟻の行列。なにかを運んでいる様子もなくただひたすら進んでいる。どこか探検に出かけるのだろうか。先頭の蟻はどんな蟻だろう。蟻はほとんど盲目に近く目の代わりは触覚だという。触覚はことばの代わりもしているんだよと、メーテルリンクの著書「蟻の生活」で教わったことがある。庭先の足下で動く蟻を見ていると、行き合った蟻どうしがなにかゴジョゴジョとはなしをしているのはよく目にする。あいさつだったり、かくにんだったり、じょうほうこうかんだったり、どう見ても無理でしょと声をかけたくなる大きな獲物を引き摺っている蟻が、助太刀を呼びに行き三びきで戻ってきたのをガリバー気分で眺め、微笑ましく感じるのは人間の高所からの視線だろうか。なにしろ蟻は人類以前から都市国家を開始したといわれている。大先輩といったらいいのか。だとしたらこれ以上古くない古さの時代のそこに、すでに蟻はいた話になる。時代という言葉すらなかったかもしれない。いま庭先でミミズの一片を運ぶのに大騒ぎしている蟻を眺めてはごくろうさんと言ってみようか。
 
 朝の空を見上げると西よりの方角にいる白い月と眼があった。昨夜は十三夜だったのですねとうっすらと欠けた月にあいさつする。というよりも、昨夜は十三夜だったんだと自分に言っている。すると、そういえばこの頃夜空を見上げていないなと連なる思いが沸いてくる。そしてなぜだっけ?とくる。花火の夜空を見上げる気にならなかったこの夏。相も変わらずすごすぎる爆発音の連続と、あの爆撃音の連続とトラウマのように重なるのは私だけだろうか。それにしても小さなひそやかな音を受信する内なる耳(心)の繊細な感性のひだの行方は情緒は健在だろうか。

 たとえば、驚きと脅し、古さと古くささ、再生と再現、コダワリとトラワレ…等々、似て非なる言葉を開いてみれば、どちらがどう創造的なのか閉鎖的なのかが見えてくる。漢字や平仮名の日本語の意味の気配を、受信する内なる繊細な感性のひだは使わなければ知らず知らずのうちに、鈍感になり退化につながっていくかもしれない。ずっとオヨビがなければ身体の中身の其処比処で、もういらないのですねと、私という意識が頼んだわけでもないのに自分の身体のなかの看守に判断されて、ONからOFFに切り替えられる。その逆もある。身体の中にいるのですよね。共生というのか共に自分を育てている厳しく目をひからせている看守が。

 そこだけぽーっと赤みがさして、手の先でチリチリと火花を咲かせる線香花火。それから火の雫は小さい球になってぽとっと落ちる。ああ、落ちちゃったと誰かが言う。そして次の一本に火をつける。そうしているうちに、もう土手のへりにはエノコロ草がゆらめきはじめている。

● 個展のお知らせ
榛葉莟子展
2008年10月16日(木)~25日(土)
AM 11:00~PM 7:00 (日曜休廊)
ARTSPACE・繭
東京都中央区京橋3-7-10
TEL 03-3561-8225

「私の制作ノート」  加藤祐子

2017-11-01 13:55:05 | 加藤祐子
◆写真 5「素材の記憶」(札幌資料館ギャラリー・札幌市) 1999年

◆写真1.「40×40cmの布達・行」
1995年 大同ギャラリー、札幌市

2008年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 50号に掲載した記事を改めて下記します。

「私の制作ノート」  加藤祐子
 ◆その1-2008年制作と展示に関する覚書(東京テキスタイル研究所の個展にむけて)

一月吉日
今年は十一月に東京テキスタイル研究所で個展が決定している。
同じ内容の展示を札幌でもしたいと思い、S社のエントランスホールの展示の申し込みをする。履歴といままでの作品の写真を添えて提出、ここでの展示は審査がありOKが出ると無料で個展が出来る。
○月○日
S社から残念ですの返事がある。審査会の意見を聞く、作品がバラエティに富み過ぎて何を展示したいかわからない。???私にだってこの時点で何を展示するかなんてわかりません。…要するに作品に魅力がないと言う事ですね。かなり落ち込む。
作家の在り方について考える。この作家はこの作風と決まることが大切なことなのでしょうか。例えばひとつテーマを追求するとか…飽きっぽい私には無理かな。
 繊維の可能性を追求する点では一貫しているつもりなのですが。京都の川島テキスタイルスクールから帰って早29年、飽きっぽい私が織り一筋にやってこれたのは、素材の多さとそれぞれの味の違い、テクニックの広がりと深さ、それらを組み合わせる事でのバリェーションの多さ、表現の可能性はつきる事がなく飽きている間がありません。ブツブツ…言ってもしかたありません。
○月○日
札幌大通り美術館でグループ展「北の暮らしアート&クラフト」搬入、販売可作品を売るのは非常に難しい。
 そう言えば今年は、札幌JRタワーの仕事はこないらしい。テーマを与えられて作品を創る、結構好きな仕事だったのに。昨年は「コロコロアートコレクション」キャリーバックを作品にした。一昨年は「ワンダフルアートパレード」ラブラドール(犬)だった。こんな作品を喜んで作っているから、バラエティに富みすぎると言われるのかな。おっと、またぐちってしまった。
○月○日
大阪の公募展の作品「皮膜2」織り上がり。この作品は東テキの個展のテーマ皮膜の二作目、タオルの耳(タオル工場の廃物)を使った作品。この素材は昨年のエスキスの個展で試作を始めた。
○月○日
I氏から電話あり作品の写真を借りたいとの事。もしかして、作品の依頼か?
○月○日
公募展の作品「皮膜2」Y君のスタジオにて写真撮影。
九州のS氏から「アジアファイバーアート展」出品依頼、参加の返事をする。
○月○日
I氏から作品の依頼、2005年の個展の作品「幟龍3」の展開で新たに作る事になる。この作品はコンビニの幟を使った作品。
○月○日
I・T・C(ジャパン・テキスタイル・カウンシル)の打ち合わせ。
「テキスタイルの未来形」9月21日~28日札幌芸術の森美術館で開催決定。
○月○日
大阪の公募展「織り・表現としての手仕事」に作品発送。
マリヤクラフトギャラリー(札幌市)「KTS・HOKAIDO染織展」搬入。この展示会は故木下猛元KTS理事長の提案によってスタートした会で、隔年開催で今年10回目になりました。
○月○日
「幟龍6」試作完成。I氏と打ち合わせ全体の完成図決定。
「皮膜3」試作始める。モヘアと紙糸を使う。
○月○日
「皮膜3」半分完成。アジアファイバーアート展のデーターの為、Y君のスタジオで写真撮影。
札幌芸術の森工芸館「サッポロクラフト2008」搬入。
○月○日
I氏からの注文作「幟龍6」完成。8月末日搬入予定。
○月○日
「皮膜3」完成。「アジアファイバーアート展」9月3日搬入予定。
「幟龍6」搬入。
8月末日
東京テキスタイル研究所発行「ART&CRAFT」の原稿完成予定。

◆その2-私の制作ノート
その1を書き、二つの文章(注)を読み返してみて、さまざまな出会いに無我夢中のまま、何かに追われるようにドタバタと創り続けてきたと感じています。
「暗中模索の宿命的チャレンジャー」(Art&CraftForum創刊号竹田恵子氏の文中)この台詞が好きで、このように在りたいと思いながらやってきました。今だ自身の言葉で素材論も創作論を持つことも出来ず、探究するべき真理も見えず、の私です。
●1991年1回目の個展「40×40cmの布達」(INAXスペース・札幌市)今だにこの仕事を超える仕事をしていないと思っています。布の特性を捕まえた形態、簡便な展示、集積する布が見せる部分と全体は近づいて良し離れて良し、緊張感のある空間、自分で言うのもなんですがいい仕事でした。この後だんだん良くなるなら大した作家だったのですがそうはいきません。
●1993年「表裏」(アートギャラリーさいとう・札幌市)

◆写真3.「40×40cmの布達・表裏」 1993年 アートギャラリーさいとう、札幌市

●1995年「行」(大同ギャラリー・札幌市)は、40×40cmの布にこだわりました。それなりに楽しんで制作できましたが一回目の仕事と比べてしまい、満足できませんでした。この後グループ展に40×40cmの布をボンドで皺に固める仕事もしてみましたが、布の特性が無くなり難しい仕事でした。
●1997年「対」(時計台ギャラリー・札幌市)40×40cmの布に行き詰って新しい素材に頼りました。いくら様々な思いを語っても、会場には表現の甘さばかりが目につき出来はいまいちでした。

◆写真4.「対」 1997年 時計台ギャラリー、札幌市

●1999年「素材と記憶」(札幌資料館ギャラリー・札幌市)ますます素材にこだわりました。この時の素材は新聞紙とコーヒーの豆袋で、ボンドで固める仕事とタペストリーらしい織りの仕事をしました。この展示でタペストリーの力強さをあらためて知りました。技術と仕事の量が持つ力にも気づきました。単位面積当たりの仕事量は説得力があり、同時に素材の良さも引き出す事ができました。この事に気づいたおかげて織ることを大切にしていこうと思うことが出来ました。
●2002年「痕跡」(札幌資料館ギャラリー・札幌市)新しく出会った素材は、トレシングペーパーでした。半透明のその紙は墨をのせると光を遮断する、光と墨の痕跡を残したいと思いました。また、下仕事の為の墨絵が面白くて、その絵を再現した綴れ織作品も織りました。会場中央の人型のオブジェは余計であったかもしれませんが、その為に織った布が美しく、石膏で取った自分の手形も展示してみたい自分が居てまとまりのなさを感じつつも置いてしまいました。

◆写真6.「痕跡」 2002年 札幌資料館ギャラリー、札幌市

●2004年「札幌の美術2004-20人の試み展」(札幌市民ギャラリー・札幌市)に選ばれました。一人に与えられたスペースは個展会場なみの広さでした。この時の素材の出会いは、コンビニの店舗前に在るコマーシャル用の幟と、かって薬が包まれていた薬包紙です。「幟龍1」(のぼりりゅう)と「薬包虫」(やくほうちゅう)を制作しました。二作とも本当によく織りました。他に水槽に染液を入れてその中に幟で作ったぼんぼりを入れた「水中花」も出品、これも余計かと思いながらも置きたい自分がいます。アイディアが沸くと創ってみたくなり、創ると展示したくなるガサツな自分がいます。余計と思いながらも「水中花」は好きな作品です。水中花の仕事は北海道近代美術館のワークショップに取り上げられて子供達といっしょに沢山作って池に沈めました。この講座のおかげで幟が数多く入手出来ました。それまでは幟集めに苦労していました。

◆写真7.「幟龍1」2004年 札幌の美術2004-20人の試み展- 札幌市民ギャラリー、札幌市

●「薬包虫」は2005年のグループ展「包むもの・包まれるもの」(北広島芸術文化ホール・北広島市)に構成を変え更に別な部分を加えて「薬包虫2」として出品しました。緊張感のある良い作品になりました。
 何故か個展の時はあれもこれもと創りたくなり、余計と思いながら展示してしまうガサツな性格が出てしまいます。それにくらべてグループ展の時は、すっきりと勝負したくなるのが不思議です。

◆写真8.「薬包虫、2」2005年 包むもの・包まれるもの-
 北広島芸術文化センター、北広島市

●2005年「Fiber展」(コンチネンタルギャラリー・札幌市)「幟龍2・3・4」と「水中花2」を発表しました。「幟龍3」は半立体的にしたのですが、なかなか面白い試みでした。この作品はU氏との二人展(ギャラリーDEN・大阪市)に別な構成で展示しました。二人展は個展ともグループ展とも違う新しい経験でした。自分以外の作り手の思いを覗き見した感じで良い刺激になりました。
●2007年「エスキスdeエスキス」(カフェエスキス・札幌市)始めて喫茶店で個展、エスキス(試作)のための小作品を展示しました。観客の層が今までと違い反応もさまざま聞けて面白かったです。「皮膜」の試作に手応えを感じました。次の個展のテーマにしたいと思いました。
●2008年「皮膜」(東京テキスタイル研究所・東京都)予定です。はてさて、どうなることやら見てのお楽しみ。
 以上個展の仕事を中心にいままでの仕事で感じたことを思うままに書いてみました。あまりに様々な作品創りは、アイディアの放出に成りかねない危うさを持っています。
 創り続けていればいつかは存在の意味が現れてくるかと、何か真理が理解出来るのかと、おこがましくも思っていたのですが、そんな事は今の所起こりそうにありません。とは言え、制作は私に生きる力を与えてくれ、私を育ててくれていると思っています。多くの出会いの一つ一つを大切にして、今後も織物を続けていきたいと思います。
 最後に1999年発行 美と創作シリーズ「織を学ぶ」(角川書店)の中にある故礒邊晴美先生の文<共通言語としてのテキスタイル>の最後のことばを紹介させていただきたいと思います。

-テキスタイルによるメッセージ-
 有史以来、人の営みのある所には必ずといえるほど、織物が存在し、それらを通して各地の文化を学んだり、その織物を作り出した生活背景や風土、人々の考え方などに想いを馳せるのも興味のつきないことである。テキスタイルが常に人間の皮膚に最も近いところにあって、生活のあらゆる面で広く取り入れられていることにより、人には豊かな素材体験がある。それは共通言語のようにテキスタイルによる表現やイメージを親しみのある媒体として受け入れ、共有するものをみつけやすくしているのではないだろうか。

(注)※1997年ART&CRAFT7号 クロスロード 北から南から
   ※2003年染織&266号 手に触れた素材から生まれるファイバーアート