ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「気紛れな布達」銅谷春海

2016-04-25 09:38:22 | 銅谷春海
◆「WHITE WIND」 1992年
750×300cm
ポリエステル・ラメ糸
写真:横田  潔

1997年10月25日発行のART&CRAFT FORUM 9号に掲載した記事を改めて下記します。

 布
 織物を始めてから、ずーっと“布”にこだわって仕事をして来ています。

“布”は私の作品で大切な要素となっております。“布”はイメージを表現するための言葉であり“織”はイメージを表現する為の手段と(布) 捉えています。

風・音・空気それから感じる“気”の緊張感。体中から沸き上がるような感情。ふと心をよぎるような一瞬の感覚を“布”に表現してもらっています。

“今、自分がここに在る”から始まる

 閉じ込められた空間(ギャラリー等)に在って“布”は作者である“私”の意志に従って横たわり、壁を這い上がり、影と化したり……。
 
 自然の中においては風を孕み、美しい踊りを踊って見せてくれます。
 
 風という偶然の力を借りることで期待した以上の緊張感を作り出してくれました。この場合、“布”に求める事は“布”と“風”との会話。“布”に自由に話をさせてあげる事。それをキャッチしてあげるのが作者の仕事と認識しています。

 これからも“布”と、語り合いながら新たな空間を表現して行きたいと思っています。1998年4月に、写真と布の二人展を、予定しています。その中で“映像”と“布”そして “舞踏”というエネルギーを、一つの空間に置いてみる。お互いの経験と感覚が重なり合い、新しく一つの作品を造り上げていく、という実験的な試みを考えております。どのようなものが生まれるのか、楽しみです。

◆「ONE DAY」 1992年
230×300cm
麻/石
写真:横田 潔

◆「-布-」  1991年
200×240cm
木綿

気紛れな布達
 この数年“気まぐれな布達”と題して布を織っています。

 この作業はとっても楽しい。大らかな気分で、思いつくことをいろいろと試してみる。経糸と緯糸の関係も、諸々の関係も、無視。太い糸や細い糸、布も、ウールも、麻や絹。思いつくものいろいろ交ぜ込みます。

 取り澄ました布よりも、凸凹していたり厚い所や薄い所がある布。ねじれたり、大きな穴が空いている布の方が、可愛いくて、楽しくておもしろい。そんな布を色々イメージします。スケッチに添って糸や素材に多少、手を加えてあげる事で、取り澄ました布が、見事に豊かな表情を見せてくれます。強撚糸、フェルト、絞り、等々。これらの作業は時間と労力が必要ですが出来上がる布を考えると、欠かせない事なので、ガマン。

 この大らかな気持ちと、多少のガマンで出来上がった布は間々、最初のイメージから掛け離れた物体となることがあります。

 “気紛れな布達”なので仕方がない。と、これまた大らかな気持ちで、次の作品に取り掛かります。

 この“気紛れな布達”は、私の大切なスケッチブックです。
◆「気紛れな布達」  1996年
70×230cm
写真:塩野谷  みちる


「編、組のウェアー」水谷悦子

2016-04-20 12:36:40 | 水谷悦子
◆「ジャケット」 1996年制作
棒針編
刺繍部分:ルーピング

◆「コート」 1996年制作
棒針編

◆「ベスト」  1996年制作
二重組織のブレーディング
ボリビアのファイビルーブブレード

◆「ベスト」  1997年制作
ブレーディング
棒針編
アンデスの組紐

1997年10月25日発行のART&CRAFT FORUM 9号に掲載した記事を改めて下記します。

 水戸は人口25万人弱の静かな地方都市です。黄門様で有名になってしまいましたが、徳川光囲以来、伝統的に向学心を持ち、文化に造詣の深い土地柄であると言われています。「スーパーひたち」に乗り、あるいは、常磐高速で車をとばし、2時間もあれば都心に行き着いてしまうという地理的条件にも恵まれ、人々は貪欲に東京から多くの情報を吸収しようとします。又、その反面、水戸芸術館のように他に追随することなく独自の理念で運営してゆくことも大切にしています。
 
 私は生まれ育った街水戸で、編むということを生業としています。自由に創作できる場をという願いで「生成り工房」という名のニット教室を開設し、編むことを教え始めてやっと10年。個展、グループ展という形で私個人の作品を発表してまだ三回目です。

 生成り工房は、時間も、課題も、制約を一切していません。生徒さん達は、こういう作品を創りたいという目的を持って通ってきます。私のしていることは、目的をより正確にするために、資料を集め、提示すること、デザインをするための方法や方向性を示すことです。はっきりとした目的のある作品に対しては、制作するにあたって一番良いと考える技法の伝達をしています。カリキュラムを自分で設定して制作をしている方もいますし、工房で制作をしている時間をじっくりと編むことを楽しむための至福のときとしている方もいます。

 毎年、秋に、会場を借りて生徒さんの作品展を催してきました。一年間の自信作を出展するわけですが、「作品をどんどん触っていただきましょう」と提案してきました。これは、触感、風合も作品を構成する重要な要素であると考えるからです。なかには、未完成の編地のままで展示をすることもあります。もちろん、それは、皆で展示に値する力作であると判断した作品に限りますが ……。デザインソースとなった資料や、びっしりとメモの書き込まれた編図を添えて、経過も楽しんでみていただこうと試みています。

 今年は、会場を借りずに、生成り工房の壁面を「ミニギャラリー」として開放して、個人が自主的に作品を展示し、メッセージを発信しています。どなたにでもみていただけるような形で一年間続けてゆきます。その間、ディスカッションを重ね、次回の催しを企画してゆこうと計画してします。

 私個人の作品は、ずっとウェアーにこだわって制作をしてきました。なぜかというと、ウェアーは、人が介在することによってはじめて成り立つと考えるからです。人がそれを着用し、自由に動き回るなかで、からだの線の美しさを感じることがあります。人の動きには、それぞれの生き方が自ずと現れてきます。同じ作品を身に纏っても、それぞれの生き方で、違った味わいになるのを感じます。人に着てもらうことで、頭の中だけで考えていた効果が、まったく意味をなしていないのに気付き、打ちのめされたり、予想もしなかった自然な効果に心踊らされたり……。そんなことが、次の制作の原動力となってゆきます。

 ここのところ、制作するにあたって、いわゆる、「セーターを編む、カーディガンを編む」という類いの、形が先行するものではなく、「身に纏うもの、からだを包むものとしての布を編み、その結果として形が創られてゆく」という概念に捕らわれています。そう考えると、ニットという技法にこだわり続けることもないのだという気がしてきます。もちろん、ニットには無限の可能性があり、まだまだ勉強不足を痛感しておりますが……。昨年から、東京テキスタイル研究所で、「アンデス・ナスカの染織を研究するクラス」に所属して勉強していますが、古代アンデスの作品群に魅せられています。幾つもの技法を組み合わせて布を創ってしまうという、自由な感性に驚かされました。そのなかで、ブレーディング、組紐など、道具を一切使わない技法に興味を持ちました。これらの技法は、世界各地で自然発生的に行われていることを知り、興味が大きく広がってゆきます。これらの技法とニットを組み合わせてウェアーを制作してゆこうと密かに企んでいるのです。


「子供造形教室の6ヶ月」 亀ケ谷友見子

2016-04-14 15:00:30 | 亀ケ谷友見子
1997年10月25日発行のART&CRAFT FORUM 9号に掲載した記事を改めて下記します。

 私は子供が好きだ。子供たちの前向きな生命力が、落ちこんだ時、疲れた時、私に元気を与えてくれる。何かを作るという行為は、心を満たす作用をもたらしてくれる。私は、再生紙の作品を作っているが、そのことに気づくまでに時間がかかってしまった。けれど子供たちは、意識せずに、そういう作用を知っているような気がする。のびのびした線、自由な想像力、あるいはそうでない時、子供の作品は、その時の心の中そのものを表わしている。私はそんな無意識な表現に魅力を感じていて、子供に関わる仕事をやめられずにいる。大人になってしまった今、子供のように無意識に何かを作っていた頃に戻りたいと思っているのかもしれない。自然に慣じむ速さ、びっくりする程の吸収力、無限に広がる想像力、子供から学ぶことはまだまだたくさんある。その透き通った瞳は私が忘れてしまったことを思い出させてくれる。その代わりに私は子供たちに何ができるだろう。つくることの楽しさ、作品を鑑賞するおもしろさ、未来を夢みること……けれど子供は無意識の状態で、もうそんなことは知っているにちがいない。
 
 今年の四月より、東京テキスタイル研究所の新クラスとして、日曜美術倶楽部・子供造形教室に関わることになった。普段は、授業やギャラリーとして使われているスペースヘ第一、第三日曜日に子供たちがやってくる。子供にとって、この大人びた部屋に一人で入るには少し恥ずかしかった四月に比べると、半年経った今はなんと楽しげに張り切って入ってくることだろう。ここへ来る子供たち一人一人の中で、造形をとおした何かが生まれ、芽生え始めているように思える。
 
 一人ずつ絵を描くだけでなく、大きな布に体じゅうを絵の具だらけにして描くアクションペインティングや、電車に乗って展覧会を見に行くというような授業をしてきたが、八月の授業として、野焼きでやきものを作る為二泊三日の合宿に行ってきた。十数年前に廃校になった小学校の分校にテントをたて、電気やガスをほとんど使わない生活を体験した。この教室に来ている子は「都会の子」でいろんなことを知っていて、ゲームやTVの事で頭はいっぱいになっている。頭の中だけでなく、もっと手や体を使ってそのギャップを感じて欲しい。初めて親元を離れる子、整った施設やホテルにしか泊った事のない子ばかりで、私も引率するにあたって緊張した。

 茨城県西茨城郡、岩間駅から分校まで、大きな荷物を背中にしょって田んぼ道を一時間弱歩いた。途中で夕飯の材料を買い(電車の中で、カレーと決まった)何度も休みながらやっと到着。まずテントを立て野菜を切る女の子、かまどの火を準備する男の子、お風呂は、グランドの端にある五衛門風呂に、長い長いホースで水を溜め、薪で焚く。火を焚くのは難しい。うちわと煙との格闘だ。入る間際まで、「オレたち入らなくていい…」と言っていた男の子も、入ったら楽しそうな声が聞こえてきた。テントで眠れずに、グランドで星空も眺めた。次の日の朝から野焼きの準備をした。自分の手足でこねた粘土で作った作品を焼き上げるのだ。野焼きはやきものを焼く手段の中で、窯の中で焼く時とは違い、出き上がるまで自分の目で見る事ができるのでおもしろい。まず地面を空焚きし乾燥させる。そこに作品を置き、煤が付くまで2~3時間ぐらいじわじわと周りで火を焚いていく。急激に温度を上げると割れてしまう。最後の攻めは、材木をどんどん燃やして、大きな炎で作品を包みこむ。分校の屋根に届くぐらいの高さまで炎は燃え上がる。そうなると、火に近づく為に長そで、長ズホン、帽子、サングラス、口にタオルで、薪を火の中に投げ込む。肌を少しでも出していると、そこが熱くて火のそばには居られない。材木を火の近くまで運ぶ子、その材木を火に投げ入れる子。暑い日に汗を流して大きな火を焚く野焼きは、なぜだかとても楽しい。日常生活では味わえない肉体労働が、野焼きを終えた後に一種の感動を起こさせてくれる。消えゆく炎を見つめながら話したり、残り火でおイモを焼いて食べた。重い材木を運ぶ子、大きな火に近づくこと、きっと初めてのことだろう。

 食事を作る為、お風呂を沸かす為に火をおこす事、使った食器を洗う事に慣れてきた頃に帰る日は来た。分校を出発し、駅へ向かう皆の足どりは驚く程軽かった。やきものや、作品が入ってより重い筈の荷物も、ぜんぜん平気な顔だ。どんどん歩く子供たちの背中は短い間にちょっぴり成長している様に見えた。私はなんだかうれしくなった。東京へ戻ったら、教室はまた楽しくなるに違いない。今までどこか、ぎこちなかった子供同士も、たった三日間で、うんと仲良くなっていた。今回の合宿では、生活することとモノを作ることとが、ごく自然に結びついていたように感じられた。

「造形技術としての『鍛金』の周辺」 関井一夫・田中千絵

2016-04-10 09:57:22 | 関井一夫・田中千絵
1997年10月25日発行のART&CRAFT FORUM 9号に掲載した記事を改めて下記します。

造形技術としての『鍛金』の周辺
その1 東京美術学校・明治から昭和   
関井一夫・田中千絵

はじめに

 この研究は、作り手である鍛金家として、自らの制作の根源である『鍛金』の歴史的系譜を調査しようと試みたものである。
 『鍛金』という一般的に耳慣れない工芸ジャンルは、近年少数の作家達によりマスメディアの中に活字・映像というかたちで現れ出してきた。しかしその認識はいまだマイノリティーの域を脱するものではない。我々が知る限り、我が国の「打ち物技術」は世界に誇り得る現存する技術であるにも関わらずである。
 我々は母校である東京芸術大学に於いて初めて鍛金という造形技法にふれたが、東京芸術大学の前進である東京美術学校が、我が国に於ける鍛金「打ち物」技術の伝承・保存・展開に大きく関わってきた(もしくは東京美術学校なくしては我が国の鍛金技術や現在の鍛金家の存在さえも危ぶまれた)事実を知ることになった。
 今回は、我々の共同研究調査及び、美術教育研究会第二回研究大会(平成8年11月2日)に於いての田中千絵による口述発表『大学に於ける技術と造形の教育及びその周辺-鍛金という技術をめぐって-』を基に、追加研究し文章化したものである。
平成9年9月30日

 なを以下の研究調査は東京芸術大学名誉教授である鍛金家・三井安蘇夫氏在学中(昭和27年~53年)の事項に関しては、去る1996年7月30日、三井安蘇夫氏宅にて行われたインタビューの内容に基づくものである。

 日本の誇れる技である『打ち物』は、昔奈良時代以前は銅師(あかがねし)と呼ばれる人々の仕事であった。その術に工芸技法の分類に於ける『鍛金[*1]』という名称が与えられたのはかなり最近であるらしく、明治以降とも言われている。そこで鍛金技術の歴史的検証を目的に、明治期及び戦中戦後の鍛金技法の実態とその土壌の調査を進めるにつれ、東京芸術大学という教育機関がこの技法の発展及び造形技術としての展開に多大な影響を及ぼした事が明らかになってくる。

 先ず明治維新後の金工全体の流れを見てみたい。銅器・青銅器とも海外輸出品の一つとなり、京都・大阪・東京・富山・新潟・石川などで盛んに産出されていた。特に打ち物に関しては、大阪に前代より住友の製錬所があり銅板・銅製品が産出されていたが、維新後は一層生産が盛んになる。しかし美術品の産地となると京都・東京・金沢が中心で、京都では装刀工(刀の装飾に携わる工人)を集め銅製篭式のような物が生産・海外に輸出されていた。また東京に於いては様々な金工家が腕を競っており、彫金の象嵌の技にたけた加納夏雄や海野勝民などは後にその腕を買われ東京美術学校の彫金科の指導者となる。銅器としては埼玉県松山の岡野東龍斎の弟子の鈴木長吉(パリ万博に孔雀雌雄を出品)が名を成していた。しかし、どちらにせよ東京の金工が発展したのは、起立商工会の力と東京金工会・鎚工研究会なるものの起こりに頼るところが大きい。金沢は加賀象嵌と称する装剣具や鎧などを創る職人が元来多く、維新後も名工と呼ばれた人たちに、水野源六・山川孝次などがいる。彼等を中心に金沢銅器会社が起こり仏国・米国などに輸出し隆盛をきわめたが、明治16年輸出を担当していた人物が事業を中止(理由不明)。これを機に衰退。金沢市内で日用品を創るほどになってしまう。また大聖寺と言う所には、山田長三郎という面頬師(兜の顎・頬を覆う部分を鉄を素材として打ち・絞り出す)の家柄末期の職人がおり、鉄で頬当などを創る流れの仕事をする者で、花瓶や香炉などを創る以外に動物や鳥を鉄またそれ以外の金属を用いて創ることを得意としていたが若干46歳にて他界。後継者については存在するようだが特に取り上げて技術を伝承・発展させたという事実は見当たらない。その他、高岡では輸出品の生産が盛んで長く続き、また国内向けには開義平・民野照親などが精巧な品を産出。以来高岡は銅器鋳物に於ける一大産地となっている。また、新潟燕町(市)では文政12、3年頃から玉川覚治郎(玉川堂と呼ぶ)が京都で修業した後、厨房用の割烹具打ち物の製造販売を始め、二代目に至っては銅器・銀器で茶具やその他の装飾具・文房具類を生産。同業者もこれに習い地場産業として流行り、維新の波に一時期衰退はしたものの盛運をきわめる。しかし明治18・9年に衰賓に傾き21年頃には少々回復したが、玉川堂(玉川覚治郎)は昭和の初め横浜に移住したと金子清次の著書『日本金工史沿革[*2]』に記している。現在も燕市にはその流れの玉川堂があり日本各地に銅・銀等の打ち物(やかん・茶托など)を送りだしている。
 さて、そのような時代に(明治20年)東京美術学校・美術工芸科(金工・漆)が創設されるのだが、フェノロサや岡倉天心は当時「日本では古来、美術と工芸とは一体のものとして発展してきたのであるから、西洋のように美術と工芸に優劣を付けて区別することはせず、自国の良き伝統を生かして将来も両者を総合的に発展させるべきである。[*3]」と考えていた。
 明治28年に鍛金科を開設するにあたって、天心は鉄の仕事も銅の仕事も取り入れ日本の誇る刀剣技術と打ち物(あかがね)師の技術の伝承を目的とし指導する方向であった。どちらかというと(かなりの比重で)刀剣類を美術学校内で打たせることを目的としていた。これは先の日清戦争後の刀剣類に対する再評価の機運に乗じたものとする見方があった事が当時の新聞(明治28年6月3日報知新聞)から考察される。しかし、明治4年に既に廃刀令が出ていることもあり、時代錯誤であるという周囲の意見などにより実現せず。鍛金科の指導者としては準備段階から刀鍛冶の桜井征次(天皇銀婚式献上太刀の制作などに関わった人物)を嘱託としていたが、指導者として28年に平田宗幸、30年には藤本万作が呼ばれ(両者とも平田派の打ち物師)、以来美術学校またそれに続く東京芸術大学の鍛金科は、平田派[*4]の流れを汲むこととなる。
「美術学校の工芸部からはじめて卒業生を出したのは明治27年3月からで(当時はまだ鍛金科は無かったが)それらが頭角を現して工芸界から認められかけたのは明治末期から大正にはいってからで、美術の隆盛につれて知られかけたのであるが、何れも15年20年の研究を積んだ後のことで、絵画や彫刻と違った技巧のこそを築かなくてはならぬ用意を要したのである。」と香取秀香は著書である『金工史談[*5]』のなかで述べている。また工芸各科の概略として鍛金について「槌起工は専ら彫金科の下地の花瓶を鎚鍛して足りとしていた様で、その替わりに朧銀[*6]の如き困難なものも鎚起しうる有様であった、鈴木翁斎・同長二斎などがいた。其の間また切嵌を以て有名な黒川勝榮(大正6年卒)があり、専ら鐵を用いて動物の全形を鎚出して空前の奇工の加賀の山田長二郎宗美(大正5年卒)があり、平田重光・平田宗行(大正9年卒)は銀銅の鎚起で名を成し、門人が今に多い。鎚起は大いに発展すべくして遂にせづに終わった状態である。」と考察している。つまり技術の伝承と保存においては素晴らしいものもあったが、発展・進歩という意味においては彼の期待ほどではなかったらしい。
 この様に技術の伝承・保存中心の指導で、しかも世の中の工芸界に頭角を出すまでに、短期間では成せる技ではないものを専門とする(鍛金を含む)この工芸部に関して、美術として認めたがらぬ人間も現在と同様存在した。明治32年黒田清輝は『美術教育に関する意見書[*7]』で『美術と工芸とに厳正なる分離をなすべし』という一項を掲げている。美術学校創設の際のフェノロサや天心の述べた意見に真っ向から反し、彼らの考え方を誤診であると断定し、本校は『純正美術』の開発のみに全力を注ぎ、工芸部門は排除すべきであると主張した。(この黒田の行動は彼が明治17年よりパリヘ留学していたという経緯から見て、西洋的概念に感化されてのことと言えよう)そして文部省専門学務局長の上田万作と工芸分離の準備を始めていたが、中途で断念している。(関係事項については大村西崖が時事日報明治32年8月7日に執筆している)もし工芸科自身が技術の伝承のみに執着し続けていたとしたら、彼らの様な工芸分離主義者的思想を持つ人々により、美術学校から工芸科は排除されていたと考えられる。
 純正美術と工芸の関係がそのようであった時代に、職人(工人)と美術学校の金工科との関係はどうであったか。技術的に隔たりは当初存在せず、また指導者も工人(世の中で言う美術家ではなく、打ちもの師や刀鍛冶)であった為、当たり前のように両者間には交流が存在していた。因みに金工協会が明治33年に発足。大正初めに三分し、その中の一つであった鍛金懇話会が鍛金における交流であり、大正13年に鍛金協会となったのである。後に職人達と工芸家達との考え方の隔たりが生まれ広がり衰退へと向かうまで続く事となる。
 昭和前期(此の調査研究に於いて多くの証言を下さった三井安蘇夫氏が美術学校に入学した頃)鍛金科はここまでに述べた明治期の延長であり、下地師のイメージから抜け出ぬ、また平田松堂・石田英一・津田信夫などの技術の伝承に優れた指導者達が教授・助教授であった時代である。
 ここまでが明治末期から戦前の流れとなる。

*1 現在『鍛金』技法は大きく二つに大別される。一つは塊材を叩き成型する「鍛造」 (鍛治物)、一つは、圧延した板材を叩き成型する「絞り」(打ち物)である。
*2 金子清治『日本工芸史沿革』昭和11年3月共立社
*3 東京芸術大学百年史第一巻
*4 平田家は初代禅之丞のもと江戸中期に興り(甲冑師であったようである)、徳川後期に金銀神器を作り幕府御用打ち物師となる。明珍派・長寿斎派と共に古来の鍛金技術伝承の重要な役割を果たす。宗幸は五代金之助の養嗣子である。
*5 香取秀真『日本金工史談』昭和16年桜書房
*6 ロウギン別名『四分一』 Cu3:Ag1の硬い銅合金
*7 明治23年4月9日付

参考資料
金子清治『日本工芸史沿革』共立社
香取秀真『日本金工史談』桜書房
香取秀真『日本金工史』雄山閣
藤本長邦『鎚起の沿革』日本鍛金工芸会
村田哲朗編『東京芸術大学関連年表』
『東京芸術大学百年史 第一巻』ぎょうせい

 



「野原の散歩」 榛葉莟子

2016-04-05 09:59:02 | 榛葉莟子
1997年10月25日発行のART&CRAFT FORUM 9号に掲載した記事を改めて下記します。

 拡がる青空の下、自転車に乗る。食料品でふくらんだスーパーマーケットの白い袋のさきっちょが、かごのなかではためいている。稲刈りを待つばかりの田園は延々と黄色く輝き、そのなかほどの土手を走るこどもがちょうのようにみえかくれしている。見上げずとも眼の先に拡がる青空に滲みとおる半透明の白い月がいる。そこいら中、空いている。わたしはゆっくり自転車のペダルをふむ。キーコ、キーコ。道ばたで行きあったおばあちゃんにあいさつする。と、あいさつがわりのようにおばあちゃんが言った。「栗、あるけ」「えっ、栗?ないです」「やろか」「うわっ、うれしい。ください」「そんなら、あとで持っていってやるから」……そうか、もう、栗の季節に入ったのだなあと、あたりの草藪に眼をやれば夏と秋の入り交じった色彩がしーんと流れている。あわてず、さわがず、けれども確かな動き、静かにかろやかなうつろい。
 力は魂ではない。開いていく線のような流れ。かすかな音。草藪に入りたくなり自転車を降りる。えのころ草やかぜ草、むらさきや、しろ、きいろ、もも色の小さい花ばな。それぞれがそれぞれのいまを燐と生き、草藪をつくっている。花を摘む。うちにおいでよと、花を摘む。と、こんなお話がやってくる。
 ある晴れた日の午後のこと、野原に少女がやってきました。空のうえでは、ひるのお月さまがいねむりしています。少女が花摘みをしていますと指先になにかがからみつきました。それはきらっとひかる糸。ひかる糸はまるで少女を誘うようにいくらでもするするとのびてくるではありませんか。ふと、少女はなにかを編みたくなりました。とたんにもう手は動きはじめています。するするするするひかる糸は少女を誘います。編みものする手はとまりません。魚つりのきつねに会いました。いっしょに遊ぼうよときつねがいいました。でも、編みものする手はとまらない。するするするするひかる糸は少女を誘います。うさぎの夫婦に会いました。お茶でもいかがと、うさぎのおくさんがいいました。でも、編みものする手はとまらない。するするするするひかる糸は少女を誘います。大きなりんごの木に会いました。たわわにりんごが実っています。あーまいりんごをめしあがれとりんごの木がいいました。でも編みものする手はとまらない。するするするするひかる糸は少女を誘います。かえろかえろと鳥のかぞくはねぐらにいそぎます。かえろかえろ。でも編みものする手はとまらない。するするするするひかる糸は少女を誘います。いつのまにか空はばらいろの夕焼け。するするするするひかる糸は少女を誘います。いちばん星がかがやくころ、空のうえからおおきなくしゃみ。と同時に編みものする手もとまりました。少女の手には、花や草、きつねや、うさぎ、りんごに鳥、夕焼けの編みこみのおおきなマフラーがありました。空では三日月さまがふるえています。あらら、三日月さまのしっぽからほどけた糸がきらきらひかってゆれているではありませんか。やあ、きみだったのかい、ずうっと、ぼくとさんぽしていたのは……はあくしょんと三日月さまがいいました。はあくしょん、どうもかぜをひいたようだ、はあくしょん!少女は三日月さまのくびにマフラーをまいてあげました。うれしいなあ、ありがとう、ぼくはこんなマフラーがほしかったんだ。三日月さまはそういうと、マフラーをなびかせ、ゆらゆらと、空たかくのぼっていきました。
 こんなお話で横道に入ってしまいましたが、ものに出会って、出来事はやってくるもので、動いていること、変化しつつ変化していること、というよりも、動かないのであったならどんなにかたいくつであろうかと想う。なぜならば、できるだけうまくやろうとする、たいくつよりも、できるだけ表現手段の自由さ、その喜びを経験したいと想う。
 それは、息していることの喜び、解放へと繋がっていく。