◆滑川由美
「海の音を聞きながら (While herring sound of the sea)」
183×122cm 2003年第35回日展出品
子供の頃に波と戯れた海は埋め立てられ道となる鶯やメジロの歌を聞いた山も削られ道や街となる自然の形を変えてゆく人間
煩悩や、時間の流れや便利さへの欲求
自然と共に生きること
青い海に懺悔し
山に向かって跪く
煩悩や、時間の流れや便利さへの欲求
自然と共に生きること
青い海に懺悔し
山に向かって跪く
◆滑川由美
「風の吹く日に (The day is wind blowing) 」
「風の吹く日に (The day is wind blowing) 」
130×164cm 1981年 第13回日展出品(初入選)
モチーフは蔵王のアオモリ椴松(トドマツ)の樹氷である。雪をかぶった樹、湿雪が凍りつき風によって形を海老の尾のように形を変えてゆく都会の喧騒や憂鬱を白い雪の中に溶かしてしまいたい、そんな思い出の作である。高山の寒さに耐えて成長する椴松の力強さを羨ましいと思った。好きな紫色を使い、若さあふれる作品、若き日の思い
◆滑川由美
「風景-ある日の午後に (Landscape-On the afternoon of the day) 」205×140cm 1986年 第18回日展出品
「風景-ある日の午後に (Landscape-On the afternoon of the day) 」205×140cm 1986年 第18回日展出品
大自然の力強さや優しさ、四季の移り変わりのすばらしさをイメージ化し表現した
◆滑川由美
街 (The town) 198×140cm 1987年
第26回日本現代工芸美術展出品(グランプリ受賞作)
第26回日本現代工芸美術展出品(グランプリ受賞作)
海峡の雪舞う白い道、緑の大地、海の色、太陽、大自然の中の小さな街、温かそうな家
そのような情景を糸に託し表現した。
そのような情景を糸に託し表現した。
◆滑川由美
「風のある街 (The town is wind blowing)」
210×140cm 1990年 第22回日展出品
210×140cm 1990年 第22回日展出品
街にはさまざまな表情ともいえる顔がある。昨日が、今日が、そして未来が爽やかな風が吹く街、そのような想いを表現した。
◆滑川由美
「風景92-Ⅰ(Landscape 92-Ⅰ)」 210×140cm
1992年 第31回日本現代工芸美術展出品
「風景92-Ⅰ(Landscape 92-Ⅰ)」 210×140cm
1992年 第31回日本現代工芸美術展出品
高速道路が車で溢れ、流れが止まっている。ふと山の手の方をみると太陽が沈もうとしている。木樹が光に包まれ幻想的な世界が広がっていた。サイザル麻を染めることにより自由度が広がった。
◆滑川由美
「風 (The wind) 210×140cm」1993年
第25回日展出品
第25回日展出品
人間を嘲笑うような 波 風自然の力の振れの大きさ自然の偉大さ、大切さ、自然への畏怖
◆滑川由美
「風の予感 (Presentiment of the wind)」210×140cm
1996年 第35回日本現代工芸美術展出品
1996年 第35回日本現代工芸美術展出品
爽やかな風の中に何かよいことが起きるような思いを感じた土台となる部分を不定形に織り、それを重ねてその隙間から新しい何かよいことが湧き出てくるようにイメージ縦糸を毛糸で巻き、裏が透けて見える。
◆滑川由美
「ある日の午後に (On the afternoon of the day) 」
183×122cm 2000年 第32回日展出品
183×122cm 2000年 第32回日展出品
気持ちが沈んでいる時、北西の空に飛行機雲がクロスを描いている。小学校の先生が答案用紙に描く×バッテンこれは私のことか空にまでダメだしをされてしまった。また飛行機雲が描かれていく、空を眺めながらいろいろな思いを込めた。高等学校国語総合教科書の表紙として2003年より使用されている。若い頃の思いを込めて製作しただけにとてもうれしい作品となった。
ある日の午後に
ある晴れた日の空遠く飛行機雲が描かれてゆく 南へ西に
昔 都会が憧れだった
飛行機が都会へ近づくと心が躍った
あの飛行機にはどんな人が乗っているのか
未来を創る人か
過去を担ってきた人か
青い空へと吸い込まれてゆく
雲が出てきた
明日も晴れることを願う
ある日の午後に
ある晴れた日の空遠く飛行機雲が描かれてゆく 南へ西に
昔 都会が憧れだった
飛行機が都会へ近づくと心が躍った
あの飛行機にはどんな人が乗っているのか
未来を創る人か
過去を担ってきた人か
青い空へと吸い込まれてゆく
雲が出てきた
明日も晴れることを願う
2004年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 34号に掲載した記事を改めて下記します。
「風の吹く日に」 滑川由美
風を感じる時
それは地球の揺らぎ、太陽の季節の変化
地球の呼吸と太陽と月の想い
海流と潮の満ち干、波の色
それらの揺らぎが複雑に変化した四季の表情
それらが明日への想いへと導いてくれるよう
作品をつくること
作品のエスキースを練っている時、思っていなかった何かが紙の上に現われるその瞬間が好きなのである。
何を創ろうかと空を仰ぎ、朝に夕に山波を眺め、季節の変化がある海の表情をみて心に浮かんだものを全て描いてみる。
そして自分のイメージに合うものを切り取り凝縮させる。糸を染めていても糸の持つ本来の色と染料が融け合い見本とは違う色が出てくるときがある。織りあがって糸の種類や材質を使い分けたものが自分の想いと重ね合うように出てくるとこれもまた楽しい時である。
3ヶ月間のけだるい疲れと孤独な時間の中でワイングラスを傾けながら織りあがった作品をながめているとまだ熟成の時が足りないと、明日のためのエスキースを練りはじめるのである。
これが四季折々に生きている私の作品制作である。
何故作るのか
糸の多様性の魅力に取り付かれたから子供の頃に布の緯糸を数本引き抜くと後ろにあるものが透けてみえるようになる。縦糸を抜くと穴があいてレース状のものになる。縫い縮めれば起伏のある布、何枚も重ね縫えば堅い布毛糸をほぐすとふわふわのタンポポの綿毛のように飛んでゆく
布は切ってしまえば元には戻らない、しかし上手に糸を入れれば切り口がわからないようにもなる。
糸とは不思議なものと思った。この多様性を追及しつつ他には無いオリジナリティーを表現してきた。糸は種類と素材によって表情が変わる。
染めても糸の持つ色と染料が混じり合い違った色が出てくる。
同じ色でも梳毛、紡毛、綿糸、布として織られたもの皆違う言葉を持つ。
これらを作品として出来上がったものがイメージ通りに出来ればうれしいと何時も思う。糸は縦糸と緯糸の組み合わせでいろいろなモチーフが出来る。無限に近い何通りもの組み合わせがあり、若い頃はこの複雑性を楽しんでいた。時間があればこのような幾何学的ともいえるような形の組み合わせもやりたいとは思っている。
しかし今の時代ではコンピュータにまかせるべきなのか?
さて振り返ってみると好きだからと言っても迷いが無かった訳ではない。学校を出てから帯などを織っていたが、テキスタイルデザインの仕事もしたいと思いデザイナーも経験した。その後、家で同じ仕事をしていたのだが何故か別の急ぎの仕事が来るのである、「お願い今すぐ来て!」という悲鳴の電話が入るのである。急病人が出たのか、とにかく服の販売とかデパートのディスプレーとか昔のことなので今の時代のメールで届くようなこととは違い、出来上がった広告を直接デパートに電車に乗って届けに行くなど、おかげでさまざまな仕事を体験しながら自分に合う仕事は何かを探し出すことができたのである。
今になって思うことだがテキスタイルデザイナーとして昔日本や欧州で描かれた花や動物を元に服地やスカーフにアレンジする仕事は色・形すべて良い勉強となった。日本画や陶芸の基本の修行にも似たものであろうか。若い頃に色々なことにチャレンジするのは意味があるのかも。
体験よもやま話
19歳の頃デンマークへ留学しようと思い学校を見学に行った。言葉はデンマーク語なのでまったくわからない。会話の本を片手に何を言ったか覚えていないが、快く学校を案内してもらったのである。ただ残念ながら違う、何かが違うのである。織りの学校なので当然なのだろうが基本と伝統を重視した教え方のようにその時は思えた。ただ欧州には素晴らしい本がたくさんあったので空港であきれかえられるくらいに旅行カバンが本でパンパンになっていた。
結局、パリのシャンソニエでワインの香りと歌声に酔いしれた。空港でジャケットに惹かれて買ったレコード、レオ・フェレ、これが私の宝物。
パリの裏通り、一人で古道具屋に入ったところ、店員が窓のよろい戸を閉め始めた、まだ明るいというのに、私はあわてて近くのドアから飛び出した、みんなに話すともしかして売り飛ばされたのではとのこと。
だからというわけではないが、今は遠くへ旅行するよりも青い空を眺めてボーとしているのが好きなのである。お気に入りの場所は少し小高い所にある公園の展望台、そこから海と山をそして街を眺めている。
続けるために
織りを続けるには体力が必要である。
体力づくりのために水泳とテニスを始めた。糸染めで鍛えていたせいかテニスのバックハンドは強烈との評価であった。更に腕の太さが増したことはいうまでもない。 コーチを探すことが染織を学ぶ者又指導者として反省をすることになるとは思ってもみなかった。
結論としてコーチに教えてもらうのではなく良い技術は見て自分で練習して覚えるものである。受身ではなく自分が勉強していなければコーチの話も理解できないのである。テニスコーチの場合、話しが上手なのはとても良いことだが、話しが下手でも技術が優れていればそれを見て自分で身につけるのが上手くなる早道である。つまりダメなコーチに当たっても何故よくないコーチなのかを考えること、反面教師、それも効果的といえる。 指導者とは勉強のやり方を教えてくれる人という人もいたがその通りと思う。指導者が合わないといってやめる場合が多いが、何所に行ってもめったに自分に合う指導者はいないということか。
水泳をやってよかったことは力を抜くということを身を持って感じることができたことであろう。力み過ぎると沈んでしまい前にも進まないのである。スーと力を抜くとスーと進む、長い時間泳ぐことができる。織りも余分な力を抜いてリズミカルに集中して織る、きれいに織るコツである。ある意味ではつまらぬ野心を持つということも力が入っていることになるか。
二兎を追うことの奨め
今しなければいけないこと、若い人にとっては生活のためのアルバイトであろうか、好きなこと・趣味のために働く、よくあることである。
しかし単にそれだけではない。意味があるのである。この好きなことというのが将来、自分に広がりをもたらす可能性が出てくることとなるのである。
気分転換は勿論、別の世界の友人との触れ合い、アドバイスは貴重である。また好きなことにより自然に身に付く集中力というのはトレーニングによる集中力とは違う質のものと思う。自然に身についたものは大きい。
身に付いた集中力だけでなく。そのときに過ごした時間、楽しさも苦しさも良き思い出となって残る。これも良き財産でもある。
手や身体を動かすことで自分が体験したことは本人の身体にしっかりと身につくそして長く続けることによって深く大きな形となる。
織りの仕事を続けていれば作品の厚みとなって現われるのではないだろうか。
続けること、それはとても大切なことである、時間が無いとよく言うが週に3日間、一日2時間は捻り出せるのではないだろうか、週に6時間、1年で約300時間も好きなことができるのである。好きなことをするために準備をする例えば普段の仕事、それもとても楽しい時間となる。
ただし二兎を追うことのすすめとはいっても自分の中では配分を良く考えること何に重きを置くのか、何のために今何をするのか良く考えて行動することが大切であると思う。
目覚めて潮風に向かい春を予感し
川風のなかで夏を過ごす
風になびく稲穂の囁きに秋をみつけ
山からの北風で冬を聴く
今日も風を感じて歩き出す
明日へ