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『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの染料<Ⅱ>特別な赤(後編)- 富田和子

2017-11-05 10:06:00 | 富田和子
◆写真 1 絣括り後、藍と茜で染めた糸束

◆写真.2 絣括りを解いたばかりの糸束

2008年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 50号に掲載した記事を改めて下記します。

『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの染料<Ⅱ>特別な赤(後編)- 富田和子

 ◆正体は油
 経緯絣の伝統的な技法が継承されているバリ島の村で、驚くほど鮮やかに染まった下染めの正体は「油」だった。確かに実習の結果を見ても、油で下染めをした糸が最も濃く染まっていたが、「油+何か」が必要なはずだと思い込んでいた私にとってこの事実は驚きであった。では、なぜ油が良いのだろうか。いったい油はどんな役割を果たすのだろうか。資料を探しているうちに他の地域でも、木綿に赤色を染める時に油を用いる方法が昔から行われていることがわかった。

 トルコやギリシャの様々な地域で行われていたのは、西洋茜の根から採れるアリザリンを染着させ、トルコ赤(Turkey red)と呼ばれる色を出すために、まず石灰の入った酸敗したオリーブ油に浸し、次に硫酸アルミニウム溶液で処理し、最後に蒸気をあて媒染した木綿の布を、水に細かく懸濁させた染液で処理するとコロイド状の金属水酸化物が繊維に付着し、それが染料分子と結合して錯塩すなわちレーキを形成するという方法である。(*1)17世紀~18世紀にはトルコ赤で染めた糸は高価であるにも関わらず、ヨーロッパでは飛ぶように売れ、織物や刺繍や縫製作業のために欠くことのできないものになったという。しかし、「トルコ赤」の染色法にあるオリーブ油の果たす役割については、資料の中から見つけることはできなかった。

◆植物繊維の構造…セルロース分子が長く連なり、結晶部分と非結晶部分を適度におりまぜている(*3)

◆アリザリンの分子模型  C14H8O4

 当初、油を用いる下染めは赤を染めるためにこそ必要なのだと思っていたが、メキシコの貝紫染めで「牛脂石鹸」を下地に使ったという体験談を耳にした。木綿糸を貝紫で染める前にセボ・デ・バカ(牛脂)の石鹸でよく洗い、乾かして染めると良いと教わったことを精練の意味だと解釈し、糸を石鹸で洗いきれいに濯いだところ、その糸の染まり具合は良くなかった。実は…『貝の染液は糸に何の細工(処理)をしなくても紫色に染着発色はするが、濃いきれいな紫色に染めるにはセボ・デ・バカで洗った後、濯がずにそのまま糸を乾かして染めるという“秘訣”があったのである。彼等、染め人達にとっては、このことは公然の秘密、いや常識になっているのだろうが、ドンルイス村で最初に出会った染め人ビクトリオもセボ・デ・バカのことは一言もいわなかった。』(*2)という事である。糸に必要とされたものは石鹸ではなく、牛脂であり、貝紫の染色でも油は一役担っていることを知った。

 一般的に動物繊維の絹や羊毛に比べ植物繊維の木綿や麻は染まりにくい。絹は主にフィブロイン、羊毛は主にケラチンというアミノ酸から構成されるタンパク質でできている。タンパク質は各種の染料の物質と結合しやすく、染着性にすぐれている。また媒染剤の金属塩やその他の物質を吸収したり、反応する性質に富んでいる。一方、木綿はほとんど中性のセルロース分子から構成されていて、タンパク質のような性質を持っていない。さらに木綿繊維の構造上からも色素が繊維の内部まで浸透しにくいことが「苦労を伴う木綿の草木染めとなっている。 いかにして木綿に処理を施し、染料が染着されるような性質を持たせるか、古来より先人達は知恵を絞ってきたのだった。

◆実習の分析結果
 木綿の草木染めに油が有用であることはわかったが、なぜ油なのかという疑問は解決しなかった。そこで、長野県情報技術試験場・繊維科学部に実習結果の糸サンプルを送り、分析を依頼したところ、次のような見解をいただいた。

 クミリによる下地は油の酸敗によって生成した脂肪酸が染着を促しているのではないかと考え、糸に少量の水を付け、そのpHを調べたが、着色前、着色後ともに中性であり、促染効果があるほどのpHにはなっていないと判断した。また、着色された糸を40~400倍の顕微鏡で観察すると、染色されている、つまり、繊維に着色していると評価できるのはタンニン酸で下染めした糸だけであり、木の実で下地をした糸は、繊維にはほとんど色が着いておらず、繊維の表面あるいは隙間にある付着物(油脂等)に色が着いているにすぎない、また、油は木の実での下染めよりはなめらかに繊維を覆っており、一見染まっているようにも見えるが、まわりに滲み出してしまう。ただ、バリ島で着色された糸は付着物の粒子が小さく、実習でクミリ下地したものよりもかなり工夫されたものと思われる。また、通常、油汚れはリグロインまたはエタノールで溶かし出せるが、バリ島のものはほとんど溶け出さず、実習の油の糸は溶け出してしまうので、この点に於いても、かなり工夫を重ねた方法だと思われるということであった。

◆木綿染め研究グループで実習した、クルミ(胡桃)で下染めした糸をインド茜で染色

長野県情報技術試験場での顕微鏡による観察結果を映像で見たいと思い、今回この原稿を書くにあたって、撮影してみた。綿コーマ糸4/10を使用したので、まず4本合わせてある糸の撚りを戻して1本にした糸をさらに細い繊維一本ずつが見えるようにほぐした数本の繊維を顕微鏡で見たもの。
70倍顕微鏡 撮影:富田和子

繊維はその種類に関わらず、細長い形をしている繊維の分子が多数集まって、さらに細長い束をつくり、目に見える1本の繊維となっている。「糸が染色されている」と言えるのは化学的に結合をしているか、もしくはある程度以上の堅牢度を持つ状態であるという。指摘されたように実習した糸サンプルの撚りを戻し、細い繊維一本ずつが見えるようにほぐしてみると、確かにタンニン酸下地以外の糸は染まらずに残っている白さが目立っている。残念ながら実習結果は糸を染めたとは言えない状態であった。分析していただいた結果からもわかることは種実をそのまま潰して使うよりも、やはり油の方が適しているようである。しかし、油ならば良いというわけではない。エタノールで溶け出してしまう実習の下地のものと、溶け出すことのないバリ島のクミリ下地のものとの違いは何なのだろうか。油の成分、灰の成分、灰汁に使う雨水、灰汁の作り方、そして費やされる月日…。 全てが違っていたといえばそれまでだが、このバリ島の糸の「工夫されたもの」が一体何であるのか、謎はなかなか解き明かすことができなかった。

◆それから月日は流れ…
実は実習を行ったのは13年も前のことである。恥ずかしいことにその後の不勉強のため油の謎は未だにわからぬままである。 ただ、木綿染め研究グループで必死に染めた3年間の糸サンプルは今も貴重な資料となっている。赤を染めるための下染めの実習は糸を確実に染めるという点では不十分に終わったが、常識というものがくつがえされたことは実に興味深かった。糸を染める時には火に掛けて煮るのが当たり前だと思っていたが、木綿糸の場合は水温でも充分に染まることを実感した。 また、糸を染める前には精練をして染色のじゃまになる脂肪分やその他の不純物を取り除かなければならないと習い覚え、十数年その通りにしてきた私の頭には、未精練の糸にしかも油を付けて染めるなどということは、想像もつかないことだった。だが、それは繊維産業の発達した日本における機械生産のための常識であったことを改めて認識させられた。色素の染着しにくい木綿糸が堅牢に生き生きと染まりあがるために、その土地にふさわしい方法で「工夫」は必ず行われているのだった。

 5年ほど前から、イカットクラスの授業でも、木綿糸の下地にクミリを取り入れてみるようになった。その結果、以前行った木綿染め研究グループの実習方法では、用いた油の分量が多すぎたこと、また、糸を浸ける期間が短すぎたことに気付き、クミリの量は半分に減らし、浸ける期間は2~3日から1ヶ月へと変更した。油の分量が多いと、色が滲み出して周囲を汚し、ベトベトした感触で糸同士もくっついてしまい、織る時の開口が困難で、非常に扱いにくいものになってしまったが、油分が適量であれば、いつまでも油が滲み出てくることもなく、蝋引きした糸のように丈夫になり、かえって扱いやすくなる。また、クミリと灰汁を混ぜた液に漬け込んだ糸はしばらくすると、独特な臭いを発散するが、その臭いが強烈なほど染まり具合が良く、その時の気候はインドネシアのように暑い時期の方が適していることも、生徒達の体験からわかってきた。トルコ赤の染色には酸敗したオリーブ油が使われる。「酸敗」とは油脂が空気や水分との接触、光、熱、細菌などによって分解し、不快な臭いを生ずるとともに酸っぱくなることと辞書には書いてある。以前の研究グループで行ったよ・u桙、に2~3日では酸敗には至らないので、ここに謎を解く鍵の一端があるかもしれない。

◆もうひとつの重要な役割
 そしてもうひとつ、イカットの下地にクミリの油が使われる重要な役割に気付いた。
イカットの製作手順としては、木綿糸をまずクミリで下染めし、漬け込みと乾燥で約1ヶ月半、糸が充分乾いたら、整経し、糸束ごとに分け、重ね合わせ、絣括りをする。写真1はビニールテープで染まらずに白く残す部分を括り、 藍と茜で染めたあと、乾かして絣括りを解いたものである。クミリで下地をした糸は、染料をたっぷりと含み膨らむ一方、テープで防染した部分は、まるで蝋を塗ったようにクミリの油で覆われ固まっていて、テープの内側でしっかりと防染の役目を果たしている。 このクミリの効用は実際にイカットを製作して初めてわかったことである。渋いイカットに極彩色の色糸が使われたりするように、天然染料と化学染料が併用されたイカットは多くの地域で見られるが、なぜイカット部分だけは、変わらず天然染料で染められているのだろうか。昔から行われている絣括りの技法が糸染めまでを含めた工程の一貫として捉えられていることで、天然染料の使用がかろうじて保たれているとも考えられると以前書いたが、イカットの技法のうちで重要な絣括りにおいて、天然染料をよりよく染めると共に、括った部分の防染効果にもすぐれているとなれば、クミリは欠かすことのできない重要なアイテムであり、この関係性ゆえに、化学染料が発達し身近な染料となっている地域でも、未だにイカット部分は天然染料が使われているのではないかとも実感している。

◆未精練の木綿糸(約500倍) 

◆クミリの油で下染めした木綿糸 (約500倍)

 ◆ 今後の展望
この夏より新たに、当研究所三宅所長の紹介で、武蔵工業大学知識工学部自然科学科の吉田真史先生に実習結果の糸サンプルの分析を依頼している。先日、大学の化学実験室にお邪魔して、電子顕微鏡や分析装置などを拝見し、分析方法を説明していただいた。クミリの下染めについては、電子顕微鏡写真の撮影のみが行われたところであり、まだまだ、分析結果を報告するには至ないが、電子顕微鏡写真のデータをいただいてきた。撮影は未精練の木綿糸、クミリの油で下染めした木綿糸、未精練の木綿糸を染色したもの、クミリの油で下染めした木綿糸を染色したものに分け、約40倍~10,000倍の映像になっている。まだ始まったばかりの試みで、今後どのように展開していくかはわからないが、謎の正体を少しでも化学的に解き明かすことができればと思っている。 染めへのこだわりは人によって違うが、バリ島のトゥガナン村で作られる経緯・u槭Rの染色で、本当に良い色を染め出すためには数年間を費やすという。そんなw)風に染めた糸で織られた布は、油のおかげかどうか…まだ定かではないが、年月が経つほどに濃く、深く、すばらしい色になっている。村人たちは50年物、80年物といったグリンシンを誇らしげに、ひろげて見せてくれた。簡単に堅牢に染色するためには化学染料を使った方が便利なことは確かだが、天然染料から化学染料へと移り変わる中で、私たちが見捨ててきてしまった価値あるものも確かに存在するのである。インドネシアの染め方に習って始めた研究は楽しい謎がいっぱいで、自然と向き合って生きてきた人々の知恵に、今の私たちはまだまだ追いつけずにいる。

[引用文献]
(*1)「フィーザー有機化学(下)」  p.876 丸善(1971)
(*2)京田誠・星野利枝『月紫染紀行」 p.94~98 染織と生活第25号 染織と生活社(1979)
(*3)「原色現代科学大事典(9一化学)』p.191 学研(1968)
[参考文献]
(1)吉岡常雄 「天然染料の研究」 p.164 光村推古書院(1974)
(2)前川悦朗「天然染料の不思議を考える(上)」 染織αNo.184染織と生活社(1996)(3)高橋誠一郎「木綿の草木染-その特性と技法」 染織αNo.54染織と生活社(1985)

 研究報告の執筆にあたり、長野県情報技術試験場繊維科学部 堀川精一先生、 名古屋工業大学名誉教授 前川悦朗先生、武蔵工業大学博士 吉田真史先生には多くのご教示を頂き、心より御礼申し上げます。

『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの染料(Ⅱ)特別な赤-前編 富田和子

2017-10-24 14:58:16 | 富田和子
◆カリウダ村のイカットと持参して染めた糸

◆ムンクドゥの木(ヤエヤマアオキ)

◆乾燥中のムンクドゥの根(バリ島トゥガナン村)


◆ムンクドゥの根を石臼と杵で細かく潰し、水を加えて絞る。色が出なくなるまで何度も繰り返す。太い根は芯を除き皮のみ、細い根はそのまま使用する。(スンバ島カリウダ村)

◆実習で染めた糸サンプル(インド茜100%×2回染明礬媒染)

[バリ島トゥガナン村の染色]
◆油は村内で作られている。殻を取ったクミリの実をモーター付きの木製の機械で粉砕し、小型の圧搾機で油を搾り出す

◆クミリの実
[クミリ]東南アジア原産の高木で、和名はトウダイグサ科のククイノキ。油桐の近縁種。実(核果)から油を絞って灯火に用いられ、キャンドル・ナッツとも言われる。インドネシアでは料理にもよく使われる。

◆かまどの灰を利用した灰汁

◆クミリで下染めされた糸(バリ島トゥガナン村)



◆クミリの油と灰汁を3対5の割合で混ぜた液に糸を浸し、42日間浸けておき、日に干す。絣括りを終えると別の村へ糸を運び、まず藍で染めた後、トゥガナン村で赤色を染める。赤く染める部分の絣括りを解き、バリ島ではスンティと呼ばれているヤエヤマアオキにクプンドゥンという媒染剤の役割を果たすと思われる樹皮を加え、気に入った色に染まるまで何回も染め重ねていく。

2008年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 49号に掲載した記事を改めて下記します。

『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの染料(Ⅱ)特別な赤-前編 富田和子

 ◆赤を染める染料
 イカットの天然染料で最も代表的な材料は藍と茜の組み合わせであるが、日本で一般的に知られている多年草の茜(日本茜、インド茜、西洋茜など)とは違い、インドネシアの茜というのはアカネ科のヤエヤマアオキのことである。ヤエヤマアオキは沖縄以南に分布する小高木で、インドネシアではムンクドゥと呼ばれる。藍と同様に重要で代表的な染料であり、樹皮や根皮を染料として用い、オレンジ色~赤~赤茶色を染める。藍染めは葉を使用するため入手も容易であり、木綿にも良く染まるので、天然染料の中でも最も一般的であり、身近でかつ重要な染料となっている。一方、ムンクドゥ(茜)は木の生長を待ち、その根を大量に使用するため入手も困難である。その希少性から、かつては藍で染める青~黒は平民階級の色として、茜で染める赤(オレンジ色~赤茶色含める)は支配階級や特権階級の色として扱われていた。「ムンクドゥ」はインドネシア語の植物名で、バリ島では「スンティ」、スンバ島では「コンブ」、フローレス島では「ブル」というように地域ごとに呼び名は異なり、染め方も色合いもそれぞれではあるが、一般的には抽出は煮出すことをせず、ムンクドゥの根を細かく潰し、水を加えて絞り染液を作る。染める時にも加熱はせず、染液に数日間糸を浸した後干す。媒染剤として他の植物の樹皮や葉の乾燥したものを加えて染めるという点が共通する染め方であった。

スンバ島のカリウダ村のイカットは赤い色が最も鮮やかだと言われている。最初にそのイカットを見た時には天然染料とは思えない真っ赤な色に驚き、化学染料も使われているのではないかと疑った。2回目にその村を訪れた時に染めの工程を見せてもらえるように頼み、日本から持参した糸を染めてみた。1回の染色では、下染めもしていない糸は写真のように赤くは染まらず、イカットの色とはかけ離れたものであった。染め重ねたとしても真っ赤になるとは思えないが、町から遠く離れたこの村で化学染料が使われている気配は見えなかった。いったいどうしたらこのような赤を染めることができるのか…、説明を受けても納得がいかなかった。

 ◆木綿染め研究グループの試み
イカットを訪ねて、インドネシアに行き来するようになった頃、当研究所では草木糸染めクラスの卒業生有志による「木綿染め研究グループ」が発足していた。絹や羊毛に比べ、染まりにくい木綿を堅牢にいきいきと染めるための方法を模索する活動であった。1年目は今も草木で糸を染めている木綿の縞織物、館山唐桟の染め方を実習しながら150色を染め、加熱することなく水温でも充分に染まることを知った。2年目は唐桟の常温染法と従来の煮染法との比較をしながら、藍とのふたがけを加え、染色時の温度、時間、回数、濃度などが検討された。その結果、木綿は染め重ねることが重要であること、藍が多くの色を提供してくれることを再確認した。

2年間の活動の中で浮上した問題は「赤」の染め方であった。前述の染色条件に加え、抽出方法、下染めによる有機媒染方法、糸の精練方法にも検討は及んだが、いきいきとした赤色を堅牢に染めることは難しかった。そこで3年目は今でも天然染料で木綿糸を染めているインドネシアのイカットに注目した。インドネシアの茜の染め方では特に印象に残った事がいくつかあった。

※染める前に糸を精練している様子がないこと
※赤の色素成分は直接木綿には染着しにくいため、クミリという木の実で下染めをしていること
※媒染剤には化学薬品を使わずに、身の回りの樹皮や葉などから調達すること
※数ヶ月、あるいは数年間という長い時間を掛け、濃い染液で繰り返し染め重ねているらしいこと

 研究グループでは、限られた時間の中でできることと、今後に活かせることという点で、糸の精練と赤色を染めるための下染めについて実習を試みた。

糸の精練に関しては、末精練と精練済の糸で比較すると未精練の方が濃く染まることがわかり、8人のメンバー全員が同じ結果を得た。現地でも精練をしているのが見られないこと、「染織α」に掲載された『精練漂白による木綿の草木染め比較』*1)で、未精練の糸が最も濃く染まっていたことなどを考え合わせ、それ以降、精練はしないことにした。

 バリ島で入手したクミリで下染めされた糸を見ると、たっぷりと油を含みベトついた手触りで糸の色は黄変している。実に含まれている油やタンパク質が重要なのではないかという見解が出て、次の4種類の下染めを実習することにした。

※タンニン酸…一般的な有機媒染の常法として。
※クミリ…現地から持ち帰り、どんな感じかをつかむために。
※種実類…今後の参考のために、クミリの代用になりそうな[油+タンパク質]を豊富に含んでいるものとしてクルミ、椿の実、松の実、落花生、大豆、ゴマ、ひまわりの種の7種類を選んだ。

※油類…さらに液体の植物性油4種類、椿油、ごま油、菜種油、オリーブオイルも加えた。
タンニン酸とクミリは8人全員で、種実類と油は1人が1~2種類を分担して実習した。

それまで現地でクミリでの下染めを見たことはなかったので、手元の資料を頼りに染めてみた。糸と同量のクミリを擦り潰し、灰汁と混ぜ糸を2~3日浸けたあと、1週間天日に干すという方法で、他の実も同様に、また油は糸の半量を灰汁と混ぜ使用した。染料は、ヤエヤマアオキ(ムンクドゥ)は手に入りにくいので、引き続き手に入る染料であり、メンバーも苦戦しながら染めていたインド茜で染めることにし、それに伴い、染色温度は煮染法で行うことにした。 その結果、染着濃度の高いのは、油類 >クミリ・種実類 >タンニン酸の順であった。 これはインド茜以外の染料でも同様で、8名全員の一致した結果だった。色合いについては、タンニン酸は黄味がかった色になり、クミリを含む種実類には若干濁りがみられた。クミリとタンニン酸は全員が同染料、同条件で染めたにも関わらず色の違いが現れた。8人の染め手がいれば8通りの色になるということで、種実や油の種類による比較には至らなかったが、濃度、赤の色相、透明感という点では油が最もすぐれていた。[油+タンパク質]が重要だろうと考えていたメンバーにとってこの結果は予想外だった。精製された油を使えば良いのなら実に簡便である。しかし、タンニン酸では染色後の糸の風合いは変わらないのに対して、種実類は固くなり、油脂類はいつまでも滲み出てくるような油と匂いが気になった。種実類は脂肪が主成分だがその他の成分も含まれている。それらの有用性もあるかもしれない。この時点でのメンバー間の結論としては、理論的ではないが染め比べた感触では、油だけではなく種実全体をつぶして使用するほうが良さそうだということに落ちついた。

◆ バリ島トゥガナン村の染色の下染
 この実習において、バリ島で入手した糸を一緒に染めてみたところ驚くほど濃く赤く染まった。果たしてこれはどのようにクミリで下染めされたのだろうか。翌年現地で調べてみた。そして、私たちの予想はあえなくくつがえされた。
 バリ島東部に島の先住民であるバリ・アガ族の人々が暮らす集落のうちのひとつ、トウガナン・プグリンシンガン村がある。この村では「グリンシン」と呼ばれる木綿の経緯絣が織られている。グリンシンを織るための糸は先ずクミリで下染めされるが、そこで登場したのは何と油だった。「油+何か」が必要なはずだと思い込んでいた私にとってこの事実は驚きであった。確かに実習の結果を見ても油で下染めをした糸が最も濃く染まっていた。   では、なぜ油が良いのだろうか。いったい油はどんな役割を果たすのだろぅか…。
(つづく)

『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの染料(Ⅰ) 身近な染料- 富田和子

2017-10-15 10:07:20 | 富田和子
◆家の軒下に瓶を並べて藍を建てている(フローレス島)

◆フローレス島の市場で売られていた合成染料


 ◆藍染めの絣模様とカラフルな縞模様との組み合わせ

◆ティモール島の衣装はとても色鮮やか!

◆ソロール島のイカット(部分)

◆藍と茜で染色されたスンバ島のイカット

◆バリ島に生えていた藍(インドキアイだそうである)
と醗酵助剤用のバナナ

◆インドキアイ

◆コマツナギ

◆ティモール島の民家の庭に生えていた藍
(コマツナギだろうか…?)


2008年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 48号に掲載した記事を改めて下記します。

『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの染料(Ⅰ) 身近な染料- 富田和子

 ◆合成染料の普及
 染織品の宝庫といわれるインドネシア、その染色には各島各地域で自生、または栽培された植物性の天然染料が主に用いられてきた。しかし、現在では合成染料の普及によって、伝統的な天然染料の使用は一部の限られた地域になってしまっているのが現状である。
 東ヌサ・トゥンガラ州の島々やスラウェシ島トラジャ地方の山間部では、現在でも各家庭単位で綿花から糸を紡ぎ、絣模様を括り、身近な植物で糸を染め、腰機でイカットを織るといった一貫作業を見ることができる地域もある。一方、合成染料の普及もめざましく、町の大きな市場や定期的に開かれる村の市場には生成や色糸の機械紡績糸と一緒に合成染料が売られている。写真の染料は助剤も使わず、染料を湯に溶かして10分間煮ればよいという簡単で便利な直接染料である。

 木綿の経絣が盛んに織られている東ヌサ・トゥンガラ州の中でも、早くから合成染料が入ったというティモール島には色鮮やかなイカットが多く見られる。西ティモールの中部に位置するソエ周辺では、中央に絣模様、両サイドに縞模様を配置したイカットが作られている。同じ地域であっても100%合成染料によるイカットもあれば、天然染料と合成染料の併用もある。併用といっても、染料を併用するわけではなく、イカット部分の糸は天然染料を使い自分で染め、縦縞などの配色には市販の色糸を用いるという方法である。藍染めの絣模様と派手な縞模様の組み合わせで、一見ミスマッチと思えるイカットではあるが、ソエ周辺の地域ではこうしたカラフルなイカットが日常着として愛用されている。

 天然染料と合成染料の併用は他の島でも見られ、渋い色合いのイカットに市場で買った極彩色の色糸がアクセントとして使われていたりもする。フローレス島東端の隣に位置するソロール島のイカットは全体的に「赤いイカット」という印象を受けるのだが、よく見ると赤い部分は市販の色糸であった。絣の部分は手紡ぎの糸を使い、藍と茶系の天然染料で染められているが、絣以外の部分は赤を中心にピンクや緑などの市販の色糸による縦縞で埋められている。せっかくの手紡ぎ、天然染料のイカットが色糸で台無しになってしまうと思うのだが、自給自足の島の暮らしの中では身近な植物で染める暗い色合いの糸の方がむしろ日常であり平凡でもある。お金を払って買う色鮮やかなシルケット加工の糸の方が豪華に映るのもやむを得ないのかもしれない。フローレス島やその周辺の島々でもイカットを日常着として活用している姿を見られるが、そのほとんどが女性であるのに対し、ティモール島では女性よりも圧倒的に男性の方が多く着用しているのが特徴である。周辺の村々から人々が集まってくる市場では、色とりどりのイカットを身に着けた男性の姿に目を奪われる。サロン(腰巻)やスレンダン(肩掛け)の他に必須アイテムとして、彼等の嗜好品であるシリー・ピナンを入れるボシェットも加わり、着こなし方は人それぞれ、ティモールの男性は実におしゃれである。合成染料に席巻されてしまったかのようなティモール島ではあるが、長年使い込まれたカラフルなイカットを身にまとい颯爽と歩く姿は、それなりの風格さえ漂わせている。

 イカット以外の縞模様や組織で模様を表すソンケット(浮織)などは、市場で色糸を買ってくれば自分で糸を染めることなく織り上げることもできるが、イカットを織る場合は糸を染める前にまず絣括りをすることから始まり、括り終わったあとに自分で糸を染めなければならない。その場合に身近な植物染料である藍を使用する例もよく見られる。また、昔から行われている絣括りの技法が糸染めまでを含めた工程の一貫として捉えられていることで、天然染料の使用がかろうじて保たれているとも考えられる。

◆イカットの天然染料
イカットに使用される染料もまた地域によって様々ではあるが、今でも天然染料で糸を染めている限られた地域というのは、実は木綿の経絣のイカットを織っている地域がほとんどである。 イカットの製作も天然染料に
よる染色も年々衰退していくようにも懸念されるが、一方で復活した地域もある。海外の染織愛好家達や国内からの呼びかけ、村興しなどにより、伝統的な技術を継承しようとする動きも見られる。もちろん、天然染料にこだわりを持ち、自ら伝統的な染め方を守っていこうと考える人達も存在する。広大なインドネシア全体から見れば、一部の限られた地域になってしまっている天然染料ではあるが、まだ、身近な植物による糸染めも健在であり、海に囲まれた熱帯性気候の島々には染料となる植物も豊富である。

 イカットの天然染料で最も代表的な材料は藍と茜の組み合わせである。絣括りの行われた糸は、一般的にはまず藍で染め、次に赤く染める部分の括りを解き茜で染める。染め上がったイカットは、括りにより染まらない白い部分、茜で染められた赤い部分、藍と茜が染め重なった黒い部分の3色によって絣模様が表現されることになる。 また、茜で染める赤の代わりに茶色で染められるイカットも多い。茶色はマングローブに総称されるヒルギ科やアカネ科の木々で染められるが、鮮やかなピンクを染める木もある。その他に黄色はウコンやカユ・クニン(黄色い木の意)で、緑は葉を使ったり、藍を下地とした色のバリエーションも見られる。(詳細は次号に記載予定)

 ◆身近で重要な藍染
 インドネシアには様々な含藍植物があることから、藍染めに使用された藍も複数の種類にわたっているというが、主にマメ科のキアイやナンバンコマツナギなどの天然藍による染色が、昔ながらの方法で今も受け継がれている。

 インドネシアで藍は「ニラ」、あるいは「タウン」などと呼ばれ、地域によって呼び名は多少の違いがあるが、藍の製法はいずれも地殿藍を作る方法である。


 【東ヌサ・トゥンガラ地方に共通する沈殿藍の製法と染色法】
① 瓶に藍の葉や茎を入れ、水を加えて発酵させ、2~3日間放置した後、絞ってかすを捨てる。
② 水に溶けた藍の色素に石灰を加え、よくかき混ぜ藍の沈殿を待ち、上澄み液を捨てる。
③ 沈殿した泥藍はそのまま藍染めに使われる場合もあるが、保存する場合には天日でよく乾燥させる。
④ 染色方法は乾燥させた泥藍を灰汁に解き、藍の発酵を促進させるため醗酵助剤を加える。醗酵助剤には主にサトウキビ、椰子砂糖、バナナの実などが用いられる。その他に濃い染液を得るために様々な樹皮、実、葉、根などが加えられ、その地域独自の藍染めの色を作りだしている。
⑤ 藍がよく醗酵して染色に適当な状態になるのを待ち、糸を入れる。
 ⑥ 糸の染め方はもちろん個々によって異なるが、3日~1週間ほどの日数を掛け、糸を藍に浸しては引き上げ、絞って風を当てて酸化させるという作業を何度も繰り返し、糸が気に入った濃さになるまで染め重ねていく。

藍は木綿にも良く染まり、絣括りを解きながら染め重ねていくイカットの染色方法にとっても便利な染料である。イカットを織っている家の庭先には藍が栽培され、軒下や部屋の片隅には小さな瓶に建てられた藍液を見かけることがよくあるように、藍は天然染料の中でも最も一般的であり、身近で、かつ重要な染料となっている。
 [続く] 

『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの素材(Ⅲ)葉の繊維-  富田和子

2017-10-04 09:57:24 | 富田和子
◆ドヨの糸 1枚の葉から作られる糸は短い。日本の麻のように撚り合わせて「績む」のではなく、結んでいくので、40~50cmごとに結び目ができ、結び目だらけの糸になる。

◆ラミンは一つの集落が一軒の家屋で成り立ち、20数家族で約200人もが暮らすといった大規模なものである。内部は一家族ごとに部屋が分かれている


 ◆長い耳たぶと手足に入れ墨のあるバハウ・ダヤク族の女性(東カリマンタン)

◆ドヨの葉による糸作りの工程
◆ドヨ(doyo) 高さ1m程にもなる草である。和名はキンバイザサとあるが、見た目は蘭の葉に似ている。写真中央の若く小さい葉や、左下の黒い斑点のある古い葉は使えない。


◆内皮を取り出すドヨの葉を水に浸しながら、竹べらで表面を何度かしごくようにこすると、外皮が剥がれ、内側の白い繊維が得られる

◆ドヨの葉 葉は長さ50~60cm、幅約15cm程。繊維を取るの に丁度良い葉はトゥモヨと呼ばれている。葉の中央の長い部分を使用する。

◆繊維を細く裂く 外皮を除いた繊維を束にして、3日間天日に干す。丸まった葉を1枚ず指に当て、ナイフの背で押さえながら開く。開いたら更に細く裂く。

◆撚りを掛ける 繊維の束を足の指に挟み、両手で撚りを掛ける。撚りを掛けた繊維を機結びでつないでいく。 できた糸はカゴに入れ重ねておく。


◆ウロップ・ドヨの衣装(ブヌアク・ダヤク族:東カリマンタン)

◆樹皮布の伝統的な衣装(ブヌアク・ダヤク族:東カリマンタン)

◆上着の模様 Kulit bambu (竹の皮)
◆腰巻の模様 Belalang (バッタ)





2008年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 47号に掲載した記事を改めて下記します。

『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの素材(Ⅲ)葉の繊維-  富田和子

 ◆その他の繊維素材
 インドネシアの織物の繊維素材は主に木綿と絹である。「その他の植物繊維として芭蕉、棕櫚、龍舌蘭、パイナップルなどが用いられてきたことが現存する染織品によって知られる。」と『インドネシア染織大系』(吉本忍著)には書かれているが、残念ながらこれらの植物繊維による織物には、今までに出会えていない。インドネシアで実際に目にしたのは、バナナの幹の繊維と「ドヨ」と言われる葉の繊維を使用したものの2種類である。バナナの繊維はロンボク島の縫取織の地織りの緯糸として、幹の内皮の繊維が使用されている。イカットにおける素材の違いは絣の種類によって分かれ、腰機で織られる経絣の素材はほとんどが木綿であるが、唯一、葉の繊維を使用している地域がカリマンタン島にある。

 ◆森の先住民ダヤク族
カリマンタン島はジャワ島の北に位置し、世で第3位、日本の2倍の面積を持つ赤道直下の大きな島である。島の65%はインドネシアだが、北部の山脈が国境となっており、北側にマレーシアとブルネイ王国がある。一般的にはボルネオ島の名前で知られているが、インドネシアは独立後カリマンタン島と名付けた。険しい山地と熱帯雨林のジャングルと低湿地帯の広がるこの島は、一部の沿岸地域を除いて長い間未開の地であった。カリマンタンの「カリ」は川という意味であり、鬱蒼としたジャングルの中をゆったりと蛇行する川に沿って人々は暮らしてきた。河口の都市を中心とした沿岸地域には主に島外からの移住者が住んでいるが、川の上流地域には、古くからこの島で暮らしてきたダヤクと称される人々がいる。ダヤクとは広大な島の内陸部に広く分散して居住しているカリマンタン島(ボルネオ島)の先住民族の総称であり、地域と言語の違いによって何十もの部族に分かれている。  熱帯雨林のジャングルに生活するダヤク族は、独自の伝統的な生活様式や文化を持っていた。ラミン(ロングハウス)と呼ばれる高床式の集合住宅に大家族で住み、焼畑で陸稲を作り、森林で狩猟をしたり、河川で魚を捕獲して暮らしてきた。宗教的にはキリスト教に改宗したが、精霊崇拝のアミニズムに基づく信仰も残っている。かつては首狩りの風習があり、部族間の闘争で勝ち取った首を持ち帰り、勇気の証や守護神として家の壁に飾った。また、今では年輩のわずかな人にしか見られなくなってしまったが、入れ墨とイヤリングもダヤク族独特の風習である。入れ墨は上流階級において男女共に広く行われ、闘争の勝利や狩りの成功に対して与えられるものもあり、入れ墨を彫る場所や模様に関しても規定があった。イヤリングも男女共に重要な装飾品である。男性は犀鳥の角や、豹や熊の牙や鍵爪で作ったものを組み合わせて耳たぶに差し込み、女性は大きなリングを長く伸びた耳たぶの穴にたくさん差し込んでいる。少女の時から付け始め、徐々に加えていくので、耳たぶはリングの重みで、肩の下まで垂れ下がるほど長く伸びるが、それが美人の条件であった。 しかし、現在ではかなり奥地の村に行かないと、こうした人達には出会えない。20~30年ほど前から、大家族で住むラミンを去り核家族化が進んでいる。基本的には自給自足の生活だが、現金収入のためには町へ出稼ぎに行く。また、奥地の村から下流の町へと移り住む人々も多い。

 ◆ ドヨの葉の繊維 
 森の先住民であるダヤクの人々は各部族ごとに独自の装飾模様や民族衣装を持っており、伝統的な建物には見事な彫刻や、色鮮やかに描かれた模様が見られる。染織品には織物、刺繍、ビーズワーク、アップリケなどがあるが、機織りをする人々は限られている。最も盛んな部族は主にマレーシアのサラワク州に居住する(一部は国境を越えてインドネシアにも住んでいる)イバン・ダヤク人である。イカットもかつては緻密で幾何学的な木綿の経絣が織られていたが、現在では手の込んだものはあまり織られていないようである。インドネシアに居住するダヤク人の間では織物はあまり行われず、カリマンタン島東部にイカットを製作している部族がひとつだけあるのみである。ちなみにカリマンタン島におけるダヤク人以外の織物は、都市部の沿岸地域に住むムラユ人やブギス人により、緯糸紋織、縞織が製作されている。 東カリマンタンのマハカム川流域と、その支流に点在する村々には12の部族が住んでいるが、唯一、機織りをし、イカットを織っているのがブヌアク・ダヤク人である。このイカットはインドネシアの他の地域では製作されていない、珍しいドヨの葉の繊維が素材として使用されている唯一のイカットでもある。

◆ 熱帯雨林のイカット ウロップ・ドヨ
 インドネシアで唯一の他の珍しいドヨの葉で織られたイカットはウロップ・ドヨと呼ばれ、主に女性用の伝統的な衣裳の上着と腰巻に使用されている。また、女性用にはビーズやアップリケの衣装もある。一方、男性用は主に樹皮布の貫頭衣とアップリケの腰巻で、ドヨのイカットは使われていない。 最近はお土産用として、わかりやすく、単純な人像模様も多く織られているが、本来は動物などをモティーフとしながら、点描や幾何学的な模様で表現されるところが特徴であり、またそのモティーフも他の地域とは異なった独特なものが見られ興味深い。 長くても40~50cmの繊維から糸を作り出すのは、効率も悪く、気の遠くなるような単純作業の連続である。さらに出来上がった糸は結び目だらけで、葉の繊維によりを掛けた糸は硬く、扱いも大変である。その為か、織る時には他の地域では見られない変わった道具が使われていた。ギギという荒筬のような、半筬のようなものである。ギギ(gigi)とはインドネシア語で歯という意味であるが、中筒の上にある2ヶ所の綾の間に差し込み、櫛のように刻まれた溝に経糸を3~5本程度入れて織る。このような織道具は他の地域では見たことはなく、やはり、インドネシア唯一の道具であるが、摩擦に弱いドヨの糸を織るためには必要なものなのであろう。 イカットの経絣が盛んに織られているヌサ・トゥンガラ地方はサバンナ気候であり、乾期の雨量はわずかである。それに比べ、ダヤク人の住むカリマンタン島の内陸部は乾期であっても、毎日と思われるほどスコールが降る。熱帯雨林の高温多湿な気候は綿の栽培に適さず、織物の技術は発達しなかったのであろう。そんな環境の中で、何故、一部族のブヌアク・ダヤク人だけがイカットの技術を持っているのか、その理由はまだわからない。 綿糸が手軽に手に入るようになった現在では、ドヨに代わり、木綿のイカットもしばしば織られている。特に上着は肌触りの良い木綿が好まれる。それでも、インドネシア唯一の独特なウロップ・ドヨが織り続けられることを願っている。

『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの素材(Ⅱ)絹-  富田和子

2017-09-26 09:36:03 | 富田和子
◆絹のイカットの正装
 サルン(腰巻)とスレンダン(肩掛け)はイカット、上衣は薄手の絹との組み合わせ

◆写真1 スラウェシ島の家蚕


 ◆写真2 スラウェシ島の繭

◆写真4 広い店内で…、この写真の前後左右にも、色とりどりの絹織物が所狭しと積み上げられている

◆写真5 インドネシアでも珍しい絹のイカット(緯絣)

◆写真6 日本では「バッタン」と呼ばれる飛び杼装置を備えた高機 平織りの無地や縞、格子、絣模様などを織る   写真の白生地はバティック用で、ジャワ島のバティック工房に販売される

◆写真7 穴の空いた紋紙により、経糸が開口するようにした装置をもつジャカード織機 複雑な紋織りが自動的に織れる

◆写真8 スラウェシ島南部、ブギス人の高床式の家

◆写真9 床下である1階で、蚕が飼育されている

◆写真10 自転車のペダルとチェーンを利用し、大きな糸枠が設置された座繰り器   左下の簀の子状の板の間に、煮た繭を挟み、糸を引き出す

◆写真11 綛揚げされた1kgの生糸

2007年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 46号に掲載した記事を改めて下記します。

 『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの素材(Ⅱ)絹-  富田和子

 インドネシアの織物の繊維素材は主に木綿と絹であるが、イカットの素材としてはほとんどが木綿である。絹糸は光沢に富み、軽くしなやかで染色性に優れ、幅広い染織美の表現を可能とする素材であるが、インドネシアの豊富な染織品に比べ、国産の絹糸の生産量は極めて少ない。かつては絹糸で織られていたという緯絣も現在では織られることなく、絹のイカットが織られているのは、一部の地域のみである。

 ◆絹の歴史と各国への伝播
 蚕を飼って絹糸を取り織物にすることは中国で始められた。中国の養蚕の起源は他の国と比較にならないほど古く、新石器時代の遺跡から繭殻や、素材は家蚕の絹糸とされる平織の小裂、撚糸、組帯などが出土している。併出した稲もみの放射性炭素による時代判定では紀元前2750±100年となっており、この時代に中国では養蚕が行われ、絹織物を織っていたと推定される。その後の殷代(紀元前約1600~紀元前約1050年)には黄河流域で、すでに広く養蚕が行われていたと考えられ、紀元前の春秋戦国時代には錦が織られ、続く漢代(紀元前202~紀元後220年)は古代絹織物の成熟期にあたり、紋織、羅、経錦などの染織技術を持っていたことが報告されている。

古代ローマ(紀元前753年~)では、中国はセリカ(絹の国)と呼ばれ、同じ重さの金と取引されたように、中国の絹織物は重要な交易品として古くからシルクロードの陸路を経て、また南海の海路によって遠く国外に輸出された。しかし、製品としての絹織物は輸出しても、蚕を国外に持ち出した者は死刑に処せられたというほど、養蚕技術は長い間秘密とされていた。だが、2世紀前後に中国西域のホータンに養蚕技術が伝えられ、3世紀には北西インドまたはカシミール地方に、4~5世紀にはペルシアからシリアに、6世紀中頃にはビザンティン帝国に伝わったと考えられている。養蚕が最初に国外へ持ち出されたのは、1世紀の中頃、西域のホータンへ嫁ぐ王女が、桑の種子と蚕種を帽子の中に隠して密かに持ち出したことによるという。また、ヨーロッパに初めて持ち込まれた蚕種は、552年にビザンティン帝国の2人の僧侶が、杖の中に隠して運んだといったエピソードが今日に伝えられているように、美しく光る繊維による軽やかな絹織物は西方世界にとって長く神秘的な存在であった。それ以後、養蚕・製糸業は・u档rザンティン帝国からギリシアへ伝わり、イスラム教徒の手でさらに西方に伝えられ、10世紀頃にはスペインのアンダルシア地方がヨーロッパ随一の中心となった。

 日本に絹がいつ頃もたらされたかは明らかではないが、弥生時代前期中葉(紀元前100年頃)の甕棺から平織の絹布が出土したことが報告され、1世紀頃にはすでに伝わっていた可能性がある。また、3世紀半ばには、朝鮮半島を経て中国から伝えられた養蚕がすでに日本で行われ、絹織物が作られていたことが『魏志倭人伝』に記されている。

 インドネシアでの絹の使用ついてもやはり明らかではないが、1世紀頃、インドの文化と共に伝わった木綿よりは新しいと考えられている。中国の『宋史』には、10世紀後半にジャワ島のマタラム王国で養蚕と絹の機織りが行われていることが記されている。またポルトガル人によって著された『東方諸国記』には、16世紀初頭にスマトラ島産の絹が木綿と共に重要な交易品となっていたという記述がある。しかし、繭や生糸の生産量は少なく、絹糸の大半は常に輸入に依存してきた。このため、絹が使用されてきた地域は古くから外界との交流が盛んであったスラウェシ島のなどの沿岸地域に限定されていた。

◆絹織物の町
 絹によるイカットは、スマトラ島南部やスラウェシ島南部、バリ島において、括りと擦り込み技法による緯絣が製作されていたが、現在では、スマトラ島ではソンケット(浮織)が盛んに織られ、また、バリ島の緯絣は木綿糸が使用され、唯一絹のイカットが製作されているのはスラウェシ島南部のみである。稀少な存在となった絹のイカットはブギス人の伝統的な織物として、今でもわずかながら織られている。

スラウェシ島の玄関口であるマカッサルへはバリ島から飛行機で約1時間余り。マカッサルからトラジャへ向かう中間地点にシルクで有名なセンカンという町がある。町には販売店を兼ねた織物工房が何件かあり、様々な絹織物が製作されている。また、町の周辺では高床式の家の下で、女性達が織っている姿を見かけることもある。 店にある絹の布の種類は豊富で、無地や 紋織りの白生地や染色された生地、縞や格子模様、金糸、銀糸を織り込んだ布、オーガンディ、さらに刺繍やプリントされた布もある。全体の布量に比較すると、イカットは少なく、化学染料による色鮮やかな緯絣であった。ほとんどの布は地元センカン製だが、輸入品のタイシルクやインドのムンバイ(ボンベイ)からの絹織物も売られている。また、布以外では伝統的な衣装であるサルン(腰巻)やスレンダン(肩掛け)、上着、ブラウス、ワイシャツ、ネクタイなどに仕立てられた製品もあった。

◆家内工業の養蚕
 養蚕はセンカンの町を取り巻く周辺のソッペン、ワジョ、エンレカンといった地域で行われている。ソッペンの畑で、桑の葉を摘んでいる親子に出会い、その養蚕農家を訪ねてみた。

 高床式の家の床下である1階部分を塀で囲み、蚕が飼育されていた。蚕種は中国からの輸入品を用いるとのことである。蚕は約20日間で成長し、3~5日間で繭を作る。その繭を鍋に入れ、2分ほど煮て繭を取り出す。ナスの葉を使い、最初の糸を引き出し、糸を繰り、綛に上げる。できた糸はセンカンの織工房に売るのだという説明を受けた。 養蚕を行っている農家は多くはなく、この村では2軒だけということであった。

 センカンは、南スラウェシ州最大の湖であるテンペ湖のほとりにある町である。訪れた時期は雨期ではなかったが、たまたま長雨で10日間以上も雨が降り続き、所々で湖や川が氾濫していた。湖周辺の低地は洪水で、道路が切断されている地域もあった。浸水した桑畑で腰まで水に浸かりながら桑の葉を摘んでいたのが、案内してくれた親子だった。本来はその畑の先にある別の村の養蚕所を訪ねるつもりであったが、洪水で進めず、蚕も水に浸かってだめになってしまっただろうという話であった。

◆輸入に依存する絹産業
 現在インドネシアでは、ジャワ島西部とスラウェシ島南部が絹の生産地となっている。ジャワ島西部で生産される絹織物は工場で染色されて製品化される場合もあるが、主にバティック用の素材として、白生地のままジャワ島内で使用されるという。だが、いずれにしろ、原料の蚕種も繭も生糸も、国内の絹産業を支えることはできず、7~8割を中国からの繭や生糸の輸入に依存しているという状態である。また、量だけではなく、質においても、中国の糸の方がスラウェシの糸よりも質が良いので、質の良い中国産の糸と合わせて織られている。中国から輸入した絹糸はセンカンの糸よりも、 値段も2倍ほど高いが、センカンの店でも工房でも、中国の絹糸を使用していると聞いた。 さらに最近では、レーヨンの糸も使用されている。

絹を生産しない地域の緯絣はすでに織られることはなくなってしまったが、インドネシアにおいて絹の生産量が最も多いスラウェシ島南部には、かろうじて絹のイカットが存続しているようである。今後、いつまで残っていけるのか…、先行きが少々不安でもある。