ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

編む植物図鑑 ⑤『イネ科』 高宮紀子

2017-09-30 09:26:07 | 高宮紀子
◆写真 3 リードハウス

◆写真 1

◆写真 2

◆写真 4 チカラシバ

◆写真 5 虫かご

2007年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 46号に掲載した記事を改めて下記します。

編む植物図鑑 ⑤『イネ科』 高宮紀子

 ◆イネ:イネ科イネ属
食料として栽培されると同時に本体も使うという有用植物です。茎を乾燥させて藁にして編みます。イネを刈り取った後、天日で乾燥させるのですが、この行程は大変手間がかかる。少しでも雨にあたるとシミやカビが生えるからです。
バケツやプラスチックの箱でも生育可能ですが、私の家では大概、苗を植えすぎて共倒れになってしまいます。今年もバケツに植えた稲が熱帯のような猛暑にもがんばって居残り、やせた実をつけています。これは注連縄の分として活躍しそうです。花が咲く前、実を取らないで刈ってしまう藁というのがあります。実とらずと呼び、注連縄などに使われます。青くきれいだし、柔らかいという性質があります。

稲にはたくさんの種類があります。改良されてどんどん背が低く、実がたくさん実る種になってきました。だから江戸時代の藁とは違うはず。一般にはモチゴメ、ウルチマイといって粘りの違いで分けています。藁細工にはモチゴメがいいとされて、その理由は繊維が柔軟だからだそうですが、稲の種類によって長さも太さも違うので、なかなか判定がむつかしい。でも昔からそう言われています。
関東のある農家では注連縄専用の種類を生育しています。このイネは長く、太いもので、他の種類とぜんぜん違います。材料としては市場には出回っていなく、注連縄などの商品になって売られます。

専門的なことはわかりませんが、イネは突然変異を起こしやすく色が出ることがあるようです。写真2は、いろいろな色の穂を研究している農家で見たもの。色は薄いグレーから赤茶、黄色いものから緑や紫のものなど、どれも日本的な美しい名前がついています。
今年の7月から25日間イギリスにいました。スコットランドで行われたイギリスと日本のかご製作者による展覧会のコンフェレンスに出席しました。日本からは美しい民具のかごから、現代的な作品を創作する竹の作家、そして私たちバスケタリーの仲間が出品しました。イギリスもヤナギのかごから現代的なアプローチの作品の出品で、素材はヤナギやカヤツリグサ科の植物などの自然素材、プラスチックや紙バンドも使われていて、中には自然素材とプラスチックを合わせた作品もありました。この展覧会ではワークショップが二つ行われ、一つはヤナギの現代的なアプローチのワークショップ、もう一つは縄ないから始まるワークショップで、私が担当しました。

どうせだったら、日本から藁を持ち込み、叩いてもらいたいと思い、日本から藁を送ることにしました。心配だったのが植物検疫。別々に送ったワークショップ3回分の藁がどのように検疫を通ったのか、わかりません。展示の一部として、あるいは注連縄のギフトで送ったことがよかったのか、とにかく無事にイギリスへ着きました。藁の輸入について、国によって厳しい規則を設けています。個人でも持っていっても輸入になります。日本では、お米を持ち帰ることは禁止、イギリスの検疫はヨーロッパ全域のルールに準じ、お米は禁止、汚れやカビなどは廃棄の対照になります。実際の判断は現場、つまり検疫官によって判断が違うことも大いにあるということです。スーパーで売っているような藁でしたら、おそらくだめだろう、そこで知人が育て、乾燥中も雨がかからなかった藁を送ってもらい、その束から注意深くお米を取り除きました。これでみかけはきれいな草状態。一枚目の写真がその藁です。向こうで伝えたかったのは、シンプルな縄ないの技術でいろいろな作品を作れること、また現地の素材に応用してイギリスの伝統的な素材や技術を見直してほしい、ということです。藁の技術は組む、捩る、織る、絡めるなどいろいろな基本動作を含んでいますが、最初は、つまり稲栽培が伝わった当初は、それまでの日本で使われてきた編みの技術が藁という新素材を得て、応用されていったと思うのです。だから藁細
工はバリエーションが深く面白いと思っています。

◆ヨシ;イネ科ヨシ属
滋賀県にいましたので、ヨシは長年見慣れていました。燃料、紙、筆の鞘、楽器、ペン、ヨシズ、屋根材など、いろいろ使われます。琵琶湖の湖岸のエリもこのヨシを使っています。何年か前、長浜で照明作品の展覧会に参加しました。作家の作品と、ヨシの茎を使った照明というテーマで、大学生の実験的な作品が展示されました。昔からいろいろな物を作ってきた植物ですが、湖の湖岸の整理でその場を失った時期もあります。現在は琵琶湖の浄化という分野からもこの植物にスポットライトが当たっています。
ヨシは茅葺き屋根の材料としても有名です。そのほか、ススキや藁、麦藁なども使われています。ヨーロッパでも茅葺き屋根の材料として使われます。
イラクにはヨシ(reed)の家があるとか。写真はイギリスのミュージアムで買った絵葉書です。(Pitt Rivers Museum,University of Oxford製)リードハウスという建物の内部ですが、どんな種類なのかは不明。でも長くて太い。琵琶湖のはせいぜい3mぐらい。一度行って見たいですが、きっと無理でしょう。ヨシズを活用している方もおられるかもしれません。東京にだって職人さんがいて無形文化財を受けています。編み台を使って編みますが、縦糸を巻くコモヅチの糸の巻き方が独特で工夫があったようです。聞いた話しでは、このヨシズ職人の巻き方を教わりにいったが、教えてくれない、そっと遠くから見ていたとのこと。コモヅチの打ち合う音が快く響く、そんないい時代があったようです。現在は機械で編む産地があります。

 ◆チカラシバ;イネ科チカラシバ属
今、ちょうど穂が出ています。庭に植えてみたら勢いよく伸びました。穂が出る前に葉をとって編み材にします。群生しているのを昔みかけましたが、だんだん少なくなってきた雑草の一つです。
穂が出ると硬いから、出る前に採れ、と聞きました。でも穂が出てみないとどれがチカラシバだかわからない。だいたいこの辺に去年あったからと思って探しても雑草は同じように見えます。そこで、庭で育ててみた。穂が出る前はほとんど同じイネ科の草がたくさんあります。よく見ていると、ほんの少しの違い、例えば葉の付け根に毛がないとか。葉鞘が平たい、あるいは時々色がある、などという違いがあるということがわかりました。

◆ムギ;イネ科オオムギ属
これは小麦の茎で作った虫かごモドキです。茎の長さは短いのですが、空洞だから、茎どうしを差し込んで繋ぐことができます。虫かごを編む技術はシンプルですが、繋ぐ方法が簡単だからこそできる、と思います。

◆タケ;イネ科タケ亜科
なんで竹がイネ科なのか不思議ですが、他の説もあるようです。例えばタケ科という人もいる。私は編む人だから、分類方法というより、自分とどう関わるかが問題です。それで竹縄の話を書きます。かごを編む時と同様に垂直に若い竹を割って一旦、乾燥させて水に長くつけて竹をへいで縄にないます。一気に書くと簡単なようですが、夏に刈って冬作業するたいへんな仕事です。ひじょうに丈夫で何かを縛る縄として活用しました。井戸のつるべ、藁屋根のしばり縄にも使われたそうです。このしばり縄、竹が豊富でないところは蔓、マンサクの枝などが代用されます。集めた資料によると、下駄の鼻緒にも使われた、とあります。

私の家の近くには竹かごを作って売っているお店がいくつかあります。偶然訪ねた竹かご屋さんは、造形作品を創作されている作家がやっておられた。現代的な作品を創作する作家の作品は注目を浴びていて、アメリカなどで展覧会が開かれます。私はかごの方法を使った造形を始めてから、バスケタリー展に参加していますが、数年前から現代的な造形作品を創作する竹の作家が参加しています。
そのバスケタリー展も今年で20回になります。よくも続けてこられたという気持ちと、成人式を終えたばかり、まだまだという気持ちの両方です。

(第20回バスケタリー展2007年の11月22日(木)~ 11月27日(火)墨田リバーサイドホールギャラリー、その後、伊丹市立工芸センター時:2007年12月12日(水)~2008年1月14日(月)に巡回)

「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの紐・Ⅴ(綴織)-  上野 八重子

2017-09-28 10:33:28 | 上野八重子
◆ 写真 2 収納ケースに並ぶ頭帯 (豊雲記念館蔵)


◆写真3 ハッリ孔の補強の綿細糸   豊雲記念館蔵


◆写真5 薄地に1cm角の絞り   豊雲記念館蔵

◆写真6 絞りを思わせる織地 豊雲記念館蔵


 ◆写真7 中心と袖が二重織  豊雲記念館蔵

◆写真7 の拡大部分  豊雲記念館蔵





2007年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 46号に掲載した記事を改めて下記します。

「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの紐・Ⅴ(綴織)-  上野 八重子

 ◆アンデス・綴れ織りの特徴
 連載Ⅱ-②で経19本、緯104本/㎝というワリ文化期(8世紀)の緻密な綴れ布の話をしましたが、今回は紐にしぼってお話ししてみましょう。  

 綴れ織りはご存じの通り、世界中で好まれ古くから使われている技法の一つです。絵画のように微妙な色遣いで織れることからタペストリー、劇場の緞帳等に多く使われています。それらは複数の色糸を重ね合わせ濃色から淡色、色から色への変化へと微妙なグラデーションを可能としてくれます。

 しかし、古代アンデスの綴れを見ると色は多く使うものの、模様は単色で形成している為クッキリと柄が現れます(写真1)。その点が特徴と言えるのではないでしょうか。(ただし、これは限られた場所でしか見る事の出来ない私の見解ですので、他に多色重ねが有り得るかもしれませんが)
 豊雲館内、綴れ織りの収納ケースで一際目を引くのが(写真2)の赤色地・頭帯です。1枚が長さ45㎝、幅9㎝、経18本、緯42本/㎝前後で織り上げてあり、両端を縫い合わせて輪状にして頭帯として使っていたと言われています。両端共、端までキッチリ織れる後帯機の利点をうまく生かしています。

こんなカラフルな頭帯を付けた男性の姿をちょっと想像してみるのも楽しいですね!
先に記した経19本、緯104本/㎝という布と同じワリ文化期に作られたものですが、時代は同じでもこちらの帯は10世紀、この200年の差は織り地にも大きな変化をもたらしていました。
この頃の綴れは面倒な色替えごとのインターロックはやめ、2越、又は6越ごとにインターロックをし、そのままだとハツリ孔が空くので間に細綿糸で平織りを1段入れハツリ孔を補強しています(写真3)地色の赤色の箇所を見ると白い緯糸が微かに見えます。この操作は「時代の変化と共に手抜きを覚えたな…」と眉をひそめるよりも、「とても賢い知恵だなぁ~」と思えるのですが…いかがですか!

◆8世紀ワリ人・怒る!
 それよりも「オヤッ」と思ったのは、頭に付けた時、模様が横になってしまう…と言うことです。  
8世紀のワリ人はあの緻密なポンチョを織るのに、着る時の事を考えて複雑な模様を横向きにして織っていましたね。この頭帯を8世紀のワリ人が見たら「まったくぅ~、今の奴らはなっとらん、ちゃんと考えて織れ」と小言が飛び出すのではないでしょうか。又、綴れ織りのほとんどは目の粗密は別として、表裏の見分けがつかぬ程に両面が綺麗なのです(写真1)が…しかし、これも人の成せる技で例外もありました(写真4)。織り人の美意識というものはいつの時代も「人それぞれ」という事でしょうか。
又々この帯を8世紀ワリ人が見たら「まったくぅ~、今の奴らはなっとらん」と言うのでは…

◆絞りを真似て?
 14世紀、チャンカイ文化期に絞り染めが発展したと言われています。私が見た中でも、ガーゼのような薄手布に1㎝程の四角い絞りが1㎜にも満たない間隔で連なっているものがありました(写真5)。
(写真6)の1、5㎝幅の紐を見た時、「絞り布を見て同じように織ってみたくなったのかな?」と勝手に想像した私です。他に二重織りで織られた貫頭衣にも絞りを連想させるものがあります。(写真7)

 話が少々横道に逸れますが、アンデスの楽器でチャランゴという弦楽器(複弦で10弦)があります。もともとアンデス地方にあった楽器ではなく、スペイン侵略後にヨーロッパから入ってきた楽器を真似て作られたもの。音楽好きのアンデス人達はマンドリンの音色を聴いて「いいなぁ~」と思ったのでしょう。そこで目についたのが身近にいるアルマジロです。(別名:ヨロイネズミ)マンドリンの共鳴部分に似ている甲羅を見て「これだっ!」と直感したのかどうかは定かではありませんが、もともと食用として捕えていたので甲羅はゴロゴロころがっていたのでしょう。
今でも立派な楽器として使われています。顔の部分もしっかりついていて甲羅には毛も生えていて、まるでアルマジロの剥製のようです。但し10数年前、ワシントン条約で捕獲禁止動物に指定されたので今では作られていないはずですが。
 この様に古代の人々は織りであれ、楽器であれ、そのまま真似をするのではなく、自分の得意分野を生かしての物創りをしていたように感じます。

◆飾りとしての綴れ
 (写真8)は投石紐の一部分です。実用品として作られたというよりも、きれいな状態…なので埋葬品ではと思われます。4世紀頃のもので綴れの緯糸以外はアロエ又はパイナップル繊維といわれています。端の握り部分は配色を変えて6層に織られ厚みを出しています。石を投げた時に紐を掴みやすいのと、もしかして6層の中に手を入れて更に手が離れないようにしていたのかもしれません。知恵者のアンデス人ゆえ、どんな事を考えながら作っていたのでしょうか。機能と美的感覚を既にこの4世紀に持っていたのですね。(アンデスだけにのめり込んでいる私ゆえ他の世界の事はあまり知識がなく、ついアンデスは~と絶賛してしまうのですが語弊がありましたらお許し下さい)(写真9)の4本は縁の飾りまで考えられた紐です。
ハツリ処理等はあまり綺麗とは言えませんが、縁を後でかがっていたのを思えば一歩前進でしょうか。

 それにしても(写真1、2、3、4、)を見ての通り、この模様は何からデザインを起こしているのでしょうか? 宇宙人、バイキンマン?等、見る人は様々な想像をかき立てられます。ペルー人の説明では神様を表していて頭上の冠みたいのは神だけが持つオーラなのだそうです。ペルー人の彼らは一応キリスト教徒なのですが、その他に侵略以前から信仰している神様がいて、その両方を上手くミックスさせて生活しています。彼らが家に来ると、夜明けを待って裏山に登り、神が居そうな所に敷物を敷き、持ってきた食べ物を東に置き、東西南北にそれぞれ酒を振りまき、太陽の神と大地の神・パチャママにひざまずいてお祈りをし、ホラ貝を吹くのです。何度かついて行きましたが、なかなか厳かなものでした。(写真9)も簡単なパターンですが見ていると「自分でも模様を考えてみよう」などと遊び心がうごめいてきませんか!これらの写真はほんの一部ですが、見ての通りパターンも色遣いも自由なのです。
私自身、綴れはあまり興味がなく、見本作り程度にしか織った事がないのですが豊雲館に通っている内にとても織ってみたくなってきました。色も形も自由…とは言っても、さて…なかなか難しい!

◆夏期講座を終えて
 今回はスプラングポシェットという事で3日間苦戦させてしまいましたが、何とか皆さん完成することが出来ました。アンデスカラーのポシェットに大満足!

講座修了後に嬉しいお便りを頂きました。「講習の時に “自分で考えなくちゃ” と言うアドバイスを頂いて、“どうしても出来ない”と何度も試みていた紗と羅の組み合わせの織物を織る事が出来ました。大変簡単に織れる事がわかり、これからの作品作りが広がると思います。考えなくてはならないということを教えて頂けて本当に有り難かったです」とありました。講座の中で「どこからそういう発想が…」の問いに発した言葉だったと思うのですが、「自分で考える」と言う事…物創りの原点ではないでしょうか。古代アンデスの繊細緻密な技を見るにつけ自分の心に改めて言い聞かせています。 (つづく)


『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの素材(Ⅱ)絹-  富田和子

2017-09-26 09:36:03 | 富田和子
◆絹のイカットの正装
 サルン(腰巻)とスレンダン(肩掛け)はイカット、上衣は薄手の絹との組み合わせ

◆写真1 スラウェシ島の家蚕


 ◆写真2 スラウェシ島の繭

◆写真4 広い店内で…、この写真の前後左右にも、色とりどりの絹織物が所狭しと積み上げられている

◆写真5 インドネシアでも珍しい絹のイカット(緯絣)

◆写真6 日本では「バッタン」と呼ばれる飛び杼装置を備えた高機 平織りの無地や縞、格子、絣模様などを織る   写真の白生地はバティック用で、ジャワ島のバティック工房に販売される

◆写真7 穴の空いた紋紙により、経糸が開口するようにした装置をもつジャカード織機 複雑な紋織りが自動的に織れる

◆写真8 スラウェシ島南部、ブギス人の高床式の家

◆写真9 床下である1階で、蚕が飼育されている

◆写真10 自転車のペダルとチェーンを利用し、大きな糸枠が設置された座繰り器   左下の簀の子状の板の間に、煮た繭を挟み、糸を引き出す

◆写真11 綛揚げされた1kgの生糸

2007年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 46号に掲載した記事を改めて下記します。

 『インドネシアの絣(イカット)』-イカットの素材(Ⅱ)絹-  富田和子

 インドネシアの織物の繊維素材は主に木綿と絹であるが、イカットの素材としてはほとんどが木綿である。絹糸は光沢に富み、軽くしなやかで染色性に優れ、幅広い染織美の表現を可能とする素材であるが、インドネシアの豊富な染織品に比べ、国産の絹糸の生産量は極めて少ない。かつては絹糸で織られていたという緯絣も現在では織られることなく、絹のイカットが織られているのは、一部の地域のみである。

 ◆絹の歴史と各国への伝播
 蚕を飼って絹糸を取り織物にすることは中国で始められた。中国の養蚕の起源は他の国と比較にならないほど古く、新石器時代の遺跡から繭殻や、素材は家蚕の絹糸とされる平織の小裂、撚糸、組帯などが出土している。併出した稲もみの放射性炭素による時代判定では紀元前2750±100年となっており、この時代に中国では養蚕が行われ、絹織物を織っていたと推定される。その後の殷代(紀元前約1600~紀元前約1050年)には黄河流域で、すでに広く養蚕が行われていたと考えられ、紀元前の春秋戦国時代には錦が織られ、続く漢代(紀元前202~紀元後220年)は古代絹織物の成熟期にあたり、紋織、羅、経錦などの染織技術を持っていたことが報告されている。

古代ローマ(紀元前753年~)では、中国はセリカ(絹の国)と呼ばれ、同じ重さの金と取引されたように、中国の絹織物は重要な交易品として古くからシルクロードの陸路を経て、また南海の海路によって遠く国外に輸出された。しかし、製品としての絹織物は輸出しても、蚕を国外に持ち出した者は死刑に処せられたというほど、養蚕技術は長い間秘密とされていた。だが、2世紀前後に中国西域のホータンに養蚕技術が伝えられ、3世紀には北西インドまたはカシミール地方に、4~5世紀にはペルシアからシリアに、6世紀中頃にはビザンティン帝国に伝わったと考えられている。養蚕が最初に国外へ持ち出されたのは、1世紀の中頃、西域のホータンへ嫁ぐ王女が、桑の種子と蚕種を帽子の中に隠して密かに持ち出したことによるという。また、ヨーロッパに初めて持ち込まれた蚕種は、552年にビザンティン帝国の2人の僧侶が、杖の中に隠して運んだといったエピソードが今日に伝えられているように、美しく光る繊維による軽やかな絹織物は西方世界にとって長く神秘的な存在であった。それ以後、養蚕・製糸業は・u档rザンティン帝国からギリシアへ伝わり、イスラム教徒の手でさらに西方に伝えられ、10世紀頃にはスペインのアンダルシア地方がヨーロッパ随一の中心となった。

 日本に絹がいつ頃もたらされたかは明らかではないが、弥生時代前期中葉(紀元前100年頃)の甕棺から平織の絹布が出土したことが報告され、1世紀頃にはすでに伝わっていた可能性がある。また、3世紀半ばには、朝鮮半島を経て中国から伝えられた養蚕がすでに日本で行われ、絹織物が作られていたことが『魏志倭人伝』に記されている。

 インドネシアでの絹の使用ついてもやはり明らかではないが、1世紀頃、インドの文化と共に伝わった木綿よりは新しいと考えられている。中国の『宋史』には、10世紀後半にジャワ島のマタラム王国で養蚕と絹の機織りが行われていることが記されている。またポルトガル人によって著された『東方諸国記』には、16世紀初頭にスマトラ島産の絹が木綿と共に重要な交易品となっていたという記述がある。しかし、繭や生糸の生産量は少なく、絹糸の大半は常に輸入に依存してきた。このため、絹が使用されてきた地域は古くから外界との交流が盛んであったスラウェシ島のなどの沿岸地域に限定されていた。

◆絹織物の町
 絹によるイカットは、スマトラ島南部やスラウェシ島南部、バリ島において、括りと擦り込み技法による緯絣が製作されていたが、現在では、スマトラ島ではソンケット(浮織)が盛んに織られ、また、バリ島の緯絣は木綿糸が使用され、唯一絹のイカットが製作されているのはスラウェシ島南部のみである。稀少な存在となった絹のイカットはブギス人の伝統的な織物として、今でもわずかながら織られている。

スラウェシ島の玄関口であるマカッサルへはバリ島から飛行機で約1時間余り。マカッサルからトラジャへ向かう中間地点にシルクで有名なセンカンという町がある。町には販売店を兼ねた織物工房が何件かあり、様々な絹織物が製作されている。また、町の周辺では高床式の家の下で、女性達が織っている姿を見かけることもある。 店にある絹の布の種類は豊富で、無地や 紋織りの白生地や染色された生地、縞や格子模様、金糸、銀糸を織り込んだ布、オーガンディ、さらに刺繍やプリントされた布もある。全体の布量に比較すると、イカットは少なく、化学染料による色鮮やかな緯絣であった。ほとんどの布は地元センカン製だが、輸入品のタイシルクやインドのムンバイ(ボンベイ)からの絹織物も売られている。また、布以外では伝統的な衣装であるサルン(腰巻)やスレンダン(肩掛け)、上着、ブラウス、ワイシャツ、ネクタイなどに仕立てられた製品もあった。

◆家内工業の養蚕
 養蚕はセンカンの町を取り巻く周辺のソッペン、ワジョ、エンレカンといった地域で行われている。ソッペンの畑で、桑の葉を摘んでいる親子に出会い、その養蚕農家を訪ねてみた。

 高床式の家の床下である1階部分を塀で囲み、蚕が飼育されていた。蚕種は中国からの輸入品を用いるとのことである。蚕は約20日間で成長し、3~5日間で繭を作る。その繭を鍋に入れ、2分ほど煮て繭を取り出す。ナスの葉を使い、最初の糸を引き出し、糸を繰り、綛に上げる。できた糸はセンカンの織工房に売るのだという説明を受けた。 養蚕を行っている農家は多くはなく、この村では2軒だけということであった。

 センカンは、南スラウェシ州最大の湖であるテンペ湖のほとりにある町である。訪れた時期は雨期ではなかったが、たまたま長雨で10日間以上も雨が降り続き、所々で湖や川が氾濫していた。湖周辺の低地は洪水で、道路が切断されている地域もあった。浸水した桑畑で腰まで水に浸かりながら桑の葉を摘んでいたのが、案内してくれた親子だった。本来はその畑の先にある別の村の養蚕所を訪ねるつもりであったが、洪水で進めず、蚕も水に浸かってだめになってしまっただろうという話であった。

◆輸入に依存する絹産業
 現在インドネシアでは、ジャワ島西部とスラウェシ島南部が絹の生産地となっている。ジャワ島西部で生産される絹織物は工場で染色されて製品化される場合もあるが、主にバティック用の素材として、白生地のままジャワ島内で使用されるという。だが、いずれにしろ、原料の蚕種も繭も生糸も、国内の絹産業を支えることはできず、7~8割を中国からの繭や生糸の輸入に依存しているという状態である。また、量だけではなく、質においても、中国の糸の方がスラウェシの糸よりも質が良いので、質の良い中国産の糸と合わせて織られている。中国から輸入した絹糸はセンカンの糸よりも、 値段も2倍ほど高いが、センカンの店でも工房でも、中国の絹糸を使用していると聞いた。 さらに最近では、レーヨンの糸も使用されている。

絹を生産しない地域の緯絣はすでに織られることはなくなってしまったが、インドネシアにおいて絹の生産量が最も多いスラウェシ島南部には、かろうじて絹のイカットが存続しているようである。今後、いつまで残っていけるのか…、先行きが少々不安でもある。

「青の記憶」 榛葉莟子

2017-09-24 16:06:33 | 榛葉莟子

2007年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 46号に掲載した記事を改めて下記します。

「青の記憶」 榛葉莟子


 山里の一隅に暮らしているから見渡す風景は、森や林や田畑や拡がる大空に視界は占領される。占領されるなどと大げさかもしれないが見渡せばそういう事になる。この山里に海の字のつく小海線や地名に海の字を見つけることはあっても海は遠く、いくら背伸びしても風景のなかに海はない。木立ちをゆらす風の音はよせては返す潮騒の音そのもので、ここは海辺だったのかと錯覚する強風の夜がある。昔々、海を知らない山の民は潮騒の音を聞いた経験がないのだから風の音は潮騒につながらない。それはそれで風にまつわるさまざまな民話は語り継がれているが、そういえば私が初めてまじかに海を経験したのはいくつくらいだろうか。初めて見た海にどう反応したのか知りたいものだけれどまったく覚えていない。反応するくらいの感動や驚きを経験として記憶するにはいかにも幼すぎ、内なる磁石は意識かされていないが、自分の感覚のクレヨンは知らぬまに心を彩色しているのだろう。記憶の中の情景と思っていたものも、後から親や兄弟に聞かされたことだったりする。それでもそれはそれで懐かしいその時として心に残っている。ほら、あの時お父さんが真桑瓜をむいてくれたじゃないと言った姉の言葉の中の、黄色い真桑瓜と甘い匂いと父が、父との記憶がない私の中で唯一つながっている初めての海のようだ。

 海に行った。海の風景を経験するには山を超えた向こう側に出かけていくしかない。海水浴場というよりも大きな海が見たかった。伊豆半島のさきっぽの海まで遠出する。向かう山路をくねくねと車は走り続けた。いったいいくつの峠を超えただろう。濃い緑の山路のいくつめかを登りきる頃疲れたねえの言葉が口を突いたのと、突然視界がひらけたのとが同時だった。ひらいたのに一瞬視界をふさぐかのような錯覚を見た。わっ、太平洋だ!。一面の青い海に息をのむ。その大きさは眼からはみだす大きさで青だけがしんとひたすらしーんと眼前に静まりかえっていた。怖いくらいだね。空と滲み合うかのように遥か彼方に霞む水平線の微妙なカーブを感じる。地球の上に立っている自分を実感する不思議なリアル。あの水平線の微妙なカーブは、そこで終わりではない向こうへ続いていく気配のカーブだ。地球の丸さが頭にある先入観の目は新鮮な目とは言いがたく、過去の人の目を感じるなどと堂々とは言いにくいけれども、かって、過去の人々は果てしなく続く大海原の地平線を遥か遠くに感じ、向こう側の未知に誘われ動きはじめたのだろうか。尊敬する冒険家という意味での無鉄砲な人々がいた。無鉄砲な過去の人々の連なりの今、過去の人に想いを馳せ、追悼している意識の流れの心境も妙だなと感じつつ、深い青の海はしらずしらず神妙な気持ちにさせる。無鉄砲といっても現代人の無鉄砲さはかなり暴力的破壊的で、そこに冒険の匂いのかけらもない。すでに無鉄砲の解釈はちがっているのかもしれない。この生傷のたえない地球を過去の人々はどんなふうに見ているのだろう。

 左側に海を望みながらまだ明るい山の下りの道を車はそろそろと動く。太平洋ひとりぼっちの冒険家のヨットが波間にちらっと見えたかと思ったら光の屈折だった。

 本当にこの夏は高原地帯のここでも扇風機を回したので、日本国中異常な暑さだったことになる。このまま暑い国になってしまうのかと心配がよぎったけれど、やっぱり秋はやってきた。約束どうり春はやってきたと誰かの詩の中にあったけれど、季節の変わりめになるとこの詩のこのせりふが口にでる。春には春が、夏には夏が、秋には秋が、冬には冬が約束どうりやってきたと声にしてみる。新しい季節を待つ待ち遠しさは失わせたくないものだ。待ち遠しく何かを待つときめきは生命を輝かせる。人は感動と無縁では生きられない。次、次が前方に口を開けている。未熟、未完成、未来、未知…みんな未がつく。向かう姿勢の言葉ばかりだ。はてなと思い辞書を引く。未とはまだ時がこないこと、まだ事の終了しないこととある。向かっているのにまだまだなのだ。終了しないのだ。そうやって人間は延々と未知に挑み続けることで新しいかたちへと変貌していくのかも知れない。それは自分の事として自分を通して感じている。ある時期自分にやってきた確かな実感は魂とか心にかたちはあるという確かだった。自分の内部の変貌がかたちを生む。汲んでも汲んでも沸きい出る泉は本当に在る。それは自分の前にきりなく立ちはだかる未完成未熟な自分に気づくたびごとに教えられる。人間は人間に成っていくのだよと、むかしむかし、サンテグジュベリの言った一言に今も勇気ずけられるいまだ青くさい自分がいるのだなあと、しわのふえた顔を覗いてびっくりするのはやめようと思う。

 ルリイロカミキリ虫を庭でみかけたのは水まきしていた暑い盛りだった。あの瑠璃色の青は尋常ではない青だった。大いなる存在の眼差しをカミキリムシに感じた夏の、後ろ姿を見送る。

こどもの造形教室 2007年夏合宿 吉川紀子

2017-09-23 09:44:47 | 吉川紀子

2007年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 46号に掲載した記事を改めて下記します。

こどもの造形教室 2007年夏合宿 
『昆虫の神様と出会う』-こんにゃくと戦ってしまった夏-  吉川紀子


 群馬のこんにゃく畑を初めて訪れたのは、すでに暑くなり始めたゴールデンウィークの真ん中でした。まだ畑は土を掘り起こした状態で、こんにゃく芋の赤ちゃんは倉庫に眠っていました。今回お世話になった小林さんによると、これから芋を植えて、夏には膝くらいの背丈のこんにゃくの芽が畑一面に広がるとのこと…頭の中で想像した風景と、畑の向こうに連なる山々と、そしてこんにゃく芋を育てる時の虫との関わりを聞いたこととが、映像のイメージとして浮かんできました。これが、合宿のテーマを決定した瞬間でした。このこんにゃく畑という場所を生かして、子供達が自分で作ったこんにゃくを食し、みんなで考えた大きな虫の神様をこんにゃく素材で造り、それを青い空の下に広がるこんにゃく畑に設置する…実際に畑を目にした時のあのイメージを現実にするべく、東京に戻り、素材作りに奮闘する日々が始まりました。
 
 こんにゃく素材は、こんにゃく芋とこんにゃくパウダーの両方から作る事にし、本来のこんにゃくと同じように茹でたものを天日干しにした素材と、茹でずに板の上で形を整えてそのまま天日干しにした素材を作りました。東京テキスタイルの教室は日に日にこんにゃくの匂いが立ち込め、梅雨の時期であったということもあり、カビにも悩まされながら(結果的には、このカビがパウダーの素材に天然の色彩として定着してくれたのですが…)私がこんにゃくを作り、所長の三宅さんに天日干しを手伝って頂くという繰返しの毎日です。その繰返しの毎日の中で、これが自然の素材であることー同じように作っても、タイミングや干す時のカタチや厚さで、何と出来上がる素材の表情の違うこと!ーの凄さを感じました。素材は生きているということ、手をかけなければ見せてはくれない表情があるということをこんにゃくから教わったのです。これを子供達にも伝えたいとワクワクしながら作った素材は増えていき、芋はピリピリと手に痛みを与えるほどの生命力で黒く固い素材となり、パウダーは半透明のしなやかな素材となりました。どちらもまさに虫の抜け殻のような質感でした。

 そして、合宿当日…東京では以外とおとなしかったこんにゃく素材が、ふるさとの群馬で予想外にのびのびとした動きを始めたのです。わたしが見せてもらった表情はひとつの側面でしかなく、湿度などその環境によってこんなにも表情が変化する自然の素材の『凄さ』を見せつけられました。最初は子供達と、水につけて柔らかくした棒状のこんにゃく素材を型に沿って織物のように縦横と置いていき、その状態で太陽にさらし、素材が乾燥して再び固くなるのを待ったのですが、なかなか東京で実験したようにはうまくいきません。とにかく予定をしていたカタチにしようと必死に造っていくものの、こんにゃく素材は水気を吸ってカタチを維持してくれず、最終的には針金と棒を使ってどうにか大人の力技で写真撮影まで辿り着くことができました。

 この経験が、今までとは180度違った方向からの造形へのアプローチを考える糸口になりました。無理からカタチを維持することが完成形のすべてではなく、その素材がどういうカタチになりたいのか、もしかしたらどんどん変化してゆく作品もおもしろいのではないか。素材と戦うのではなく、その素材の声を探ることも造形の楽しさのひとつではないかと思ったのです。そして、その楽しさを子供達と一緒に見つけていけるような課題を取り組みたいと思いました。

子供の目線を忘れず、素材の声を聞き、造形していく…考える切り口はたくさんありますが、それが造形の楽しさであり可能性のあるところだと思うのです。今後、またいつか子供達と再び
こんにゃく素材に出会いたいと思います。本当にいろいろなことを教えてくれた、こんにゃくという素材と、自然と、群馬の方々のご協力に感謝をしたいと思います。