ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「風景から」 上野正夫

2016-06-04 17:21:24 | 上野正夫
◆「Nontitled」ロイ・スターブ 1996年 千葉県鴨川市で制作 稲

◆「Fort」 上野正夫  1992年  
千葉県で制作  竹

◆「VSOPシリーズ」 上野正夫
1998年  中国海南島で制作
シュロ、珊瑚、羽

 ◆「Kilmagon Crossing」 バレリー ・プラグネル
1997年  スコッランドで制作
(Kilmagon Crossingは設置した場所の地名)

◆「Hkllow Spruce」 リチャード・ハリス
1989年  イギリス・グライズデールで制作
スプルスの枝


◆「Birrigai」リチャード・ハリス
オーストラリアのキャンベラで制作
倒木と石


◆「しめ縄」 パトリック・ドリティー
1992年  千葉県鴨川市で制作

2000年2月1日発行のART&CRAFT FORUM 16号に掲載した記事を改めて下記します。

 「風景から」      上野正夫(造形作家)
 竹材を求めて内房の海沿いの町に移り住んだある日、海岸に漂着している竹を見つけた。その周辺にはユリカモメの羽や藁やススキや貝殻、流木などが漂着していた。これらの物を編んで小さな作品にできないかと思った。83年の春のことだった。その場所で見つけた素材を使って、風景の中で作品を作ることは、四季の移り変わりの中で変化してゆく風景との関わりの中から作品をつくり出す俳句の手法とも共通する。この年にVSOPシリーズという一連の作品の制作を開始した。Very Special One Place Productionの頭文字をとった。特定の場所で素材を採集し、そこで制作する作品。風景の中から素材とテーマを引き出して制作するこのVSOPシリーズは、その後、私の作品の方向を決定づけた。

 このVSOPシリーズが評価されて、90年にイギリスのグライズデール野外彫刻公園に彫刻家として制作のために招待された。グライズデールのテーマはSense Of a Placeと言う言葉だった。場所の感覚だ。「それぞれの場所にはその場所が発する固有の感覚がある。」と言う考え方だ。イギリスには、ターナーやワーズワースの風景画や田園詩の伝統がある。グライズデール野外彫刻公園は湖水地方のワーズワースが住んでいた町のすぐ近くにあった。この野外彫刻公園はデヴィッド・ナッシュやアンディー・ゴールズワージィを育てた事でも有名だ。そこで、リチャード・ハリスという彫刻家に出会った。広大な国立公園の中には彼の作品がいくつもあって、そのすべてが完成度の高いものだった。森は鹿やウサギや多くの野鳥の住処でもある。また、公園の中には小さなもいくつか含まれている。彼の作品は森の生態系や地域の伝統を背景にした、その場所でしか成立しない、場所から切り離せない、根の生えた作品だった。彼の作品を見るには森の中を一時間ほど歩かなくてはならない。森の入り口にパーキングがあって、車はそれ以上は入れない。車を降りて森の大気が身体に十分浸透してから、彼の作品に出会える。作品を観賞する人の体が森の空気になじんだ時に始めて彼の作品に出会えるのだ。私の作品も含めてグライズデール野外彫刻公園に100以上ある多くの作家達の作品はすべてそのように設置されている。制作や設置の場所は制作する作家が決定する。つまり設置の場所(Site)そのものが特定されていて(Specific)作品と分離できないという意味なのだ。

 グライズデール野外彫刻公園へは、日本からもたくさんの人たちが視察にいっている。そのほとんどすべての人がリチャード・ハリスの作品を一番すばらしいと言う。彼は海外の作家仲間の間でもかなり高い評価を受けている。しかし、かれの作品はSite Specific Sculptureなのでその場所に行かないと理解できない部分がある。つまり移動できないのだ。その場所の大気の中ではじめて意味を持つ作品だ。だからその意味ではローカルな作家だ。ローカルに活動している作家達は多いのだが、彼のようにグローバルに評価される例は希少だ。彼のほとんどの作品はイギリス国内にある。その多くは時間の中で朽ちて消滅していく。彼は時間の経過にも特定な意味を感じているようだ。イギリス南西部の有名な貴族の家庭で育った彼は、ある意味では当地のケルト的な知を代表する作家の一人かもしれない。そしてローカルに活動している自分の立場を楽しんでいる。あえてグローバルに活動しょうとしない。また自分の作品のプロモーション(売り込み)もほとんどしていない。ただ、作品、作品の制作に全力を尽くすだけだ。作品集の制作にもほとんど興味を持たない。ギャラリーでの個展もほとんどしない。それでも、彼が設置した作品の質の高さを評価する人たちが次々に制作を委託する。それを支える事ができるイギリスの文化は、成熟して層が厚いように見える。

 1991年にイギリスのマンチェスターの近郊で「柳の新しいかたち」(原題はNew Forms in Willow)という柳を使った野外彫刻展が開催された。友人のイアン・ハンターというアイルランドのダブリン生まれの彫刻家が企画した。彼はアメリカのシカゴインスティチュートの大学院で博士課程の勉強をしている時に、ロシア構成主義やバスケタリーに出会っていた。バスケタリーは、彼がアメリカにいた70年代にアメリカで起こった篭を造形として見直す運動だ。この時に彼が企画した展覧会には、ヨーロッパ各地やアメリカから16人の作家が招待されて制作した。アメリカからはジョン・マックイーンとパトリック・ドリティーが、イギリスからはリチャード・ハリスとヴァレリー・プラグネルが招待された。この展覧会でパトリック・ドリティーとヴァレリー・プラグネルがすばらしい作品を制作した。それが評価されて、翌年二人はそれぞれ別の基金で日本に招待された。

 日米芸術家交換計画(Jpan-U.S Creative Art fellow)で来日したパトリック・ドリティーは、街路樹から剪定された枝を編んで巨大な作品を作る作家だ。街路樹から剪定された枝は、アメリカでは大量なごみとして野外に積み上げられているそうだ。一人で二週間ほどの間で巨大な作品を作る体力は並み大抵のものではない。けれども、助手を使って自分は監督するという方法はとらない。作品に残された彼自信の手の痕跡を大切にするからだ。ノースカロライナの有名な医師の家庭で育ったパトリックは、大学院を出て病院でカウンセラーとして働いていた。ある時に自分の手で自宅を作った。あまったレンガで自宅の庭に立体作品も作った。身に来た客が口々にほめるので、美術大学に入学して彫刻を勉強しなおした。彫刻家としては異色の経歴だ。彼の作品はインディアンの家の骨組みや食料を貯蔵するための大きな篭がヒントになっているようだ。作品がSite Specific Sculpture(sculptureは彫刻の意味)なので、販売がむづかしい。作家としては欧米でよく知られた存在でも、商業主義が徹底しているアメリカ東部の美術界の中では主流ではない。そんな事はノースカロライナの田舎でのんびり暮らす彼にとってはあまり気にならないようだ。彼はのんびり自分の制作を楽しんでいる。

 その年に、有機農業で有名な南房総の三芳村で「感じる自然展」という野外彫刻展が開催された。来日中のヴァレリー・プラグネと日本人の私が作家として招待された。ヴァレリーはあのマッキントッシュが設計したグラスゴー美術大学の出身で、自分の文化的な背景を大切にする作家だ。よくケルトの渦巻き模様(スパイラル)を作品につかう。柳で篭を作るのも、みずからの文化的伝統を尊重する立場からだ。パトリック・ドリティー(Patric Dougherty)の名字はスコットランドの医師の名字だと言って、彼の事をスコットランド風にドックティーと呼んで、アメリカ風の発音でなくて、これが正しい呼び方だといって譲らなかった。三芳村でもスバイラルを使った作品二点と篭の技法を取り入れた作品を一点制作していった。

 96年には日米芸術家交換計画でロイ・スターブが来日した。アメリカ東部の大学院でロシア構成主義の影響を受け、ヨーロッパに渡り画家として成功した。その後ニューヨークに戻って作品に大きな変化が出る。今までキャンバスに描いていた作品を直接地面に描くようになった。つまり、風景の中に、その場にある素材で抽象絵画を描いてその写真を撮って作品にするという方法だ。水面に映る作品を写真に撮って、その写真が作品になる事もある。日本では水田の美しさに感動して、田圃の中でも作品をいくつか制作した。パリからニューヨークに帰ってからの彼はもう画家でもないし、写真家でもないし、むしろ彫刻家に近い場所にいる。ニユーヨークの美術界をよく知っている彼が、パリに十数年滞在してからあらためてアメリカの美術界を見直した時にそのような立場をとったのかもしれない。決して有利な立場とは言えないが、それに固執しているところが強いところだ。現在は自分の生まれ育ったミルウォーキー近郊の町に戻って、シカゴやニューヨークで作品を発表している。

 風景の中で制作する作家達は頑固な作家が多い。風景の中に身体を置くと言うことはかなり体力のいる作業だ。雨の日も、雪の日も制作する場合がある。自然の力を身体で受け止めて制作するための意志が必要とされる。自然が必ずしも人にやさしいとは限らない。その中で、相手の立場を尊重しつつ制作を続行するにはかなり強固な意志が必要なのかもしれない。人間の身体も自然の一部でありその反映であると考えるのなら、彼等の意志は自然との対話のなかで強化されたのだろう。自然の中に無防備に放り出された独りの人間は、それほど強固なものではないのかも知れない。彼らはそんな場所から出発しているように思える。                   (うえの まさお)

「Arte Sella」上野正夫

2016-05-28 10:28:13 | 上野正夫
◆Arte Sella 上野正夫
Italy September 1998
1.5m×70m
bamboo,spruce

1999年2月10日発行のART&CRAFT FORUM 13号に掲載した記事を改めて下記します。

 ARTE SELLA         上野正夫(造形作家)

 成田を11時にたったAlitaliaのミラノ行き直行便は、十数時間の平凡な飛行の後、同日の現地時間午後4時すぎには美しいアルプスの上空を飛行する。天候がよければ、眼下にアルプスの山々を見下ろすことができる。旅客機がアルプスの氷河を越えて、数分たつと窓から緑の牧草地が見えてくる。アルプスの南側斜面で、ここが南チロルと呼ばれる地方だ。

 この地方は古くから、オーストリアに塩を供給していたので、オーストリアとの関係が深かったが、第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー君主国が崩壊した際にイタリアに併合された。当時、イタリアとオーストリアの国境にあるこの地域は激戦地となった。この戦争で、未来派の代表的な作家であるUmberto Boccioniは落馬し33才の若さで戦死した。戦争はその後の未来派の活動にも大きなダメージを与えた。

 私達が招待されたARTE SELLAという名前の現代美術展は南チロルの山あいにある標高1200m程のセラという村で2年ごとに開催される環境美術のビエンナーレだ。ヨーロッパでは最も知られた環境美術の展覧会で、98年には6名の美術評論家からなる選考委員会が世界各地から14名の招待作家を選考した。日本からは私が招待された。

◆ジャネット・ジッベル  1998
 私が8月の末に宿舎のマルガ・コスタに到着した時は、ドイツのシュトットガルツからJeanette Zippelが来て制作していた。マルガ・コスタはレストランを改装したもので、暖炉がある部屋を含めて、寝室6室、屋根裏部屋、ホール、ダイニングキッチン、で構成されていた。この宿舎の前には大きなブナの木があって、その木の葉がARTE SELLAのシンボルマークになっていた。招待された作家は7月の上旬から9月の末にかけて都合のいい時期に一ヶ月ほど滞在し制作していくシステムになっている。ジャネットはミツバチを研究していて、蜂の巣を彫刻作品として制作する作家だ。蜂の集団の動きを視覚化した抽象絵画も制作する。蜂の集団の動きは人体の「氣」の変化に似ているそうだ。落ち込んだ時には、アルプスを背景によく太極拳をやっていた。湖に廃棄されていた木造のボートからていねいに塗料を取り除いてミツバチの巣を制作していった。
◆ディミトリー・クセナキス   1998
 私が着いた日に、パリからバイクでやって来たフランスのDimitri Xenakisは遠近法の概念を特定な場所に持ち込む作品を制作し続けている。まだ30代前半の若い作家で、パリの郊外に工場を借りて制作している。ディミトリーは1週間ほどの滞在の後、自ら選定した傾斜地に遠近法を利用した巨大な作品を設置する計画案を完成した。作品の完成までにはかなりの困難が想定されたが、彼の頑強な身体はその困難をなんなく乗り越えた。両親はギリシャ人で、彼がまだ子供の頃に一家そろってフランスへ移住したと言う。少年の頃にギリシャの美しい自然を体験した事が、彼を野外での制作に駆り立てたようだ。私の場合も祖母と父が山歩きが好きで、幼少の頃、よく故郷の信州の山を登った。そんな体験が現在の私の制作に結びついているに違いないとあらためて思った。

 宿舎は麓のBorgo-Valsuganaの町から車で40分程の牧草地の中にあって、宿舎から車で5分程の所にレストラン・カルロンがある。他にはチーズを作っている牛舎が一棟あるだけで、近くにはなにもない。みんな制作に全力を尽くすので、夜、ボルゴの町まで食事にいく余裕はない。疲れ切ってカルロンで食事するだけの毎日だ。

 レストラン・カルロンはARTE SELLA協会指定の食堂で、40席程度の食堂と、カウンターと二つのやや広いテーブルのあるパブと、外には広いテラスがある。夜になると私たち三人は協会から支給された食券を持っていって、カルロンの特別コースをいただいた。コースの選択肢はいくつかあって、南チロル独特の風味のややこってりとした味付けだった。昼間のカルロンには山歩きの観光客が来て、野外のテラスまでいっぱいになった。夜になると付属のパブに近くの林業者達のグループが仕事の後で集まった。

 カルロンでの会話は、お互いの国の話になった。シュトットガルツから来たジャネットは、自宅の近くに日本人の作家が住んでいて、アートに対するサポートが最悪の国だとか、日本の事情をよく知っていた。特に日本語にはなぜ男言葉と女言葉があるのか、不思議に思っているようだった。パリから来たディミトリーは美術史を教えていた事もあり、国どうしの文化的背景の違いによる誤解について、よく話した。時々、ARTE SELLA協会の創立メンバーで画家のエマニュエルも会話に加わった。彼はあの有名な画家ジオットの子孫の一人だ。日本映画をよく見ていて、MizoguchiやOzuの映画手法についてよく話した。夜も更けると、ワインの他に、強いお酒のグラッパやへんてこなパラパンポリも出てきた。

◆クリス・ブース  1998
 9月の上旬になって初雪が舞った。その頃、ニュージーランドのカレカレからChris Boothが来た。クリスはニュージーランドを代表する彫刻家で、ここ10年ほどは石に穴をあけてステンレスワイヤで結んだ作品を作り続けている。彼は若い頃にバーバラ・ヘップワースとマリオ・マリーニに師事していて、イギリスやイタリアでも活躍している。私が90年に招待されて制作したイギリスのグライズデール彫刻公園に彼も93年に招待されて制作していた。私のグライズデールでの作品についてはよく知っていた。イギリスのグライズデール彫刻公園は70年代の初期に始まった、生態系を重視した彫刻公園で、いち早くアーチスト・イン・レジデンスを取り入れて成功したと言う点でも、世界の美術界のパイオニアであった。ここでは、地元の林業労働者達が招待された彫刻家と対等に対話した。その結果、デビット・ナッシュやアンディ・ゴールズワージー等の多くの作家を生み出した点でも、世界的に注目された。クリスがグライズデールを体験していると言うことで私とクリスの間にはある種の安心感があった。ある種の共通の感覚を身に付けていると想定できるし、共通の友人もいるからだ。驚いた事には、彼は1948年12月30日の生まれで、私はその三日後の生まれだった。海外で制作していると、同世代の作家によく出会う。

◆Chingiz  1996
 ある日、ディミトリーが森の中で制作していて一つの銃弾を拾った。80年前の戦争の落し物だった。私も森の中で、すり鉢の形をした穴をいくつか見つけた。大砲が作った痕跡だそうだ。これでレストラン・カルロンの壁にかけられている、あのシュールシアリズム風の戦争画の意味も解けたような気がした。この絵は食事の時に毎日目に入った。この地域に住んでいる人々もイタリア語を話す人とドイツ語を話す人が混在している。ヨーロッパには、歴史的背景が複雑な場所が多い。だから、民族問題にも敏感で、この問題に関する軽率な発言はできるだけ避けているようだ。ここの人々は、80年前の戦争のことも50年前の戦争のこともあまり触れたがらないし、私から見ると忘れようとしているようにも思えた。けれども、都会のミラノやパドヴァでは、軍服を着て、帽子に羽をつけた若者のグループをよく見かけた。ネオ・ナチに共感する若者達だそうだ。イタリアの絵画やデザインの世界では新未来派という言葉もよく使われていた。

 クリスは、森の中で見つけたすり鉢の形をした大砲が作った穴の上に再生を象徴する石の彫刻を作った。この地方では、古代、山々の聖地にヒンズー教のリンガに似た石の彫刻を作る習慣があって、彼はそれについてよく研究していた。彼がここで制作した作品についての評価は別れた。地元の人達の中には、忘れようとしていることをあえて思い出させる作品なので、嫌いだという意見もあった。

 9月の中旬になってノルウェーからHelge Roedがきた。60年代のランド・アートやアース・ワークの影響をうけた作家で画家でもある。その華々しい経歴にもかかわらず温和な性格で、短期間のうちに大きな作品を制作していった。

 私は100個の竹篭をスーツケースの中に衣類といっしょにたたんで持っていって、現地で組み立てて、杭の上に取り付けた。国境を象徴する98本の杭の上に、繭の形の篭を一個づつ取り付けた。杭の間隔は、野生の鹿が通り抜けられるように、1mほどにした。国と国との境界で様々な文化が交差する中から、何か新しい物が生まれる事を期待しての造形だ。作品のタイトルはつけなかった。展覧会の初日には4000人がALTE SELLA98を見に来た。竹の繭が風に揺れて動くのが面白くて、多くの人達がわざわざ急な坂を登って、私の作品を見に来てくれた。
◆ジュリアーノ・マウシガ  1992
 滞在中には多くの人々に制作を手伝ってもらった。主として、ボルゴの町役場の林業部門の職員が仕事として手伝ってくれたのだが、その人たちを指揮するのが、ボランティアのマリアーノだ。マリアーノはスキーのコーチの仕事を引退して悠々自適な生活を送っている陽気なイタリア人だ。英語とわずかなフランス語しか話さない日本人の私に辛抱強くイタリア語を教えてくれた事は今でも忘れられない。通訳をしてくれた高校の先生のローラやマルチェロ。写真家のアルド。宿舎の掃除をしてくれたアントネーラ等、多くのボランティアの人々の支えでこの展覧会が成り立っていることは、とてもうらやましかった。
 Nils-UdoやGiuliano Mauriを生み出し、1986年から続いているこの展覧会は、多くのボランティアに支えられ、今後も陽気に展開していくにちがいない。
◆宿舎の近くから見た風景

「竹のドラゴンボール」 上野正夫

2016-01-20 14:09:25 | 上野正夫
1997年3月20日発行のART&CRAFT FORUM 7号に掲載した記事を改めて下記します。

竹のドラゴンボール(埼玉県秩父郡吉田町での試み)
 1992年の10月に千葉県安房郡三芳村で「素材・感じる自然展」という野外彫刻展が開催された。私と英国のValerie Pragnellの二人の作家が村から作品の制作を依頼された。作家が自分で作品の設置する場所を選定する事や、その場所から受ける印象を作品の主要なテーマにする事などで当時話題になった。この時に制作された作品を見に来て感動した吉田町の人たちから、私たちの町でも同様の制作ができないかという相談があった。
 そのころ若手建築家の日詰明男が、自ら考えた星篭を竹を使って大きなスケールで作って見たいと考えていたので吉田町の人達に紹介することにした。彼は高次元幾何学の専門家で準結晶建築を実現するための具体的な架構技術をすでにいくつか発見していた。星篭もその一部であった。吉田町の人たちは星篭の制作にあたって、ボランティア・グループを結成した。30代から40代の人達が中心のこのグループは日詰明男の星篭をもじって「星ボックリの会」と名づけられた。文化活動がボランティア・グループによって始められ、その後、NonProfitable Organization(非営利機構)やFoundation(財団)やSocity(ソサエテイー)に発展していく事は、欧米ではめずらしくない。けれども日本では、造形美術に関する活動に対して人員や資金の支援をするために自発的にグループが組織された例はまれだ。今後予想される政府による関連法案の整備に合わせて星ボックリの会の組織もはっきりしたかたちになってくるのかもしれない。欧米での文化活動の現状をかんがえると、日本にはめずらしい将来性のあるグループだと言える。

 日詰明男の計画にしたがって星ボックリの会は長さ6mの真竹を300本伐採し制作を手伝った。竹は水はけのよい急な斜面にはえている場合が多いので、伐採の作業は急斜面の藪の中を6mの竹をかついで上り下りする事になり、慣れている人でもかなりきつい仕事だ。藪蚊との闘いも大変だったようだ。1994年の11月には300本の竹の伐採を終えて制作を開始した。その冬には日詰明男と星ボックリの会による直径8mほどの星篭が西秩父を見下ろす丘の上に完成した。日本で最初の準結晶建築の実現でもあった。この作品は筑波大学で開催された形の科学会で発表され大変好評だった。彼はこの後、町の保険環境課からの依頼で「黄金比の階段」を作った。小さな谷の勾配をたくみに利用して自然素材で作った階段は風景の中に溶け込んで、違和感を感じさせない。階段の歩幅が黄金比になっていて歩きながら黄金比のリズムを感じさせるように設計されていた。風景に調和して、さりげなく道路の脇から山頂に向かって延びているこの階段は、コンクリートの土留で覆われた山道の単調さに比べれば数倍楽しい。このような完成度の高い作品を受容する地域には、それを判断するためのある種の共通な感覚に基づく基準がまだ残っている様に思える。秩父地方は関東でもかなり古くから開けた地域で、かっての文化的な蓄積が今も息づいているのにちがいない。

 1995年の2月には山形県山辺町の「まんだらの里雪の芸術祭」で招待されて来日したイギリスのTrudi Entwistleが山形からの帰りに一週間ほど山逢いの里に滞在した。彼女は私の友人のIan Hunterという彫刻家の大学での教え子で、植えた柳を編み込んで大地に根付いて成長する彫刻を作り出すまだ20代の作家だ。関東で柳が芽吹く2月の下旬が柳を植える時期だといわれる。星ボックリの会の人達は町中の柳を探したが、造形に適した行李柳は見つからず、河原に自生していたネコヤナギ等を植えて作品が制作された。柳は水辺を好み、枝をさしただけで簡単に根づく生命力のある植物だ。今では、龍勢会館の水辺に作られた作品の一部は完全に根づいて、今後の展開が期待される。生きた柳を毎年編む事によって形を作っていく彫刻は植えた瞬間には完成しない。その年に伸びた枝をそのつど編み込むことで少しずつ形を形成していく。むしろそこに住んで毎年作品を管理する側の人達が作品を完成させると言ってもいい。その意味では、Trudi Entwistleの仕事はそのきっかけを作っただけかもしれない。その後、彼女はいくつかの計画案を星ボックリの会へ送った。

 私は1996年の4月から1997年3月まで東京テキスタイル研究所で「竹の教室」という講座を担当した。竹を単なる素材としてではなく、それをとりまく環境やその地域の文化も含めて竹そのものを総合的にとらえることを目的とした講座だ。97年の1月と2月は、吉田町の山逢の里で合宿し、野外作品を生徒達が中心になって共同制作した。「山逢の里」は吉田町下吉田に出来たキャンプ場で、コテージや宿泊棟や大きな浴室棟もあり野外活動のためにはかなり充実した施設だ。参加した生徒は実際に工芸作家として活動している人や教えている作家がほとんどで、かなりレベルの高い人達だ。11月に現地調査をして12月の授業で各自が原案を出して話合った結果、直径2m程の球体を3個、山逢の里に設置することに決まった。竹を使って球体の篭を三つ作ると言うことだ。使われる長さ6mの真竹30本は12月から1月にかけて星ボックリの会の人達が伐採してくれた。構造体は私が設計した。アジアやアフリカで古くから竹や藤を使って作られている鞠の形を骨組みとして利用した。実際のデーターはフラー(Buckminster Fuller)の作った物を参考にして、数理計算ソフトのMathematicaを使って作成した。この骨組みの方法は篭製作者の間で広く知れ渡っているが、大きな物を作る場合どうしても構造上の設計が必要とされる。

 1月11日と12日の吉田町は快晴だった。11日の1時頃に現地に着いて2時から竹の加工と骨組みの制作を始めた。竹割りと最初の骨組みの制作は私が担当した。先週積もった雪がまだ地面に残っていたが、日光の当たっている間はなかなかここちのよい温度だった。4時頃に秩父の山なみに日が沈むと、野外の気温は急激に下降し制作は困難になった。野外での制作は気象条件がかなり影響する。最初の骨組みの制作はすんなりとは行かなかったが、次からは順調に進み、12日の夕方には予定どうり骨組みが3つ完成した。直径40cmくらいの小さな球体が大きな球体といっしょにあると面白いという意見が生徒から出て、生徒達は家でそれぞれ1個ずつのちいさな球体を作ってくることになった。

2月1日と2日も晴天で作業はかなり急ピッチで進んだ。前回の制作で皆が竹のあつかいや現地の気象条件に慣れたのと、鞠の構造を体でおぼえた事が幸いした。人数も前回よりも多かった。3人の生徒と三宅校長親子とバスケタリーニュースの取材に来た篭作家の本間一恵氏と星ボックリの会の人達で十数人の集団になった。午後には目黒区美術館の榎本寿紀氏もかけつけた。骨組みの間にランダムに竹を編み込んでいく作業を続けた結果、生徒達が家で作ってきた3個の小さなボールと合わせて合計7個のボールができて、ボールの一部は龍勢会館の庭にも設置する事になった。龍が手に持っている宝珠(ドラゴンボール)の原形は意外にこんな形だったのかもしれないと思った。

 吉田町は龍勢で有名だ。毎年10月10日の祭りには全国から見物客が吉田町に集まり、静かな山里の様子は龍勢の豪快な発射音と共に一変する。龍勢は長さ十数mもある真竹の先に火薬をくくり付けロケットの様に天空に向かって飛ばし、その年の豊作を占う壮大な祭りだ。竹のロケットそのものも龍勢とよばれている。中国の雲南省やインドシナに広く見られる古くからの水神にちなんだ行事だ。龍勢は泰族の水かけ祭りの際に行われる龍舟のレースの時にも打ち上げられ、中国では高昇と呼ばれている。「龍勢会館」はアジア各地の龍勢を展示したり、吉田の龍勢をビデオで見せたりする、世界で最初の龍勢にかんする博物館だ。龍勢に関する研究センターでもある。町では、中国の雲南省シーサンパンナ泰族自治区まで現地調査に行っている。この時のビデオを見せてもらったが、雨期を直前にした景洪の町を流れるメコン河の河原で、竹で作ったいくつかの発射台から次々に打ち上げられる竹のロケットはすざましいものだった。泰族の水かけ祭りでの光景で、これも水神に関する祭りだ。私は竹に興味があって、かって一カ月ほど景洪の町に滞在した経験がある。近郊の村々では、寺院の仏像の背景には必ず水神のナーガが祭られていた。村外れの共同の井戸はとても大切にされ、村ごとに特徴のあるカラフルで装飾的な屋根がかけられていた。

 水神はインドシナではナーガで、中国に渡って龍になったといわれる。フラーの著書、TETRASCROLLやCritical Pathを読み返して見ると水神のナーガに関する記述がよくでてくる。フラーは竹などの六つ目編みによる篭の製作技術は竜(ナーガ)を信仰する海洋民族によって、南太平洋やアジアやアフリカのマダガスカルや南米の一部に伝えられたと考えていたようだ。六つ目編みによる竹篭を竜を信仰する海の民が伝えたとする解釈だ。中国語では、龍も籠もロンと読み同じ発音だ。ウーロンチャ(鳥籠茶)のロンだ。おそらくナーガ(龍神)の信仰と縄や篭の製作技術は大古の同時期に相互に関連しながら発生したものなのだろう。力学的にみると、縄も篭も一種のエネルギー集積装置だ。
 晩年のフラーはナーガに関する著書を出版する計画をしていたとも言われている。六つ目編みの六角形は球面を覆う為には12個の五角形になる。12個の五つ目編みによって編まれた球面がアジアやアフリカの海辺で古くから竹や藤を使って作られている鞠の形の一つだ。これがフラーが提案した31個の大円のうちの6個の大円にあたる。
竹は雨期のある地域に成長するし、加工する時もよく水につけるので水と関係が深い。そもそも青竹そのものの比重は水に近い。そんな事もあってか、竹の教室の生徒達と星ボックリの会の人達によって作られた7個の球形の篭は竜にちなんで「ドラゴンボール」と名づけられる事になった。











竹がつくった空間 上野正夫

2015-12-15 12:43:04 | 上野正夫
1996年9月25日発行のART&CRAFT FORUM 5号に掲載した記事を改めて下記します。

 この夏、私が住んでいる千葉県鴨川市で「場所と表現」をテーマに第2回安房ビエンナーレが開催された。ここで日米芸術文化交流基金の招待によって来日中のアメリカ人彫刻家Roy.F.Staab氏と制作する機会があった。彼はSite Specific Sculpture(その場特有な彫刻作品)を作る現代美術の作家だ。特定の場所から受ける印象を重要な要素としてその場所に彫刻作品を設置するのだ。自己主張を絶対的な根拠として風景を変質させていく近代の作家達とは少し違う位置にいる新しいタイプの作家と言える。アメリカでは葦を使って作品を制作しているが、日本へ来る前に私の所に手紙が届いて、日本では竹を使ってみたいと書かれていた。

 ロイ・スターブ氏の先生はキネテイックアート(動きのある芸術作品)のLaszlo.Moho-ly Nagy(1895-1946)の弟子だった。ハンガリー生まれのモホイ・ナジは、ロシア構成主義の強い影響を受け、ドイツのバウハウスで教え、その後にアメリカに渡って、アメリカの現代美術の基礎を作った作家の一人だ。20世紀の美術の中心に居続けた作家と言える。ロイ・スターブ氏の作品にもロシア構成主義の影響が強く感じられた。95年には、Homage to Tatlinというウラジミール・タトリンに捧げる作品も作っている。タトリンはロシア構成主義の指導者の一人で、彼が1919年に計画した高さ400mほどもある第三インターナショナル記念塔は、その後、世界の各地でミニチュアが制作されている。スターブ氏はその時、葦を編んで第三インターナショナル記念塔のように上昇しながら半径を小さくしていくスパイラルを作った。

 彼は、アメリカの美術大学を卒業してからしばらくの間、パリで抽象画家として活躍する。幾何形態を使った線による表現が多かったようだ。1983年頃からアメリカに帰り、以前はキャンバスに描いていた幾何形態を風景の中に、そこでみつけられる素材を使って描きはじめる。水辺で葦を採集して風景のなかに巨大な幾何形態を編み込むのだ。葦がない時は、石、海草、貝殻、新聞紙など、その場にあるものは何でも利用する。地面に棒切れで幾何形態を描いただけの作品もある。

 彼の使う葦は北アメリカでは、River Cane,Swamp Cane,Caneと呼ばれている。Caneと言っても藤とはまったく別のものだ。 Diane DixonとSteve Domjanovichによる「Native North American Cane Basketry」には、この葦は「Arundinariaとその変種で、北アメリカにある竹科の植物である。」と書かれている。Arundinaria gigantea、Arundinaria tecta等のことだ。北米インディアンは300年以上も前からこれらの竹で篭を作っていたと言われている。だから彫刻家ロイ・スターブ氏は北アメリカにおける竹の作家とも言える。日本で竹を使ってみたいと思ったのは、経験によって洗練された彼の直感からすればあたりまえの事だ。

 アメリカから来たこの竹の作家は、鴨川での制作場所として水田を選んだ。まず、水を張った水田の中でロープと竹の棒を使ってコンパスを作り、地面に幾何形態を描いた。次の日には、地面に描かれた幾何形態に沿って長さ5.5mの雌竹を30cmくらいの間隔で200本ほど垂直に立てた。最後に私が作った長さ8m程の真竹のヒゴを水面から2.5mの高さで水平に編み込んだ。3日目の夕方になると、田んぼの中に縦20m横15mの巨大な結び目が出現した。大地に作った大きな篭にも見えるし、水田に竹を挿した生け花とも言える。作品はWater Interlacing in Kamogawaと名づけられた。画家の高梨けい氏がこれを見て「水結び鴨川」と翻訳した。2.5mの高さに水平に編まれた単純な幾何形態が水面に映って、この映った映像が作品の本体だ。実体が作品ではなくて、実体が風景に作用した結果うまれた水田の風景全体が作品と言える。

 私は湖の上で8mの真竹の竹ヒゴを60本編んで直径10mの円を作った。輪口編みという手法で編んだ円は中心に直径4m程の丸い穴が出来て、その周りが四ッ目で編まれている。ゆるやかな流れの上に浮かんだ輪の編み目に水の流れが干渉して、水が編み目を作る。輪の中心では編み目が水流を静止させて風景を映しだす。水が作った編み目と中心に映し出された風景が作品の主要な部分だ。この作品も実体そのものより実体が風景に作用した結果うまれた現実全体が作品だ。これは影絵のように影を作品として考える発想とも似ているし、間を実体の様にとらえる事とも共通する。この発想に共通するのは、運動と関係性を重要な要素として考えているところだ。ロイ・スターブ氏の作品を映しだす水面は、かすかな風でいつもゆらいでいるし、私の作品が作りだした水流は絶えず振動していた。

 鴨川市民ギャラリーで7月28日に行われたスターブ氏のレクチャーでは、作品があまりにも日本的なのはなぜか、というような意味の質問が多かったような気がした。水田に作られた彼の作品を見に来た人たちの中からも、縄文的という感想や呪術的という意見があった。本人は特に東洋哲学を勉強したわけでもない。鴨川での作品は、彼が創作した数学的な形態を風景の中に残していくという手法の結果うまれたものだ。ただ自然素材で拡大された編み目を編むという方法がきわだっていた。竹は、編む時に人間が竹を持ち上げてそれぞれの部材を交差させる。この時に竹に作用した人間のエネルギーが、竹どうしが反撥しあう力として編まれた物の中に蓄積される。この蓄積されたエネルギーが編まれた形をささえているのだ。竹が反撥しあうエネルギーが、編まれた物全体をじょうぶにしているとも言える。だから竹で編まれた物体は、まさにプリミティブなエネルギー集積装置なのだ。縄の場合はもっと単純だ。ワラを何本かまとめて縄を作る時には、ワラをねじった時に人間が加えた力が縄に蓄積されているエネルギーだ。縄を分解して放置しておくと、しばらくしてねじった部分がもとにもどる。このもとにもどる力が縄の内部に蓄積されていたエネルギーだ。この力学的な現実が暗示する記憶によって、数学的に作られたスターブ氏の作品が不思議な生気を発散しているのだ。むしろ数学的であるからいっそう、素材や技法や風景の特性を顕在化させて見せてくれるのかもしれない。もしかすると、彼の作品は数学の特性さえも顕在化させているのかもしれない。

1996年8月 安房鴨川にて