生活空間の選択 -どこで生きていきますか- 三宅哲雄
「私は結婚したい! 誰か紹介してほしい…」 と研究室内の掲示板に記入したところ研究室に出入りするグラフィックデザイナーが妻を紹介してくれた。
人生で多くのそして多様な人々との深い繋がりを育むことが豊かに生きる一歩であると思ったからだ。
京都で勉強することになり研究室や下宿への挨拶で訪れた日、時間的余裕があったのでおおよそ平安京[東西4.5km、南北5.2km]の都が重なる南端の京都駅から北端八万遍の大学までを一時間ほどかけて歩くことにした。駅から鴨川に出て川の護岸を正面右側に右大文字、東に時折東山を見ながら上流に向かい、川のせせらぎを聞きながら幾つかの橋をくぐり今出川まで歩いた。台風か大雨の時だけ水の流れる幼少期に育った田舎の川や悪臭を放つ都会の神田川や多摩川が私にとって身近な川であったが100万都市の繁華街を流れる川が人との交わりを今日でも深め、人を川に導く姿は京都人だけでなく観光客も理屈なしに癒される場を形成している。護岸を上ると道路の中央は市電の線路が走り、車道、そしてたしかプラタナスで植樹された幅広の歩道の今出川通りを歩くとまもなく東山通りとの交差点が百万遍で、よそ者で生意気な若輩者がこれから十数年多様な人々と出会い、人生を決定づける機会に恵まれ、生きることを真剣に考えたホームグラウンドへの第一歩であった。
建都1200年、寺社仏閣は洛中洛外でおおよそ1760、観光客は4700万人、大学・短大は37校、学生数は14万人など政令指定都市の中でも群を抜く歴史と文化そして少数土着民の都市京都は他の都市と同様に人口構築物で造られているが、自然の重要な要素であるが掴みどころの無い光、水、風などを人々は永年に亘り快適で豊かな生活を求めて取り入れる工夫と努力をした結果、自然より人間にとって自然な町屋や河川へと改修を繰り返し今日の姿に作り上げてきたのであろう。
下宿の窓の下は白川で当初せせらぎは睡眠を妨げたが慣れると心地よく夏の暑さも川をわたる風が和らいでくれた。さすがに日中の暑さは絶えがたく馴染みの喫茶店に処を変えるか車を10~20分とばすと観光客には知られていない寺や庵が無数あり、日柄一日蝉の鳴き声や林を抜ける風の音を聞きながら縁側に寝転び過ごすことも日常であった。繁華街から車で30分も走れば北山杉の植林地に自然林が混在する森がつづき、川のせせらぎや鳥や虫の声に癒され自然の中に包まれる時を享受したとき植生などが異なるものの幼少の時をすごした郷里の森に抱かれる心地よさと同様の自然を身近に残していた。
京都の街と自然は人種や性別そして国籍や年齢を問わずよそ者をあたたかく受け入れる出会いと交流の文化都市として育てられてきたのであろう。
大勢の人が集う場は同一の目的と観客的性質を持たせる場が多いが、そこから生れる個を超えたパワーは社会や組織をまま動かすこともあるが一過性だ。一方、目的や思想信条そして国籍・性別・年齢などを超えて交流し個の成長を促す場や街は少ない。京都の学生数は人口の一割を占め、その出身地は全国そして海外からの留学生など多種多様で、むしろ京都出身者は少数である。私が学んだ研究室を構成する仲間も同様で今思えば私などをよく受け入れ付き合ってくれたものだと感謝している。目的が同一で観客であれば気楽で集い易い。しかし全てが異なるに等しい人々が集う要因は何によってであろうか…。個にはそれぞれの理由があるが異なる人々が集う場を形成するには自然豊かで多様な文化を受け入れる成熟した空気に満ちた空間であることが求められる。
このようにして育まれた都市空間が多くの人々を受け入れ多様な交流を促進し学術や芸術など幅広い分野で秀でた業績を残す人々から独自の道を一貫して歩む人までを輩出した街であることは疑いようがないが、何故かほとんどの人が京都に定住していない。京都の街にとって育ての親の心境ならば、いささか淋しい思いがあるのでないかと想像するが、反面、成長期のヤンチャ者を受け入れる器量は並外れて大きいが大人でよそ者のヤンチャは受け入れない頑固な保守の姿は表には出さないものの生存の知恵として受け継がれている。でも1200年の都市が伝統と歴史に負ぶさり覇気の無い並の観光都市だけでいいのか先人が創ってきた街づくりを終わることなく続けてほしい。
出会いと旅立ちの街として。