◆ 2000 VANISHING/Beyond the Surface 綿布・紙・ドローイング
300(W)×60(D)×200(H)cm
PHOTO:T.YAMAMOTO
◆PHOTO:SEIZO TERASAKI
◆「Scovched the Earth」1984 浜松野外美術展
綿布・綿ロープ
2500×2500cm
◆「Scovched the Earth」1984 浜松野外美術展
綿布・綿ロープ
2500×2500cm
◆「VANISHING」1991 アメリカンクラフト美術展
20(w)×25(D)×40(H)
ヘンプ・ステンレススチール、
他に、ギャラリー無有・麻布美術工芸館で展示
◆「VANISHING/from the Garden」 1994 巷房
PHOTO:T.YAMAMOTO
◆「VANISHING」
第15回テキスタイルアートビエンナーレ(ローザンヌ) 1992
真木画廊 1996 / 東京都美術館 1987
300(W)×500(D)×50(H)cm
サイザル麻・ステンレススチール
PHOTO:T.YAMAMOTO
◆「VANISHING/into the distaant view」1987
ワコール銀座アートスペース
サイザル麻・ステンレススチール
PHOTO:T.YAMAMOTO
◆「VANISHING/ The Japanese Aesthetic」 1999
R.Duanne Gallery (セントルイス) 30(W)×22(D)×27(H)cm
サイザル麻・ステンレススチール・パルプ・樹皮
2000年5月20日発行のART&CRAFT FORUM 17号に掲載した記事を改めて下記します。
21世紀への手紙①
『VANISHINGへの過程』
●はじめに 田中秀穂
アートとデザインを思考しながら30年近い年月が経過した。教育の場においてテキスタイルを専門としている事もあり繊維素材を中心に表現してきているが、混沌とすることが未だに続いている。スピードが重要視され日々の生活もそれに支配されることで快適が保証される現代である。元気がない社会とこの頃言われているが、元気は与えられるものではなく自分で作り出すものである。テキスタイルの領域に於いては、従来の繊維による表現にくらべ可能性は、デザイン、アート、クラフト、環境などに大きな影響力を持ち逆に元気を感じている私である。クリエイトする喜びのエネルギーを、自然、人々、時代、科学などから視野を広げ意識し、謙虚に忍耐強く自己の表現を模索することで、計り知れない大きな力を得ることができると信じている。私の過去を振り返る事で造形表現を支えてきた熱のようなものを記してみたい。
●意識する宣言
「ファイバーアーティスト宣言」なるものを、1984年講談社フェーマススクールの雑誌で公表してから16年が経過した。このようなコメントを出した背景には、ファイバー素材による制作をアートとして明確に自覚するために、ファイバーワークからファイバーアートへの移行を提唱した。自分自身と繊維素材による造形表現の社会的立場の確立を願ってのことである。テキスタイル分野の多くは、技法を基盤に染織で括られ、技の深化と表現が中心となっているが、私は、技法よりイメージ、コンセプトが重要でありたいと考えていた。その理由の一つとしては、画家になりたかったことが上げられる。その意志を父に話した時、役者と絵描になることを反対された。親の立場からはその答えはしごく当然であった。本質的には芸術なるものが好きであった父と酒を飲んだ時、目の前の一枚の絵、熊谷守一の作品が今でも思い浮かんでくる。駿河台下のバー、馬酔木でのことだった。デザインを勉強して、テキスタイル関係の会社での仕事に携わることになるが、私の中ではアートとデザインは同一の位置を占めていた。学生時代の課題でホテルのインテリアデザインがあったが、私はロビーの空間の天井を埋めつくす繊維の群れ(現代であればファイバーアート)を表現したが良い評価は得られなかった。耐久性、メンテナンスの点から当たり前のことであった。その頃の私は、ファイバーアートという領域や名称も知らなかった
就職難の時代である。50通近いハガキを出したが返事のあったのは1~2社だったと記憶している。採用の通知を㈱セルコン(インテリアファブリック関係の企業)から受け取り一安心であったが、次は卒業制作であった。当時の武蔵野美術学校工芸工業デザイン学科は、インダストリアルデザインとリビングデザイン(インテリアデザイン)のなかに、申し訳ない程度のテキスタイルデザインで織機があるわけでもなくペーパーデザインを中心に、ステンシル技法での制作とロー染めだけであった。絵を描きたかった私は、リビングデザインを専攻して、そのディティールの部分でテキスタイルに触れていた。先生であった広川清吾氏との出会いも幸運であった。というのは、ロー染めの作家であったが、その作風はモダンデザインへの理解と重要性を強く語ってくれた。デザインの意味する大きさはその後少しずつ分かって行くのと同時にある空しさも感じていた。前後するが、卒業制作は、インテリアファブリックを考えた。一つは、アートファブリックとして自分で描くようにステンシルで染めたが、もう一点は自分では制作できないものであった。理由は、コーディネイトを意識したプリント、織物、レースを同一のデザインで作り提案したかったからである。この考えをサポートしてくれる人物、ジャックレナーラーセンのpattern to patternと出会うのは、16年後のことである。私のデザインが商品化され、なおかつレースがグッドデザインに選ばれたのだが感動もなく、デパートでの歳末協力として店頭に立つことを嫌い退社した。若気の至りとでも言うのか入社後9ケ月のことであった。
●出会い
約30年前になるが、私はプラスチックの成型よる造形に携わったことがある。FRP:Fiber Glass Reinforced Plasticsの略称でガラス繊維による強化プラスチックである。恩師である飯田先生の会社で工房のような楽しい職場であった。先生と学生の関係が学校を離れた営利目的の場では、ときおり大きなギャップとして残ることが多いが幸運にもそれはなく新たな発見と出会いを持つことになった。つまり人間、素材、造形、ビジネスを包含した出会いである。先生の教育は現場を通して教えることであり、彼の熱い造形への心情が知らず知らずのうちに私のなかに蓄積されて行った。また遊ぶことが上手な人でもあった。デザインの学習の過程において、大量生産の効用が特に叫ばれた時代背景が主流をなしていたがこの職場においては、すべて人の手による少量生産であった。アートを背景にした工業製品の重要性が問われる今日を予測したかのような姿勢はこの時代に学んだようである。日々生産することに没頭していた私は、余暇を見つけては、化学的な素材による自分だけの造形を考えはじめ展覧会へ応募したりしていた。自然素材ではない材料で作られたもの、生活便利に豊かにするとは言えこの作られた物体の行方に疑問を持ち始めていた。私は、将来何がしたいのだろう?このままでいいのだろうか?もっと創造的な表現行為をするべくこの場を去ることにした。出会いはどこにでもある。しかし意識を怠ると見落としてしまう。領域を問わずプロフェッショナルな人々との出会いは、刺激的であった。その頃の私は生活と夢を維持実現するためによく働いていた。立体的で創造的な表現をしたい。忘れかけていた自分に新たな出会いをもたらした職場が前田屋外美術研究所である。偶然に見つけた面白そうな職場へ、何の面識のないまま働きたいと意志を伝えたことからはじまったのである。こんな職場があったのだ。周りは、芸術家だらけである。彫刻、デザインを学んだ人々が楽しそうに仕事をしている。公園の設計に始まりモニュメント、ストリートファニチャーなどアートとデザインを日常的な仕事としている。例えば、モニュメントの仕事が入る。まずイメージスケッチを描き提示する。クライアントの合意を得て制作図面の作成になるが、コンクリートのこと鉄筋のことすべて初めてであった。強度の問題などを先輩から指導を受けながら悪戦苦闘であったが、新しいことの学習は、日々新鮮であった。PDにおいてもそうであったが、ある程度仕事が理解できるようになると、自己表現への思いが強まり休み時間や帰宅後スケッチをよくしたものである。会社での造形について他の素材、私の場合は繊維での表現を考えるようになり、同時にものの成立を、素材、形態、必然性のある背景の確認について考えられるようになっていった。つまり私なりの関係性から生まれるアート、デザインのフィールドの同一性を少し確認できるようになっていくが、まだ明確な言葉は持っていなかった。
● 技法の放棄
作品の制作には、技法は必然である。しかし囚われることへの疑問が増大して行くなかで、繊維と木材による立体作品を、第9・10回のジャパンアートフェスティバルに出品しながら工芸からの脱皮を考えていた。二重織を基本とした造形が除々に彫刻的な表現へと変化して行く。しかし繊維の部分は、織物を使用するので織機による固く強度のある布は、リネンの経糸に綿ロープの緯糸で織る必要があった。伝統的工芸領域に属したくないという頑固な考えを支える表現の目標に向かって燃えていたことが思いだされる。その頃の造形は、内外的要因の圧力を、対比として捉え立体、平面で制作され、初めての個展を原宿のギャラリーアート川島で、東京テキスタイル研究所の三宅氏の協力のもとに開くことになる。美の永遠性を作品で独占したいという願望は、その後上記の技法、素材で数年続いて行くが、厚地の布の制作の為、木製の織機は数回となく破損した。鉄製の織機を強く望んだのもこの時期である。はじめにの部分で記しているが、画家になりたかった私にとっての苦痛は、機械による制約であった。もっと直接的触覚表現を望んでいた。織機に囚われたくない。そのような日々のなかで、ミニアチュール制作を日課として義務づけることにした。その理由の一つは、デッサンをする事の気持ちを大切にする事だった。素材と具体的な形態の把握を量へのクリアの点からも考える事で、新たな出会いと発見を期待したのである。50個の作品を目標に、また次の個展へとスタートした。本棚に埋まっていく作品は心地よかった。ところがある日私は、素晴らしい出会いをしたのである。ある日織機の下に目をやると繊維の屑が山のように積み重なって、まるで綿ぼうしのような形を作っていた。なんて面白い形だろう。上で作られようとしている計算された物より、大らかで魅力的であった。その瞬間<私の探してるものはこれだ>頭の中が真っ白になりながら嬉しさに酔っていた。
● 相生と相克
1984年の浜松野外美術展は、中田島砂丘近くの浜辺で行われた。この作品制作を通して私の方向が、現在もタイトルとして使用している、VANISHINGになるのである。冒頭にもふれたが制作される総ての物に消滅への時間があることだ。命ある動植物のみのものではなく、無機的な物にも同じことが言える。その事実を理解して制作に望みたいと考えるようになった。意識した時間、計画外の力。他力ともいわれるが、いろいろな関係性を視野に入れての表現は、織機の下に形成された造形に通じて行く。25×25mの天竺木綿を大地に同化させる。縫うという方法で行うのだが、自然はその表面や全体の有り様を自由自在に変化させて行く。私は身を委ねることを学ぶことで、解放されて行った。火による天竺木綿の消失は、雨、風以上に激しい。大地は、野焼きで作られた陶器の肌を思わせ、焼け残った布の白さは残雪の風景を思い出させていた。このようなプロセスを体験しながらビジュアルアートとしての造形に限らず生み出される全てのものの背景には、相生と相克が説く関係性について理解することになった。以後、私の制作は時間、関係、消失、変容、空間がテーマとなって行くことで、発想と展開に幅を持つことができるようになった。
李禹煥の著書『出会いを求めて』のなかにも書かれている唐木順造氏の道元論の<邂逅は起なり>の教えも循環する相関関係を説いている。物の誕生には、融合と反発を繰りかえしながらそれぞれが関係していく。相生は、木生火、火生土、土生金、金生水、水生木、相克は木克土、土克水、水克火、火克金、金克木である。
● 共生と創造
教育現場での関係性は、人間を具体的に介してのことで難しくもあるが新鮮である。教育については、機会を別に持ちたい。共生と創造を考えることは、教育、社会、自然、宇宙を考えつつ21世紀におけるアート、デザインの在り方の模索である。特にデザイン領域に於いては、共生デザイン・Synbiosis Designとしての役割が大切と考えている。クリエイトすることは、小手先のことではなく、哲学のビジュアル化を様々な表現を通して提案する事であり、私の経過が参考になるか否かは読者自身の判断する事である。しかし振り返ると私の歩んできた時間の中で、多くの価値観の人々との出会いを通して勇気を得てきた。テキスタイルの未来を考える時、人間の歴史と深い関わりのある文化人類学的な思考が重要であろう。ファイバーアートの定義については、繊維を使用した造形と安易に括りたくない。生命の誕生と維持を語る時、ファイバーが造形する広義な意味でのテキスタイルが意味するアートの本質が浮かび上がってくる。 (たなか ひでほ)