ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「型を使うかご」 高宮紀子

2016-06-25 13:16:55 | 高宮紀子
◆CAST GRASS 41×41×41 苧麻 1993

◆長郷さんの型

2000年5月20日発行のART&CRAFT FORUM 17号に掲載した記事を改めて下記します。

 「型を使うかご」   高宮 紀子(かご造形作家)

 2年前の冬、福島県の三島町という所で、ミツマタのかご作りを教わりました。初雪が降る中、素材のミツマタを集め、それらを薄く加工してかごを作りましたが、この地方に生まれた工芸とそれらをめぐる人に触れるいい機会でもありました。その時、ヤマブドウのかごを作る長郷千代喜さんという方にお会いし、使い込んだ道具を見ながらお話を聞く機会がありました。長郷さんは、卓越した素材の加工と編みの技術で有名な方です。独特の丸みのある買い物かごが人気で、遠くから人が買いにくるぐらいです。
 
 1枚目の写真は長郷さんがかご作りに使用する型で、桐(この地方名産)製、いくつかの部分に分解できるようになっています。この型にはめて底から編み、後で型を抜いてしまいます。長郷さんはいろいろな形の型をご自分で作っていますが、角が丸く使いやすい大きさの形で、どこか古風なのだけど、とてもモダンといった独特な形です。使う型が全体の形を決めるわけなのですが、いうまでもなく、作る人の長年の経験に裏付けされた技術がないと、長郷さんのかごはできません。型を使う、使わないにかかわらず、個人の技術があってこそ、美しい形のかごができるのです。

 型を使って成形をする方法はいろいろな工芸に見られます。ガラス、金属や陶芸など、他にももっとあるかもしれません。かご作りでも、型を使って成形する方法をよく使います。同じ形を大量に作る、または、ジャストなサイズにする必要があるときなどがそうです。例えば、トウのひきだしなどでは、正確なサイズが必要ですし、笠などは型があった方がその形に編みやすい、そういう時に型にはめて編みます。また、全体の形を作るため、というのではないのですが、ルーピングの組織を作る時に使われるテープなども、均一の組織の目を作るための型といえるかもしれません。

 同じ形のものを大量に作り出すといえば、思い出す風景があります。まだうわぐすりがかかっていない陶器がずらっと台に並んでいたり、切り出した下駄が積み上げられて塚のようになっていたり、まだ色がついていない張り子のだるまが並んでいる風景などがそうですが、ついつい見とれてしまいます。
 
 型を使って成形をしたものではありませんが、そういえば一時期、ファイバーを使った造形の展覧会にも、同じ大きさのものを大量に並べ、インスタレーションをする、という展示方法がありました。同じものが大量にあるということで、重なりや量の中で何か、違うものを感じさせる、その場の床や空間を埋め尽くすことで、見る人に何か印象的なシーンを提示することができる、とったものでしたが、最近では、まったく同じものを多く並べるよりは、少しずつ違うものがまざっていく、というタイプが新しいような気がします。こういう展示になると、一つずつ、よく作品をみようとして、まちがい探しではありませんが、個々に注意を向けて”見る”という姿勢がより積極的になってくるような気がします。

 かごの方法を使い、コンテンポラリーな作品を作る作家にも、型を使う人がいます。大量生産のためというよりは、唯一一個、またはシリーズの作品を作るために使われているようです。そして多くの場合、作業の可能性を広げるという目的で使われています。

 2枚目の写真は1993年の私の作品です。素材はチョマで三角の形の中は空洞で何も入っていません。この作品の最初のかけらは、ニットの編み棒を何本か、結んで形を作り、その上にネットをかけるように繊維で編んだことが初めでした。棒をとってみた所、その棒にかけた繊維の層が残って形になったのです。これは実験のつもりでやったことでした。何でそんな実験をやっていたかというと、それまで発泡スチロールの塊を型にして作品を作っていたのですが、(例えば、前回の”縫うかごの作品”などがそうです。)作品ができた後で、その型を抜くのに空間がどうしても必要になるし、中の空間をあまり複雑にはできない、という不満があったからでした。そこで、棒のようなものだと、中にも手をいれて作業ができる、と思ったのです。この実験は後日、細い鉄棒を使う成形方法へと進みます。鉄棒を結んでつなぎ、複雑な形を作り、型というより枠のようなものを作り、今までできなかった作業をすることができました。ちょうどこの時期、家の壁の塗りかえをやってもらいました。家の周りに足場を組んで作業が行われていましたが、その中の私も作品の足場を組む作業に追われていて、目的は少し違いますが、妙に励みになったものです。塗りかえの作業の足場のように、通常の形を作るというプロセスの順番、素材の重力の規制から逃れ、自由に作業を進めることができる、ということを可能にする目的がありました。

 私の枠を使った作品では、繊維という柔らかい素材でも立体を作ることができたのですが、組織構造やその素材自体が持つ力といったものを均一にならしてしまったという思いがありました。ですから、次にいろいろな素材を試していきました。その都度、新しい方法を工夫する必要が生まれました。この方法というのは、技術という程のことはない簡単なものです。ただ、この工夫に到るまでには試行錯誤が続きました。だから、大切なことはこの工夫が生まれたプロセスで、技術が形になろうとする過程を経験することなのです。最初の実験のニットの棒針から7年経ちました。「型による成形方法」の次の展開をこれからも考え続け、作り続けたいと思っています。

「当たり前がやってくる」榛葉莟子

2016-06-21 10:24:08 | 榛葉莟子
2000年5月20日発行のART&CRAFT FORUM 17号に掲載した記事を改めて下記します。

「当たり前がやってくる」           榛葉莟子

 なんとはなしに周りの林を吹き抜ける風の音が、ほどけはじめたなと感じられてくる頃になると、冬ごもりから眼を覚ました熊の親子の会話を、思い出す。それは遠い日、寝しなに子供に読んであげた絵本の中の小さなひとこまなのだけれど……。ぽとぽとぽとと、いう音に眼を覚ました子熊がおかあさん熊に聞きました。ぽとぽとぽとってなんのおと?ゆきがとけているのよ、もうはるですよってね。子熊はおひさまがきらきらひかっているあなのそとに、すこしだけかおをだしました。くんくんくん、ああいいにおい。と、まあこのようなシーンなのだけれど、ぽとぽとぽとってなんのおと?と、首をかしげた子熊のようなこどもは誰の内部にも住んでいて、時々眼を覚ましては、あれはなーに?それはなぜ?と、耳打ちしては誘いをかけてくるのだなと思っている。それはいつでもいっけん単純で当たり前なことなのに、これが曲もので中身は呪文のように謎に満ちていて、刺激してくるのは良いけれど、時には放り投げたいくらいの誘いに閉口する。閉口しても引っかかりは消えずに内部の其処比処に紛れ込んでいて、なぜ?なぜ?とつついてくる。でも本当はこの、こどもは何もかも知っていて、さーて、次のなぜは何にしようかと、面白がってテキストを作成しているにちがいない。内なるこどもは不意に掃除をはじめる事がある。お願いねとも言わないのに、ぱたぱたはたきをかけたり、しゃしゃしゃとほうきで履いたり、はっはっと磨いたり、まだいるもういらないと分別したり、雑巾掛けしたりしてくれて、なんだか風通しが良くなってさっぱりした気持ちがやってくる。よく気のつく内なるそのこどもを私はとても頼りにしている事に気ずいたりする。

 もう春ですよと熊のおかあさんのように、誘われて、冬ごもりの部屋から出る。てくてく歩いて郵便局に行く。用事を済ませて自動扉が開いて外へ出る。階段を降りかけた時、じゃりじゃりと音をたてて紺色の小振りの乗用車が駐車場に入ってきて止まった。車体の色がいい色だなあと何気なく眼が向いた。ハンドル側に女の人の顔が見えた。女の人が助手席のご主人らしき人に何か言ってドアを開けた。ご主人らしき人はぴくりとも動かず無愛想にただ大きな眼を見開いていた。別にどうと言う事もない普通の事なのだけれども、見るともなく見ていた私は階段の途中で、はっとして立ち止まった。向こうから大きな眼がじっと前方を見つめている眼とあったような気がしたのはいいのだけれど、ご主人らしき人の顔は、フロントガラスの天井いっぱいを占領しているのだ。その寸法は人の顔の大きさをはるかに超えていた。失礼ながら階段を降りかけた中途半端な姿勢のままつくずくと見てしまっていた。階段を降り地面に立ちやっぱりついつい見てしまった。そして次の瞬間、助手席に座っているご主人らしき人が大きな犬に変身していた。もう一度振り向いて確認した。やっぱり犬のままだった。こういう眼の落ち度のあった日はなぜか心膨らむのはなぜだろう。度が落ちるとは面白い言葉だなあと、ふと引っかかる。くだり坂を帰る道々、枯れ草の間に間にいま目覚めたばかりのように、瞬きしている青色の小さな花がいくつもあった。オオイヌノフグリだ。別名の星の瞬きの方があの花は気にいってるにちがいない。ふと、道のずっと先の真中に何やらうごめいている物が見えて足が止まった。蛇だ。鎌首をあげてゆらり揺れている。さすが春と思いつつも困った。そろりそろり端を歩いて行く。草の中にいきなさい、車にひかれちゃうからと、横目に見ながら通り過ぎようとして驚いた。蛇は消えて、くるんと丸まった使い古しの荒縄の切れっ端の先が所在なげに揺れていた。今日は度が落ちる日らしい。

 落ち度の度と言うのは、人の心の計りのような、線引きのようなもので、その人の当たり前の捕らえの範ちゅうの物差し、というよりも天秤計りの目盛りのようなものと言える。落ち度は越度とも言う事を知ると、落や越の先に超が待ちうけているとみる。当たり前の日常とそこから落ちたり、越えたりするはみ出た当たり前とが、どう傾くのか天秤計りの目盛りは両方を揺れ動きながら平衡の目盛りを探しているのだろうと思う。そうやって、自分の内部の引っかかりにキリをつけながら、なんとか立っているのかもしれない。引っかかりとキリの狭間、その辺りで創造というものに呼ばれるような気もする。キリを通過した当たり前がやってくる度に、やっとここからはじまるのかと引き返している自分に気ずく。内部に引っかかってくる不思議というものは際限なくあり、満足というものはない訳だ。捕まえても捕まえても捕まえきれない、とらえどころの無い滲みの感覚を言葉で表わすとしたら何だろう。もやもや、ふにゃふにゃ、くちゃくちゃ、むにゃむにゃ、ふわふわ……いくらでも出てきそうだけれど。

 春だ春だと言っている矢先、今、雪が降ってきた。ふわふわ、ふわふわ舞っている。窓から手を出す。てのひらに捕まえた雪はじわっと溶けて、滲んで消えた。

「VANISINGへの過程」田中秀穂

2016-06-15 14:28:51 | 田中秀穂
◆ 2000 VANISHING/Beyond the Surface 綿布・紙・ドローイング 
  300(W)×60(D)×200(H)cm
 PHOTO:T.YAMAMOTO
 
◆PHOTO:SEIZO TERASAKI
◆「Scovched the Earth」1984  浜松野外美術展
綿布・綿ロープ
2500×2500cm
◆「Scovched the Earth」1984  浜松野外美術展
綿布・綿ロープ
2500×2500cm
◆「VANISHING」1991   アメリカンクラフト美術展
20(w)×25(D)×40(H)
ヘンプ・ステンレススチール、
他に、ギャラリー無有・麻布美術工芸館で展示
◆「VANISHING/from the Garden」  1994  巷房
PHOTO:T.YAMAMOTO
◆「VANISHING」
第15回テキスタイルアートビエンナーレ(ローザンヌ)  1992
真木画廊  1996  / 東京都美術館  1987
300(W)×500(D)×50(H)cm  
サイザル麻・ステンレススチール
PHOTO:T.YAMAMOTO
◆「VANISHING/into the distaant view」1987
ワコール銀座アートスペース
サイザル麻・ステンレススチール
PHOTO:T.YAMAMOTO
◆「VANISHING/ The Japanese Aesthetic」 1999
R.Duanne Gallery (セントルイス)  30(W)×22(D)×27(H)cm
サイザル麻・ステンレススチール・パルプ・樹皮

2000年5月20日発行のART&CRAFT FORUM 17号に掲載した記事を改めて下記します。

21世紀への手紙①
『VANISHINGへの過程』
 ●はじめに                田中秀穂
アートとデザインを思考しながら30年近い年月が経過した。教育の場においてテキスタイルを専門としている事もあり繊維素材を中心に表現してきているが、混沌とすることが未だに続いている。スピードが重要視され日々の生活もそれに支配されることで快適が保証される現代である。元気がない社会とこの頃言われているが、元気は与えられるものではなく自分で作り出すものである。テキスタイルの領域に於いては、従来の繊維による表現にくらべ可能性は、デザイン、アート、クラフト、環境などに大きな影響力を持ち逆に元気を感じている私である。クリエイトする喜びのエネルギーを、自然、人々、時代、科学などから視野を広げ意識し、謙虚に忍耐強く自己の表現を模索することで、計り知れない大きな力を得ることができると信じている。私の過去を振り返る事で造形表現を支えてきた熱のようなものを記してみたい。

●意識する宣言
「ファイバーアーティスト宣言」なるものを、1984年講談社フェーマススクールの雑誌で公表してから16年が経過した。このようなコメントを出した背景には、ファイバー素材による制作をアートとして明確に自覚するために、ファイバーワークからファイバーアートへの移行を提唱した。自分自身と繊維素材による造形表現の社会的立場の確立を願ってのことである。テキスタイル分野の多くは、技法を基盤に染織で括られ、技の深化と表現が中心となっているが、私は、技法よりイメージ、コンセプトが重要でありたいと考えていた。その理由の一つとしては、画家になりたかったことが上げられる。その意志を父に話した時、役者と絵描になることを反対された。親の立場からはその答えはしごく当然であった。本質的には芸術なるものが好きであった父と酒を飲んだ時、目の前の一枚の絵、熊谷守一の作品が今でも思い浮かんでくる。駿河台下のバー、馬酔木でのことだった。デザインを勉強して、テキスタイル関係の会社での仕事に携わることになるが、私の中ではアートとデザインは同一の位置を占めていた。学生時代の課題でホテルのインテリアデザインがあったが、私はロビーの空間の天井を埋めつくす繊維の群れ(現代であればファイバーアート)を表現したが良い評価は得られなかった。耐久性、メンテナンスの点から当たり前のことであった。その頃の私は、ファイバーアートという領域や名称も知らなかった
就職難の時代である。50通近いハガキを出したが返事のあったのは1~2社だったと記憶している。採用の通知を㈱セルコン(インテリアファブリック関係の企業)から受け取り一安心であったが、次は卒業制作であった。当時の武蔵野美術学校工芸工業デザイン学科は、インダストリアルデザインとリビングデザイン(インテリアデザイン)のなかに、申し訳ない程度のテキスタイルデザインで織機があるわけでもなくペーパーデザインを中心に、ステンシル技法での制作とロー染めだけであった。絵を描きたかった私は、リビングデザインを専攻して、そのディティールの部分でテキスタイルに触れていた。先生であった広川清吾氏との出会いも幸運であった。というのは、ロー染めの作家であったが、その作風はモダンデザインへの理解と重要性を強く語ってくれた。デザインの意味する大きさはその後少しずつ分かって行くのと同時にある空しさも感じていた。前後するが、卒業制作は、インテリアファブリックを考えた。一つは、アートファブリックとして自分で描くようにステンシルで染めたが、もう一点は自分では制作できないものであった。理由は、コーディネイトを意識したプリント、織物、レースを同一のデザインで作り提案したかったからである。この考えをサポートしてくれる人物、ジャックレナーラーセンのpattern to patternと出会うのは、16年後のことである。私のデザインが商品化され、なおかつレースがグッドデザインに選ばれたのだが感動もなく、デパートでの歳末協力として店頭に立つことを嫌い退社した。若気の至りとでも言うのか入社後9ケ月のことであった。

●出会い
約30年前になるが、私はプラスチックの成型よる造形に携わったことがある。FRP:Fiber Glass Reinforced Plasticsの略称でガラス繊維による強化プラスチックである。恩師である飯田先生の会社で工房のような楽しい職場であった。先生と学生の関係が学校を離れた営利目的の場では、ときおり大きなギャップとして残ることが多いが幸運にもそれはなく新たな発見と出会いを持つことになった。つまり人間、素材、造形、ビジネスを包含した出会いである。先生の教育は現場を通して教えることであり、彼の熱い造形への心情が知らず知らずのうちに私のなかに蓄積されて行った。また遊ぶことが上手な人でもあった。デザインの学習の過程において、大量生産の効用が特に叫ばれた時代背景が主流をなしていたがこの職場においては、すべて人の手による少量生産であった。アートを背景にした工業製品の重要性が問われる今日を予測したかのような姿勢はこの時代に学んだようである。日々生産することに没頭していた私は、余暇を見つけては、化学的な素材による自分だけの造形を考えはじめ展覧会へ応募したりしていた。自然素材ではない材料で作られたもの、生活便利に豊かにするとは言えこの作られた物体の行方に疑問を持ち始めていた。私は、将来何がしたいのだろう?このままでいいのだろうか?もっと創造的な表現行為をするべくこの場を去ることにした。出会いはどこにでもある。しかし意識を怠ると見落としてしまう。領域を問わずプロフェッショナルな人々との出会いは、刺激的であった。その頃の私は生活と夢を維持実現するためによく働いていた。立体的で創造的な表現をしたい。忘れかけていた自分に新たな出会いをもたらした職場が前田屋外美術研究所である。偶然に見つけた面白そうな職場へ、何の面識のないまま働きたいと意志を伝えたことからはじまったのである。こんな職場があったのだ。周りは、芸術家だらけである。彫刻、デザインを学んだ人々が楽しそうに仕事をしている。公園の設計に始まりモニュメント、ストリートファニチャーなどアートとデザインを日常的な仕事としている。例えば、モニュメントの仕事が入る。まずイメージスケッチを描き提示する。クライアントの合意を得て制作図面の作成になるが、コンクリートのこと鉄筋のことすべて初めてであった。強度の問題などを先輩から指導を受けながら悪戦苦闘であったが、新しいことの学習は、日々新鮮であった。PDにおいてもそうであったが、ある程度仕事が理解できるようになると、自己表現への思いが強まり休み時間や帰宅後スケッチをよくしたものである。会社での造形について他の素材、私の場合は繊維での表現を考えるようになり、同時にものの成立を、素材、形態、必然性のある背景の確認について考えられるようになっていった。つまり私なりの関係性から生まれるアート、デザインのフィールドの同一性を少し確認できるようになっていくが、まだ明確な言葉は持っていなかった。

● 技法の放棄
作品の制作には、技法は必然である。しかし囚われることへの疑問が増大して行くなかで、繊維と木材による立体作品を、第9・10回のジャパンアートフェスティバルに出品しながら工芸からの脱皮を考えていた。二重織を基本とした造形が除々に彫刻的な表現へと変化して行く。しかし繊維の部分は、織物を使用するので織機による固く強度のある布は、リネンの経糸に綿ロープの緯糸で織る必要があった。伝統的工芸領域に属したくないという頑固な考えを支える表現の目標に向かって燃えていたことが思いだされる。その頃の造形は、内外的要因の圧力を、対比として捉え立体、平面で制作され、初めての個展を原宿のギャラリーアート川島で、東京テキスタイル研究所の三宅氏の協力のもとに開くことになる。美の永遠性を作品で独占したいという願望は、その後上記の技法、素材で数年続いて行くが、厚地の布の制作の為、木製の織機は数回となく破損した。鉄製の織機を強く望んだのもこの時期である。はじめにの部分で記しているが、画家になりたかった私にとっての苦痛は、機械による制約であった。もっと直接的触覚表現を望んでいた。織機に囚われたくない。そのような日々のなかで、ミニアチュール制作を日課として義務づけることにした。その理由の一つは、デッサンをする事の気持ちを大切にする事だった。素材と具体的な形態の把握を量へのクリアの点からも考える事で、新たな出会いと発見を期待したのである。50個の作品を目標に、また次の個展へとスタートした。本棚に埋まっていく作品は心地よかった。ところがある日私は、素晴らしい出会いをしたのである。ある日織機の下に目をやると繊維の屑が山のように積み重なって、まるで綿ぼうしのような形を作っていた。なんて面白い形だろう。上で作られようとしている計算された物より、大らかで魅力的であった。その瞬間<私の探してるものはこれだ>頭の中が真っ白になりながら嬉しさに酔っていた。

 ● 相生と相克
1984年の浜松野外美術展は、中田島砂丘近くの浜辺で行われた。この作品制作を通して私の方向が、現在もタイトルとして使用している、VANISHINGになるのである。冒頭にもふれたが制作される総ての物に消滅への時間があることだ。命ある動植物のみのものではなく、無機的な物にも同じことが言える。その事実を理解して制作に望みたいと考えるようになった。意識した時間、計画外の力。他力ともいわれるが、いろいろな関係性を視野に入れての表現は、織機の下に形成された造形に通じて行く。25×25mの天竺木綿を大地に同化させる。縫うという方法で行うのだが、自然はその表面や全体の有り様を自由自在に変化させて行く。私は身を委ねることを学ぶことで、解放されて行った。火による天竺木綿の消失は、雨、風以上に激しい。大地は、野焼きで作られた陶器の肌を思わせ、焼け残った布の白さは残雪の風景を思い出させていた。このようなプロセスを体験しながらビジュアルアートとしての造形に限らず生み出される全てのものの背景には、相生と相克が説く関係性について理解することになった。以後、私の制作は時間、関係、消失、変容、空間がテーマとなって行くことで、発想と展開に幅を持つことができるようになった。
李禹煥の著書『出会いを求めて』のなかにも書かれている唐木順造氏の道元論の<邂逅は起なり>の教えも循環する相関関係を説いている。物の誕生には、融合と反発を繰りかえしながらそれぞれが関係していく。相生は、木生火、火生土、土生金、金生水、水生木、相克は木克土、土克水、水克火、火克金、金克木である。

● 共生と創造
教育現場での関係性は、人間を具体的に介してのことで難しくもあるが新鮮である。教育については、機会を別に持ちたい。共生と創造を考えることは、教育、社会、自然、宇宙を考えつつ21世紀におけるアート、デザインの在り方の模索である。特にデザイン領域に於いては、共生デザイン・Synbiosis Designとしての役割が大切と考えている。クリエイトすることは、小手先のことではなく、哲学のビジュアル化を様々な表現を通して提案する事であり、私の経過が参考になるか否かは読者自身の判断する事である。しかし振り返ると私の歩んできた時間の中で、多くの価値観の人々との出会いを通して勇気を得てきた。テキスタイルの未来を考える時、人間の歴史と深い関わりのある文化人類学的な思考が重要であろう。ファイバーアートの定義については、繊維を使用した造形と安易に括りたくない。生命の誕生と維持を語る時、ファイバーが造形する広義な意味でのテキスタイルが意味するアートの本質が浮かび上がってくる。         (たなか ひでほ)

「縫うかご」高宮紀子

2016-06-07 10:13:14 | 高宮紀子
◆「無題」高宮紀子作 1988年 シュロの繊維、葉、糸

◆インドの葉のお皿

2000年2月1日発行のART&CRAFT FORUM 16号に掲載した記事を改めて下記します。

 「”縫う”かご」         高宮紀子
 かごの技法を習い始めたころ、その技法の多さに驚き、珍しいかごの写真を本でみつけては作り方を試していました。ある時、ミクロネシアのヤシの葉を使った即席のかごを見るチャンスがあり、そのあまりにも簡単な技術に驚きました。それほど複雑でなくてもかごができる、という最初の体験でした。それからも簡単な技術で作られている民具などに出会い、その方面での興味が増していきました。

 例えば、ワラ縄を巻いて食品を包む方法や、トウガラシを吊して干す方法、大きな葉の端を止めて作った水くみなど、日本にもその類がたくさんあることがわかってきました。特に食品の包装などはとても簡単な構造ですが、ササなどの植物の葉の持つ殺菌力も利用しているうまい方法ですし、いい匂いもします。そしてたいていがひじょうに簡単な技術で作られています。

 今からずいぶんと前のことですが、1988年、東京の目黒美術館で日本の伝統パッケージに関する展覧会がありました。その展示の中で、今ではもう使われない”包み”がたくさん展示されていて、編んで作るものも多かったように覚えています。かごの技術はもともと、素材をどのようにまとめて構成し、一つの立体にするかという技術です。ですから、”包み”のような簡単な技術(中には複雑なものもありますが)と、それほど、開きはないと展示を見て思いました。

 右の写真はインドの葉っぱのお皿です。知り合いの紹介である方のお家に伺い、珍しい現地の民具などをみせてもらいならが、お土産にもらったものです。大きいものだったのですが、引っ越しの時に四分の一ぐらいの大きさに割れてしまいました。植物の名前はわかりませんが、裏がビロードのような短い毛が生えていて手触りもいいものです。
直径が15cmぐらいの丸いっぽい形の葉が2-3牧重なっていて、葉の縁などにそって短い茎のような、枝のようなものでさして止めています。初めてこの葉っぱのお皿を見たとき、これ以上簡単な技術はない、と考えたものです。葉っぱを重ねて止めている枝が、まるで縫っているように見えました。実際には縫ったものとは違いますが、縫う動作と同じようだと思えました。

 かごの技術は、上にも書きましたように素材をどうやったらまとめられるか、つなげて面を作れるか、という技術です。だから、人が日常、使っている技術、だれでも知っているし、やったことのある方法とあまり隔てはないと思います。例えば、大きな荷物や古新聞をくくる時の紐のかけ方や、スカートのヘムのほころびを縫う、ニットを編む、紐を結ぶ、といった動作も、ある意味では造形的な動作ということができるかもしれません。

 普段はこれらの動作に目的があるのですから、造形的な要素に気がつきませんし、糸のような柔らかい素材だと平面になりますから、その構造というものに興味もありませんでしたが、かごを作り出してから、少し考えが変わりました。いざ、弾力のある素材で同じ動作をやってみますと、たちまち素材の固さが形に貢献してきます。ですから、普段、何気なく見慣れたような動作でも、使う素材を変えることで実は面白い造形をしている、ということが発見できます。でも、その類を作品にするという点では、これまでのファイバーアートの世界に作品がなかったわけではありませんでした。新しい素材を用い、大きさを変えた作品がたくさん展覧会を飾りました。

 この写真は1988年に作った私の作品です。シュロの幹にへばりついている網の目状になった繊維のところを少しずつ丸めて一つ一つのパーツを縫って作り、それらを集めてシュロの葉でつなぎました。まるでパッチワークのようなやり方です。布でつなぎあわせるパッチワークの自然素材バージョンというところでしょうか。シュロの葉が固いので、すきまが多少あってもそのスペースを保ってくれます。

 このころ、いろいろなものを縫いました。紙や繊維にミシンをかけたり、樹皮を縫ったり、あまり思うようなものは多くできなかったですが、このシュロの作品とミツマタの作品は気に入っていて、”縫う”かごのテーマの作品をまた作りたいと思っています。今でも布の上に刺繍してある糸が、糸だけ残ってそれが立体になる、そんなことを想像しただけでもわくわくしています。

 その後、アメリカ人のバスケタリーの展覧会を見るチャンスがあり、そこで、偶然にミシンで縫ったかごに会いました。布にしっかりミシンをかけて立体にしてあるのです。帽子のようにすぐに思いつくような形ではなく、とても不思議な立体になっていました。また、細かい樹皮のかけらを重ねて縫い合せていく作品も見ることができました。日本でも布を多重に重ねて縫った作品や紙を縫っている作家がいます。

 生活で使っているような、ものをまとめる、あるいはつなげる方法で、用途とはまったく離れたものを作ってみる、その行為がなかなか面白いのですが、歴史的にはもう既に作品になってしまったアイデアが多いかもしれません。これから作るということになると、素材と技法の新しい関係というだけでは個人の作品にまで到着できないのでは、と考えています。素材と技術の結びつきはさまざまですが、新しい形を生みだす造形的なアイデアがその中から発見できる、このことほど楽しいことはないと思っています。たいがいの場合、うまくいかないことの方が多いですが。        (たかみや のりこ)

「耳は聴いている」 榛葉莟子

2016-06-06 10:46:05 | 榛葉莟子
◆記憶のリズム 1999 榛葉莟子

2000年2月1日発行のART&CRAFT FORUM 16号に掲載した記事を改めて下記します。

耳は聴いている           榛葉莟子(造形作家)

 自転車でひとっ走りの所に、村の図書館が出来たのは一年程前の事だった。期限付の本を借りてくるという感覚を持たなかった私には、この頃の図書館通いに新鮮な時の恵みの贈り物を感じている。近くの町に本屋はあっても色相の密度は薄い。古本屋はないので上京に間が空けば、古本屋通いの楽しみは遠くなる。多分、都会から移り住んだ人達が、まず面食らう事のひとつが、それだと思う。私の場合、期限付という事を除けば、ふと目に止まった本が喜びをもたらしてくれる古本屋通い癖を、どうも図書館にみている節はあるなあと、この頃気がついたせいか、ぶらり呑気な気分で、あるいは胸躍らせながら図書館に行く。

 ある日も自転車に乗って図書館に行く。この時は調べたい事があった。すっかり舗装されたなだらかな上り坂の途中で息がきれ自転車を降り歩く。新品の図書館の屋根が右手に見え隠れしている。左手には田や畑がしんと静かに拡がっている。坂道と田畑の間に川がある。いまでは川底や両岸が深いコンクリートで覆われて草一本生えていず、コンクリート敷きの底を擦りながら流れて行く水音はザーザーと平坦で、退屈な川になってしまった。この川がさらさらと清い音を立てて流れる小川だった頃、流れにせりだし根を張った草々を支えに長々と体を伸ばして昼寝する蛇を微笑ましく眺めた夏の日があったけれど、そんな事が懐かしく感じられるのは残念と思う。魅力のない川を覗く気も起こらず坂道を上っていく。と、ザーザーの流れの音に逆らうように、シャッシャッシャッという音が耳に入ってきて、ふと立ち止まる。シャッシャッシャシャッ、シャッシャッシャッシャッ……水を蹴って走る音?あっ、まさか!川を覗く。まさかの主は犬だった。犬は川に落ちたのだ。犬は必死でそこから這い上がろうと試みては走りを繰り返していたのだろうけれど、コンコンクリートの囲いは深すぎ、爪を引っかける突起物さえないのだ。おいで、おいで、と呼ぶ声に犬は顔を向けた。あっ、知ってるあの犬だ。でも飼い主がわからない。ここがまだ小川だった頃、岸辺の原っぱをのんびり散歩していた老犬だ。そう、挨拶も交わした。こんにちは、ここは素敵に明るい原っぱですね。ええ、ええ、こどもの頃からいつでもここで遊んでいるんですよ。大好きな所でねえ。鼻をひくひくうごかしている笑っているような優しい顔の老犬だ。

 大変、犬が、犬が!の緊急の叫びは図書館へ向かう遠くの人の耳に届く前に、走り去る車の音と共にかき消えた。やっと役場の人が駆けつけてきた。巨大な失敗した金魚すくいのような形のものを担いでいた。あの輪っかに頭を入れて岸辺に引き寄せ、引き上げようという寸法らしい。じゃ、お願いしますと、飼い主を探し当て引き返してきたとき、犬は川から引き上げられていた。良かった、ゴンよかったねえ。あっ、名前はゴンですって。ゴンは役場の人に引き摺られるように、輪っかのなかで恐い顔でウーと、怒っている。それはそうだ。ゴンのこの姿は屈辱的だもの。それに、ねえゴン、ゴンのせいじゃないさ。小犬の頃からぴちゃぴちゃ遊んでいたいつもの小川の水の匂いはゴンのなかに変わらずあるにちがいない。いつもそうしていたように、そうしたら這い上がれない深い川だったと、推察する。綱片手に駆けつけて来た飼い主の顔をみたゴンはすっかり優しい顔に戻った。放し飼いは禁止ですよと、役場の人の厳しい声がした。それにしても、どうして犬だとわかりました?役場の人が言った。川の流れの音に異う音が混ざって聞こえたんですよ。へーっと、役場の人は語尾をあげた。犬にも暮らしにくい所になりましたね。はあっと、役場の人は今度は語尾をさげた。ああ、この人も生活の殆どを車でまかなっているのだろうなと思った。なる程、てくてく歩いているのは、老人か子供か、私のような自転車派位のものだ。いつもと異う音を聞いたと言った時の、役場の人が不思議そうにしたことが私には不思議でならない。

 土曜日の図書館はいつもの静けさとは異う、ざわざわとした気配だった。それにしても、こんなにたくさんの人が、川の近くにいたのだなあと思うと、恐い気もしてくる。そういえば図書館のなかに低い音量ではあるけれど音楽といっても歌が流れている事に気がついた。歌の歌詞がまとわり付いてきて探す本に集中出来ない。あのー、いつも歌が流れていましたっけ。係の人に聞く。それがどうしましたかと言わんばかりに怪訝そうに、ええ、と言った。ふーん、何故今までは気にかからなかったのだろう。と自分の耳に疑いを抱きながらも、ざわざわとした館内とバックミュウジックの混合は私には騒音としか聞こえてこない。いつものふんわりした静けさの空気は隅っこに、外部に追いやられてしまったように感じられた。急ぐこともない調べものは又にしようと、図書館を出る。ひそやかな音、音なき音はいつでもすぐ傍らに背後に、共に存在している。騒音と感じるか否かは大小の問題ではなく丁寧に聴く耳を持ちえているかどうかの個人の音(世界)に関わっている。