ART&CRAFT forum

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「工芸のたのしさをかたちに」 中島俊市郎

2017-03-18 11:35:39 | 中島俊市郎
◆中島俊市郎 「Series -Sign Of Water-」
絹・ウール・綿・麻・レーヨン
 250×250×50mm  (各)  2002

◆中島俊市郎  「集積-Integration of Mururs-」(写真1)
ウール・絹・綿・麻等の自然物 
1000×6000mm (×2)  1996

◆中島俊市郎 「集積-Integration of Murmurs-」部分 (写真2)
ウール・絹・綿・麻等の自然物
1000×6000mm(×2)  1996

◆中島俊市郎 「Hatched Place」(写真3)
絹・ウール・綿・麻・レーヨン・竹
3000×3000×700mm

 
◆中島俊市郎 「Hatched Place」部分 (写真4)
絹・ウール・綿・麻・レーヨン・竹
3000×3000×700mm  1997

◆中島俊市郎 「Aquarius」(写真5)
絹・ウール・綿・麻・レーヨン・金属
1500×300×150mm  1999

◆中島俊市郎 「Tapestries-Alphabet Shape-」(写真6)
絹・ウール・綿・麻・レーヨン・紙・金属・羽  
150×150×40mm (168個)  2000

◆中島俊市郎  「Tapestries-Alphabet Shape-」(写真7)
絹・ウール・綿・麻・レーヨン・紙・金属・羽
150×150×40mm (168個)  2000

◆中島俊市郎  「Series-Sign of Water-」(写真8)
絹・ウール・綿・麻・レーヨン
250×250×50mm (各)  2002

◆中島俊市郎 「Series-Wearable Tapestrie-」(写真10)
絹・ウール・綿・麻・レーヨン・紙・金箔・羽
(50~100)×(50~100)×80mm  2003

2003年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 29号に掲載した記事を改めて下記します。


 「工芸のたのしさをかたちに」 中島俊市郎

 道具は楽しい。私の好きな道具を、ながめたり、さわったり、楽しんで使うことが私は好きだ。
 私達は生活のために様々な道具を使う。洋服や、靴、家具や自動車、携帯電話やパソコン、それらを生活の必要に応じ手に入れる。多様な商品郡の中から、求める機能をもつモノや、好みのモノを選択して、購入する。自分の欲しいものを、買い物することは楽しい。
私は1972年に生まれ、特に裕福ではなかったが、特に貧しくもないごく普通の家庭に育った。子供の頃に、あたらしい文房具や洋服を親から買い与えられた時は、何となくうれしかった。母親におもちゃやビデオゲームのソフトを買ってくれるよう、よくせがんだりした。私はモノにあふれた世界に育ったと思う。

 私が現在のようなテキスタイル作品を手掛けるようになったのは、大学生の頃の体験がきっかけだったように思う。私は大阪の大学に進学するまで郷里である飛騨の小さな山村ですごした。高校生の頃に美術に関心を持った私は、大学でそれを学びたいと思い進学した。専攻は染織を選んだのだが、今ふりかえると、その時分に染めや織りに特に関心もなかったのに、どうして染織専攻を志望したのか不思議に思う。大学では染めや織の様々な技法を学んだ。それまで、洋服を初めとする繊維製品はどこか知らない遠くの土地の工場で作られて、それを買って手に入れるのが当たり前だとばかり感じていたから、一本の糸に人が手をかけることによって多様な布が織りあがるその行程を学び、初めて自らの手で布を織り上げた時は、自分の手でモノを創り出すことができるのだということ自体に驚きを感じた。そして、そのことがなんとなく誇らしく思え、好んで機に向かうようになった。
そんな学生生活を送っていた頃、ある夏休みに郷里の山村へ帰省し、祖母へ土産話などしていたなかで、大学で学んでいる染や織のことについて話がおよぶと、祖母はかつて農作業の傍ら蚕や羊を育て、問屋へ納めたほか、自身や家族の衣にするため、それらから糸を紡ぎ、裂を織り上げていた事について詳しく話してくれた。また、信州の製糸工場へ出稼ぎに行った体験や、自動織機を初めて見たときの驚きなどを楽しく語ってくれた。そのような事を祖母から聞いたのはそれが初めてで、それまで身近に接して来た祖母が、かつてそのような暮らしを営んでいた事をそれまで想像もしなかった私は、祖母の生きた半世紀のあいだに、これほどまでに暮らしぶりが変ってしまった事に大変な驚きを覚えた。そして、素材を育み、それに自らの手をかけ、自身の生活のための道具を創り出し、その道具と暮らしを共にしたという、祖母がかつて営んでいた生活に次第にあこがれを感じるようになった。しかし、その生活は現代に生きる私がどれほど望んでも、手に入れる事が出来ない。人は豊かさを求め、効率的な経済活動によってそれを手に入れようとした。そして私達は豊かになりえたのかもしれないが、それと同時に多くの豊かなものをも失ってしまったのだということを祖母の昔話から感じた。

 私には望んでも経験する事のできない、モノと人の豊かな関係のある生活。その生活へのあこがれが、私が作品を手掛けるようになった原動力のように思える。この頃の私は、自身の手でモノを創りあげることが出来るのだということ自体が喜ばしくて、様々な素材に手をかけ製糸し、製織することを楽しんでいた。自然物が糸になり、布になるという現象が私の手の中におこるたびに、私は数えきれない新鮮な発見を見い出した。それまで既製品の無表情な布にしか接して来なかった私には、自身の未熟な手から生まれる、でこぼこしたヘタクソな織り物の表情が目新しく、また楽しく思えて、次第にそのことを強調した表現を試みるようになった。人の手、自身の手が残した痕跡は私を退屈させることがなかった。

 1996年に製作した「集積-Integration of Murmurs-」は、1000×6000mmの布2点からなる連作だ。自然物が布になる行程を可能な限り体験したいという意思から、食肉用の羊から刈り取られたままの原毛を入手し、精練、染色、紡毛し、製織した。モノに溢れた社会に育った私は、布が出来上がるまでの数々の行程を体験することで、かつて存在した人とモノとの豊かな関係があった社会、私のあこがれる社会のことを、確かめたかった。その製作行業は、重労働と地味な作業のくりかえしであったが、その昔と変わらない作業を体験していると、かつての人々が体験したものと同じ時間に私も身を委ねているように感じられて、喜ばしかった。この体験は現在の私にとって大切な糧となっているように思う。

 この作品を製作した当時から現在まで、私は織りを中心とした手工芸の手法を用い作品を製作している。それは、衣料として身にまとうとかの「用」や機能を持たない作品だ。私がこのような作品を手掛けるようになったのは、「ファイバー・アート」とか「テキスタイル・アート」とか呼ばれた造形作品に学生時代に数多く触れた影響が強いように思える。それらは、造形作品として視覚的にも興味深いものだったし、織りに興味をもちそれを学びながらも、手工芸についての考察を個人が現代においてどう展開していけばよいのか見当がつかなかった私にとって、最適な展開法のように感じられた。そして、それにならって、織の手法を用いた造形作品を手掛けていった。4年間染と織について学んだ近畿大学を卒業した後も、作品を手掛けたい一心で研究生として一年間大学に残り、その後、東京芸術大学の大学院に進んだ。大学院を修了するまで、私は織り物を造形作品として展開することに取り組んだ。この頃までの製作テーマやコンセプトは一貫していた。自然物を中心とする素材の美しさや楽しさを活かしながら、人間の手の痕跡を作品に投影することだった。素材感を活かしたテクスチャー表現を主体とした布を、平面から空間に展開したり、織られた布を断ち、再構成したりといった展開を試みた。1997年に製作した「Hatched Place」は、緯に部分的に竹を織り込んだ布を製織し、それを支持体として立体に立ち上げ、空間に展開した。1999年に製作した「Aquarius」は、製織した布を円筒形に形成したユニットをつなぎ合わせ、壁面に展開した。
このころまでの作品は、造形美術作品としての、視覚的な美しさや心地よさのみを、盲目に探究していたように思う。これらの作品を手掛けていくなかで、造形美術作品としての魅力ばかりを追い求めるあまり、このころの私は作者としての自身の立脚点を見失っていったように思う。手工芸の手法を用いながら「用」を持たない作品を手掛けている事について、自身が答えを見出せずにいた。そしてその疑問は私の胸中に大きく膨らんでいった。

 以後の作品展開は、この疑問への自身の考察を反影したものとなってゆく。織りや染めに限らず、陶磁、漆等の諸工芸分野において、近代から現在に至るまで、手工芸における表現を美術表現や芸術表現にまで飛躍させ展開する活動が広く見受けられる。私自身もそのような展開を示す作家や作品に強い影響を受けたし、そういった作品を好んで見たりもした。しかしながら、それらの展開をあらためて振り返ると、現代において工芸を展開してゆく上での矛盾も多く見受けられるように思える。自身が影響を受けた、「ファイバー・アート」とか「テキスタイル・アート」と呼ばれるものや、国内の美術団体や美術法人における工芸作家の作品展開を見つめ直すことで、私は自身の抱える矛盾を解いてゆくことを試みるようになった。次第にその焦点は、工芸においてその魅力を作品として展開していく過程での、美術や芸術との関係の曖昧さなのではないかと感じるようになった。工芸の魅力は美術性や芸術性を内包しているが、手工芸の手法を用い造形的な展開を示した作品の中には、作品の美術性や芸術性のみが一人歩きしている様に見えるものも数多く見受けられる。それらを工芸的な解釈による理解から切り離し、絵画や彫刻、現代美術等、他の領域の造形美術作品や造形芸術作品と並列に解釈しようとした時に、どれほどの存在意義があるのかと考えると、疑問が残るものが多く見受けられる。その原因の一つは作品における美術性と芸術性の安易な一元的解釈によるものだと私は感じている。私は自身のそれまでの作品についても同じ疑問を抱いた。そして、自身が工芸の表現領域の認識を曖昧にしたまま、他領域にまたがる創作活動を続けている事に抵抗を感じるようになっていった。手工芸の手法を用いる作家が、安易に他領域に表現を展開することに疑問を感じるようになった。この時から自身の作品の展開法が少しづつ変化してゆき、自身の作家としての立脚点を注意深く確認しながら製作に取り組むようになっていった。そして、私の関心は生活をとりまく様々の造形物における美術性と芸術性の領域認識についての考察へ展開し、そのことは必然的に、工芸の領域の再認識と、工芸における美術性と芸術性の領域認識についての考察に及んだ。

 2000年の作品「Tapestries -Alphabet Shape-」は、その作品タイトルの表すとうりアルファベットの形をした作品だ。168個のアルファベットを壁面に並べ、ウィトゲンシュタインの言葉をあらわした。私はそれまでの作品に具象的なモチーフを用いる事を避けて来た。前述の製作意図から、テクスチャー表現により成立する作品のモノとしての存在そのものに見る人の意識を誘導したかったからだ。作品に具象的な像を載せることにより、鑑賞者が作品のむこう側にイメージを広げたり、作者の制作意図に思いを馳せたりすることを避けたかったのだ。芸術作品のような解釈を避けたかった。この作品もそれまでのものと同じく、何らかのイメージや観念を鑑賞者に提示するためのものではない。この作品は、工芸品の装飾性についての私なりの解釈と考察だ。以前の私は、手工芸品や様々な道具に付与される装飾的要素が感覚的に好きになれずにいた。それが本質的なものを覆い隠したり、ごまかしたりしているように思えたからだ。しかしながら、身の回りの道具には様々な装飾が施されているのはなぜだろう。人はどうしてモノに飾りを求めるのだろうか。そのはっきりとした答えを私は今でも見い出せずにいるのだが、そういったことに思いを馳せているうちに、モノに彩りや飾りを求める人の思いや、モノに彩りや飾りを付与する人間の行為そのものが微笑ましく、愛おしく思えるようになっていった。彩りや装飾を求めたり施したりする行為は愛情の一つだと感じている。私はこの作品で、純粋な装飾行為の実践を試みた。そのために何を飾るか。その行為を特徴づけるために、装飾を付与する対象をイメージを表記する道具である文字とした。客体に、あるイメージを付与するために施す装飾ではなく、イメージを表記するための文字を客体とし、イメージに装飾を施すという逆説的な行為で、装飾行為そのものを鑑賞者に意識させることを試みた。

 2001年と2002年に製作した「Series -Sign Of Water-」では、前作と同じテーマのもと、織の手法を用い、平面作品を製作した。前作では織の手法から離れて作品制作を展開したが、工芸の魅力の重要な要素である、特徴的な技法や手法から生まれる現象に起因するモノの美しさや楽しさを積極的に作品にとり入れてゆきたいと考えるようになり、再び織の手法での作品制作に取り組むようになった。織り物でしか出来ない装飾表現を作品に与えるために、この作品では絵絣の手法を用いた。経、緯それぞれに別の図案を染色し、それらが製織されることで図案と色彩が複雑に交差して見える効果を作品表現に活かす試みを行った。この手法では、図案と色調の構成のためのシュミレーションに、コンピューターを積極的に使用している。一般的なグラフィックソフトの特性を応用し、織上がりのイメージをシュミレーションしながら、縦糸、緯糸それぞれに染色される図案の構図と色彩が、最大限の効果を発揮するよう調整作業を行った。手仕事のプロセスにコンピュータを用い出した当初は、その新しい無機質なプロセスにやはり抵抗と不安があった。そのため事前にこのプロセスでの試作をくり返し、制作過程におけるコンピュータと自身の役割を慎重に確認しながら、私なりの製作プロセスを確立した後に、実際の作品製作に臨んだ。現在では私の作品製作にコンピューターは欠かせない道具となっている。

 現在は、この手法による織の作品の制作と平行し、繊維素材によるジュエリー作品の制作を行っている。道具における装飾についての考察を進めていくうちに、私は次第に宝飾作品に関心を抱くようになり、歴史的な宝飾作品から、コンテンポラリージュエリーと呼ばれる分野の作品まで、好んでそれを見て楽しむようになった。それらにおいては道具としての機能と装飾の関係が一元的につながっているように感じられ、装飾の行為を自然な形で作品に落とし込める分野であるように思え、自身でも宝飾作品の製作を試みるようになった。2002年から2003年にかけて制作した、「Series-Wearable tapestrie-」は、絹糸と紙をはじめとする繊維素材で作られたバングルとブローチからなる連作だ。これらジュエリーとしての作品の製作は、わたしにとって楽しい仕事となっている。人を美しく飾るために、いろいろと思案するのは楽しいし、どんな人が身につけ、どのように使われてゆくだろうかと想像する事も楽しい。

 私は道具が好きだ。道具の魅力は尽きる事がないように思う。稚拙ながらも手工芸にたずさわる者として、作り手の良識を大切にしながら、私の思う道具の美しさや楽しさをこれからも作品に投影してゆきたいと考えている。ファイバー・アート、テキスタイル・アートという言葉があるが、私はこの言葉を安易に用いる事をさけるようにしている。それは、これらの言葉の「アート」という部分に違和感を感じるからだ。先人の作家達の活動によって、工芸に対する解釈の領域が広がった今日では、「アート」の領域を間借したり、その方法論を拝借したりしなくても、魅力的な展開が出来ると信じている。工芸や道具には、まだ語り尽くせない魅力がたくさん内包されているように思う。