ART&CRAFT forum

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「天然染料に拘る」 高橋新子

2016-03-05 12:21:20 | 高橋新子
1997年7月25日発行のART&CRAFT FORUM 8号に掲載した記事を改めて下記します。

 世をあげて高速道路上を疾走しているような高度経済成長やバブル景気が終ってみると、経済破綻が待ち受け、今では官民あげて戦争に負けた後のような瓦礫の片づけ作業同様の混乱状態となってしまった。そのさ中も、ずっとそれぞれの個性、経済力、体力に見合う生き方で手仕事を続けて来た「時代おくれの人々」-私もその一人であるが-は今もマイペースでコツコツと工夫を重ねている。先人達の勝れた技術を次の世代に伝える為と、何と言ってもものを作り出す楽しさに引かれるからである。私の20年の染めと、まだ数年の織りをする生活は無意識に呼吸をしているのと同じ程に、肉体の中に浸み込んでしまった。わざわざ手間ひまのかかる天然染料で染め、さらに材料の入手さえ困難な原始布を織りたいと思うのは理屈ではない。ただもうそれを作らずには居られないからである。つまり病気である、この慢性疾患について三宅氏から紙面を頂けるのは千載一遇のチャンスかも知れない。思いの丈を書いてみようと思う。いささか退屈かも知れないが何故天然染科で染めることになったのかという経緯を少し書いて、現在の状態と、こうありたいという欲張った希望まで書かせて頂けたら幸いと思っている。
 私は特に美術系の学校を出たわけではない。「染め色」と正面から向き合うようになったのは30代の終り頃、主人の転勤で一家あげて岡山に住むことになった時からである。これを潮に今まで関わってきた様々な問題、例えば染めものをしたいという気持はかなり長い間私の意識の底にあって、今まで何度か拙文に書いた「美しい衣装で踊る優雅な西馬音内(にしもない)の盆踊りを見た時」つまり小学校5年生の夏に溯る。特に藍の絞り染の浴衣は今でも目に焼き付いて離れない。何時か自分で染めた藍染の衣装で踊りたい。これがそもそもの始まりであった。そんな経緯があって30年暖めて来た「染めもの願望」は岡山移住を期に、何とか始められる運びとなった。そこで染色の先生に師事し勉強を始めたが、根っからの不器用と荒けずりの感性に加えて染料の使い方が下手で、家族からは「古着の色よりずっとひどい色」とさんざんの不評を受けた。街に溢れている色はどんな染料を使っているのだろうか。目まぐるしく変る流行色やデザインや素材を器用に取り入れるには、60年安保の横を通り過ぎて来た、いく分アンチテーゼ気分の残っている子育て専業主婦には、いささか難儀なことだった。
 天然染料で染めた完成品と初めて出合ったのは岡山美術館(現在の林原美術館)の能装束だった。こんなに濁りのない鮮明な色が次から次へと顔をだし、激しく自己主張しながらお互いに調和を保っているのは何故なのだろうか。さらに大胆なデザインと全体から発散して来る眩惑するような美しさに、しばらくは声も出ず時の経つのも忘れて見とれていた。一般に「格調高い幽玄の美」と評される能装束だが、この時はただもう染め色の美しさに圧倒されていた。安土桃山や江戸時代の染め屋と織り手はどんな技術を持っていたのだろうか、大名家の庇護があって金に糸目をつけない充分の仕事をさせてもらえた職人達と、その作品を充分に管理保存できた大名家の財力とのシステムは、どこかルネサンス期のヨーロッパを思わせるものがある。それにしても300~400年を経て尚輝くばかりに美しい沢山の能装束がそこにはあった。
 濃い色、淡い色、中間の色、激しい色、優しい色、様々な色とその組み合わせは思い付く限りの絵の具、クレヨン、色鉛筆を並べても、混ぜ合わせても出せない色であった。そしてどれも自己生張する凛とした色だった。
 大原美術館の芹沢蛙介館で彼の型染と向き合った時も、息をのむ思いだった。高名な作家のデザインの中に息づく顔料と染料の使いわけの妙技に、このようにも染められるのだ!という感動が走った。
 急き立てられるように染織品の展覧会を見て廻り図書館で美術本を借り出し、染め方の本を買い、手当たり次第に自分で染めてみた。勉強すればする程分からないことばかりが出て来る。特に藍染に関しては皆目見当も付かない有様だった。図案も色合も出来映えも眼中になく、ただ「じきに色落ちしない染め方」を模索する毎日が続いた。疑問を山程かかえて窒息しそうになった頃、神戸への転勤が決まった。
 神戸へは子供達の新学期に合せての転居となったが、私は友人の伝手で引っ越し荷物を解かないうちに吉岡常雄先生の天然染料のクラスに入り込んでいた。先生には岡山の図書館の美術本を通じて充分に存じ上げており、実際に師事できた時の嬉しさは格別なものであった。これは幸運の一言に尽きる。私はもう40才を少し過ぎていたがこの時から生き方が変ったと思っている。
 これも拙文で何度か書いたことであるが、吉岡先生からは天然染料の染め方のみならず、化学染料も含めて広い視野に立った染織全般にわたる考え方、扱い方、技術、実物の染織品、応用、歴史的な広がり、さらに工芸全般に関する材料に至るまで、とうてい持ちきれない程の教えを受けることができた。心に深く刻まれている先生の教えは「天然染料は決して万能なものではなく欠点も多い。日常の衣類を染めるには不向きの色もある。しかし目的と素材と染料と技術の息がぴったりと合った時には、長い間の使用に耐え、美しい作品として生命力を持つようになる。自分達の技術はまだ「延喜式」を越えられないのだから、工夫を重ねることです。そして世界に目を向けることも忘れないように」というようなことだった。
 現在では染織関係の情報誌、技術の紹介記事、技の探訪番組等によって日本のみならず世界中の工芸品や製作現場の様子、さらに材料までが人手できるようになった。目まぐるしく変る流行や素材、扱う人の技術の相違点まで伝わるようになると、かえって情報に押しつぶされ、自分を見失いそうになることもある。しかしどんなに大量の情報や技術を仕入れたとしても、作品として姿を現す時は本人そのものの生きざまを映し出すことになる。作品は「私小説」と似たところがある。良くも悪くも生きざまや健康状態までが詰め込まれて仕上って来る。第三者の立場で見れば、「上手か下手か」ではなく「好きか嫌いか」つまり「惚れたかどうか」ということになる。いささか下世話な言い方だが、私はそう思っている。
 藍を染める場合、おおよそこれで良しとするかと思われる醗酵建が出来るまで10年以上かかった。今年で20年目になるが一瓶づつ状態も色も違うし、天候による藍の作柄次第で色相も違って来る。つむぎ糸と生糸では明らかに発色が違うし、木綿も麻も毛もそれぞれ産地や糸の撚り加減で百面相のように変る。オチョクられているなと思うことさえある。私の力量が足りないからである。17年程前野洲で先代の紺九さんにお会いした時のこと、「昨年納屋の二階から足を踏みはずしてからどうもね」とおっしゃりながらご高齢にもかかわらず染め場に立たれていた時の爪は美しい浅黄色に染まっていた。「毎年少しづつ貧乏になって行くようです」と静かに話されていた。私は藍染めを止められないのである。紺九さんに惚れてその姿が忘れられないから。
 紅も茜もラックも書き始めたらきりがない。グレイも黒も茶も黄色も使う染料はさまざまで染め方もいろいろ違う。染めるのに最適な季節まであって、染め手を追い立てる。それぞれの材料が個性を主張して生きもののように動き廻っている。見る人を眩惑するあの能装束の中に棲み付いている色を思うとき、もう一度もう一度と染めの深みにはまって行く。
 4~5年前から和紙を染めて糸にする勉強を始めさらに2年前にシナ糸と出合った。これは素材の一つとして扱ければ作り手は充分に応えてくれないような気がする。古来からの行程による手仕事の紙漉きの現場を見ると、この紙を使って手軽にひともうけできる商品を作ろうなどという考えは絶対に浮かんで来ない。作り手と同じように地を這うようにして糸を作り染めて織るべきものだと思うようになる。やはり「時代おくれ」の生き方が最もふさわしくなる。
 紙の糸もマニラ麻系の繊維をドロドロにつぶして、機械漉きしてカットし、撚りかけして糸にする方法で工業生産品として安価に出廻るようになった。染めにも耐えるし強度も耐久性もあって、アパレル関係で時折見かけるようになった。けっこうイケルという評判である。レーヨンや麻糸と撚り合せをしたお洒落なものもある。
 一方手仕事の糸作りの能率はかたつむりより遅い。当然のことながら大量生産や流行をねらっての儲け仕事をしているわけではない。自分の不器用な生きざまを自嘲しながら。でもきっとこんなことが好きだからに違いない。この紙糸には手仕事でなければ表現できない工夫がある。今それを作っている。きっとうまく仕上ると思い込んでいる。
 シナ糸も作り手が高齢化してだんだん入手がむずかしくなって来た。シナ糸は素朴で強烈な個性を持ち生命力に満ちあふれている。この糸と出合ったとき、40才で若死した鷹匠を思いマタギの姿が思い浮かんだ。惚れて買い込んだが実際に織ってみると、疲れはてる程手強い糸である。織り上ると端が歪んで波打っている「よし、もうひとはた織ってみよう、そして好きな文様を染めてみょう」
 今年、小倉遊亀展で「磨針峠」を見た。使いなれた針を無くしたので、斧を研いで針を作ろうとしている老婆と峠で出逢う若い修行僧の図である。針は町へ行けば買えるのに。心に滲む絵であった。

「自分の染め色(2)」高橋新子

2016-02-14 11:47:50 | 高橋新子
1997年3月20日発行のART&CRAFT FORUM 7号に掲載した記事を改めて下記します。

 自分の染め色(1)で書いた安西篤子氏の源氏物講読会は緊張感の漂うなか、脱線することもなく重々しい響きをもって、かなりのスピードで進んだ。その間僅かな休憩を一度取っただけで、2時間近くを張りのある声で講読された。きっと強靭な声帯と腹筋と体力の持ち主なのだろうと感じ入ってしまった、受講生は一見して「ああ、源氏物語通…」と思われる方々で、皆静かに聴き入っている。そしてちょうど区切りの良いところで、質疑応答もなく「では今日はここまで」と席を立たれて帰られてしまった。
 その日は柏木の病死によって、ゆかりの人々がさまざまに嘆き悲しむ場面である。目指す衣装の色は当然のことながら華やかなものはなく、もっぱら鈍色(にびいろ)と墨染が主であり、わずかに黄色がかった紅色の単衣がちらりと出て来るだけと思われた。安西氏は「鈍色、つまり地味な色の……」と云われただけだった。
 鈍色は一般に「黒のうすい色」と云われている。天然染料を扱った人には咄嗟にこの色が十色以上思い浮かぶはずである。グレイ、鼠、灰色と云っても赤味の色、茶色のもの、黄色がかった、青味の、銀鼠のと次から次に思い出される。一口に「四十八茶百鼠」と云われる程豊かな色相を持っている。これ等は悲しみの色というよりむしろ渋くて粋で上品な色である。使う染料は現在では五倍子、げんのしょうこ、コチニール、びんろうじゅ、矢車、藍草の茎、梅の枝、つるばみ、臭木の実のがく等数えれば限りがなく、これ等の煮出し液で染めて、おはぐろか金気水で発色させると一つ一つが違う鈍色になって染め出される。天然染料は染め手の個性があきらかに色に現れ、しかも二度と同じ色は出ないし大量生産も出来ない。「物悲しう、さぶらう人々も鈍色にやつれつつ」何枚も重ねた鈍色の下に、わずかに華やかな色が見え隠れする様子は、むしろなまめかしささえ感じられる。鈍色は衣だけではない「夕暮の空の気色、鈍色に霞みて、花の散りたる梢どもを」となりさらに「鈍色の几帳の衣がへしたる透影(すきかげ)涼しげに見えて」と春のさ中に際立った効果を見せている。ところで数十年前に読んだ著名な歌人の源氏訳を思い出してこれ等の場面を捜してみた。そこでは「女房達も皆喪服姿になって」と訳してあった。
 天然染料の染めでは陽の光では美しい銀鼠に見えた絹が、室内の照明でどうにも茶味の強い重い色に見えることがある。一期一会のスリルがつきまとう染めで、自分の染め色を確かに表現するのはかなり難しい。とは云え作品の前に立つと、染め手と直に向い合っている程の息づかいを感じてしまう。楽しくも恐ろしい出会いである。当然自分自身の至らなさも見通されることになっているから。

「文明開化以前」 高橋新子

2016-01-18 11:18:36 | 高橋新子
1996年12月20日発行のART&CRAFT FORUM 6号に掲載した記事を改めて下記します。

 過日港区芝公園近くの交差点で信号待ちをしていたとき、近くに「ハイテクKOBAN」という看板を見た。外観はごく普通の交番であり窓には人影があって「ああ、お巡りさんが居る」という様子だった。いったい何がハイテクなんだろうと翌日問い合せてみた。広報担当者によると「対話システム」が設置されている交番のことで、巡査が留守の場合でも通報や相談に応じられるように、テレビ電話がある、操作はきわめて簡単ということだった。価格の点で、すべての交番に設置されているわけではないが、一度是非立ち寄って見て下さいという妙な誘いを受けてしまった。
 ハイテク機器は日常生活の中にどんどん入り込んでいるが、我が家ではそれを充分に使いこなしてはいない。電話のシステムにしても、組み込まれている機能の十分の一以下しか使いこなせない。たくさんあるリモコン装置も一度停電すると、インプツトのやり直しに手間取ることになる。多すぎる機能や情報は時としてやっかいなものとなる。
 かって古人達は草木を煮出して何度も何度も染め重ね、手間ひまかけて染織品を作っていた。そのまだるっこさが今風に合わないのか「早く濃く染める」為の工夫がどんどん進み、媒染剤や助剤が覚えきれない程の数で出廻ることとなった。中には自然界に存在するものの仲間や、その関連物質とは程遠いものもある。媒染剤でも助剤でも染めに対する反応が著しく、定着も堅牢なもの程弊害も起き易すく、中には毒性を持つものもある。最近銅鍋やアルミ鍋のように煮炊きで変色するものについて、食器の中に浸出する成分の危険性が取り沙汰されるようになった。銅もアルミも媒染剤の中では、最も一般的なものとして定着しているお馴染みの物質である。では古人達は何を使って染めていたのかと改めて考えることになる。
 文明開化以前と現在とを比べてみる☆染料は野山や平地にあるものと輸入品を少し。これは現在の草木染とあまり変らない☆媒染剤や助剤は椿灰、木灰、わら灰、石灰等の灰汁。天然の明ばん、鉄気水、鉄漿、梅酢、柚子やザクロの汁、米や雑穀のおかゆ。現在の品揃えは、とにかくすごくたくさんある。☆良質の水、よごれない大気、そして当時の絹。これは現在入手不能である。室町時代の能衣装や江戸の小袖を見た人の目に映ったあの佳麗な染織品の仕掛けは、もうごくありふれたものだった。私達は手に負えない程のハイテク品を揃えたが、基本的なものを失ってしまった。
 東京テキスタイル研究所で草木染の講座を受け持つようになって10年になる。染めるものは絹だけではなく木綿も麻もウールもある。それぞれの素材によって扱い方は少しづつ違うが、基本的には同じ理屈で染まってゆく。美しく堅牢な色を求めるのは当然のことではあるが、文明開化以前の技法についても考える場を持ちたいと思っている。さらに古人達が使っていた煮出し用の鍋についても知りたいことがたくさんある。                    

作り手と使い手(3) 高橋新子

2015-12-09 15:18:50 | 高橋新子
1996年9月25日発行のART&CRAFT FORUM 5号に掲載した記事を改めて下記します。

 当研究所の夏期講座で「紙糸」や「拓紙」を取り上げるようになって四年目となった。私白身正直なところ「何故紙糸を作るようになったか」についての明確な動機が思い当たらない。多分原始布の展示の中で生成りの紙布を見たとき「染めたらどうなるだろう」と思った程度のことだったろう。何となく始めた作業が、どんどん深みにはまり、疑問と失敗に押しつぶされながら、気が付いたらもう五年以上が経っていた。この間、材料と技法、さらに考え方等の迷いは大きく、本紙上「作り手と使い手」及び「作り手と使い手(2)」でその一端を書かせて頂いた。
 まず最初の課題は糸にできる和紙を見つけることだった。試作と情報収集と試行錯誤でほとんどの年月を費やしたが、高い品質と安定した供給が得られる目処がついて、この問題は一応の解決をみた。次は良い糸を作る技術の習得だったが、これも長い間の遠廻りを重ねた末に、やっと最近になって「こうだったのか」という方法に辿り着いた。この長い道のりで得た手のひらの感触は夏期講座の実習の中で「ね、ここが勝負どころですよ」などと懸命に説明してみたが、やはり各自が自分で納得するまでやってみる外に方法はない。
 これで生成りの紙糸を作るという課題は不充分ながらも一応良しとして、では欲しい色や欲しい景色の糸に染めるにはどうするのか、という問題が当然出て来る。染料は、やはり天然染料でなくてはならない。紙の状態で刷毛引きをして染める、あるいは浸し染にする。これも工夫が必要である。糸にしてから浸し染にするのは木綿や絹とは扱いが違う。藍や茜のように扱いの難しい染料の場合や色移りするもの、鉄媒染をした時の後処理の問題等、やってみれば次々と難問が待っている。紙糸が作れる程の和紙でも、この染めの段階で進まなくなることがある。織ってしまえば、あるいは編んでしまえば洗濯機で洗っても充分耐えられる紙布だが、楮100%で名人の仕事による手漉き和紙でも、糸又はそれに準じる状態では、難しい染めにはいろいろな工夫をしなければならない。私の持ち技では、まだ充分と云えるところまで至っていない。
 ところで底深いこの迷い列車に乗り込んで、その行き先を考えるとき、一応糸が作れて、染めもまあまあのところまで仕上ったとし? 目的は着物を織ることかと云えば、必ずしもそうではない。試行錯誤の途中で工夫を重ねれば、それだけいろいろな展開や可能性が考えられるようになる。目指すものは「これ等の紙糸で作ったものと、共に暮らす心地良さ」にある。そろそろ形あるものにしたいと準備を始めている。                           

自分の染め色(1) 高橋新子

2015-12-01 13:10:57 | 高橋新子
1996年6月20日発行のART&CRAFT FORUM 4号に掲載した記事を改めて下記します。

 たしか去年の今頃だったと思うが、散歩がてら近くの古本屋を覗いた時、中央公論社版谷崎潤一郎訳源氏物語の初版本全二十六巻が、五千円で店頭にあるのを見てしまった。当然のことながら何のためらいもなく買おうと決めた。これを本棚のどの位置に納めるか、いや多分はみだ出して床の上に積むことになるか、さもなくばあの本とあの本を追い出して、と頭の中は目まぐるしく回転したが何が何でも欲しい本であったので、とにかく支払いを済ませて配達してもらうことにした。
 この本は凝り性の谷崎氏が「全然助手を使はずに自分一人だけで此の仕事に没頭し殆ど文字通り源氏に起き源氏に寝るという生活」を三年近くも続けて為し遂げた仕事だそうである。第一巻が昭和十四年一月。続いて順次刊行されたが最後の第二十六巻は、印刷用紙は不自由、恋愛小説もご法度という緊迫した社会情勢の最中、開戦間近の昭和十六年七月となっていた。校閲、装訂と用紙の地模様、各巻の扉の彩色紙と題字等々、いずれも当時の最高水準のメンバーによる仕事を揃えた美しい本である。
 かって受験勉強から逃れたい一心で読みふけった図書館の谷崎源氏は、古典ものの中でもひときわ立派な装訂で、原文対訳の学習向けのものであった。今回の初版本源氏は、氏が序文で書いているように「文学的飜譯であって講義ではない」つまり原文の持つ品格や含蓄、芸術的境地や餘情等を充分に尊重し、大きくはなれないようにしながらも『谷崎の書いた源氏物語である』と強く主張している。
 古代からの染めの技法書の第一は云うまでもなく延喜式であり、その染め色が姿かたちを整えて華麗に動き廻るのは何と云っても源氏物語の中である。正倉院宝物のように保存されることのできないこれ等の観念的産物は、学者や文化人、染色家や影像関係者、呉服商達によってさらに増幅された。
 染色を志す者は誰しもこの幻の正体を確かめたいと思うのは当然である。王朝の色を再現するとか復元するということではなく、現在の自分の染め色として表現してみたいという思いが、だんだん膨らんで来ていた。そんな折、ちょうどこの本と出逢ったのである。
 一人でコッコッと読み初めていると、知人から在住の作家安西篤子氏が源氏の購読会を持たれているという情報を得た。途中からでも良いということで六月度から参加させて頂けることになった。テキストは岩波文庫の山岸徳平校注のもので、安西氏の朗読を聴きながら、原文に沿った講義を受けるということになる。作者の解読する物語の空間と受講生のイメージがどのように結び付くのだろうか。勿論私の目的は色彩と素材、それ等の質感とたたずまいを探り出すことにある。何はともあれ待ち遠しい数週間である。