ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「縄のかご」 高宮紀子

2016-09-12 11:43:32 | 高宮紀子
◆“IN/OUT-SIDE”(41×41×41cm) ヒロロ

◆秩父日野田・石橋政義作「スカリ」

2000年12月20日発行のART&CRAFT FORUM 19号に掲載した記事を改めて下記します。

民具のかご・作品としてのかご-5- 
 「縄のかご」  高宮紀子

 埼玉県秩父郡吉田町で9月から11月にかけて行われたスカリの講習会に行ってきました。スカリとは秩父地方で昔から作られてきた背負い編み袋のことで、山仕事などの道具や弁当を入れたようです。イワスゲと呼ばれる草の葉を縄になって作ります。初めに30mぐらいの縄をない、枠にかけてタテ材とし、編み材の縄でもじり編みをして作ります。
 長くて均一の縄を早くなうのは、熟練の技術が必要です。縄ないの方法は両手の平に2つの束を挟み、逆にずらして繊維を転がします。この時点では、同じ方向のよりが繊維にかかっているにすぎませんが、この後、2つの束をよりの方向とは反対に合わせることで縄目ができます。縄ないの名人はこれらの作業をとぎれることなく、すばやく行うので、動きを見ていても何がどうなっているのかわかりません。またたく間に縄をなってしまいます。さらによりを固定するため、より合わせた同じ方向に再度よりをかけ、草の束などでこすってよりの間隔をつめます。名人の縄は、よりの密度が高く丈夫なので、スカリの枠にかけても、よりが戻って切れることありません。
 
 縄をなうのには、もう一つ方法があります。それは指で繊維をまわして回転を与え、より合わせる方法です。時間がかかりますし、指の指紋は薄くなるでしょうが、よりがしっかりかかりますので、手の平でなうのに慣れないうちはこの方法が安心です。縄をなう方法はまだあります。オーストラリアのアボリジニの例を本で読んだことがあるのですが、それは太腿の上に繊維を置き、その上から手の平らを押し付けて転がし、よりをかける方法でした。長い縄をなうのにはたいへんそうですが、短い縄ですと片手でもなえる便利な方法だと思います。
 
 縄は1本の太さを変えたり本数を増やすことができます。巨大なものの例としては神社の注連縄(シメナワ)がありますが、縄が太くなるにつれて、いろいろな工夫がされています。例えば正月用の注連飾りで元は細いのに、真ん中あたりが太くなっているものは、膨らんでいる中に詰め物を入れてないます。縄ないの作業はシンプルですが、いろいろな技術を見ることができます。
 
 縄ないの途中で手を休めてゆっくりと観察すると、縄自体もなかなか美しい形じゃないか、という気がしてきます。スカリを作る場合には、縄ないの行為は編み袋を作る過程であって、それ自体で完成ではありませんでした。しかし、縄で造形作品を作ることを考えますと、ただ縄をなってたくさんぶら下げても、縄のれん?といわれてしまいそうです。縄を巨大に拡大してその構造を見せる、という作品が70年代の、Francoise Grossenや八木マリオさんによって発表されました。縄のもっている構造としての面白さ、躍動感や力強さ、繊維をいろいろな箇所に結合させる自由さが魅力でした。用途から解き放された技術がいきいきと語りかけている、という感じでしたが、それは同時に「技術はもともと自由なものなのだ」、と再認識することにつながりました。
 
 左は’94年にヒロロという草で作った私の作品です。このシリーズでチョマの作品も作りました。ヒロロというのは、福島県の伝統的な編み袋の素材です。秩父のイワスゲと同じ植物だとは思いますが、もう少し短く柔らかめです。同じように丈夫で柔軟な縄ができます。両方とも地方の呼び名ですので、植物名はカンスゲか、その仲間だと思いますが確証はありません。この作品は棒を何本か結んで枠を作り、それを頼りにして縄をかけて作っていきました。縄は手の指でよって、既に縄がある場所は、その縄を縄目の中に鋏みこんで表面を覆っていきます。指でなっているので、方向を変えたり、狭い場所にも縄を渡すことができました。in/side-outというタイトルをつけたのですが、枠の中に入ったり、外へ出たりして縄を渡した作業に因んでいます。面を作る、というよりは、線をたくさん作って領域を埋めるという作業になりますので、縄が進む方向は、自由というか、行き当たりばったりです。
 この作品を枠から外した後、少しずつ渡した縄がたるんだり、緊張したりして、それぞれの線の様子が違っていき、しばらくして落ち着きました。その後、ヒロロの縄が持つ弾力とネット状に編まれている組織のおかげでが変形することはありません。輸送のために少々形がゆがんでも、弾力で復元します。
 先日、山歩きをした時に、うっかり蜘蛛の巣にかかってしまいました。人間にとって蜘蛛の巣ははかないものですが、ネット状の巣は虫の世界では頑丈なトラップです。もし、蜘蛛が立体的に巣をはれるとしたら、私の作った枠にどんな巣をはるだろうか、とふと考えました。きっと形の無い面白い構成になるかもしれません。

「鉛筆を削る」 榛葉莟子

2016-09-11 11:42:15 | 榛葉莟子
2000年12月20日発行のART&CRAFT FORUM 19号に掲載した記事を改めて下記します。


 或る午さがり、鉛筆を削っていると、犬の吠える声に混じってこんにちわの声がした。窓からのぞくと知人のKさんだった。Kさんは車で15分程のところに工房を持つ陶芸の作家だ。アクの強いオブジェ的な作品も素晴らしいが、静かな気配が漂う器ものが私は好きだ。どうぞどうぞと言いながらコーヒーを入れる。今日のKさんは浮かない顔をしている。灰皿にたばこをぎゅつともみ消した。コーヒーを一口飲んだ。Kさんの身体全体から何やら重たげなため息が漏れている。確かKさんの個展は数ケ月後に決まっていたはずだ。制作進んでます?いやぁ‥‥といいながらKさんはまたたばこに火をつけた。それから、なんにも出て来なくってさと苦笑いしながら言った。造ったって売れないしねえとも言った。ははーん、なんにも出てこなくなった素はこれだなと思った。本当は心にもない事を口にしてしまうKさんの内部にいま、嵐が吹き荒れている。眼の前の的に占領されてしまっているのだなあと解かり、嵐よ静まれとあれこれの力ずけの言葉もむなしい。かといって‥‥その化物に呑み込まれてほしくない。どうしてよいか手段の尽き果てた時こそ、天地瞑寞になってしまった場合こそ、人間は最もよく生きている。そこには生命の火花が散っている。と、好きな作家のこんな文章を思い出し口にしてみる。様々な障害と力くらべの綱引きのなかで、何やら試されているなあと言うことは常に感じる。Kさんはふっと笑った。それから硝子越し遠くに眼をやった。いつの間にか陽は傾き、庭の落ち葉に夕焼けが染み、いつそう赤みが濃くなっていた。きれいだねえとKさんがつぶやく。みる間に、あたりは夕闇となる。
 午さがり私は鉛筆を削っていた。
短いものや長いもの、六角形の角からゆっくりと、けれどもすっすっと、3センチ程ナイフを滑らせていく。無垢の木肌の六つの面とその境の六本のシャープな線を保ちながら、鉛色の芯7ミリ程の先端に向かう。六つの面に支えられ芯はすっくと尖ってくる。10数本削り青色の硝子のカップに納める。窓からさしこむ光を吸収し鈍く光る硝子や尖り屋根の六角柱の林立。眺めているといつしか小人の眼になつたり、ガリバーの眼になったりしてくる。くるっと三日月にカーブしている削りクズの小山をふと見ればこれもまた何事かを刺激してくるのでクズなどと失礼な事はいえない。なぜか子供の頃から鉛筆削りが好きだった。どんなにちびた鉛筆もサックをつけて削った。それでも間に合わなければ鉛筆のおしりに糊をつけてちびた二本を繋げて削った。こうなると単に貧乏性ということになりそうで、それもあると認めながらも、子供ながらにその時間が好きだった面があるなと、いまの自分に重なりそう想う。そう、習字の時間も好きだった。墨をすっている時がいいのだ。漆黒の硯の中のわずかな透明な水の表面を撫ぜるように優しくゆっくりと、墨を持つ手は行ったり来たりを繰り返す。墨のいい匂いの蒸発。風にも似た墨をするかすかな音の重なり。リズム。静寂。空っぽ状態でありながら、けれども密度の濃い透明がゆったり動き流れていたような不思議な空間だったなあと思い出される。
母親の胎内とはこんなふうではなかったのかしらと、ふと想われた。母胎。
はい、止めてなどと先生は言わない。自分自分の身体全体が、頃合を感じ取る。
鉛筆を削っている時や、墨をすっている時、確かに眼の前のそのことをしているのだけれども、心は何処かに飛んでいる。遠い彼方に出かけているような虚ろな夢見感覚が重なっているようだ。そういえば胎児は胎内での10カ月の間に太古の祖先が歩んだ進化の過程を追体験するという。私たちはみな胎内での壮大なドラマが身体の細胞の一つ一つに染み記憶されているということになる。いま、この瞬間にも休みなく記憶されている訳だ。自分もかって胎児であったように、私たちを産み出した母胎に再び引きよせられる。奥底からはしきりに寄せてはかえす波音の呼びかけが聞こえてくるようだ。臍のうを潜りぬけた彼方はどんなふうであるのだろうか。あの教室で経験した茫茫とした沈黙の静けさが満ちているのだろうか。そこも母胎にみえてくる。
ニャッと声がして猫が入ってきた。ストーブの傍らでもう丸くなっている。猫は四六時中夢の中ではずいぶん遠方に出かけているのだろう。もしかしたら猫の現実はあちらで、時々、あちらから人間を喜ばせに、こちらにやってくるのじゃないかしら。

「21世紀への手紙にかえて」 林辺正子

2016-09-10 11:58:39 | 林辺正子
◆「見えるものの地平」(550W×1500×550Hmm 絹糸、鉄線) 2000
 撮影:宮角孝雄
◆「転生の器」-嗜欲の器展より-
(300W×300D×150mm  絹糸)   1992
撮影:宮角孝雄
◆「DIE VERWANLNG」-変容-  (1000W×300D×1800Hmm 絹糸 、真鍮)  1990
撮影:宮角孝雄
◆「SYNECDOCHE」-分節と綜合- (450W×120d×1800mm   絹糸、木、鉄線、鉄)  1997
撮影:宮角孝雄
◆「SYNECDOCHE」 -分節と綜合-  (450W×120D×1800mm  絹糸、木、鉄線、鉄)   1997
撮影:宮角孝雄
◆「見えるもの地平」 (240W×300D×150Dmm -箱のサイズ-木、粘土、卵のから)   2000
撮影:宮角孝雄
◆「ネックウェア」 (400W×400Dmm  皮革、銀、ラボラトライト)  2000
◆「見えるもの地平」 (240W×300D×150Hmm-箱のサイズ-  木、石膏、あわび)  2000
撮影:宮角孝雄


2000年12月20日発行のART&CRAFT FORUM 19号に掲載した記事を改めて下記します。

 「21世紀への手紙」にかえて

 明日もわからない者が「21世紀への手紙」を書くのは至難の技である。そこで思い付いたのが日記。20世紀前半に生を受け、20世紀後半を生き、21世紀前半のいずれの日にか、この世を去る。このような者である一介の織り手が、20世紀末のある数日間、どのような日々を送ったのかを聞いていただけたらと思う。作り手である読者の皆さんは、その資質として周囲を受け入れることが上手だから、「21世紀への手紙」にかわるものとして、この日記もきっと受容してくださることだろう。以前から、私個人について語ることを潔しとしないのは、実は私は、自分にとってもひどく困難な存在だからなのである。

 2000年11月21日
数日前、「ギャラリーいそがや」での個展、『LABORATORIUM anima eterna見えるものの地平』が終わり、気持がやっと外に向かって開いてきた。制作中は騒然としていた部屋もひとかた付いた。空模様は雨が降らない程度で、あまり晴れ過ぎていないのが心地いい。
次の作品のために、半貴石を買いに出た。石屋には不思議な吸引力があるらしく、地下鉄の本郷三丁目の駅を出ると、間もなく探し当てた。私の石好きは小学校から始まった。それは夏休みのある日、大学の地質・鉱物科の教室に連れていってもらったときからである。光を透すまで薄く研磨した石を顕微鏡の下に置くと、万華鏡のような文様が大小さまざまに限りなく繰り返し現れ、そこに広がる世界はこの世のものとは思われないほど美しかった。そのような石がスライドのようにマウントされて、浅くて奥の深い何段もの引き出しの中に整理されていた。

2000年11月22日
夕方バスを降りると、急に北風が吹き始めたらしく、外は殊のほか寒くなっていた。長年暮らしたストックホルムで、このような風が突然吹くのは希だった。ストックホルムには予定調和の風が吹くのである。樹木は冬の寒さに抑制されながらも伸びやかに枝を張り、湖沼は寒空の下に鉛色を呈していた。
10余年、あそこで私は一体何をしていたのであろうか。思い返してみると、私を知る人が一人もいない小さな北の都会で、初めにしたことは自分を変えることだった。それは生まれてこの方20数年間に、身に付いたあるいは付けた、殻のようなものを一枚づつ剥いでいく作業であり、家庭、学校そして社会などで得た知識や経験から自分を乖離させる試みだった。
そして同時にもう一つ私がしたことは、自分の過去を遡行することであり、それは点在する灯りを頼りに暗い記憶の洞窟を降りていくようなものだった。ダリは母親の子宮内のことまで憶えていたというが、私がどこまで辿ることができたのか、今となっては定かでないが、確か2歳ぐらい迄のことだったと思う。こうして書いていたら、若くして戦死した父親が私を抱き上げた際に、たばこの火が私の指を焦がしたことを鮮明に思い出した。
自分の歴史を辿り直して、その時点までに自分の内部に形成されたものを捨て去ること。こうした作業の中でたったひとつ拾い上げたもの、それが糸だった。ぶらりとしては暮らされもせず、である。

2000年11月23日
今日はたいへんきれいな夕焼けでした、とテレビで報じている。一日中クラフト協会のクラフト・コレクションのためにマフラーを織っていたのだが、なんら破綻なく、今日の私の作業もたいへん幸せなものだった。経糸と緯糸が直角に交わる様は安心感さえ与えてくれた。人に使われることを想定しての制作は、一気に何枚も織り上がるなら、農作物の秋の収穫と同じような歓びを与えてくれる。

2000年11月24日
「量は質に転化する」。いまだにマルクスの亡霊に取り憑かれているのだろうか、小さなユニット、あるいはパーツを何種類かたくさん作り、それを組み合わせて作品を作るのが好きだ。これならば、途中で時間がなくなっても何とかまとめられるし、後で付け加えたり、取り外したりすることもできる。分解して他のものへと変容させることさえ可能である。ユニットとしての織物の断片、ニットの断片、鉄、アルミ、銀の断片など数限りなく考えられるのもいい。部分的に制作したものを最後に合体させるのは楽しいし、狭い場所で制作できるのも何よりである。少し難しい点はユニットの形態を考案することにあるが、私の場合、他の要素としての織りは平織り、ニットは細編み、下染の染料は紅茶、媒染剤は鉄、というように自ずと絞られてきたので、いっそのことここで、シンボル的形態すなわちユニットも、経糸と緯糸が交わる様を示す+としてしまおうか。これ迄のユニットは平面だったので、枚から個と数えられるものにしてみたいとも思う。
私にとってユニットとは普通の人々、それぞれ微妙に異なる庶民という気がしてならない。

2000年11月25日
ある方から大好物のナッツのビン詰が送られて来た。カードが添えられて、「寂酒の友に」と書かれていたのを読んでギョッとした。そんな風流な言葉があったのだ、知られてしまった、と読み返した。改めてもう一度読むと「寝酒の友に」だったので、今ほっと胸をなで下ろしたところである。潜在意識のなせる技か、寂酒と寝酒、両方とも真の友である。

2000年11月26日
地下鉄銀座線赤坂見付の駅に列車が到着すると、扉が両側に開いた。大勢の人に混じって私の前に偶然立ったのは、学生時代の旧友だった。私は二駅先で降りたので、交わした言葉は二言三言だったが、既視あるいは未視感とでも言おうか、気が遠くなるような、不思議な感覚に見舞われた。交わることのない平行線を辿り40年近く経った今でも、若い頃と現在が重ねられた顔に、自分の鏡像を見るような胸苦しさに襲われた。
現実世界と平行線上にある鏡像の世界、既視感と未視感が交差する世界、いずれにせよ現実世界には存在することのない幻の現出、作品もそんな側面を持っているのかもしれない。それにしても、電能には幻視が可能か。

2000年11月27日
今年の初夏に転んで痛めた母の腕に包帯を巻いてから家を出た。高齢のためか、治りが遅い。人は多かれ少なかれ、自分に課した、あるいは他者により課されたロールモデルに沿って生きようとしている。
では、私の制作上のロールモデルとしては、どのようなものがあるのだろうか。大別すると、三つのモデルがあるように思われる。その一つは思考のモデル。これには主に哲学や文学などの読書を通して習得した考え方や生き方などが含まれる。例を挙げるなら、ギリシャの哲学者、ネオ・プラトニスト、ニーチェ、ジル・ドゥルーズ、クロソウスキー、レイモン・ルーセル、カフカ、プルースト、リルケ、埴谷雄高などと枚挙にいとまがないが、ゆうに半世紀以上生きてきてしまったが故のことである。そしてこれに、広い意味での自分の経験から得たものも付け加えておこう。
二つ目の形象のモデルはどこへも逃げ隠れすることのない、そしていつも私と共にある人間の身体である。身体を敷延して臓器、血管、骨、身にまとうもの、棺などと広い射程を持たせたい。科学や医学がいかに発達しようとも、私にとって身体はいまだに神秘である。
第三番目のモデル。これは、言葉では容易に表し難いのだが、共犯、共謀関係にある諸力、働き。実体化された、しかしいまだ生気を欠いた存在に、視覚的暗示作用を促すための息を吹き込むふいご。感情。妄執。息遣い。このようなものが制作者、作品、そして観る人という多項関係を成立させるのかもしれない。
作品制作に必要欠くべからざる素材と技法は、この両者が物質的に成立させた表層のうちに、おのずと消滅することを願う。

2000年11月28日
午後、ある友人の作家から展覧会のDMが届いた。葉書の裏面に掲載されていた作品写真をずっと見ていたら、コトンと睡魔に襲われて白昼夢を見た。お化けが見え隠れしながらあちこち動き回るうちに、次第に作品が増殖し、葉書の作品が完成した。見えない世界と見える世界を往来できるのはお化けだけだから、至極もっともな夢なのだが、OOさん、ごめんなさい。

2000年12月1日
21世紀には三島由紀夫の小説のどこかにあった「のっぺらぼう」の世界が待ち受けている。インターネットの普及に拍車をかけられて、次第に人々は顔を失って匿名化するからである。そしてそのアンチテーゼとして出てくるある種のナショナリズムも人を匿名化する危険性を孕んでいる。いずれにせよ単一な世界の出現である。「のっぺらぼう」も悪くはないが、アフリカの織物、中東の織物、アジアの織物というように自然発生的でどこか通底している、そのようないろいろな織物が存在するほうがいい。歌にしても同じである。地球上は多様で多能な表面のほうがずっと楽しい。
ミトレ刑務所でのジャン・ジュネの朝は、「タラブーン、タラブーン」と明けた。21世紀の朝はどんな音で明けるのだろうか。

「かごを編む作業」 高宮紀子

2016-09-09 14:08:24 | 高宮紀子
◆“REVOLVIG”(25×25×12cm) 1999年制作

◆「柳行李」-豊岡産-
◆柳行李を作る作業


 2000年9月20日発行のART&CRAFT FORUM 18号に掲載した記事を改めて下記します。

 かごを編む作業は、作る人が手で材料を動かしながら手前で編んでいくので、作業の姿勢はだいたい共通している。小さなかごなら座って、かごをお腹の前あたりに持つか、あるいは、台に乗せて編むことが多い。例外もあるが、普段は作業が楽にできて力が無理なく入るようにする。

先日、兵庫県の豊岡という所へ行ってきた。昔から杞柳細工で有名な所である。その中でも柳行李に興味があって、一度編む所を見てみたいと前々から思っていた。草や樹皮などの繊維で編んだかごは、そのプロセスがなんとなくわかるような気がするが、この柳行李に関しては、どうやって編むかがわからない、そう昔から思っていた。

ヤナギの枝で編んだかごはヨーロッパでも多くあるが、皮をむいたコリヤナギを並べ、麻糸で織るようにして作る方法は、中国、韓国、日本にだけあるようである。しかも方法はほぼ同じだが、それぞれ形に特徴がある。素材のヤナギの性質も違うようで、中国のものに比べ、日本のコリヤナギは細いけれども粘りがあるらしい。この素材の違いは日本の柳行李の角張った形につながる。しかし、現在は良質な素材を育てるところも少なくなり、素材を得るのもたいへん、と聞いた。

杞柳というのはコリヤナギ、あるいはコリヤナギとトウで作るかご全般をさす。豊岡の兵庫県杞柳製品協同組合の理事長、田中榮一さんと製品の広報などの担当の榊原さんのお世話で杞柳製品を作っていらっしゃる方々にお会いすることができ、行李を作る作業などをずいぶん長い間見せてもらった。

初めて作業を見た。大きな厚い板の上に人が乗り、ひざをついて、うつむきになって織っている。片ひざをたて、手を下に延ばし、タテ方向に並べたコリヤナギの間に麻糸を入れていく。力のいる作業ではないが、腰をうかした状態で前かがみになって作業を続けなければいけない。数段、編み終えたら、一旦、板から降りて編みの先端を後ろへずらす。毎回、中腰になってコリヤナギを1本ずつ拾って開口を作り、そこに糸を入れることを繰り返す、たいへんな作業だ。
この作業を職人さんの所で実際に編ませてもらった。中腰はつらいし、前か、後ろにつんのめりそうになる。糸を入れるためにコリヤナギを1本ずつ拾うのも、案外固い。力を入れすぎて折りそうになったり、糸を引きすぎたり、コリヤナギが乾いたり、でなかなかうまくいかない。

柳行李の組織の構造は織物の構造に近い。タテにコリヤナギ、ヨコが麻糸である。だから作業も織るということに近いはずだが、織機で織る時の作業の力関係とはまた違う。弓に似た道具でコリヤナギを挟んで並べていき、前述の大きな板の上に置く。その上に薄い板を置いて、その上に乗る。自分の体重を使ってコリヤナギを押さえ、組織をひたすら平らに作るという作業は単に”織る”と言ってしまうには独特なもので、体全体を使った作業は決して楽なものではない。しかし、名人と呼ばれる職人さんは、ほとんど高齢なのだが、編む作業にリズムがあって、板をずらす時も軽やかに、ぴょんと跳ねて移動するそうである。
箱の展開図のような形を織り、糸で縫って四角い箱にしあげるが、織った後で出てくる編み地のそりも計算されて、それらのエネルギーが相殺されて角張った箱が作られる。昔から作業は分業で行われてきた洗練された製品だから、作業行程はひじょうにたくさんあり、織る、縁をつける職人さんはそれぞれ別の人だ。

柳行李に興味を持ち始めたのは、かごを作りはじめるようになってからであるが、最初は織機かなんかの機械を使ってタテ糸の麻糸を強く張り、コリヤナギを横に入れて編むのではないか、と思っていた。しかし、実際はタテ方向がコリヤナギ、横方向が糸であった。織ということであれば、タテ方向にテンションがあるわけだが、柳行李では、ヨコ材の細い麻糸の方が強い、とさえ思えるほどコリヤナギに糸の跡や横の段ごとにわずかなうねりが見られる。組織はコリヤナギのタテ密度が高く、組織の中のコリヤナギの1目の形は細長い菱形に近い。

話は飛躍するが、一つの作業で作られた組織構造と似ていても、それを作るプロセスが違う、ということが編み組品に多々ある。作り方が違うのだが、同じに見える構造ができる、とったことである。いつも見慣れた組織だと思っていて、眺めているとあるはずのないところに材があったりして、え?!ということになる。

右の作品は私の作品で、そのようなプロセスに関する興味から出てきたものである。シラカバ(白っぽい材)で組んだ所は、材全部で面を組んで重ねているように見えるが、実際には、材の動く方向は1本ずつ同じ方向ではない。互いに反対の方向に進んでお互いを組んでいる。作業からいえば、複雑で面倒だ。普通に組んだ方がはるかにやさしい、しかし、このややこしい方法でできる形ということに興味を持っているので、面倒でもやっている。

バスケタリーの作品には組織構造に興味をおいたものがある。これらの作品はそれこそ、たいへん面倒な作業で作られたものも多い。私も組織を作るプロセスへの興味があり、どうしてもここに行き着いてしまう。この種のテーマは、必ずしもアイデア自身が形の面白さと直結するのでない、というのが私の悩みではあるが、この分野が自分に合っていると信じこんで続けてきた。人には好きなテーマというものがあるのかもしれないが、私にとってみたら、初めてかごを編んだ時から今もずっと不器用であるということも深く関係している。

初めてかごを編んだ時、いろいろな問題が起こった。一番困ったのは、できつつあるかごをどう持って編めばいいかということであったように思う。どうしてもうまくスムーズに編めない、形がゆがむのは下手なせいだ、といつも思っていた。その後、多くのかごや作品を作ったわけではないが、材料の扱いや作業自体にもいつしか慣れて、変に緊張して力を入れなくてもいいようになった。今でも上手にはなれないが、その代わり下手でもいいと思えるようになった。半分負け惜しみのようだが、一つ、一つの動作を考えながら進む、ということが、創造的なアイデアを生むと思えるようになったからである。
初めてかごを編む人を見ていると、とてもやりにくそうな姿勢ややり方で編んでいる、と思える時がある。初めの頃、やりにくいでしょう?と声をかけていたが、このごろはこれも作る人自身の造形的なアイデアを見つけるチャンスになればと思って黙るようにしている。

「茄子のへたの刺を抜く」 榛葉莟子

2016-09-07 09:44:46 | 榛葉莟子
2000年9月20日発行のART&CRAFT FORUM 18号に掲載した記事を改めて下記します。


静かな昼下がり、太陽がじりじりと照りつけるなか、夏落ち葉がかさり舞う。幾枚も重なる網目を通したようなジージーと蝉の合唱の声。一緒にジージーとやってみると、蝉は息つぎをしてないのかと思いきや、あっ、蝉は鳴いているのではなかった。羽根を震わせているんだっけ。
それにしても静かな夏の日々、人恋しさがふとよぎる。と、リーン電話がなる。あー、ご無沙汰しています。お元気ですか?東京は暑いでしょう。もしもしの向こうの声がすぐOさんとわかり挨拶。元気だった?いゃあ、あんまり音沙汰ないし、こっちもご無沙汰しちゃったからさ……ちゃんと生きてるか確かめなきゃと思ってね。ははは、ちゃーんと生きてますよ。思い出していただいてありがとうございます。あっ、蝉鳴いてるね。えっ、聞こえます?うん。動物的なんとやらでね、聞こえる。匂うよ。いいねえ、蝉しぐれかあ。冷房の利いたオフィスでOさんはいま蝉しぐれを感じているのだ。Oさんは身体のなかに蝉しぐれの風景を持っている。もちろんそれだけではなく、様々な風景が映画のフイルムのように巻かれていると思う。最先端の機器のなかで、時々、密かにフイルムが回り出す。そんなこんなの雑談をしてじゃ元気でね。お元気で。と受話器を置く。それから急に、ものぐさにしていた畑の草取りに行く気になった。その単純さが我ながら可笑しい。

 草の勢いはすごいものだ。刈ったばかりの庭がもうぼそぼそ草に覆われている。畑だってそうだ。田三朗という名の草の図々しさには閉口する。だから、あっ、タサブロウ!もう生えてきて!と刈る。日照りという名の草もすごい。海草に似ている赤茶けた色のいくつもの手足を四方八方に伸ばしてくる。それにしても君達の生命力には脱帽だわと言いながら、えいっと刈ったり抜いたりする。でも、すぐむくむく生えてくる。夏は草取りに追われるらと、農家のおじさんの声。そうだ、聞いてみよう。おじさんうちのトウモロコシ全滅なんですよ。みんな食べられちゃって。楽しみにしていたトウモロコシの列は、折られたり、倒されたり採り頃の物はきれいに食べられている。狐だねえ、これは。あっちの森に巣があるだよ。きつね!狐ですか。狐のしわざと聞いたとたん、真夜中、狐の家族がトウモロコシをもぐもぐ食べあっている絵が浮かんできてしまった。食べられた悔しさが半減してきたが、でもうちのトウモロコシだけなんですよね、回りを見ると。と、言うとおじさんは、さあてねえという顔で首を傾げていた。素人百姓が狐に見破られたかなあと思いつつも、ふと、新米の村人になったばかりの遠い日の忘れることのできない満月の夜のファンタイの画像がよみがえる。月光のなかに浮かぶのは、小山の上にじっと立つ動物のシルエット。同伴の者が狐と言った。しんとした、その風景の深い静けさに言葉もなく立ちつくした。

 別荘にたまにやってくる人達の中には庭が草ぼうぼうになっても気にもかけない。いや気にかけないのではなく、ぼうぼうの自然のままがいいらしい。別荘が閉まっている間、見かねた地元の知人がきれいに草刈りをした後、別荘の住人が到着。知人は大目玉を喰らったそうだ。せっかく草が庭を埋め尽くしたのによけいな事はしてくれるな。知人は叱られた意味が解からないまま頭を下げたとか。原っぱへの郷愁か。自分の敷地の外に一歩出ればそのまま原っぱ、野原だらけであるあるにも関わらず、敷地内にも原っぱがほしいのだろう。設えたいのだ。草一本たりとも愛しいと感じる位、緑に餓えているということもあるかもしれない。きれいに刈られた庭はその人のイメージでは都会の延長にすぎないと感じられるのかもしれない。もっと野生に原始に、ひとときたりとも、浸りたいのかもしれない。その人にとって別荘とは、自分の中の原始を確かめに来る場所であり、ぼうぼうの原っぱがその出入り口なのかもしれない。でも、やっぱりなんか変だ。垣根のなかの自然派ということだろうか。農家のおじいさんの一言が、時々浮上する。事情があって休耕田にしてある田があるそうで、だからといってな。手入れを怠ってはならんよ、土が痛むでなと。土が痛む。土が痛い。土が痛がる。それは濃密な自然との関わりなくして生まれない身体に密着したおじいさんの何気ない言葉だった。それは様々な意味を含む比喩にも広がり、どんな理屈も超えて自分のなかに重なっている。

 手先を使う度にチクッと痛かったひとさし指の先に刺さっていた茄子のへたの刺を抜いた夜、どこか片隅からスイッチョン、スイッチョンと舌つづみを打つように虫の声が聞こえてくる。