1995年10月20日発行のART&CRAFT FORUM 2号に掲載した記事を改めて下記します。
私はよく人に、「こういうものを作る時、予め紙にドローイングをするのか」と質問される。答えはノーなのだが、そう言うと、私が場当り的に、枝や樹皮を格好よくアレンジして作っていると誤解されそうで心配になる。実際は多くの時間とエネルギーを作業以外に使っている。紙とペンでドローイングする代りに、どうやら私は考えているらしいのだ。これまで5回にわたって書いて来たことはその一部だ。それと作ることが、どんな風に結びついてゆくのか、今回、単純化した例で説明してみることにする。
その前に各回の主旨を通して見ておこう。
第1回「学び方を学ぶ」(『テキスタイル・フォーラム』25号94年)では、創作には、技法以外に、人から習う事のできない何かが必要であり、それを自力で獲得する道程が創作につながると主張した。第2回「自分に向けて設問する」(同誌26号94年)では、形を企画する以前の段階を意識的に設定して、自分の中に隠れているものを引き出す方法を例示した。第3・4回「素材を相手に独習する(1)と(2)」(同誌27号94年と『アート&クラフト・フォーラム』準備号95年)では、各自が自前の素材観を持つ必要性を指摘した。なぜなら、素材という、使用を前提にした呼び方が示すように、作り手と物質の関係は定式化しやすい。本当に新しいものを作るには、常にそれを見直す必要があると考えるからだ。そして第5号、前号に続く。そこでは、民具のかごを模作する事を奨めた。それによって、技術を独習できるのと同時に、自分の判断力や発想が、他との比較ではっきりするからだ。
さて、ここに枝がある。私が、その曲がり方がおもしろいと感じたとする。こんなとりとめのない所からでも作品作りは始まることがある。確かなことは、自分が、その曲がり方に、なつかしさや、好ましさを感じるというような事だけだ。そこで私はストレートに、何故そう感じるのか、何故今改めてそれに気づいたのかを自問する。作り始める前に答えを出そうというのではない。答えを知ろうと方向づけをしておくのだ。その一方で、実際に枝を用いて、どうすれば、そのおもしろさが形に表わせるか考える。すると次第に、曲げるとは何か、角度とは……、内側と外側の空間の質の差はどうして生まれるのかなどと、一般的な問いが湧いてくる。同時に、枝の物理的性質がよくわかってきて、それが自然と、形づくるための技術的回路にまとまるのだ。最初の感覚的で素朴な把握が、かごの構造のルールや、形が成立する一般論につながっていく。
この過程は、ちょうど、枝という物質や手が、言葉や脳と同様に、考えることに加わったようなものだ。すると、不思議なことに、ただの枝、普通の動作や言葉が、私なりの重要性を持ち始める。「考える」といっても、これは「感じとる」のと中間のような事かもしれない。物と言葉の間を行き来しながら、私は自分の中から何かを引き出し確認しているのだ。「引き出す」という意味の英語はdraw。ドローイングと同語だ。本来ドローイングにも同様の内面的な作用があるということなのだろう。 (了)
私はよく人に、「こういうものを作る時、予め紙にドローイングをするのか」と質問される。答えはノーなのだが、そう言うと、私が場当り的に、枝や樹皮を格好よくアレンジして作っていると誤解されそうで心配になる。実際は多くの時間とエネルギーを作業以外に使っている。紙とペンでドローイングする代りに、どうやら私は考えているらしいのだ。これまで5回にわたって書いて来たことはその一部だ。それと作ることが、どんな風に結びついてゆくのか、今回、単純化した例で説明してみることにする。
その前に各回の主旨を通して見ておこう。
第1回「学び方を学ぶ」(『テキスタイル・フォーラム』25号94年)では、創作には、技法以外に、人から習う事のできない何かが必要であり、それを自力で獲得する道程が創作につながると主張した。第2回「自分に向けて設問する」(同誌26号94年)では、形を企画する以前の段階を意識的に設定して、自分の中に隠れているものを引き出す方法を例示した。第3・4回「素材を相手に独習する(1)と(2)」(同誌27号94年と『アート&クラフト・フォーラム』準備号95年)では、各自が自前の素材観を持つ必要性を指摘した。なぜなら、素材という、使用を前提にした呼び方が示すように、作り手と物質の関係は定式化しやすい。本当に新しいものを作るには、常にそれを見直す必要があると考えるからだ。そして第5号、前号に続く。そこでは、民具のかごを模作する事を奨めた。それによって、技術を独習できるのと同時に、自分の判断力や発想が、他との比較ではっきりするからだ。
さて、ここに枝がある。私が、その曲がり方がおもしろいと感じたとする。こんなとりとめのない所からでも作品作りは始まることがある。確かなことは、自分が、その曲がり方に、なつかしさや、好ましさを感じるというような事だけだ。そこで私はストレートに、何故そう感じるのか、何故今改めてそれに気づいたのかを自問する。作り始める前に答えを出そうというのではない。答えを知ろうと方向づけをしておくのだ。その一方で、実際に枝を用いて、どうすれば、そのおもしろさが形に表わせるか考える。すると次第に、曲げるとは何か、角度とは……、内側と外側の空間の質の差はどうして生まれるのかなどと、一般的な問いが湧いてくる。同時に、枝の物理的性質がよくわかってきて、それが自然と、形づくるための技術的回路にまとまるのだ。最初の感覚的で素朴な把握が、かごの構造のルールや、形が成立する一般論につながっていく。
この過程は、ちょうど、枝という物質や手が、言葉や脳と同様に、考えることに加わったようなものだ。すると、不思議なことに、ただの枝、普通の動作や言葉が、私なりの重要性を持ち始める。「考える」といっても、これは「感じとる」のと中間のような事かもしれない。物と言葉の間を行き来しながら、私は自分の中から何かを引き出し確認しているのだ。「引き出す」という意味の英語はdraw。ドローイングと同語だ。本来ドローイングにも同様の内面的な作用があるということなのだろう。 (了)