ART&CRAFT forum

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「音から-・」 榛葉莟子

2015-12-22 13:50:53 | 榛葉莟子
1996年9月25日発行のART&CRAFT FORUM 5号に掲載した記事を改めて下記します。

 夜空をみあげるたびに、他の星たちはどこへいってしまったのかと目をこらす。たったひとつ、一番明るい金星だけがひかっているきりなのだ。遠い星近い星の入り交じわる満艦色の星空を見続けてきた眼に、この東京の夜空は怪しすぎ、ただごとではないと映る。無風の昼間、白い月をかすかに確認する。
 ピンポンパンとチャイムが空になりひびき、光化学スモッグ注意報発令、外遊びにはご注意をと、やけにのんびりとしたウグイス声が繰返し聞こえてくる。子供達の歓声が、ドアのなかに吸い込まれコツンとした奇妙な東京の夏の午後だ。
 そして、眠れぬ熱い夜であった。あかるい気配に眼をあげると、すぐそこに月がいた。灯を消し、カーテンを開け月光のなかに座った。
 コトリカタリと暮らしの物音にまじって、ケッ、ケッ、ケッ、と、何処からともなく聞こえてくる音に気がついた。それは、間をおいては繰返し聞こえてくる。老人の咳のようでもあり、なにかを打ちつけているようでもあり、機械が回っているようでもあり、得体のしれない奇妙な音だ。なんだろうと、あれこれ考えあぐねているうち音が止まった。ほっとして、月と自分にもどったのもつかのま、またきこえてくる。そういえば、こんな月夜の晩に、奇妙な音にひやりとした田舎暮らしの夜を思い出す。それは、ある夜おそく、物置小屋のような建物の前を通りかかった時だ。真っ暗なその小屋の内から、カラッ、カラッ、カラッ、ヒュツと奇妙にこもったような音が繰り返し聞こえてきた。小屋のずっと奥の母屋に灯はなく、すでに寝静まっている。街燈のない田舎道を月あかりをたよりに歩いてきた私は、ひやりとして、まっしぐらに家に向かって走った。しばらくしたある日、そこのおばあちゃんに出会ったので、それとなく聞いてみた。「ぐんてをつくっている」という。「えっ、ぐんてって、あの軍手ですか」「ほうさね、機械がね」ふーん、ひと晩中、機械は軍手を編み続けているのか。わけがわかればどうという事もないかもしれないけれども、わずかに月光さしこむくらがりの内で、自動編み機は遠慮がちに力ラカラと回転しながら、月光に似た細い糸を括り、つぎつぎと、透明が詰まった翼のような白いてぶくろを、編みあげ積み上げていく、なんとシュールな光景だろう。
 さて、その繰返し聞こえてくるケッ、ケッ、の音の正体がわかったのは次の夜の事だった。音が動いてくる。近ずいてくるのだった。音の外をのぞくと。街燈の下に影のように犬がいた。犬は顔をうつむかせケッ、ケッ、と咳をしている。犬の咳…だったのか。それにしても地の底から吐きだすような咳をし続ける犬は、どこからやってきたのだろう。路地裏をゆく犬は、まるで機械仕掛けの人形のように、ゆっくりと歩きはじめては、咳こんでいる。私の眼は犬の後ろ姿を追うだけだった。犬は暗がりに溶けて行くように、角を曲がった。曲がる時、ふいっとふりむいたようにみえたのは気のせいではない。その顔がふくろうに似ていると瞬間、思えたからだ。犬は私の目のまえから消えたが、私の耳の奥にはケッ、ケッ、という奇妙な音と、ふくろうの顔が消えないまま、曲がり角からしばらく眼を離せないでいた。
 曲がり角はすでに昨日とは、異う曲がり角だ。                  

竹がつくった空間 上野正夫

2015-12-15 12:43:04 | 上野正夫
1996年9月25日発行のART&CRAFT FORUM 5号に掲載した記事を改めて下記します。

 この夏、私が住んでいる千葉県鴨川市で「場所と表現」をテーマに第2回安房ビエンナーレが開催された。ここで日米芸術文化交流基金の招待によって来日中のアメリカ人彫刻家Roy.F.Staab氏と制作する機会があった。彼はSite Specific Sculpture(その場特有な彫刻作品)を作る現代美術の作家だ。特定の場所から受ける印象を重要な要素としてその場所に彫刻作品を設置するのだ。自己主張を絶対的な根拠として風景を変質させていく近代の作家達とは少し違う位置にいる新しいタイプの作家と言える。アメリカでは葦を使って作品を制作しているが、日本へ来る前に私の所に手紙が届いて、日本では竹を使ってみたいと書かれていた。

 ロイ・スターブ氏の先生はキネテイックアート(動きのある芸術作品)のLaszlo.Moho-ly Nagy(1895-1946)の弟子だった。ハンガリー生まれのモホイ・ナジは、ロシア構成主義の強い影響を受け、ドイツのバウハウスで教え、その後にアメリカに渡って、アメリカの現代美術の基礎を作った作家の一人だ。20世紀の美術の中心に居続けた作家と言える。ロイ・スターブ氏の作品にもロシア構成主義の影響が強く感じられた。95年には、Homage to Tatlinというウラジミール・タトリンに捧げる作品も作っている。タトリンはロシア構成主義の指導者の一人で、彼が1919年に計画した高さ400mほどもある第三インターナショナル記念塔は、その後、世界の各地でミニチュアが制作されている。スターブ氏はその時、葦を編んで第三インターナショナル記念塔のように上昇しながら半径を小さくしていくスパイラルを作った。

 彼は、アメリカの美術大学を卒業してからしばらくの間、パリで抽象画家として活躍する。幾何形態を使った線による表現が多かったようだ。1983年頃からアメリカに帰り、以前はキャンバスに描いていた幾何形態を風景の中に、そこでみつけられる素材を使って描きはじめる。水辺で葦を採集して風景のなかに巨大な幾何形態を編み込むのだ。葦がない時は、石、海草、貝殻、新聞紙など、その場にあるものは何でも利用する。地面に棒切れで幾何形態を描いただけの作品もある。

 彼の使う葦は北アメリカでは、River Cane,Swamp Cane,Caneと呼ばれている。Caneと言っても藤とはまったく別のものだ。 Diane DixonとSteve Domjanovichによる「Native North American Cane Basketry」には、この葦は「Arundinariaとその変種で、北アメリカにある竹科の植物である。」と書かれている。Arundinaria gigantea、Arundinaria tecta等のことだ。北米インディアンは300年以上も前からこれらの竹で篭を作っていたと言われている。だから彫刻家ロイ・スターブ氏は北アメリカにおける竹の作家とも言える。日本で竹を使ってみたいと思ったのは、経験によって洗練された彼の直感からすればあたりまえの事だ。

 アメリカから来たこの竹の作家は、鴨川での制作場所として水田を選んだ。まず、水を張った水田の中でロープと竹の棒を使ってコンパスを作り、地面に幾何形態を描いた。次の日には、地面に描かれた幾何形態に沿って長さ5.5mの雌竹を30cmくらいの間隔で200本ほど垂直に立てた。最後に私が作った長さ8m程の真竹のヒゴを水面から2.5mの高さで水平に編み込んだ。3日目の夕方になると、田んぼの中に縦20m横15mの巨大な結び目が出現した。大地に作った大きな篭にも見えるし、水田に竹を挿した生け花とも言える。作品はWater Interlacing in Kamogawaと名づけられた。画家の高梨けい氏がこれを見て「水結び鴨川」と翻訳した。2.5mの高さに水平に編まれた単純な幾何形態が水面に映って、この映った映像が作品の本体だ。実体が作品ではなくて、実体が風景に作用した結果うまれた水田の風景全体が作品と言える。

 私は湖の上で8mの真竹の竹ヒゴを60本編んで直径10mの円を作った。輪口編みという手法で編んだ円は中心に直径4m程の丸い穴が出来て、その周りが四ッ目で編まれている。ゆるやかな流れの上に浮かんだ輪の編み目に水の流れが干渉して、水が編み目を作る。輪の中心では編み目が水流を静止させて風景を映しだす。水が作った編み目と中心に映し出された風景が作品の主要な部分だ。この作品も実体そのものより実体が風景に作用した結果うまれた現実全体が作品だ。これは影絵のように影を作品として考える発想とも似ているし、間を実体の様にとらえる事とも共通する。この発想に共通するのは、運動と関係性を重要な要素として考えているところだ。ロイ・スターブ氏の作品を映しだす水面は、かすかな風でいつもゆらいでいるし、私の作品が作りだした水流は絶えず振動していた。

 鴨川市民ギャラリーで7月28日に行われたスターブ氏のレクチャーでは、作品があまりにも日本的なのはなぜか、というような意味の質問が多かったような気がした。水田に作られた彼の作品を見に来た人たちの中からも、縄文的という感想や呪術的という意見があった。本人は特に東洋哲学を勉強したわけでもない。鴨川での作品は、彼が創作した数学的な形態を風景の中に残していくという手法の結果うまれたものだ。ただ自然素材で拡大された編み目を編むという方法がきわだっていた。竹は、編む時に人間が竹を持ち上げてそれぞれの部材を交差させる。この時に竹に作用した人間のエネルギーが、竹どうしが反撥しあう力として編まれた物の中に蓄積される。この蓄積されたエネルギーが編まれた形をささえているのだ。竹が反撥しあうエネルギーが、編まれた物全体をじょうぶにしているとも言える。だから竹で編まれた物体は、まさにプリミティブなエネルギー集積装置なのだ。縄の場合はもっと単純だ。ワラを何本かまとめて縄を作る時には、ワラをねじった時に人間が加えた力が縄に蓄積されているエネルギーだ。縄を分解して放置しておくと、しばらくしてねじった部分がもとにもどる。このもとにもどる力が縄の内部に蓄積されていたエネルギーだ。この力学的な現実が暗示する記憶によって、数学的に作られたスターブ氏の作品が不思議な生気を発散しているのだ。むしろ数学的であるからいっそう、素材や技法や風景の特性を顕在化させて見せてくれるのかもしれない。もしかすると、彼の作品は数学の特性さえも顕在化させているのかもしれない。

1996年8月 安房鴨川にて

作り手と使い手(3) 高橋新子

2015-12-09 15:18:50 | 高橋新子
1996年9月25日発行のART&CRAFT FORUM 5号に掲載した記事を改めて下記します。

 当研究所の夏期講座で「紙糸」や「拓紙」を取り上げるようになって四年目となった。私白身正直なところ「何故紙糸を作るようになったか」についての明確な動機が思い当たらない。多分原始布の展示の中で生成りの紙布を見たとき「染めたらどうなるだろう」と思った程度のことだったろう。何となく始めた作業が、どんどん深みにはまり、疑問と失敗に押しつぶされながら、気が付いたらもう五年以上が経っていた。この間、材料と技法、さらに考え方等の迷いは大きく、本紙上「作り手と使い手」及び「作り手と使い手(2)」でその一端を書かせて頂いた。
 まず最初の課題は糸にできる和紙を見つけることだった。試作と情報収集と試行錯誤でほとんどの年月を費やしたが、高い品質と安定した供給が得られる目処がついて、この問題は一応の解決をみた。次は良い糸を作る技術の習得だったが、これも長い間の遠廻りを重ねた末に、やっと最近になって「こうだったのか」という方法に辿り着いた。この長い道のりで得た手のひらの感触は夏期講座の実習の中で「ね、ここが勝負どころですよ」などと懸命に説明してみたが、やはり各自が自分で納得するまでやってみる外に方法はない。
 これで生成りの紙糸を作るという課題は不充分ながらも一応良しとして、では欲しい色や欲しい景色の糸に染めるにはどうするのか、という問題が当然出て来る。染料は、やはり天然染料でなくてはならない。紙の状態で刷毛引きをして染める、あるいは浸し染にする。これも工夫が必要である。糸にしてから浸し染にするのは木綿や絹とは扱いが違う。藍や茜のように扱いの難しい染料の場合や色移りするもの、鉄媒染をした時の後処理の問題等、やってみれば次々と難問が待っている。紙糸が作れる程の和紙でも、この染めの段階で進まなくなることがある。織ってしまえば、あるいは編んでしまえば洗濯機で洗っても充分耐えられる紙布だが、楮100%で名人の仕事による手漉き和紙でも、糸又はそれに準じる状態では、難しい染めにはいろいろな工夫をしなければならない。私の持ち技では、まだ充分と云えるところまで至っていない。
 ところで底深いこの迷い列車に乗り込んで、その行き先を考えるとき、一応糸が作れて、染めもまあまあのところまで仕上ったとし? 目的は着物を織ることかと云えば、必ずしもそうではない。試行錯誤の途中で工夫を重ねれば、それだけいろいろな展開や可能性が考えられるようになる。目指すものは「これ等の紙糸で作ったものと、共に暮らす心地良さ」にある。そろそろ形あるものにしたいと準備を始めている。                           

滲んでみえる 榛葉莟子

2015-12-01 13:25:16 | 榛葉莟子
1996年6月20日発行のART&CRAFT FORUM 4号に掲載した記事を改めて下記します。

 私は強度の近視だ。その上、老眼も加わった。老眼とは広辞苑によると、老人の眼。年をとって近距離の物が見えにくくなること。水晶体の弾力の欠乏により眼の調整ができなくなるために起こる。等とあった。老人というには、まだほど遠い気はするが、老という響きはリアルだ。眼はすでに老なのだ。
 細かい類の手仕事好きは、相当に眼を酷使してきたようだ。生活の便宜上でいえばめがねは、一時もはなすことはできない。めがねに助けられて、ひとつひとつの外の物のかたちに触れることができる。
 めがねをはずした瞬間、世界は一変する。
 裸眼でみる外界のすべては、ふちどりのない惨みの世界だ。自分の身体も惨んで膨らんでいくような感覚に襲われる。ゆらゆらと振動しているようでもあり、浮上していくようでもあり、固定されていないあいまいもことした感覚だ。裸眼で見る惨みの世界では、ひかるものがクロウズアップされ神秘の気配がちりばめはじめる。
 原色の街のネオンサインの混合色、車のヘッドライト、街燈、硝子瓶に反射する光の粒、ゼムクリップ、壁にとりのこされた鋲、壁上にまぎれこんでいる金銀のちらばり具合はプラネタリュウムだ。砕けた硝子のかけらは星かと手がのびる。ひかりに反射しているものすべてが惨んでふくらみ輝きをちりばめている。それらは自らのひかりを放出する発光体に変身したかのようだ。
 どうしてもそうせずにはいられない夢中さは、一層、眼を酷使し不安を増長させていく。制作にのめりこんだ後に襲われる激しい頭痛と嘔吐の日々がながいこと続いたことがある。一滴の水すらも身体は拒否した。床に臥せる日が度々となり、すっかり病弱の人となったころがある。薄明かりの床のなかで、激しい頭痛と嘔吐と苦悩はよせては返す波のごとくにやってくる。つかのまのすきまにうつらうつらとする。なにかの気配に壁に眼をやると、奇妙な生き物達が笑ったり、とんだり、はねたりしていた。
 壁のしみや凸凹が奇妙な生き物を生んだのだろうが、めがねをはずした眼にそれら奇妙な生き物たちの、うごめきを、裸眼の眼は見た。それから、眼の下の、敷布の織めの穴を数えた。数え切れないほどの穴を数えていた。そのうちに毛ばだちや、しわや、ぼつぼつがたちあがり、広大な白い草原が眼のしたに広がりはじめた。俯瞰図だ。河や山や道もある。白い草原に私の眼は降りていき自由に走りあそんだ。眼は延びる。
 そんなある朝、囲いが開いて床から離れられた。もう、数年前の出来事であった。
 最近、銅版画を大量に刷った。刷る紙には湿り気が必要で、前の晩に紙に水をくぐらせておき、びしょびしょの紙の束はビニールにくるみ一晩寝かせておく。重なりあった濡れている紙は、お互いの水分を吸い取りあい、惨みあいながら芯まで湿っていくのだ。すると、一枚一枚が内側からふっくらとふくらみ、ほどよい湿り気の刷り紙になる。
 ふと、思う。あたりまえの事だが湿って惨むとふくらむのだ。空間がひろがる。
 惨みはふちどりの定かではないあいまいもこの世界であり、郷愁のにおいを漂わせている。その言葉尻だけをとらえられてしまえば、排除されやすい。
 最前線では多弁な合理思考が、せっせと言葉を鋲どめしている。こちらとあちらの分別作業に忙しそうだ。時計の針の廻りが速いから追い付くのに大変だ。速ければ速いほど水分は蒸発する。ひたすら乾燥に近づいていく。
 乾燥していくと、なんでも平板になる。おせんべい状態か。おせんべいは乾燥しきってこその、あのパリッである。が先日、店先に濡れせんと書かれたおせんべいの袋を発見した。濡れているおせんべい。ヌレをわざわざ漢字にしているあたりに柔らかな力を感じる。湿気た瓦せんべいの神秘的な口当たりの触覚感をご存じであったら、濡れせんは納得だと思う。こういうおせんべいを焼いている職人さんは、あいまいもこの惨みの世界の住人に、ちがいない。

自分の染め色(1) 高橋新子

2015-12-01 13:10:57 | 高橋新子
1996年6月20日発行のART&CRAFT FORUM 4号に掲載した記事を改めて下記します。

 たしか去年の今頃だったと思うが、散歩がてら近くの古本屋を覗いた時、中央公論社版谷崎潤一郎訳源氏物語の初版本全二十六巻が、五千円で店頭にあるのを見てしまった。当然のことながら何のためらいもなく買おうと決めた。これを本棚のどの位置に納めるか、いや多分はみだ出して床の上に積むことになるか、さもなくばあの本とあの本を追い出して、と頭の中は目まぐるしく回転したが何が何でも欲しい本であったので、とにかく支払いを済ませて配達してもらうことにした。
 この本は凝り性の谷崎氏が「全然助手を使はずに自分一人だけで此の仕事に没頭し殆ど文字通り源氏に起き源氏に寝るという生活」を三年近くも続けて為し遂げた仕事だそうである。第一巻が昭和十四年一月。続いて順次刊行されたが最後の第二十六巻は、印刷用紙は不自由、恋愛小説もご法度という緊迫した社会情勢の最中、開戦間近の昭和十六年七月となっていた。校閲、装訂と用紙の地模様、各巻の扉の彩色紙と題字等々、いずれも当時の最高水準のメンバーによる仕事を揃えた美しい本である。
 かって受験勉強から逃れたい一心で読みふけった図書館の谷崎源氏は、古典ものの中でもひときわ立派な装訂で、原文対訳の学習向けのものであった。今回の初版本源氏は、氏が序文で書いているように「文学的飜譯であって講義ではない」つまり原文の持つ品格や含蓄、芸術的境地や餘情等を充分に尊重し、大きくはなれないようにしながらも『谷崎の書いた源氏物語である』と強く主張している。
 古代からの染めの技法書の第一は云うまでもなく延喜式であり、その染め色が姿かたちを整えて華麗に動き廻るのは何と云っても源氏物語の中である。正倉院宝物のように保存されることのできないこれ等の観念的産物は、学者や文化人、染色家や影像関係者、呉服商達によってさらに増幅された。
 染色を志す者は誰しもこの幻の正体を確かめたいと思うのは当然である。王朝の色を再現するとか復元するということではなく、現在の自分の染め色として表現してみたいという思いが、だんだん膨らんで来ていた。そんな折、ちょうどこの本と出逢ったのである。
 一人でコッコッと読み初めていると、知人から在住の作家安西篤子氏が源氏の購読会を持たれているという情報を得た。途中からでも良いということで六月度から参加させて頂けることになった。テキストは岩波文庫の山岸徳平校注のもので、安西氏の朗読を聴きながら、原文に沿った講義を受けるということになる。作者の解読する物語の空間と受講生のイメージがどのように結び付くのだろうか。勿論私の目的は色彩と素材、それ等の質感とたたずまいを探り出すことにある。何はともあれ待ち遠しい数週間である。