ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

造形論のために(終章)『存在の上澄みに向かって②』 橋本真之

2017-06-23 10:17:21 | 橋本真之
◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(撮影・高橋孝一)

◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実(内部)」
撮影:橋本真之

◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
撮影:高橋孝一

2005年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 36号に掲載した記事を改めて下記します。

 造形論のために(終章)『存在の上澄みに向かって②』 橋本真之

 一撃一撃と槌跡を積み重ねて曲面が形成される。その曲面のうねりの暗い坑道を幾曲がりも進んで行き、そこに斜めに射した光は私の記憶に幾重にも折り重なって沈んで行く。発端から、もう30年も辿り続けた、金属と共に運動する日々の鼓動の結果が、目の前に横たわっている。その内部の底に、天空からの雨滴が世界の塵埃を運んで来る。かのほの暗い空間には、もう私の肉体は戻れない。そこには小さな水溜まりが出来ていて、今は静かな水面を作っている。その水底にまで届く光は微かだが、そこにある空間の重い沈黙は、私と銅と結接した思想の澱だろう。銅の曲面を丁寧にたどれば、消え残っている歪みのそこかしこに、私の生の逡巡と葛藤が刻みつけられている。運動体と化した銅の気配は常に私の肉体の脆弱を嗤っているようだが、時として、長い「時」に耐え得ない肉の腐敗を憐れんでいる風を見せさえする。銅膜の表面の密度は拡散して行き、私の一撃一撃はその間を踏み行く。銅を叩けば槌目の重なりに限りなく顕われる頂点を、確実に叩き続けていると、あるいは銅の凹曲面の負の頂点の連なりを叩き続けていると…やがて膜状組織にみなぎる張力がやって来る。それは私の行く先を導くようにやって来る。空間を切り進むようにして、私の「時」を喰らって銅が成長する。それは銅を肉体とした私の消耗して来た「時」の成長でもある。そして、私自身の肉体の「時」の手応えとして、そこに自らの思考の運動を見ることになる。私はこの幾曲がりを、何度繰り返したことだろう?

 世界の濁水の中に、塵埃と共に時を過ごす存在の沈黙の日々。この地球上のいかなる場処においても、同様に事々は沈黙のまま循環し、充満している。この水底深くに沈潜し、息を殺して、自らの包む水の層が静かに澄んで来るのを、私はじっと待つのだと、20代の初めに覚悟した。すでに40年近い年月が過ぎ去った。まだ自らの方法論さえ獲得出来ぬ頃の、焦燥に充ちた宛のない願望が、今も私の心を占めている。鍛金という限界だらけで時代離れした金工技術によって、自らの方法論を見い出した後にも、同じ願望に誘なわれて、いたずらに時を過して来た。すでに、いつの日にか成就出来るか?というような私の年令ではないのは重々承知している。わずかな手懸りをたよりに進んでいるけれども、危険な幾曲がりの紆余曲折を経ながらも、常に指針として方位を示す磁力のごとき空間の中心軸。私がすでにこの全身で感触して来た事々の延長の先に、そして、だどって来た筋道の全体に、おそらくそれは遍満して在るのだろう。それらの凝集する澄明の日々はいかにしてやって来るべきか?

 すでに老いの迷宮が始まっている。行く先に待っている昏迷の日。人々に忌み嫌われて来た老いの向こうに分け入る時節が来たのである。覚束ない感覚の揺れの中から垣間見る自我の結晶作用、あるいは欲望の昇華作用の運動展開、その道筋の私の乏しい経験の中からも、私はその手懸りを獲得して来た。その手懸りの覚え書きとして、この「造形論のために」は縷々書きついで来たのだった。扨、私はもうひと押ししなければばならない。少なく見積もっても、もう20年ばかりの時間が必要だろう。その後に私の生がまだ尽きていなければ、この章の続きが書けるに違いない。

 私に解ったことは簡単なことだ。形に意味がある訳ではない。運動展開する構造の動態に特有のフォームが形成される時、そのフォームが私の造形思想を自証するのである。すでに西洋近代の色と形の構成論・表現論は消費しつくされているのだが、この運動構造形成論の鉱脈はいまだ無尽蔵である。

 騒音の中に聞いた聖歌、海辺の林檎、厳そかな帰り道、いずれも私の20代の頃の乏しい経験がもたらしたものが何であったのか、今私には解る。これらの表現の方途を持たなかった世界の顕現の経験が、長い月日の間に私の具体的な認識の足の踏み処となって来たのである。造形行為というものが、そうした認識作用を伴なわずには、なされ得ないことは確かなのだ。私にはそのように思われる。

 しかし、私の前にある銅がなくては、また右手に握った金槌なしには、造形思考は始まりはしなかったのである。それらの具体的な経験は、私に方位を示しはしたが、具体的表現の手立てやイメージを与えはしなかった。もっとも、イメージ操作で事がすむくらいなら、私は疾っくに造形行為を捨てていたはずだが、私はそうした芸術的詐術よりも、具体的事物から出発しなければならなかったのである。実に異物としての銅が、私の肉体中の結石のように、痛みを伴いながら結晶を成長させるのを待たねばならなかったのである。それは長い時を要する、生の限りを使い果たす造形行為なのだということを、私は覚悟したはずだ。いや、むしろこの単純な労働行為がささえる方法が、私に覚悟をせまったのだった。この異物を抱え続ける日々の思考の中で、私の世界が次第に言語の隙間を縫って緊密に組織立って来るのを見た時、その筋道が物質とそれを扱う技術の中から、じりじりと導き出されて来ることに、驚きを覚えた。すなわち私の素材と方法の理路は、当然の事ながら物質的限界を持つことを覚悟するところから始まったのである。

 我々がこの世界に生きるということは、そうした事なのだ。プラトンが言うように(注)、我々は洞窟の中で光に背を向けさせられて一生壁に映った存在の影だけを目にして生きているというのであれば、我々の認識そのものが影だということだろう。そのような認識が我々の生を貧しく空疎なものにして来たのではなかったか?その後の哲学も大なり小なりプラトニズムを底に沈めたイデア思想ではなかったか?むしろ、この限界を出発として、世界の存在を充足させ得る認識に向かうことが出来なければ、我々はいつまでも擬いものの認識を押しつけられ続けることになるはずだ。我々は、この充足の手応えを徹底して自覚してこそ、虚無に向かって悠揚として消滅することが出来るに違いない。存在の上澄みとは、その様にしてこそ清々しく顕現するのでなければならない。この結石を抱き続ける苦汁の日々。目の前の林檎を因習を捨てて見るということの素朴な抵抗感が私を動かした。かの日々の持続する思考の動態として、いまも物質が私と共に運動している。この表裏一体に絶対運動膜がある。さもなくば、この生は欺瞞である。目の前の実在さえ動かし得ずに、一体何を動かそうというのか?
 今ここに自らの肉体が育てた果樹園が運動体と化している。この鼓動は私のものか?
 (注) プラトン「国家」
 

永い間の連載になりましたが、今回をもって終了と致します。御愛読有難うございました。
  山口県立萩美術館にて4月22日より来年2月頃まで「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」の新作部分を含む展示が行われます。また茶室展示「揺れる日々の中に」も合わせて御覧いただければ幸いです。                橋本真之

造形論のために『存在の上澄みに向かって』 橋本 真之

2017-06-13 14:16:04 | 橋本真之
◆橋本真之 木樹の間からの展開-内部-(1998.6 コンテンポラリーアート NIKI個展) 
 撮影:高橋孝一

◆アーティスト・プロジェクトⅠ 成長する造形・橋本真之
「果実の中の木もれ陽」(埼玉県立近代美術館)
撮影:高橋孝一

◆橋本真之展  (2004.3 コンテンポラリーアート NIKI)
撮影:作者

2005年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 35号に掲載した記事を改めて下記します。

 造形論のために『存在の上澄みに向かって』 橋本 真之

 時代の趨勢が自分の居るあたりを遠く離れて筋道をつくって行く時にも、自らの方位を見失わずに方針を立て続けることが出来るのでなければ、我々の生にとって造形とは何であろうか?実のところ、そうした迂遠な場処に立つことこそ、手つかずの鉱脈を見い出す切っ掛けになるのだろう。あたり前過ぎて大勢が見逃す事象に目を止め得るためには、別種の価値観、あるいは目的がなければならないはずだが、その事に気付く人がまれなのは、時代の環境が目の前の事象に気付き得ない流れを形成しているからである。むしろ、人はそうした事象の岩鼻に気付きたがらないのかも知れない。大概の人々は簡便に見い出そうとするものだから、望むものはいつも流れの先にあると思い勝ちである。誰れもが見過し続けた存在に、ひとたび目を止めることが出来れば、事態は新たな価値形成の筋道を明確に示し始める。こうした簡単な道理は理解しやすいことだが、実行することが困難に出来ている。そこに様々な困難の包囲網がある。

 独創に価値がある訳ではない。別種の価値のために、独創が止むを得ずやって来るということを理解する人は少ない。自ら確信する価値のために、ことさらな独創が必要ないということは、おそらく、それは流れの傍らに押しやられる存在ということだ。

 しかし、人がある奇妙な一点に気付く時、しかも社会的に無価値な事象と見なされていた物事に気付いたのだとしたら、そして他者をもそのことに気付かせ得るとなれば、それ自体が別種の価値構造を形成し始めるということは、自明である。それは一瞬にして明瞭に発現することもあるし、長い時の形成を必要とするかも知れぬが、その運動の価値は時の長短の問題とは無関係である。

 ある文化圏に生きるということは、その文化圏の限界に囲われて堂々巡りをさせられるということである。青年時代のある時期、一瞬一瞬が私の目を引き止めて、目的の場所に行き着くことが困難と思える程に、歩き続ける為に強い無視の意志が必要だった。街中で様々な事象に引き止められるのであったが、そこに別種の秩序の入口があるように思えて、
私には容易に行き過ぎる事ができ難いのだった。私にとって、「林檎体験」はそうした様々な目の前の事象のひとつとして始まったが、奇妙な具合に入口が開いて、自らの日常感覚の根底を踏み抜いた、という経験をしたのである。私にとって慣れ親しんだ「美術」という因習のひとつひとつが、だらだらと続く壁のように相対化して行くのは苦しい出来事だった。今も敬愛する数人の画家や彫刻家達の仕事さえもが、一度は無残に平板化して、それが因習の中の一問題に過ぎないというように見えることは、それまでの憧れに充ちた生活や努力が、ことごとく無力化することだった。

 ひとつの文化圏に育った造形が、あたかも限界を突破したかのように普遍性を持つとは、いかなることだろうか?と考えざるを得なかった。侵略者が異文化を根刮ぎにして行った。その場処に固有の文化というものがあったとしても、侵略者達によって持ち込まれて受容された、あるいは受容者達によって持ち込まれたと言っても同じことなのだが、受容された文化的価値観があまねく行き渡るようになるのだとすれば、文化は力によって普遍を得ると納得しなければならないのだろう。しかし、力によって普遍性がもたらせるのだとすれば、文化は軍事力と政治力経済力なしには成立し得ないということだろうか?それでは、あまりに愚劣なことではないか?囲われた中での安心のゲームをしている悦びが、私の内で崩壊していた。

 文化がルールに則るゲームだと言うのならば、そのゲームをひっくり返す行為とは何か?ひっくり返した自らもまた別のゲームを始めるのだとすれば、ひとつのルールに則ってするゲームをひっくり返す必要もないことである。スポーツと同様に造形行為をゲームと考え得るのであれば、造形行為の個人性は他愛のないことだ。人はそのようにも造形行為を繰り返すことは出来るが、私を含めてある種の人々にとって、ゲームとはなり得ぬこととして造形行為がつかまれていることを、忘れてはなるまい。おそらく広く世の中に行われている文化的営為は、おおよそゲームとしてとらえられるものだとは、私にも見える。けれども、そうした営為の間で、一人黙々と生そのものの変革行為として、論理の破碇を怖れず成されようとしている場合があることを忘れてはなるまい。

 造形する人間にとって、自らの場処から発現する造形行為自体による自己変革が引き起こされるのでなければ、ついに自然の造形運動の強大さ精細さの前で、顔色を失わざるを得ない存在であることをまぬがれまい。我々の自我は、生の運動そのものの中で自己認識と自己変革に向かうのだが、それと共に生の果ての死に向かって、次第に距離を縮めて行く。

 一歩一歩、歩きつめて、私もまた死に至るはずだという確実な現実。その距離がどれ程のものかを、次第に確信するに至るのは、自らの肉体を感覚する自意識の、根底の認識作用だと思える。私の肉体の小宇宙が、いまも鼓動している。

 かつて、自らの肉体をミイラに仕立てて迄も残そうとした人々が居た。あるいは巨大な墳墓を築いた人々が居た。いかなる文化圏にも見い出すことの出来る、あきれるばかりの死のまつりごと。生の循環運動の前で身悶えした人々の自我の姿。虚無に向かう自我の踏み越える、消滅の瞬間の自覚。

 一個の物体が目の前に在って、生きて呼吸しているという現実と、一個の物体が目の前に在って、不動であるという感覚上の現実。物質が外的なエネルギーによって運動しているのと、内的なエネルギーによって運動していることの差異について思いを至せば、人間にとって目の前の物体が静止しているかのように見えているのは奇異である。「それらの事々は等価なことである・・・」と認識する賢者達が私の耳元で幻聴のようにささやく、その思想は美しい。私が造形運動に願望する「存在の上澄み」は、彼等の思想とどれ程の距離にあるのだろうか?彼に一本の線でも描いたものが残っていれば、私には彼の存在の手がかりがそのまま見えることもあろうが、彼等は言葉を残したのみである。何か針穴のような光がほの見えるだけの、距離の計れない遠い存在の息使い。

 たとえば彼等の内の一人が、戦乱の中から私の傍らに現れて、共に私の「果樹園」を歩くことがあるのならば、私は黙って、彼の後姿を見るために立ち止まりたい。果樹園を見続けた彼の目に私の蜿々となされて来た愚行がどのように見えるのか?

 雑念に充ちた私の生のエネルギーが物質と共に運動体として変成し続けている。そこに訪れる皮膚と同化するような清々しい五月の風のように、私の作品空間を吹き抜ける目が現れれば良いと思う。そして粘りつくような銅からつむぎ出した私の濃密な作品空間が、いつか厳かに澄んだ気配を引き入れることが出来るように成ることを、私は願っている。そしてまた、私の生の底に沈んだ雑念のひとつひとつの粒子が核となって、いつか真珠層を形成するように願っている。この荒れた環境の中から生え出た造形運動が、誰の目にも快いものとなるとは思えないが、空間の運動が無数の結晶をまき散らしていることを、心の底深くで感得する人が現れることを希んでいる。遠い幻聴のようなささやきが、いつか私の声と重なる時がやって来るのだろうか?

造形論のために『方法的限界と絶対運動⑧』 橋本真之

2017-06-03 13:50:13 | 橋本真之
◆橋本真之 果実の中の木もれ陽」2000年(第3回設置)

◆橋本真之「秋の陽の悦楽に」 1985年 (現代美術の祭典)

◆橋本真之「果実の中の木もれ陽」 1987年  (現代美術の祭典)

◆橋本真之「果実の中の木もれ陽」 1993年 (大分現代美術展)

◆橋本真之「果実の中の木もれ陽」 1996年 (埼玉県立近代美術館第1回設置)
撮影:高橋孝一

◆橋本真之「果実の中の木もれ陽」 1997年  (埼玉県立近代美術館第2回設置)


2004年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 34号に掲載した記事を改めて下記します。

 造形論のために『方法的限界と絶対運動⑧』 橋本真之

 「果実の中の木もれ陽」
 「果樹園-」から分離した作品「果実の中の木もれ陽」が所を得たのは、田中幸人氏が埼玉県立近代美術館長として在職していたからだろう。さもなければ、この様な作品は今だに仕事場の庭の片隅の木々の間に横たわって、無聊をかこっていたことだろうと思う。
 1995年開催の宇部の現代日本彫刻展に、招待作家として私に出品依頼が来たのは、「手わざと現代展」で私の仕事を見ていた田中氏の推薦によるものだったのかも知れない。1985年以来制作して来た「空間変成論」を「時の木もれ陽」という題名で出品したのだったが、その作品は買上賞の宇部市野外彫刻美術館賞と埼玉県立近代美術館賞のふたつを受賞した。表賞式後のパーティの歓談の場で、ビールのコップを片手に田中氏にお礼を申し上げたが、「埼玉県立近代美術館賞というのは紙だけなんですか?」と賞状を示して冗談を言っていると、隣りにいた酒井忠康氏が、「いや、埼玉県立近代美術館賞が一番めんどう見が良い賞なんだ。」と笑っておられた。田中氏が、「宇部の美術館に買上げの優先権があるから、他の作品を何か作ってもらおうと思うんです。相談しましょう。」と話しかけられた。「有難うございます。それでしたら、私の仕事は次々と展開して行く増殖の在り方を取っているんです。そうした作品の在り方そのものを収蔵してもらえないでしょうか?」にべもなくはねつけられることを覚悟で、私はこう切り出した。「それをやって見ましょう。」即座に田中氏の口から結論が出た。

 「果実の中の木もれ陽」の前身の「秋の陽の悦楽に」は、1985年、「現代美術の祭典」に参加して埼玉県立近代美術館のある北浦和公園の唐カエデの木に寄りかかり、樹幹にからむかたちで展示した。その後、形を変えて「果樹園-」の一部として1986年のアートスペース虹の個展で発表した。翌年「果樹園-」とは分離して、「果実の中の木もれ陽」は再び「現代美術の祭典」で発表している。美術館のレストラン前のアオギリの木の、二股に分かれた樹幹からぶら下げるかたちで展示した。(注)その後、1993年の大分現代美術展で樹木に寄りかかる形で展示した後、私の仕事場の庭に横たえてあったが、その横たえた状態からの展開が「今日の作家展」の展示の一部として、発表したばかりだった。私はその後の展開のために、恒久設置としての定位置が欲しかったのである。

 かのアオギリの背景となっていた薄暗い植え込みは、割り石を積んで囲んだ小さな島のようになっていた。そこには美術館が建つ以前の師範学校の敷地内に育っていた古い樹木が数本と、実生から育ったと思われる若木が混在していて、灌木のオオムラと蔓草のヘデラで覆われていた。私は田中氏と学芸課の人達に向かって、ここに設置したいと、私の気持ちを表明した。計画案のドローイングを提出して学芸課の人々に説明すると、誰かから、作品が内臓を思い出させてレストランの前の植え込みに設置するには、ふさわしくないのではないか?という意見が出たが、私にはすでに狭山市立博物館のレストラン前に設置されている私の作品が、そのような問題になっていることはないと話して、前例を示して安心してもらった。問題はむしろ、公立美術館が収蔵した作品が変化して増殖することがゆるされるか、という事であっただろう。この前例のない作品の在り方に、いかに予算をつけるか?が美術館の姿勢を示すことであり、また問われることでもあっただろう。誰であったか、補修費で予算をつけたらどうか?という妙案を出した。あたりは成る程とばかりに同調しそうな気配だった。けれども田中氏が強い口調で「半端な事では駄目だ、正面から行きなさい。学芸員が県を説いて回わるのだ。購入委員会を片っ端から説いて回わるのだ。そういう作品なのだから、そういう作品として収蔵するのでなければいけない。」と言い放ち、散会になった。私はこのプロジェクトが通りさえすれば、搦め手だろうが何だろうが、最高の作品を作るために、やりたいようにやり切ることが出来れば、それで良いと考えていた。私は呆っ気に取られた。これぞ公人というものだ。

 私と美術館長・田中幸人氏との間で覚え書がかわされた。2000年迄の三回の増殖計画と、その後の展開については美術館側との相談で展開する、というものだった。この仕事は最高のものにならねばならない。とうとう公が動いたのだと知った。しかし、これは人が動いたのであって、機構や制度そのものが動いた訳ではない。結果的に制度や機構が動かざるを得なかったのではあるが、それは特例としてであった。それについて、後に田中氏自身の口からこうした言葉を聞いた。「これは、誰にもゆるされることではない。あなたの仕事だからゆるされたのだ…」

 「果実の中の木もれ陽」は1996年に設置して一年間、新収蔵作品として人々の目に触れた。かってアオギリにぶら下がっていた「果実の中の木もれ陽」が、植え込みの中に横たわったのを見た人々の直接の反応は、私には見えなかった。けれども、時として他の作家の冷たい嫉妬の目を感じざるを得なかった。そうした目に囲まれて仕事をすることの気の重さが、いまさら私をたじろがせるのだった。翌年、作品を仕事場に搬び去ったとき、「あの作品はどうしたのか?」という観客の言葉が田中氏を通じて伝わって来たとき、「これなら、やれるだろう。」私はそう思った。私の作品を心に留めていた見知らぬ人々が居たのだ。
 仕事場に搬送した作品を一年の間作り続けた。観客の目に露わだった形は、反転した新たな形に包み込まれて内部構造となった。かってアオギリにからんでいた形態は、虚空に向かって触手を伸ばしていたが、新たな包摂する形態に結びついて確実な強度を得た。最後の溶接部分は美術館での公開制作とした。仕事場で制作するには大きくなり過ぎて、トラックによる搬送が出来なくなるおそれがあったのである。二度目の設置のための屋外での公開制作は、集まった学生達や学芸員、そしてボランティアの人々にささえてもらったり、動かすのを手伝ってもらった。熔接メガネを持って来て、私の熔接する手元を見ていた金工の学生達の間に、身を乗り出してのぞき込んでいた田中幸人氏の目があった。作品の内部に木もれ陽を注ぎ入れるために現場でドリルの穴をひとつひとつ開けて行った。

 三度目の増殖設置は2000年10月。すでに設置した部分は移動が困難であるために、新たな展開部分を仕事場で制作しながら、空間を理解するために幾度も現場に行き、展開の方向と位置を確認しなければならなかった。カシの木から伸びる若い枝が風に揺れて、その成長を作品と競っている。野鳥が止まり木にして作品に糞を落とすのだが、私はこの枝の動きを大事にしたいのである。いずれ南側に生えているカシとボダイ樹の間に向かうためには、作品がねじれて展開する方向軸の動きが重要だった。そして、高さに向かう動きをささえる脚部になる形態の強度が問題だった。このプロジェクトの係の学芸員、中村誠氏の背丈を借りて制作途中の展開部分の高さ設定をした。彼の頭の上で途中の作品をささえてもらって、地面からの寸法を取ったのである。すなわち、中村氏の身長がそのまま方向転換する展開部の下端の高さ、脚部の高さになった訳である。

 北側に生えている大きなエノキを、今は放っておくきりないが、いずれ最初の木にぶらさげた記憶を思い出すようなものが、そこに必要であると思っている。それが北側の空間の緊密感のために重要な要素になるはずである。

 次第に先を読むことの難しさが加わって来る。具体的に空間と地面に接触すれば、作品にとって何が必要なのかがはっきり見えるだろう。かつて庭師によって、こんもりとした形を作られていたオオムラの背丈を低く切りつめてもらった。東側からの遠目の視線にさらすためでもあったが、上に伸びる次の展開には、地面との関係をしっかりと私の目でつかむ必要があったからである。

 私の背丈を越える高さに向かう展開は、私にとって、いつも冒険感覚を伴う。作品の自重をいかに分散させるかが、形態をさぐる上で重要な問題になるのである。最初に提出した計画案のように、脚部を百足のように択山作るのも手だが、私は制作を始めた後になって、樹木の高さに対してバランスをとりたいと思うようになったのである。この仕事では脚部を三つ、又はふたつにおさえたい。さもなければ上に向かった形態が安定し過ぎて、接地に向かうダイナミズムが半減してしまうだろう。できれば接地点が支点となってシーソーに荷重をかけるように、この先の展開の先端部を極端に重くするつもりなのである。そのことによって、これまで二本の脚部でささえられていた形態の幾分かでもつり上げるようにすることができるに違いない。私は最初に提出した計画案から離れて造形的工夫をしなければならなかった。私は百足のようなささえを捨てて、数百年後の樹木の時空域に向かいたい。そこに「運動」のダイナミズムを欲したのである。

 この仕事は常に途上にある。目の前の植物を見ながら、数百年後のその植物について語ることは、寿命というものを無視した奇怪な欲望かも知れぬ。こうした現状では、この国が、また世界が数百年後にも存立していると確信できもしないのに、公のプロジェクトに向かうことの理不尽を嗤われるに違いない。私は、理想の国家よりももっと滅び易いが、生きている樹木の充実を相手にしたいと思うのだ。二本の樹木が育って、その間に横たわる作品の先端部を圧迫し、徹底的に歪めるか?あるいは樹木が作品を包み込むように成長するか?この作品空間は、その時初めて、今この場処にいる私達の存在の意志を、そして樹木への敬意を顕らかに示すことになるはずだ。その遅延した感応こそ、この作品世界が「時」の破壊力を自らの作品空間の力にするということなのである。私達が数百年後の空間の変容を思い見るのとは逆に、その未来の場処から現在を思い返す人々との感応にこそ、物質と結接した、私達の惑星的存在が顕われ出ることになるはずである。私と銅と樹木とがひとつに結びついた在り方の中に、世界が共に浸入して運動するのであれば、そして、人々もまた関わってこそ、ここに起きている個々の存在の輝ける陶酔も愚行もゆるされるのではなかろうか?たとえ樹木の枯死が待っているとしても、新たな実生の樹木がその場処に発芽するのを、ゆっくりと待とうではないか。また私の死の後に、全てが「時」の破壊にまかされる日が来るとしても、ここに充足した日々を思い起こす人々が居る限り、世界はこの徹底の空間を親密な時空域として味わうことができるに違いない。後に生え出る植物によって起こるに違いない破壊の形さえも、人々はその変容として許容することができるのではなかろうか?このようなプロジェクトを、戸惑いながらも歓び迎え入れた人々が居た。そのことを、この乱脈な時代のささやかな美徳として、私は感謝して受容した。

 田中幸人氏は2004年3月26日、膵臓癌で逝去した。享年66歳。「果実の中の木もれ陽」の空間は氏の鋭気の記憶を抱きながら、運動し続けることになるだろう。この仕事に助力し、賛意を送り続けてくれた様々な人々の全ての悦びが賞揚される作品空間が、いつの日か現出する時の来ることを、私は願望する。
 
注) この翌年の美術館企画の「花の表現展」で再び展示している。(1987年)



造形論のために『方法的限界と絶対運動⑦』 橋本真之

2017-05-19 13:56:12 | 橋本真之
◆橋本真之「切片群」ガラス窓に集いてⅡ の内、手前1994年(「かたちとまなざしのゆくえ」展)

◆橋本真之「切片群」 1994年
(東京テキスタイルフォーラム個展)

◆橋本真之「疑集力・展開」 2004年
(コンテンポラリーアートNIKI 個展)

◆橋本真之「切片群・接合」 1996年
(コンテンポラリーアートNIKI 個展)

◆橋本真之「切片群収集」 1966年、銅・酸化銅・木
(コンテンポラリーアートNIKI 個展)

◆橋本真之「切片群収集」 1994年
(「空間の軋轢」展) 

◆橋本真之「連切片群」 1994年  (「現代美術の磁場」展)

◆橋本真之「ガラス・銅」 2004年
(コンテンポラリーアートNIKI 個展)  制作 2003年

◆橋本真之「ガラス・銅」 2004年
(コンテンポラリーアートNIKI 個展)  制作 2003年

2004年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 33号に掲載した記事を改めて下記します。

造形論のために『方法的限界と絶対運動⑦』 橋本真之

  「切片群」と「運動膜」
 「凝集力」の方向は、雲母状の薄片が乖離して、単に小さな銅片として散乱し始めるまで叩き続けたとしても、繰り返す造形行為の意味を、その先へ持久力をもって展開することは難しい。何とか散乱の一歩手前で立ち止まるだけで、この先には何も無いのだろうか?そうだとすれば、この散乱に至るまでの間に、見い出すべき運動展開を、あるいは結着点を捜しあてることに向かわねばならないだろう。しかし、この先は苦しい。この展開の方向を、最近になって、「凝集力・展開」によって見い出しはしたが、この膜状組織の呼吸と言うような成果を確実に成果として自己確認するためには、まだ数年の時を要するだろう。

 様々な展開の突破口を捜していた。出発を求めて、仕事場の隅に積み重なっている曲がりくねった銅板の切れ端を、戯れに金敷の上で叩いた。打ちすえた三角形の切れ端は、金敷の上で延展して鈍重な形の拡がりを示した。けれども、時として鋭い切れ端が金敷から飛びはねて、私を襲った。この危険な感覚が私をとらえた。様々な切れ端を打ち延べる試みの後に、直角三角形の銅片を立て、その直角の頂点を叩いた。銅片は初冬の陽だまりに乾燥した落ち葉のように丸まった。その両端の開口部の縁を叩いて閉じようとすると、そこに螺旋状にねじれた銅の曲面が顕れ出た。この艶めかしくも心踊る発見が、私を様々な切れ端で小さな空間を包み込むように叩く方向に導いたのである。私は、あらかじめ与えられた切れ端から、空間を包んだ様々な形態が顕われ出て来ることに夢中になった。巻貝のような形態、動物の角のような形態、蔓性植物のような螺旋をひきのばした形態、ドリルの刃のように危険な鋭い形態――様々な類型が出現した。ここに起きている事態が何事であるのかを、その時私は充分に理解していたのだろうか?確かに私は、あの瞬時に形態の発生する心踊る感覚に導かれてこそ、造形の意味を自覚する所にまで付き従うことが出来たのであった。金槌の一撃一撃の当たり具合で、曲面の方向が、あるいは表裏が瞬間に変わった。それは、切れ端の出来た時の、ちょっとした歪みが曲面の展開を方向づけるのでもある。「運動膜」の曲面に新たな銅板を付加して熔接する時に出て来るこれらの切れ端を、私は捨てることが出来ずにいた。1977年以来、今日に至るまで、銅の切れ端は仕事場の隅にうず高く積み重なって、行き場を失っていた。私はそれらの切れ端を片端から取り上げた。

 耐え難いほどの長い持久力を要する、それまでの「運動膜」の制作とは対称的に、瞬間に判断して即結果の出て来る歓びが私をとらえた。数ヶ月かけて一本の線を引くような、これまでの「運動膜」の制作に対して、危険な瞬発力が私をもう一方の徹底へと導いた。私は全てを渉猟しつくしてみようと思った。私はこれを「切片群」と呼んだ。

 様々な形態の「切片群」が出来て、仕事場の床にひしめき合って転がっていた。ある日、そのいくつかが互いに接触している様が、私の目をとらえた。その接触に新たな形が見えて来たのである。互いに接触している部分を真鍮鑞で接合した。事の発端はそのように始まったが、接合は新たな仕組と展開を呼び込んだ。この方向を「切片群接合」と呼ぶことにする。これはまだ密度も強度も持ち得ていないが、いずれ「切片群」の組織化に向かうのだろうか?「切片群」の展開は別の組織化をも呼び込んだ。箱の中に集めては互いの位置関係を固定する「切片群収集」である。この方向は少年時の収集癖を刺激した鉱物標本箱を思い出させる。仕事場の掃除機で集めたまま捨てることが出来ずにいた酸化銅や、仕事場の中の埃を樹脂で固めたものが、その箱の中にマテリアルとして侵入することになった。やがて、箱を離れて、廃棄物である「酸化銅」と「切片群」の接着のみで成立する形をとった。そして2003年には、ガラスに混入して「切片群」を包む形となるのである。この一連の展開は、まだ行きづまりが見えない。

 数百の「切片群」が様々な類型を出現させた頃、私には切片が出て来るその形の経緯が気になり始めるようになった。例えば球体が枕状に延びた形態を作ろうとして、正方形の銅版から円形の銅版を切り出そうとする時に、最も大きな円を切り出そうとするならば、常識的には正方形に内接する円を取るだろう。その時、四隅に同形の切れ端が出て来る。そうした切れ端から出来る「切片群」をいくつも叩いた後に、ある時、ふたつの切れ端がつながって出て来たことがあった。つまり、最初の計画で、ある大きさの正方形を切ったのだが、変更して少し円を小さくする必要が出て来たために、つながって出て来た切れ端なのである。その結果、つながった「切片群」が出来た途端、もしも、この四隅の切片が全てつながっていたら、どういうことになるのか?と興味を持ち始めた時、「切片群」が「運動膜」の形を動かし始めたのである。この一見些細な出来事が、私の作品世界を大きく揺さぶった。そうして、いくつかの「切片群」がつながったもの、すなわち「連切片群」(注)が出来ると、おのずと切片のつながりの形に強度を求め始める。つまり、正方形の銅版に内接する円を、半径で1cm小さくしょうとするのである。そして、次にはさらに2cm小さくしょうとするだろう。それによって、さらに小さくなった円形の銅版でつくる曲面のひと呼吸の在り方が、微妙なことだか変化するのである。小さな円による曲面のひと呼吸が短くなるということは、次につながる面を長くしてバランスを取ることになるだろう。あるいは短かい呼吸を続けることで、長い呼吸に替えることになるだろうか?あるいは、短い呼吸を続けた後に、ひどく長く苦しい呼吸でバランスを取ろうとするだろうか?しかし、これは私の造形上のバランス感覚の問題であって、誰にも納得できるように、明確に指し示せるような事例を持ち出すことが出来るものでもない。これは自ずと不随意筋によって鼓動しているような、私の目と手の内密な運動だ。しかし、確たる理由がなければ、目の前にある銅版の規格寸法に頼り勝ちな私自身の中の即物的感覚を、明らかに揺さぶり始めたのである。この明らかな意識化のないところでは、形は安易に流れ易く、悪くすると感覚的に慣れ親しんだ節度に左右されるままになるだろう。あるいは、なりわい仕事の手がツルツルになってしまう危険を避け難いものとなるのである。しかし、現在のようにそうした形態の質の違いの見えない目が横行している限り、いつまでも造形の質が問われることはないのだろうが、私自身にはそのことは格別のことだ。造形思考を自らの思想とする者は、ここに起きている内的な磁力を孕んだような運動感覚が、自らの形態を産むことになるのを知悉しなければならないだろう。この先は造形思考が言葉を見失い勝ちな場処だが、我々はこの先を自覚的に一歩一歩行かねばならないのである。

 私達はどこに向かうべきなのか?語ることの困難な質の問題が、あえて語られるのでなければ、造形の問題は様々な安易に就き易くなる。常套句で語れる程のことであるなら、あえて語る程のことではないのだ。このことを人知れず自覚しているのでなければ、いずれ出会う「目」に全てが見透かされるはずだ。密度を細かな神経の集積物であるかのように誤解しているのでは、工芸における上手物や輸出産業ものの醜悪さに気付かぬままだし、安直な手慣れを無我と間違えるようでは、確かに無我は無我だが、物が見えずに、単に言葉の綾に蹴つまづいているだけだろう。

 工芸論が新たな思想を産むとしたら、手わざの問題を物質と物質の間から自らの言葉を導き出して構築しなおすだけの力業が必要なのである。職人仕事のなりわいに意味を見い出すためならば、新たな工芸論・造形論は必要あるまい。かって起きてしまったことの、ヘドロじみた日常の歴史検証をしていれば良いのである。その事によって、無名の人々が浮かび上がることもあるだろう。それがヘドロじみた日常を歓びに変えることだろうか?その事の意味は何なのか?確かに、消え去った見知らぬ工人の手もとから見えて来るものが在る。おそらく、物が残るということは、そうした他者との邂逅を待つということであるに違いない。しかし、私達はもっと先に行きたいのである。私達は人間的次元の変革に加担しょうとしているのでなかったとしたら、この苦渋の中で何の歓びを待とうとするのだろうか?まとわりつく日常の腐った自我を振り切って、私達は自らを踏み石として、先に行かねばならないのである。

(注)「連切片群」1994年「現代美術の磁場」展(茨城県つくば美術館)で初めて発表した。

造形論のために『方法的限界と絶対運動⑥』 橋本真之

2017-05-09 09:54:29 | 橋本真之
◆「果樹園―果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(作法の遊戯展1990年、水戸芸術館)

◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
(金属とガラスの造形展 1993年、神奈川県民ホールギャラリー)

◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
(手わざと現代展 1993年、埼玉県立近代美術館)
撮影:高橋孝一

◆橋本真之「無限大と無限小を往還する構造」

◆橋本真之「凝集力」1990年 AZ ギャラリー、グループ展

◆橋本真之「凝集力」 1990年 お茶の水画廊、個展

2004年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 32号に掲載した記事を改めて下記します。

造形論のために『方法的限界と絶対運動⑥』 橋本真之

  『無限大と無限小を往還する構造』
 京都の画廊アートスペース虹における企画グループ展「ノート‘88」展で、「無限大と無限小を往還する造形モデル」を最初に発表した。運動膜の初期構造の展開の再検討を様々に繰り返している中で、不意に気付いた、奇妙な落とし穴に落ち込むような発見だった。すなわち、膜状組織の最初の円筒状になった出発の両端が、外側にひるがえって互いに結びつけば、いわばドーナツ状の最初の重層構造になる。そのように結びつかずに、いずれか一方の端を内包する形で、最初の円筒の中にロート状にすぼまりながら入り込む。そして、円筒を通り抜けた後、ロート状に拡がり反展して、再び全体を内包する。ロート状にさらに小さな円筒の中をくぐり抜けて全体を内包する…。このようにして中心軸から限りなく離れた距離と、限りなく中心軸に近付いた距離に向かって往き来するのである。それを無限に繰り返す。この螺旋系を断面とした回転体は空想的で観念的な構造だが、無限大と無限小をひと連なりのまま往き来して、互いをささえているのである。この構造をそのまま造形するのは不可能だが、無限大と無限小を無限に往還するという考えが、私をひどく誘惑するのだった。私は鍛金という物質的なあまりに物質的な造形技術によって、模式的ではあるが具体化しようとした。それまでの私の実在への執着とは、明らかに矛盾する方向への願望だった。けれども、図面上で確信できる程度の造形上の問題ならば、私をいつまでも捉え続けることはできなかったに違いない。けれども、模式ではあるが、具体的に鍛金によって可能な入口を、私は見い出したのである。数学者であれば、数式によって表現することに向かうのであろうが、私にとっては、その具体的な空間の質に触れることの方が重要だったのである。この事は、私にとって明瞭に踏み出すことのできた一歩だった。少なくとも私はこれまでと別様の、ひと連なりの多重の層構造を見い出したのだった。

 水戸芸術館の現代美術ギャラリーは天井高が6mあった。1990年の開館に向かって床の最後の仕上げをしていたがギャラリーの埃っぽい半透明な空気の充満の中に立って、床と壁の感触を確認した。この6mの天井高と、その自然光の降り注ぐ天井が私の制作を決定的に刺激した。この空間は「果樹園-」に5mに近い高さを要求している、それなら私はそこに「無限大と無限小を往還する造形モデル」を立ち上げるために、この仕事を出発する。――そう考えた。ここに「果樹園-」の部分を変換するという「運動膜」以来の考えを実行に移すことが出来たのである。そして、それは次々と部分を変換することによって、いずれ作品全体が入れ替わることになる。私の作品世界における特有の造形上の発見がいくつかあるとすれば、そのひとつにこの新陳代謝としての「造形変換」をあげておかねばならない。私における作品世界のかたちとは構造としてのフォルムであって、それは運動する世界構造としての具体的な展開形態である。それは長い時をかけて実現されることが必要なのであり、決して急ぐべき展開ではない。それは地層が形成されるように「降り積む時」が「造形的強度」に変成して行くのである。その端緒をこの展覧会で示すことが出来れば、それで良いと考えた。私の方針は明確だった。私の努力はすこぶるシンプルだった。4m50cmを超える高さの位置に球体状の「無限大と無限小を往還する造形モデル」を掲げるためには、「果樹園-」の中心にまで貫く形態を立ち上げねばならない。これが自らに課した課題であった。そして、そこから降りて来る形態の分岐によって、自重を分散させてささえるのである。私には初めての高さだった。4m50cmの長さをチェーンブロックで釣るのが仕事場の天井高の限界だった。ここにあるのは具体的な距離なのである。無限大だの無限小だのというのも、この手触りの中に見い出すのでなければ、私にとって仮空のことでしかない。無限大という不可能の手触り、無限小という不可能な手触りが、共に重要な感触なのだ。この手触りを自覚している限り、私が本質的に傲慢になることはあり得ないだろう。宇宙は人間の身の丈に合うようには出来てはいないが、この地上では自分の身の丈から認識するより他はないのだと覚悟していれば、空疎なかたちになることはあるまい。 

 展覧会は好意的に迎えられた。少なくとも、私の作品を喜んで迎え入れた人々がいた。それから3年後に開催された‘93年「手わざと現代」展('93年、埼玉県立近代美術館、カタログテキスト・松永康)。出品した「果樹園-」は以前の倍の量に増えた。そして、最初の出発の中心部と対比的に第2の中心部が出来た。「無限大と無限小の往還」の構造を内部にかかえた中心部が成立したのである。それはまだ連接する部分が出来なくて、「果樹園-」の中で孤立したかたちで展示した。埼玉県立近代美術館の企画展示室の天井は低いので、水戸芸術館で展示した変換した状態をそのまま展示することは出来なかった。水戸では壁に寄りかけて展示した最初の中心部から立ち上がる形態を、もとのかたちに戻して展示した。その替りその年の内に、最初の中心部の変換状態を神奈川県民ホールギャラリーで展示出来たのは幸いだった。(注1)

 「果樹園-」は展示空間にフレキシブルに対応するようになって来た。私の作品世界は、この「ゆるやかさ」を持った構成の在り方を許容することが出来る。この事は私の作品世界の大事な一面である。何故ならこの「ゆるやかさ」なしには運動展開は不可能だからだ。緊密な構成とは、すなわち足し引き出来ない閉じた構成なのである。言い替えれば、そうした在り方に対して私の構成は開かれた構成である。しかし、ゆるやかな構成であっても、密度がなければならぬ。強度がなくてはならぬが、固くてはならぬ。私の作品世界には、密度を前提としたゆるやかな強度が要求されているのである。

 『凝集力』
 運動膜の出発における展開の再検討をしていた。――とはすでに書いたが、そうした試みの中で、展開の方向が空間的拡大に向かう在り方と、一方で空間的縮小に向かう在り方の二極があることに気付いた。豊かさは拡大の方向にあるとは誰しも考え勝ちだ。無限に拡大する方向と無限に縮小する方向の連続する往還体についての発見は、前章で書いたとおりである。けれども同質量の物質が空間的に圧縮され続けるとしたら、その物質はいかなる「力」を与えられるのだろうか?と考えた。というより、考えるより先に手が動いていた。最初の円筒を両端から金槌で叩いて、しわを寄せながら縮小に向かった。そこに縮小しようとする強度があった。造形上の構成を失って、単に密度だけがそこに強度として顕われるのだった。すでに私はこの姿を十代の終わりに、収縮する林檎の中に見い出していた。林檎が腐って、やがて水分が蒸発して行き、表面の皮が縮んで行くとき、しわが寄って内部に向かい始める。そのしわの形態の動きは異様な強度を持っていて、私の目を長いこと釘付けにした。「凝集力」のこの仕事は物理的に収縮への造形行為なのだが、自分自身の出発の根拠に向かって収斂しているかのようだ。この仕事は人目を引くことを望めない造形行為である。これは徹底の果てが求められている方位なのであって、この仕事が人の心を動かすことがあるとしたら、発生する不可解な形態を引き込み続けて、全てを消去して行くような場処を思わせるからに違いない。実際、内部空間を圧縮するように叩くことで、膜状の形態は一撃一撃の下で瞬時の変化にうねった。しわ同志が寄り合い、離れ、山々は立ち上がっては消えた。この方向は膜状組織が不規則に折りたたまれて層状の塊になった。(注2) 私はなおも叩き続けた。やがて、層状の塊は雲母のように、その薄い金属膜を乖離させ始めた。塊になったとはいえ、融合している訳ではないので、層状の金属膜同志が反発して剥がれ始めるのである。これらの仕事は渾沌とした出発の場処に向かうのだった。私は20代の始めに、このような場処から出発したのだった。遠い軌道を描いて出発に戻って来たのだと自ら知った時、再びその先が同一の軌道を描くのかも知れないと思うと、自らの運動の将来を、見知らぬ荒野で一人コマのように回転している姿として想像する他なかった。この堂々めぐりの先には何が在るのか?何か自分自身の中に空怖しい感情が充ちて来るのに気付いた。一体、何に向かっての凝集なのか?いずれ大展開の時が来る。そう自らを納得させずには居られなかった。

(注1)「金属とガラスの造形」展、1993年。(テキスト・畠山耕造)
 (注2)「凝集力」の初めて発表は1990年AZギャラリーにおけるかたち社主催のグループ展。