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『手法』について/戸田裕介《人間は神話を捨て去ることが出来るのか-Ⅱ》藤井 匡

2016-12-29 09:12:08 | 藤井 匡
◆ 戸田裕介《人間は神話を捨て去ることが出来るのか―Ⅱ》H 680×W 260×D 180cm/ステンレス、花崗岩、鉄製ワイヤーロープ/2001年

2002年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 24号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/戸田裕介《人間は神話を捨て去ることが出来るのか―Ⅱ》 藤井 匡


 ある美術作品を見る。そこで見る者は、例えば作者の意図といった作品の意味を求める。しかし、この行為は暗黙にひとつの態度を前提とする。それは、世界全体には最終的な意味や目的が存在し、したがって美術作品にも確実な意味が存在するという世界像である。それは、例え擬人化されなくとも、世界全体を制作=創造した超越者へと世界を収斂させる。つまり、超越者の存在さえ解ければ、世界全体が解けるかのように思考される。
 冒頭のような態度は、世界を制作した超越者像を美術家に投影したものである。ここでは、現象(世界/美術作品)の背後にあるべき本質(超越者/美術家)の方が重要なのである。こうして、超越者と美術家とは入れ子状の関係に置かれる。人間の制作物の意味は、世界全体の意味の一部に位置づけられる。逆に、その意味を確認することで、作品を包括する世界全体の意味(その正体が不明だとしても)が確認される。こうして、部分と全体とは相互補完的に意味によって体系化された世界像を保証する。
 特に、用途や顧客などを保留したまま考察される“純粋”美術では、制作者は作品に対して全権の決定を行うという考えが前提となっている。しかし、制作者は物理的や政治経済的などの現実の諸条件の中で作品を制作している。したがって、作品に対して神のように君臨することはあり得ないはずである。(註 1)
 この現実を直視するならば、理念化された創造者ではなく、現実の中の制作者像が見えてくる。こうした作者は、制作の前と後とで決定的な意味の変容を発生させるのでなければ、作品によって特別な能力を提示するのでもない。ただ、現実の中で起こる出来事を提示するだけである。

 戸田裕介は1990年代の初頭から、スケールの大きな野外彫刻を制作してきた。それらはステンレスを石で押し潰したり、石を挟んで押し広げたりしたものである。構成的な性格が強く出される一方で、形態や表面に作者自らが手を加える比重は抑えられている。そのために、素材の物質性がストレートに出されたものとなっている。
 こうした素材への関わり方は、「作者が全てを決定した作品」という枠組みで理解するのを困難にする。物質という、作者の外部にある要素を無視できないためである。戸田裕介の作品は、作者へ収斂していくという認識のされ方から逸脱しているのである。
 《人間は神話を捨て去ることが出来るのか―Ⅱ》(2001年)は、7m近いステンレス・パイプを縦方向に三分割し、その内側に10トン弱の花崗岩を挟み込んだ作品である。金属は曲げる力に対して強い反発力をもち、一方で石は圧倒的な圧縮力を所有する。このため、押し広げられたステンレスの元に戻ろうとする力と圧縮に耐える花崗岩のソリッドな力が拮抗し、二つの力がせめぎ合う緊張感が発生する。
 この構成では整合性を与えるのが目的とされていない。対立する力そのものが作品成立の第一要件として提示されている。二つの力が釣り合っているために表面化しないが、現状を打ち破ろうと潜在する力の危険性が内包されている。こうした緊張感を前景化するために、形態や表面などの作者の管轄に収まる要件は重要視されていないのである。
 この力の存在は、制作方法に多くを負うことになる。制作過程ではこの力が全面的に発露されているからである。作者は手順として、最初にパイプの上部を鉄ワイヤーで縛ってから石の上方にセットする。次に、上から圧力を掛けてステンレスの間に石を押し込んでいくのである。
 単純ともいえる工程ではあるが、スケールや重量を考慮すれば簡単なことではない。実際には、ステンレスの三箇所の隙間をジャッキで押し広げ、上から10トン以上の圧力を掛けて少しずつ押し込んでいく、厖大なエネルギーを要するものである。作品は、強大な力と抵抗感の中から立ち上がってくるのである。

 作者は制作という作業を通して、身体感覚を超越する物質と対峙することになる。ここからは「素材を生かす」といった意識はもたらされない。作品の重量や石に掛かっている圧縮力は、手を使って素材に関わる意識とは遥かに乖離しているからである。
 例えば、ステンレス・ステールは人工的な素材、石は自然的な素材と分類される。用途に適するように一次加工された素材は一度人間的なレベルに変換されており、扱いやすい存在となっている。このために、ステンレスは未加工の石とは異なった階層に属している。こうした物質を統制しようとするプロセスの有無が、素材の人工/自然を分節する。
 しかし、《人間は神話を捨て去ることが出来るのか―Ⅱ》では、どちらの素材も巨大な重量と圧縮力/反発力を形成する要因である。人間の扱える範囲を超えるという同じ範疇に収まり、どちらも作者の人間性に親和することはない。戸田裕介の素材の関わり方からは、人間を尺度とする人工/自然の分節は無効化されることになる。
 ステンレスと石は共に、作者にとって自我が十全に達せられることのない、他者として存在する。逆に、こうした素材の他者性に直面する目的から、戸田裕介はスケールの大きな野外彫刻を制作していると考えられる。スケールが大きくなることで素材の扱いは比例的に困難になる。その分だけ素材の他者性は直接的に露呈されるのだから。
 作品の現れ方は素材の物質性に依存する。つまり、作品は作者の意識云々ではなく、物理的な条件などによってそうあるしかない姿を見せる。体感している現象の背後に、本質という意味によって体系化された世界は存在していないのだ。作品は理念によって規定されるものではなく、多方向に流れようとし、混沌へと繋がっていこうとする。
 《人間は神話を捨て去ることが出来るのか―Ⅱ》における制作とは、無から有を生み出す創造ではない。素材の物質性を表面化させる方法を設定し実行し、他者としての素材と出合う場所に立つことである。制作は他者に直面するころで、制作前のイメージを裏切りながら進行していく。素材は作者自身の思い通りにならないものとして選ばれ、最後まで思い通りにならないままに置かれるのである。

 この制作方法から生まれる作品では、厳密な意味での形態が作者の手を離れている。石とステンレスの関係からどのような形態が出現するかは、鉄ワイヤーの縛り具合や不整形な石のかたち、掛けられる圧力の強さや方向などに依存する。こうした複雑な要素が絡んだものを、事前から完全に予測することはできない。
 加えて、力のせめぎ合いの中で作業は進行するためにリセットが効かない。制作過程においては、起こってしまった出来事は決定的となる。仮に、出現した形態が思い通りにならないとしても、その現実を受け入れるより他はない。時間の不可逆的な進行に直面することからも、やはり制作は理念の中に留まりはしない。
 もちろん、手直しの効かない方法であることや、安全性に考慮が必要な作業であることから、方法は綿密に練り上げられている。事前に頭の中では構想から完成に至るプロセスは揺るぎなく明確化されている。このため、事前に思い描く作品像と現実に生じた作品との間には極端な差異は発生しない。しかし、この些細な差異が作者と作品とを決定的に分離する。それこそが理念化されることのない、現実に由来するからである。
 この観点からすると、作者と見る者とは同じ場所に立っていることになる。作者ですら作品の姿は事後的にしか知ることができないのだから。(註 2) こうした立場から作品を生み出す姿勢は、制作=創造という固定観念を排除して、作品の意味そのものを問い直す場所から出てくるのである。それは、意味として読み尽くされる作品像を疑う場所に立つことに他ならない。
 現実としてそうあるしかない姿として提示される作品。それは、意味によって構成された世界とは異なった文脈にある。戸田裕介の作品が、仮に暴力的に感じられるならば、単に巨大な物質の放つ力によるだけではなく、それが体系化された意味のシステムを停止させることよってである。
 こうした作品が現前することで、創造者に統制された世界像は宙吊りにされる。ここから、見る者は意味として読み尽くされる世界像を疑う場所に導かれていく。


註 1)柄谷行人「建築の不純さ」『批評空間』website 2001年10月
   http://www.criticalspace.org/
  2)戸田裕介は作品を制作する理由を「何よりもまず自分が見たいから」と言ったことがある。この発言では作品コンセプトと実際の作品とが別物だと意識されている。


「かご以外の技術」 高宮紀子

2016-12-23 11:51:38 | 高宮紀子
◆高宮紀子「角と丸の関係」(紙バンド・30×30×30cm・2002年)

◆①ワークショップでの作品

◆②ワークショップでの作品

2002年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 24号に掲載した記事を改めて下記します。

 「かご以外の技術」 高宮紀子

 去年の暮れ、東京テキスタイル研究所で行われたニードルワーク(刺繍)のワークショップに参加しました。イギリス人のシェリル・ウエリッシュさんが講師で三日間の講習でした。ちょうどクリスマスと重なったというのに、参加者は定員オーバーの状態。新しいニードルワークに興味を持って集まった人の多さに驚きました。このワークショップでどんなことが行われたのか、お話をしたいと思います。まず、彼女は自分や他の作家の作品をスライドで見せ、イギリスの近代的な刺繍の歴史について説明しました。伝統的な技術を使った作品に、アップリケやビーズをつける手法で、それまでには無かった素材を付けたり、アクリル絵の具を塗ったりする作品が出現、同様に、モチーフが古典的なものから、個人的なイメージの世界へと広がっていきます。表現する形は新しくなっても、伝統的なステッチが随所に使われていたのですが、やがて刺繍、つまり縫うことについても、イメージを作るための手段ではなく、新しい展開を示した作品が誕生します。ウエリッシュさんの作品は、そういった新しい領域のものですが、彼女独特の金属的なテキスチャーの世界が魅力です。彼女は刺繍を専攻した後、ジュエリーを学び、刺繍と金属のテクニックが合体したような「彼女の刺繍」を作り出しました。作品の主役は素材で、いろいろなテキスチャーを生み出すことがテーマです。彼女の作品からは従来の刺繍に当たるものは見当たらないばかりか、縫うということですら、手製のピンで布を留めて立体にする、という行為に代わっています。

 彼女が持ってきた実験的なサンプルを見せてくれました。布を折ってしわをよせたり、金属の箔を叩いたものなど、その一つ一つが見たことの無いような質感のものでした。また、叩いた金属の箔を布と合わせて一枚にする「融合」と呼ぶ実験を多くやっていて、一見すると、柔らかい金属の布のようです。どれも刺繍というよりは、刺繍という行為の機能を根本的な所で展開させたものでした。

 スライドショウの後は作業の時間でした。新聞紙を渡され、指を濡らして新聞紙の端を丸めるのですが、ただ丸めるのではなく、できるだけ小さい直径になるように、新聞紙を斜めに巻いていきます。何回か、最初の紙を丸めるのを繰り返している内に、しっかり固く丸まってくる状態が指で確認できるようになります。そうしたら、初めて全体を巻いていくのですが、できたら固い棒のようになります。これは英国で薪に火をつける時に使われるそうですが、簡単そうで難しい作業でした。また、何も考えないで即興的に紙の形を変えてボタンを包む、という作業も行いました。考えないでと言われても、やはり一瞬、考えてしまいますが、彼女は即興的な行為を望んだようです。その方が素材の特性を直感的に捕らえることができる、と言ったように覚えています。

 素材の感触をつかみ即興的に作業するというのは難しく、才能の有無を試されているようですが、何回か繰り返すことで訓練されるかもしれません。だけど簡単な作業をすることで、素材の感触をつかむというのは、よりわかりやすいと思います。例えば新聞紙を丸めることで、新聞紙の薄さをコントロールする力の入れ加減がわかりました。他には役に立ちそうもないことですが、素材を扱う時、既成の技術とすぐに結びつけずに、少し待ってみる慎重さにつながるように思います。

 その後、素材を使ってそれぞれが実験をすることになりました。彼女が強調していたのは、初めから形を作るのではなく、まず素材のテキスチャーを変える行為をいろいろと実験し、体験してほしいということでした。

 ①はその時、私が作ったものです。棒で金属のメッシュの目をこじあけるように、一方方向に開けていくので、穴の開いた部分がくぼんでいます。全体のメッシュに巻き癖がついているので、全体の形がこのようになりました。写真では穴のある部分が二つあるように見えますが、下は陰で実体は上の部分、一つだけです。表面のテキスチャーを変えるために作業を繰り返したのですが、素材自体が固かったので立体になりました。これは後からウエリッシュさんから聞いたのですが、金属の技法に同じような技法があり、やはり立体にする方法だそうです。

 次にアルミフォイルを折って少し厚みを持たせ、巻いて塊を作る実験をしました。写真(②)だとはっきりしないのですが、固くしっかり何重にも巻いて周りをとめ、金槌で真ん中を叩いてへこませました。フォイルの端が一緒につぶれて、一つの塊のように見えました。これはやっていて楽しかったです。手持ちの写真が無く皆さんに紹介できないのが残念なのですが、参加者の方の面白い断片を見ることができ、とても刺激になりました。
 
 写真は後日、上と同じ方法で作った作品です。紙バンドでブレイドを組んで中心から作っています。立体の方法としては、少しずつ組んだ組織を周囲に巻いて重ねるだけですが、材同士をどう組むか、ということが造形の重要なポイントになっています。ブレイドは同じ面だけを向けて材を組む為、できた組織が丸まる傾向があります。‘87年頃も同じ方法でいろいろな形を作りましたが、同じ所で丸めた作品は作りませんでした。この方法で組みながら巻いて重ねると、同じ本数でも少し内側にかぶさろうとする傾向が出てきます。そこで本数を増やして安定するようにした結果、中心がくぼんでいて外側が出っぱりました。最後はブレイドの端の材を所々で裏側に折り返し六角形にしました。材の面を折り返すか、同じ面で編むかの違いですが、形としては違ってくる、そういう発見をこめたかったのです。最後の六角形の所はある程度柔らかい性質が必要になるので、両面を少しやすりをかけて削りました。

 彼女のワークショップを受けた後、何が変わったかと聞かれてもはっきりしませんが、今まで考えてきたことをもう少し深めてみようというきっかけになったと思います。また、彼女が金属の手法と刺繍を融合した世界を作り出したということは、たいへん興味深かったことでした。今まで私は、編み組みの技法を展開させてどういう可能性があるかを考えてきたわけですが、全く別の素材の技法というものも参考になる、刺激になると思いました。ウエリッシュさんは全体の講評の中で、素材の素材感がそのまま残っていると、人と同じに見える、ということを言っていました。個性を創造する徹底したもの作りへの情熱が強く残りました。

「はみ出た場合へ」 榛葉莟子

2016-12-22 13:37:07 | 榛葉莟子

2002年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 24号に掲載した記事を改めて下記します。

「はみ出た場所へ」 榛葉莟子


 菜の花が満開と房総半島の南端に暮らす友の話を、黄色いお花畑の風景を頭に描きながら一足、いや二足三足早いあたたかさをうらやましく聞く。こちらは春近しの花は花でも雪の花が舞う。硝子窓の向こうに風花がひらひら舞っているのに気がつく。空は晴天である。八ヶ岳の雪を風がひゅっと吹きとばし里に送って来るおすそわけの雪というよりも、ひとひらひとひらのそれはしろい仮初の花びら。風花は一瞬の間に宙に消えては舞ってくる。はかない風花の舞う風景、明るい静けさと口の中で言う。

 風が強い日家中の硝子窓はカタカタガタガタ合唱のような音が鳴り続く。隙間風は勝手気ままに部屋に浸入してくる。だからストーブにかじりつく。かじりついているから本を広げるかぼーっと火を見つめるしかない。たわいのない空想のかけらが浮かんでは消えていく。そのうちうとうと瞼が重くなる。ガサッという音にはっとする。眠ってしまった膝から落ちた本が所在なげに床に頁を広げている。本を拾い上げながらふと、硝子窓の鳴る音にまじって声のような妙な音に気がついて耳を向けた。キュキュともヒュヒュともシュシュとも‥‥呼びかけてくるような音、声。窓を開ける。もしも目の前の細い枝を広げたスグリの根もとにうずくまる小さきものを発見したとする。白く透きとおった布を重ねたようなものを身にまとっている。私は窓から外へ飛び出す。得体のしれないそれを懐に抱きしめ部屋に入り毛布でくるむ。冷えきっている。ミルクを温める。小さきものはミルクをコクコク飲む。頬に赤みが蘇る。白い薄布が赤みを帯びてくる。「ああ温かい、このあたたかさ」 小さきものが大人びた台詞を言って三角の白い顔をあげた。深く透きとおった明るい青い眼だ。どこかでこの眼と会った気がする。「いったいどこから来たの?」と聞く。「あっち」「あっちってどこ?」「あそこ」「あそこって?」「そこ」「そこってどこ?」「ここ」「ここ?」なぞなぞごっこで拉致があかない。と見れば眠っている。毛布を動かすとシュツとけむりのような白いものがたなびいてそれはすぐ見えなくなった。何だったのだろう得体の知れないあれは‥‥。だから窓を開けスグリの根もとを見る。あたりを見渡し妙な声の出所を耳は探ったけれど、ただぴゅうぴゅう吹く風に身を任せる木々がその身をくねらせ踊っているのが見えるばかりだ。数日後、あの行方知れずの妙な声を再び聞いた。夜のことだった。テレビを見ているとあの声が聞こえた。とても近い。玄関の戸を開ける。白いものがするり中に入ってきた。キュウとあまえる声で私を見た。兎みたいに長い耳の白い子猫。抱き上げる。生まれたばかりの羽毛の柔らかさ。透きとおった青い目。まさか私のもしもの中に来たのはこの子?まさかまさかと「ねえ、どこから来たの?」しつこく私は質問する。そのたびに白い子猫の三角の耳がぼーっと赤くなる。

 はかないかけらばかりがひらひら浮かんでは消えてゆく冬の日々、けれども耳を澄ませば刻々とかすかな息吹は近づいてくる。そして在る日、枯野の端っこにイヌノフグリの青い蕾を発見。なぜかこの二十年来、私の春はこの小さな青い花をまず見つける事からはじまる。だから自分だけの儀式のようにしゃがんで青い花に挨拶する。ここは何となく好きな場所である。多分誰もが自分の好きな場所を一つ二つは密かに持っていると思う。私の好きなここは季節を問わずすがすがしさに満ちている。川に沿った森の連なりは、すすきの原っぱや田畑を縁取るようにカーブしながら細く続き、その向こう、遠くになだらかな線で描いたような三角の富士山がいる。どうということのない村の一遇、変形縦長の天然自然空間である。いつまでもそこにたたずんでいたい、いつまでもぶらぶら歩いていたい、そんな気にさせられる馴染みの場所、魅かれる空間。けれども四六時中そこに行くわけではない。何だか呼ばれたような気がしてと、後からそんな気がすることがよくある。混じり込んでいると、こことか、あそことか、どこということもないはみ出て行く感覚が染みてくる。どこか世界の果てにいるような‥‥。

 犬がワンワン散歩の催促をしている。さあ、行こうと綱を手に走り出そうとした時だった。空からワン、ワンと犬の吠える声がした。犬が空を飛んでいる?ワン、ワン、ワン空から大きな吠える声が聞こえる。正体を知って驚いた。鳥だった。神社の杜に家族らしき鳥は来るが、カーカー、グゥェグゥェだ。犬の吠え声の鳥の声は初めて聞いた。庭で吠える我が家の犬の声、間合いがそっくりなのだ。空からワン、ワンと吠えるはみ出たあの鳥にもう一度会いたい。

「FEEL・FELT・FELT-母なる技法への回帰-」 田中美沙子

2016-12-20 10:29:35 | 田中美沙子
◆トルコのケバネック(羊飼のマント)

◆パオの中の壁掛

◆カザフスタン SYRMAKの敷物

◆トルコの敷物 KECE 制作風景

2002年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 24号に掲載した記事を改めて下記します。


「FEEL.FELT.FELT-母なる技法への回帰-」  田中美沙子

 ●素材の性質
 ふわふわ、ざらざら、ぼこぼこなど目から触感をかんじられる物に出会うと思わずそれに触れて感触をためしてみたくなります。絹ずれの音のイメージから絹の優雅さや華やかさが伝わり、水や風を通すほど布の味わいが増して行く木綿からは庶民的な素朴さが、生なりの麻の白さからは凛とした硬さと気品などが感じられます。自然の繊維には各々はっきりした性格や個性がありそこには生きた繊維としての存在感と必然性が隠されています。フェルトを作る羊毛や獣毛には、どこかしみじみとした暖かさとおおらかな優しさがあります。これは動物の皮膚の一部だからでしょう、春になると動物達の毛は抜け新たな毛が育つように、羊も生後2ヶ月頃には保護用のヘアーが生えそれらはウール状に成長し毛刈ができる頃には下から新しい毛が1cmぐらいになり冷たい外気から身を守る仕組みになっています。他の繊維に比べ保温や伸縮性に富み糸を紡ぐのには大変適し天然のストレッチ素材と呼ばれています。また湿度の放出と吸湿性にすぐれエアコンの効果を持ち合わせているのでスポーツ衣料にも多く使われて来ました。最近身のまわりには化学繊維が沢山あふれています、薄く軽く暖かく摩擦や張力にも強い目的によって現代生活に大変便利なものです。しかし触れた時の感触や着心地の良さを味わうためには自然の繊維がまさっています。最近はこれらがとても贅沢なことになって来ているでしょう。そして古くなった繊維は腐り分解し土に帰る事ができるのです。

 ●日本のフェルト(氈、おりかも)
 赤い毛氈ひきつめておだいり様にお雛様、ひな祭りの歌にうたわれる毛氈(もうせん)は氈(おりかも)と呼ばれ毛氈の一種類です。日本ではいつ頃からフェルトが使われるようになったのでしょう。正倉院の宝物には31枚の敷物があります。唐の時代中国、朝鮮を経て渡来したもので白氈(生なり)、色氈(一色染め)、花氈(紋様のある)があります。中でも花氈には鳥や人の姿など楽しく表現してあり、色彩は藍、淡青、緑、萌黄、褐の濃淡が使われています。この伝統的な製法にはふた通りあります。蓆(むしろ)の上にデザインにそって紐状の羊毛を面や線の上に置きその上に地となる解毛した羊毛をのせ巻き縛り圧力を加えるものと、一方は象嵌(ぞうがん)による方法であらかじめ少し柔らかく作った色のフェルトを模様に合わせ切って地のフェルトにはめ込んだものです。毎年秋に奈良博物館で開かれている正倉院展で始めてこの象嵌の技法による花氈を見る事ができました。これは、長さ275cm幅139cmの典型的な唐花紋様によるもので藍、緑、褐の、花を上の角度から見たデザインで色の濃淡による絵画的な効果を出していました。(雲繝(うんげん)手法とよばれています)少し破損した部分をのぞいては色も模様も大変美しく、その精密な表現にしばし時間の立つのを忘れため息をつきながら眺めたものです。この時代は羊とカシミヤ山羊の毛を重ねあわせ使っていました。桃山時代には毛氈が珍重され陣羽織、軍用服、お花見の席の敷物に使われていました。江戸の後期に入ると中国から技術者を呼び長崎のお寺の境内で始めて敷物を作った記録が残されています。高温多湿で牧草地の少ない日本の風土の中では羊は育てにくく養蚕による絹織物の方が発展しました。その後明治に入り外国から紡績機械羊毛が始めて輸入され工場では、フェルトの帽子の生産が行われるようになりました。

 ●中央アジアの伝統的な敷物を辿って
 羊の種類は世界で沢山あると言われています、それらは長い歴史の中でメリノを中心に食肉種や羊毛種のため交配をくり返し生まれてきたものです。中央アジアの草原では遊牧の生活がその地方に生息する羊を使いそこでの独自の方法と美意識でフェルトの敷物や壁掛を作りテントの中で使われて来ました。今もその方法は親から子へまた職人さんの仕事として次の世代へと伝えられています。これらの敷物には良く使われている模様があります、太陽の輪、生命の木(ぶどうの蔓)、羊の角、鋸がたの山、波、渦巻き、など人々の自然にたいする敬畏や繁栄を願う気持ちがここに込められております。それらの模様は個人的な好みではなく各々の地域の社会性や公共性を表わしているものです。日本のアイヌの模様にもモウレと呼ばれるれ水の力、精を表わし鮭の豊穣を願う模様があります。これらにはこの地方の模様とどこか共通のものが感じられます。

●モンゴルの単色カーペット- Shirdeg-
 モンゴルやカザフ地方で使われるshir、syrの言葉には縫うと言う意味があります。モンゴルのshirdegと呼ばれている敷物は、モノクロのフェルトにラクダや山羊の糸を撚りあわせ強い糸でキルティングしていきます、重ね合わせた布を日本の刺し子の方法で縫い糸を強く曵くので模様の線が凸凹と影を作りシンプルで力強くモダンなデザインの技法です。これらは主にパオの扉の幕や敷物、お茶を入れる袋に使われています。これらを作る時には数人の人達が草原に寄り集まり、おしゃべりしながら楽しくひと針ひと針進めていきます。

●カザフスタンの多色カーペット-Syrmak-
 カザフスタン地方には、syrmakと呼ばれている敷物があります。これは模様がネガポジの色を使い2枚一緒に同じモチーフを切り取り、各々反対側の地にはめ込み縫いあわせます。その上をラクダの糸をZ撚りとS撚り2本ひと組にしてVの字に縫い付けて行きます。色糸のコントラストが装飾と補強効果を作り更にもう一枚のフェルトが下に加えられ全体を糸で刺して仕上げます。モザイク、パッチワーク、キルトがひとつに合わさりくっきりした模様が生まれる技法です。

●トルコのカーペット-Kece-
 数年前、東西文化の十字路と言われているイスラムの国トルコでこの地方の伝統的なフェルト作りを体験しました。首都のイスタンブールから夜行列車で12時間、寝台車の車窓から見える景色は、何処までもつづく赤い土の丘とオリーブの木が広がるアナトリア地方です。かつての古都コンヤがその会場です。町はモスクを中心に広がり町中はまだ車と荷馬車が走り、ひずめの音が心地よく響き渡っていました。イスラムの宗教では偶像崇拝を持ちませんそのためモスクの中は美しい幾何模様であふれ、それらはトルコ絨毯やキリムの織物にも使われていました。またモヘアーの羊が生息している場所でもあります。会場の板の間には10メートルの蓆が部屋いっぱいに敷かれ何枚もの敷物を同時に作って行きます。職人さんと言葉が通じないながら作業を後からついて行きました。初めに模様にする柔らかなフェルトを作ってこれを鋏みで2~3センチのテープ状に切り、既に職人さんの頭にある伝統の模様を蓆の上に置いていきます、指先で柔らかなフェルトを巧みに操り直線から曲線、曲面へと変化させ全体に幾何模様の中に曲面の優しさを取り入れられたデザインにしていきます。素材の羊毛は近くに生息するマウンテンシープを植物(藍、茜)や化学染料で染色し、面積の多い地の部分は自然色の白を使い一度カードしたものをオリーブの枝を束ねた道具で繊維を更にバラバラにし模様の上に厚く乗せて行きます。ほうきの先に少しの水を加え振りまきのり巻き状に巻き込んで行きます。直経は40~50センチになりそこに3~4人の足をのせ部屋の端から端へとリズムを揃えて一時間ぐらい蹴って行きます。この時模様と地がなじみます、更に縮じゅうを完全にするため昔は何日もかけてこの作業を続けたのですが、現在は機械で加圧し厚みが1センチぐらいの敷物に仕上げ1枚のサイズに切っていきます。近くには、フェルト工房があり男の人達が羊飼のマント(ケパネック)や敷物を作っていました。私達も自分のネーミングとこの地域の紋をあらわした刀と太陽の模様を胸に入れたマントを作り持ち帰りました。都心への帰り砂漠地帯に舗装された一本の路が何処までもつづいていました。そこをバスで走りながらこの風景はいつまでこのままでいられるのであろうかの思いが頭をよぎりました。日本でもかつて庶民の衣服を中心に広がった刺し子は半纏、前かけ、風呂敷など強さを求められる布として広まり、多くの刺し方による美しいデザインが数多く生まれました。現在残されているものは沢山の水と陽を浴び美しい姿になっています。これらの手仕事は各々の国の風土のなかで長い時間をかけて女性達が持つ優しさと強さにより育まれ伝えられてきました。これからも環境や生活の変化と共に姿を変え行くことでしょうがここに込められている心は次の時代へと伝えて行って欲しいと思います。

「テキスタイル界のパイオニア-藤本經子先生-」 中野恵美子

2016-12-17 11:33:49 | 中野恵美子
◆藤本經子「そよ風 BREEZE(部分)」1983年 織編組織、絹・ウール

◆藤本經子「道  THE PATH」1982  織編組織、綿、44×143cm

◆藤本經子「亀甲  HEXAGONS」 1986、織編組織、ウール、85×180cm

◆藤本經子「星座  THE GALAXY」 1987

2002年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 24号に掲載した記事を改めて下記します。

 「テキスタイル界のパイオニア-藤本經子先生-」  中野恵美子

 「染織」を学ぶために入学した東京造形大学で二人の「織物」の先生に出会った。テキスタイル・デザイナーとして活躍された藤本經子先生とローザンヌの国際タピストリー展その他国際展で活躍された島貫昭子先生である。藤本先生の授業は2年次の「テキスタイル演習」であったと記憶している。3年、4年次に織物そのものの授業を島貫先生から受けた。両先生は「染織イコール着物」という先入観念の強かった私に、「テキスタイル」「タピストリー」という新しい世界の存在を示して下さった。約30年前のことである。その後、社会的にもそれらの動きは盛んになり今日に至っている。今回、ここでは藤本先生についてとりあげさせていただく。

 カナダの東海岸ハリファックスのノヴァスコシア大学のギャラリーで1997年に行われた展覧会のカタログが手許にある。編みと織りが組み合わさった作品写真が美しい。通常では織り得ない組織であるがまさに「名のない組織」である。そこに至るまでの経過を資料を基にたどってみる。

 藤本先生は終戦後、洋裁学校で学び、その後多摩美術大学で染色を専攻した。在学中に一冊の本-『基礎繊維工学』青木朗著、出版:文耀社-に出会う。組織という普遍性を有する世界に接した最初の出会いである。その本に基づいて卓上織機で中細編糸や有り合わせの布をほどいて染めた糸を用いて様々なサンプルを作った。大学卒業間際にアメリカ視察旅行から帰国したばかりの先生からユニークな名門校としてミシガン州のクランブルック アカデミー オブ アート(全米唯一の大学院のみの美術学校。以降CAAと記す)を薦められる。3年後に日本人として初めて留学する。大学卒業以来の夢が実現したのである。私も後年、同大学院に留学したが、造形大2年生の夏休みに、先生の仕事場にお手伝いに伺った折、同校のことを度々お聞きした。まさか後に行くことになるとは考えてもみなかったが、当時は「へ-そんな学校が世界にはあるのか」と遠い国の話しぐらいにしか思わなかった。しかし、留学の話がおきた時私の決断は早かった。潜在意識の中にしっかり存在していた。先生が渡米した1957年には船旅でサンフランシスコまで2週間を要したというが、私の時(1985年)は飛行機でロスアンゼルスでの乗り換え時間を含めて20時間近くかかった。現在はデトロイトまで直行便があり13時間で行ける。時の経過をあらためて感じる。

 言葉の不自由な中でただひたすら織りまくり、卒業作品を制作、そして卒論にとりかかる。その時携行していた本が卒論を書くにあたりに役にたつ。それは『やさしい合成繊維の話』、『第3の繊維』共に桜田一郎著であったが、日本の合成繊維の研究の動機、ビニロンの原料についての知識等を同著から得る。「織物の組織」についてまとめ、友人に英語を手直ししてもらって提出、めでたく卒業、修士号を取得する。卒業後は2年間ニューヨークで旅費代を稼ぐために働き貨物船で帰国。帰国して教職につく。それぞれの個性を引き出すことに努めた。

 教職につきながら当時の状況に疑問を次のように持ち始める。
『染織に関する本を探すと、・つくる方法 ・歴史的変遷 ・特定されたものの写真集などがほとんどである。これらは必要な専門書であるには相違ないが、それに加えてもっと広い普遍的な捉え方が何かある筈だと思っていた。例えば他の分野との間をつなげたり、共有できたりする見方である。しかし実際には何も固まっているわけではなかった。将来にむけて度々会議が持たれたが、私は決め手に欠けていて、単なる願望を繰り返すうち、日本の文化遺産の個別の名称が次々に取り上げられる心配な事態になった。これまでの専門別では欠落するものが出てくるので不十分、歴史的経過を連ねてみても、羅列するだけになる。材質分類から始めれば製造の工程別になってしまう…と、マイナス面ばかりを懸命に挙げているうち、例えば、広い意味の布は、種々のタイプが一つの共通点で認識できる構造の概念の一つで、いわば、ある丈夫さと、やわらかさ、それに生身の人間が着るための最も特徴的な細かい穴、或いは隙間の作り方の種類、またはタイプではないのか?』
染織に関して普遍的な捉え方を求め、広い意味での布の共通項は細かい穴の作り方であるという点にゆきあたった時にはからずも“THE PRIMARY STRUCTURES OF FABRICS” Irene Emery著を人から紹介される。それはある考えにそって現存する古代から現在までの布が再現され、分類された文献であるが、その本に出会って飛躍的な転換をせまられる。タテ、ヨコの線による象徴的な構成を下敷きにしてそこに単純なルールによる線のパターンを探し出して過不足なく充当する。無数のパターンが現れる。それらは交点の状態が「接する」「絡む」…の混在した生産性の非常に低い仮想のパターンであったが、顕在化したものを更に実物の布にするという行為により証明していく。又、組織図については、現在の織物と編み物の表示には全く両者間に関係がないが「結ぶ」も加えると、生産性はあがり、一つの組織となりうることも判明する。図の線と、糸で現れる線とは自ずと違ってくる。
 探究を重ねているうちに「生命の科学」という本で人工血管の記事の中の有孔性に着目し、さらに高分子化学の本の中に多孔物質とういうことばを見つける。合成物ではスチロール、合成ゴム、ウレタン形成シートなど、人工物では織物、編物。天然物では、樹皮や葉っぱ、人間を含む動物の皮や皮膜があげられる。さらに食品を見ていけば寒天、海苔、たたみいわし、パン等である。布に視点をあててみれば材質の種類は多岐に亘っている。これら多孔物質としての唯一の共通点は、天然物にしろ、人工物にしろ、生成、製造の過程で有機的に穴や間隔が作られる点であった。こうした経緯から「名のない組織」の考えがうまれてくるが、さらに形にするために整理した上で以下の①と②をまとめた。

①仮想の形は、先ず作る方法を無視し、勿論技術も考えず、単純なシステムによって洗いざらい出した上、
 A)その中に必ず基本形があること。
 B)基本形の線の特徴は何か。
 C)基本形は全体像の中で何処に位置しているかを見極めるのが目的であった。実物模型は証拠品で、もし偶然にそれが美しければ予期せぬ余得であって、あの煩雑で七面倒な苦労も忘れられる。
②織りに編目の形は、既存の2つの技法を無理は承知で構造的に入れてみる。そのタイプはどれ位あるか、面積比の限界は何処迄かは未だ分からない。(織りに編目は編と書くに書けない程小さな面積の意味である)

以上の考えのもとに生産性は低く存在し難い“無名の”「名のない組織」が数々の試行錯誤の末、実際の形になり発表された。

 テキスタイルを上記のような形で捉え、研究された方は少ない。それにしても組織への取り組みもさることながら、参考とする資料の範囲の広さ、必要事項をすくいとっていく直感の鋭さには驚かされる。

 先生が東京造形大学で教職にあった初期の頃に教わった卒業生は高度な内容の課題と厳しかった先生の姿をいまだにはっきり覚えているという。『クランブルックでは個別指導の方向、つまりそれぞれの考えと速度に従って助言する。疑問に思っていないことを絶対に教えない。具体的な解決策や速効性のある方法はとらない。また、教授は自身のコピー生徒(作品がそっくり)をつくらない、傾向の違う生徒の考えを理解する努力をする。』と同大学院の教育姿勢について述べている。その体験に基づいて少人数ということもあったが、現場では個性を引き出そうと努めていらした。造形大では昨年テキスタイル専攻の卒業生、在校生有志によるZOB展の25回記念展が行われたが、各自の判断にゆだねられた自主的な作品が展示されていた。来場者が「自由な空気」を感じるという感想を述べて下さった。それは藤本先生が造形大の草創期に築かれた空気によるものではないかと指摘する方もいる。知らず知らずのうちに反映されているのであろうか。

 一方、新制作展には1969年から関わっているが、藤本先生の次のような考え方に鮮烈な印象を受けたと当時を知る人は言う。
●新制作は実験の場。
※ 何もないのに大きいものを作ってもしようがない。
※ 企業、商品企画にあわないもの、手の面白さを追求する。
※ テーマ性を有すことが大事。
※技術のみに対する視点なし、考え方に重点をおく。
※ パネル張りは布がかわいそう
※ 過去の物の再現は意味がない。
以上の考え方は今から見ても新鮮で、独自性がある。一方、デザイナーとして企業との仕事を数多く行なっていたことを付け加えておく。

 今回、この記事を書くにあたって、あらためて資料を見直したが、以前、折にふれ伺っていた断片があらためてつながり、CAAを体験したことで、「広く」物を見るという背景も実感として理解できる。私の頃はファイバーアートの境界がより広げられていたところでテーマは異なっていたが、行なわれていたこと、つまり徹底的な討論と個人の尊重は同じである。しかし先生の「名のない組織」を拝見していると、不肖の弟子であることを痛感する。先生のこだわりと追求心、そしてテキスタイルを単に手織りととらえず、広い視野の中で組み立て、捉え直していく姿勢にあらためて敬服する。その意味でもグローバルでアカデミックな先生である。

参考資料
『名のない組織。~、』(「バスケタリ-」20、21、22、23号p.231~270)
“Unnamed Structures in Textiles, Tsuneko Fujimoto, textiles”
 (Anna Leonowens Gallery, Nova Scotia College of Art and Design Hallifax, Nova Scotiaにおける展覧会のカタログ)