ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

『手法』について/土屋公雄《底流》 藤井 匡

2017-06-11 10:06:49 | 藤井 匡
◆土屋公雄《底流》橋脚、コンクリート、鉄/380×360×300cm/1991年

2005年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 35号に掲載した記事を改めて下記します。


『手法』について/土屋公雄《底流》 藤井 匡


 土屋公雄《底流》は、老朽化した橋脚と、その間に詰め込まれたコンクリートの粉砕材から構成される作品である。これは、山口県宇部市の中心部を流れる真締川の、最も河口側に架かっていた真締川大橋の一部が使用されている。経年変化した素材を、時間を蓄積したものと見なし、その時間的な意味を保持させたまま、「任意なかたちに再構成」(註 1)したものである。
 こうした提示方法では、作品は形態として見られる前に、意味として伝達される。元々、水の流れていた橋脚の間が粉砕材で塞がれるのは、蓄積された時間が流れ出さないようにしたとの印象を与える。また、此岸と彼岸とを結ぶという橋の象徴的な意味と、この橋が所有する時間とが折り合わされ、過去と未来とを繋ぐ意味が出現することになる。
 そして、作品に対面する者はその時間の中に自らが含まれることを感じ、自らの生を重ねることになる。つまり、「人の心の中で言葉以前の存在への追憶を呼び起こす」(註 2)のである。その結果、作品は本来は忘却されるはずの記憶を留める、記念碑的な性格を有することになる。
 真締川大橋は1942年に完成、半世紀の間に使用された後、1991年の架け替え工事に伴って解体された。この50年間の経過によって、コンクリートは変色し、エッジ部分にも傷みが生じている。また、海に近い場所ゆえに貝殻の付着が見られ、存在した場所の特異性をも伝達することになる。
 ただし、こうした時間は、「言葉以前の存在」ゆえに、「語られるもの」としての歴史とは異質である。例えば、この橋の欄干は、戦時中に金属供出されている。それ自体は新聞に掲載された事件であるが、ブロンズの彫刻(顕彰像)が〈出征〉と称されて供出されたような、政治性を読みとることはできない。欄干の供出とは、象徴的なものではなく、単に事実として読まれるだけである。それゆえに、作品の呼び起こす記憶は、その土地に限定されるものではなく、普遍性を帯びるのである。
 古びた素材が蓄積する時間とは、匿名のものである。それは、歴史ではなく、歴史として語られることのないもの、歴史から排除されるものを提示する。そして、その提示のためには制作者が前面に出るのではなく、素材自体の存在感が現れる形式が相応しい。こうした作品は、作者という主体が創造するのではない。素材の意味に基き、過度に手を加えることなく、それを「再構成」することになるのである。
                   ◆         
 こうした土屋公雄の作品では、まず展示される土地に行き、次ぎに素材を探し、それから制作する開始するという手順を経ている。
 素材としては、例えば、《底流》に用いられた橋脚や、《その時》(神戸市、1992年)での構築物(神戸市長田区・日本住宅都市整備公団鷹取団地)の廃材など、鉄筋コンクリートなどの産業廃棄物が発見されている。また、《永劫》(フランス・リモージュ、1990年)では廃墟となった石積みの家屋から調達され、《石造の暦》(イギリス・グライズデール、1991年)では古い石垣を解体した石を塔の形に積み直した作品となっている。
 これらには、時間の経過を内包した廃材を使用すること、元の素材のイメージが消去されない程度に加工を抑えること、垂直軸を意識させる形態や幾何学形態を用いて記念碑的な性格を与えることなど、どの作品にも見られる共通す点が指摘できる。それらは、不変の枠として制作前から決定されていると考えられる。しかし、こうした手順で制作を行う場合、作品の姿は現地で材料を探した後からでしか決定できないのである。
 実際、《底流》においても、「古い橋脚が使用できる」という条件を前提に展覧会の出品が決定されたのではない。順序からいえば、最初に作品像が未定のまま出品が決められ、その後で橋を解体する工事現場を発見し、結果的に今見るような作品が制作されたのである。時間を逆に辿れば、論理的に展開したように見えるが、時間順に考えれば、先のことが不透明なままで制作が進行していったことが分かる。作品が現在の姿となったのは、偶然的な出来事が連なった結果なのである。
 そのため、上に挙げた四つの作品でも分かるとおり、同一の枠から出発するとしても、日本と西欧では制作した作品の姿は大きく異なることになる。この違いは、発見した素材がコンクリートか石かという違が生み出している。ただし、それは主体による選択の問題ではなく、両者の都市構造の違いによるのである。
 石造建造物が希で、解体と構築とを繰り返す日本においては、近代建築で一般的に用いられる素材が使用されることになる(日本で制作された屋内の作品に関しては、主に木造家屋を解体した後の木材が使用されている)。一方、西欧の場合は、より長い時間を蓄積した素材が導入される。それぞれの作品の制作に際して「日本向けの作品」や「西欧向けの作品」の制作が特に意図されたのではない。都市構造に関する文化的な差異が自動的に反映されているのである。
 また、日本の二つの作品が近代的な都市整備を背景にもつ展覧会であり、西欧の二点が森林保護のトラスト運動を背景に設置されたという違いも影響する。実際、《底流》と《その時》という、1990年代前半の日本で発表された二つの作品は、何よりも、公共事業工事が乱発された時代の産物なのである。
 ここでも、作者の視線は、文化的差異を導き出し、それを語る(称揚する/保護する)ことには向けられていない。主体がどのように考えようとも、結果としてそうあらざるを得ない事実が露呈されるのである。作者のスタンスは、その善悪や功罪を語ることではなく、事実を事実として提示することに限定されるのである。
                   ◆         
 本文の最初に記した《底流》の説明(言葉)には、相応の説得力があると思われる。それは、言葉が作品自体の視覚的印象に裏付けられているからである。仮に、この二つが乖離するならば、作品を語る言葉は恣意的な「後付け」としてしか読まれない。言葉と視覚的印象との一致は、彫刻の内容と形式とが矛盾なく一致することを意味するのである。
 それは、制作において、構想から完成までが淀みなく、直線的に進行したことを想像させる。つまり、構想が明確に掴まれた後に、それを具体化したものがこの作品であるという風に。だが、この説明が示すのは、作品の全てではなく、説明可能な部分だけに過ぎない。他ならぬ「これ」が素材として選ばれたことは、論理的には説明できないのである。
 狭義の制作についてならば、作者は、作品の制作から完成までの全過程を見渡せる立場に立つことができる。だが、廃棄物を再構成するという方法は、その立場を背理に導く。そこから、作品は作者の内部ではなく、外部との関係によって決定されることが前景化するのである。
 つまり、橋によって「過去と未来を繋ぐ」ことを意味する作品だとしても、それは作者の内部からは現れるものではない。橋脚を素材として発見するという偶発的な出来事を抜きにして、作品の成立はあり得ないのである。
 こう考えるならば、「今、僕が見つめているものは、きっと僕を見つめているのだと思った」(註 3)という言葉には、主体-客体や能動-受動には回収できない、重層的に影響を与えるようなインタラクティブな関係が読みとれる。そして、主体ではなく関係を重視することが、作者も素材も作品もが従属する世界を開示するのである。
 ここでは、場所の記憶を表象する彫刻も、それを作品に表象させる彫刻家も、同じく、有限的で一回的な現実に含まれることになる。作者は、作品であれ、時代であれ、その全体像を見渡せる場所に立つことはできない。素材を探す行為が「自分の生きてきた時代とはどんな時代なんだろうと自分の中で確認する」(註 4)となるのは、先を見通すことのできない場所で生きるという態度から導かれるのである。


註 1 作者コメント『宇部の彫刻』宇部市 1993年4月
  2 作者コメント『都市と現代美術-廃墟としてのわが家』世田谷美術館 1992年6月
  3 前掲2
  4 インタビュー『Chiba Art Now '02 かたちの所以』佐倉市立美術館 2002年11月


『手法』について/植松奎二《浮く石》 藤井 匡

2017-06-01 10:41:41 | 藤井 匡
◆植松奎二《浮く石》花崗岩、耐候性鋼/460×725×110cm/1995年/撮影:脇坂進

2004年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 34号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/植松奎二《浮く石》 藤井 匡


 植松奎二《浮く石》は、垂直に立てられた石の柱と水平に延ばされた耐候性鋼材の間に、花崗岩の玉石が配置された作品である。石の柱と耐候性鋼材の間、つまり玉石の下に隙間を設けることで、玉石が地面から「浮いた」ような視覚がつくりだされる。作品周囲の重力が、他と異なっているような不思議さを体感させる作品である。
 この不思議さは、玉石と二つの支持体とがわずかな接触面に抑えられることとも関連する。現実には重量物を二点で支持することは困難であり、この作品でも当然、相応の構造は与えられているものの、その構造は隠され、危ういバランスが視覚的につくりだされる。三者の関係は〈その内のたった一つの要素が欠けたら、瓦解してしまう〉(註 1)ものであり、それが重力の存在を前景化するのである。
 玉石の重量は約5.5トン。それが地面から持ち上げられ、微妙なバランスで支えられる状態は、それが地面の上に転がされた状態とは決定的に異質なものとして認識される。一方では、玉石に圧倒的な重力が働き、他方では、巨大な石柱と鋼材の強度がその力を抹消する。本来は一定であるはずの重力――それは玉石の重量感によって増幅されたように映る――は、両義的に受け取られることになる。
 こうした作品は、「手業か思考か」という二分法で考えるならば、思考から導かれるものに分類されるだろう。彫刻としての表面をつくる作業が行われず、石や金属の構造的な加工は各々の専門家に発注されている。また、三つの素材も物自体ではなく、その間にある関係の方が重視されている。さらに、作者の操作が及ばない自然現象が重視されることもあり、つくる行為の比重は必然的に軽く見えるのである。
 しかし、石を浮かせる前と後では、その存在感が違って感じられるように、身体に由来する重力は、抽象的・概念的なものではない。石の重さを頭で認識することと身体で経験することは別物なのである。それは、構想段階では確認できないものであるため、作品は作者にとっても〈できたときの瞬間というのは自分でも驚きがある〉(註 2)ものとして現れる。ここでは、作品の出現に合わせて、想像と現実とが差異化されるのである。
 こうした重力を見いだすためには、意識ではなく身体に問うという態度の変更が、作品に先行して生じなければならない。つまり、自然現象とそれに影響される身体が、意識の外側にあることを発見したこと視点が、植松奎二の作品において重力が重要視される理由だと考えられる。
                   ◆         
 植松奎二は1960年代から、重力に関与する作品を制作している。それらは、写真やビデオ、パフォーマンス、インスタレーションといった、多様なスタイルで発表されてきた。こうした展開は、反復的な制作によって作品の精度を上げるのではなく、ひとつの原理をあらゆる方法で検証することを求めてのものである。
 例えば、1973年に《水平の場》《垂直の場》《直角の場》という三点(各二枚組)の写真作品が制作されている。これらは、京都市美術館の展示室の入口の高さと幅に対して、作者自身の身体と木材とをぴったりと合うように位置させ、通常とは全く異なる方法で、各々の距離を測定しようとした作品である。
 この作品でも、重力が大きく関与している。《水平の場》では、入口の両側に手足を突っ張って、身体が落下しないように支えられる。また、《垂直の場》では、角材が天井に当たるように真下から持ち上げられており、重力と一致する方向の力が示される。そして、《直角の場》では、《水平の場》と《垂直の場》を組み合わせるように、入口のコーナーに座り、手では角材を持ち上げ、伸ばした足と反対側のコーナーとの間には角材が嵌め込まれることになる。
 さらに、この三枚の写真は、同じ場所に角材のみを置いた(身体を抜いた)写真を並置して展示される。この場合、角材が重力に従って床にあるだけで、重力は通常通りに機能しているように見えるに留まる。この作品では、重力に抵抗する身体を介在させることで、その場所に生じる緊張感を対比的に見せることが意図されるのである。
 《水平の場》《垂直の場》《直角の場》と《浮く石》とでは、写真と彫刻、身体と物質、仮設性と恒久性など、一見には大きく隔たっている。しかし、重力とその影響下にあるものとの関係を前景化し、緊張感のある場を構成する形式に共通性が認められる。そして、重力と関係する造形であることから、垂直軸と水平軸を基調とする形式を採ることも共通することになる。
 また、近作として、青森県・銚子大滝の落下する水をビデオで撮影し、その正回転と逆回転との映像を並置して見せるインスタレーション《落下する水/上昇する水》(2002年)が制作されている。この重力によって高い場所から低い場所へと移動する水の姿に、作者は〈重力の形〉を見いだす(註 3)。したがって、この作品も垂直軸(重力による運動)と水平軸(重力による静止)とを基調とする形式を採ることになる。ここでも、《浮く石》と同様、重力に対する認識が問い直されるのである。
 このように見ていくと、植松奎二の作品では、素材や提示のスタイルは広範囲に渡るものの、重力が形成する関係が不変的に扱われるのが分かる。代入される要素は交換可能だとしても、それらを統制する形式への視点は不変なのである。この交換可能なものと不可能なものの区分には、近代的主体とその限界(有限性)の問題を重ね合わせることができる。
                   ◆         
 各々の素材は、交換可能性を有するときには、主体とその延長(使用するもの-使用されるもの)の関係を結ぶはずである。ここでは、素材を選択・加工することは作者の恣意に委ねられており、そこから自由な表現を行う主体を想定することができる。
 しかし、石や金属を素材として扱うようには、重力を扱うことはできない。仮に無重力をつくる装置を製作したところで、地球の重力がなくなるわけではないのだから。重力の有無に選択の余地はないのである。
 重力は主体の外側に位置しており、逆に主体の方が重力の影響下に置かれる。それは、他の素材と等しく、作者をも規定していることを意味する。表現者の自由は意識の中にあるだけで、現実には重力に縛られた不自由な身体が存在するのである。
 こうした、自由が想像物に過ぎないという認識は、「使用されるもの」であるはずの素材を見る視点をも変更してしまう。作者は《浮く石》に関して、ストーンヘンジや石舞台古墳などの古代の巨石遺構が影響を与えていること、何万年もの地球の記憶を残している石の原始的な力に惹かれることを語っている。(註 4)
 こうした人類史上や自然史上に位置づけられる石は、主体を超越するもの(主体の有限性を示すもの)を意味する。科学的や心理的には、どのように解釈することも可能としても、窮極的にはそれらを十全に理解することはできない。《浮く石》の玉石は、作者という主体の意識に帰属するのではなく、重力と同じく主体の外部に存在すると見なされる。それも、意識からではなく、作品が出現した際の驚きから導かれるのである。
 地球上の重力は、こうした作品を経由して示すことによって、何ら変化するわけではない。また、重力の在り方を充分に認識したところで、それから自由になれるわけでもない。それは、どうしようもなく意識の外部に位置しており、逆に外部の方が意識を規定する。こうした考えは、制作者の自由意志を想像物として否定することになる。
 ここでは、意識を規定するメカニズムを把握しようとすることだけが可能であり、その限りにおいて自由がある。(註 5)《浮く石》が見る者に与える解放感は、重力からの解放ではなく、自己の意識(意識に対する意識)からの解放によっている。ただし、そのことも恣意的な選択ではなく、身体を規定している条件がつくりだすのである。
 植松奎二が一貫して重力に一貫して関与してきたことは、人間の意識と身体との問題を問い続けてきたことに等しい。そこには、自由に生きるという想像は否定されているが、現実を生きるための自由は与えられている。


註 1 作者コメント『第12回神戸須磨離宮公園現代彫刻展』図録 1990年10月
 2 「アート・トーク アートは時代を証言する」『AC×2』国際芸術センター青森№5
   2004年3月
  3 前掲2
  4 植松奎二「古代人へのオマージュ」『植松奎二展』図録 西宮市大谷記念美術館
   1997年5月
  5 柄谷行人「スピノザの「無限」」『言葉と悲劇』第三文明社 1989年(初出1987年)


『手法』について/丸山富之《作品02-81》 藤井 匡

2017-05-16 15:04:24 | 藤井 匡
◆丸山富之 《作品02-81》砂岩/60.8×99.0×62.5cm/2002年

2004年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 33号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/丸山富之《作品02-81》 藤井 匡


 丸山富之は自身の制作に関して、かつて、図を用いて語ったことがある。(註 1)そこでは、第一項として「石・自然・物質」などが、第二項として「自分・人工・手」などが示され、両者の交通の中から〈あるがままのもの〉としての彫刻が〈すとんと落ちてくる〉ことが描かれていた。併せて、〈石と自分との行ったり来たりの交わりの時間が、ぼくにとって最もリアリティを感じる〉ことも語られている。
 ここで述べられているのは、主体の内面を"表現"することを拒否する態度である。素材との交通――素材を道具として一方的に利用するのではなく――が可能となるためには、作者は作品世界に対して超越的に位置することはできない。作者はその世界を構成する一要素であり、そこで起こる出来事に左右される存在である。彫刻は主体の内面から演繹されるものとはならない。
 加えて、ここでは「石」と「自分」とが先験的に自明な存在として措定されていないことに注意が必要である。両者が交通したの結果として彫刻が産出されるのではなく、彫刻の方にこそ、〈あるがままのもの〉という高い優先順位が与えられている。彫刻が彫刻となることを通して、「石」と「自分」とが明確化されていくのである。
 主客未分化の状態が最初にあり、〈石と自分との行ったり来たりの交わりの時間〉を経て「石」から「自分」が切り離される。つまり、正確には〈すとんと落ちてくる〉のは彫刻ではなく「自分」の方である。作者の言う〈つくる前に厳密に形を決めておらず、つくりながら、しっくりくる時を待つ〉(註 2)とは、こうした関係を指している。
 丸山富之のように制作方法を限定するならば、極端に突飛な彫刻が、突然に出現する可能性はほとんどない。実際、作者の幾つかの作品を見るときには、一点ごとの個別性よりも共通性や連続性の方が強く感じられる。しかし、その上でなお、それらが異なって存在する(制作され続ける)のは、制作を通して「自分」が異なっていくことに由来する。彫刻ではなく、作者自身が差異化されていくのである。
 こうした自己は交通の結果として出現するのであり、自己自身の中に根拠を見出すことはできない。交通という概念は、自己が本質に基づくのではなく、それが置かれる文脈によって構築されるとの思考から導かれる。ここでの彫刻は、存在自体に意味=価値が与えられるのではなく、作者を更新していく場として機能するのである。
         ◆         ◆         ◆
 《作品02-81》は、直方体をした砂岩の容積の大半を削り落とし、量塊を二枚の薄い板状になるまで彫り進めた作品である。形態を記述するならば、側面から見てL字形ということになるが、作品に対面するときには、形態はあまり強く意識されない。むしろ、強く意識されるのは表面の存在であり、形態から分離された表面が、それ自体自立したものとして提示されているように感じられる。
 石を彫り進む作業ではその奥へと向かう意識が要求されるが、《作品02-81》のように薄くなると、石が割れないようにその意識を変更しなければならない。ここでは、鑿を横へと進めながら、微妙な力の入れ加減を調整する必要がある。意識は石の奥行きにではなく表面に留まり、形態ではなく表面が強調されることになる。
 そして、この印象には、石から削り取られて生まれる空間が、展示室の入口側に置かれることも寄与する。見る者は、石の手前にある空間を石全体よりも先行して把握する。そのために、表面は石の形態を固定するものとしてではなく、石と空間とを分かつものとして知覚される。この表面は石と空間とを同時に発生させるのである。
 石彫の場合、作品は素材よりも必ず体積が減少する。この不可逆的な方向性によって、見る者は完成形態から原石を想像的に回復することができる。加えて、原石の外側に当たる二面が残存することは、彫り進む方向が手前から奥の一方向に限定されることを示しており、素材・技法だけではなく制作過程からも、見る者は原石を想像的に回復できるのである。
 この作品と原石との関係によって、L字形に包まれる空間(原石と作品との容積の差)は、それ以外の空間と分離されることになる。つまり、屋内空間にL字形の石が位置するのではなく、屋内空間に原石同等の量塊が位置し、その中に削り取られた空間が位置するのである。《作品02-81》における空間は二段に階層化されており、一般論としての彫刻と空間との関係とは同一視できない。そして、自己の差異化に関しては、その内の作者の身体が関与して生まれた空間が関与している。
 両者との関係は、作者の〈物体の大きさとかたちは始めから決定されている〉(註 3)との言葉にも保証される。両者は上下関係を形成することなく、同一のレベルに位置づけられている。両者の間には単なる差異だけが存在するのである。
 作者の行為の量に比例して、石塊は減少し空間は増大していくが、作品として見れば全体の量は変化しない。ここでの彫る行為は、素材を別のものに変える(創造する)のではなく、量塊と空間との境目を移動させることを意味する。石を彫ることは同時に空間を彫ることであり、表面は両者の境界線の機能を担うのである。
 しかし、この境界線は無限に移動可能ではなく、最終的にはどこかで作業を停止しなければならない。彫り続けた挙げ句に石が割れてしまえば、空間も表面も「自分」も全て同時に失われることになる。その意味でも〈物体の大きさとかたちは始めから決定されている〉のであり、作者はその後、別の視点から石を捉える作業に自動的に移行する。
         ◆         ◆         ◆
 「石」と「自分」との切断は、この制作後の視点から確認されるものである。丸山富之が近作で見せた変化は、ここから見えるものがより重要視され始めたと考えることができる。
 かつての丸山富之の作品は、自身の掌で扱える大きさに限られていた。それらには、薄い板状の空間的作品と一角を落としただけの石塊的作品があるが、基本的には《作品02-81》と同様のL字形が採用される。サイズの違いこそあれ、旧作も近作も、彫刻と空間との境界線を移行させていく志向は変わらない。ただ、サイズが大きくなることで、かつては見えなかった場が見出されることになる。
 小さい作品では、制作中の距離と制作後の距離とはほぼ一致する。このときには、制作中に見出された(石/自分)の関係は後々まで維持可能である。しかし、大きい作品になると、石を彫る視点と石を見る視点とは大きく離れてしまい、この関係が持続できない。それは、単なる距離の遠近の問題ではなく、{(石/自分)/自分}が見える、制作中とは位相が異なった視点が出現するのである。
 石を離れた場所から見るときには、(作品-作者)は(客体-主体)の構図に則る。そのとき、客体である石の中に、主体である自身の影が見出されてしまう。したがって、正確には作品が〈私の意識したこととちょっとずれた何物かを表す〉(註 4)のではなく、制作後の作者が制作中の作者とのズレを見出すのである。このズレは、自己が自己を見ること、制作後の作者が制作中の作者を自己として引き受けることから発生する。
 大きな石をL字形に一方向から彫っていく場合、作業の経過に従って、必然的に石の中へ引き込まれていくポジションをとることになる。それは、段々と石の中に包み込まれる感覚を引き起こす。小さな石では、二つの視点が連続しているため、それらを往還しながら制作を進めることになるが、大きな石では制作中と制作後の視点が分離されるため、ズレは突然に訪れる。〈石と自分との行ったり来たりの交わりの時間〉は、小さな作品よりも濃密なものとなる一方で、制作後の違和も大きくなるのである。
 しかし、作品サイズの巨大化が即、自己のズレを引き起こすのではない。石で形態を彫り出す思考ならば、最初から(客体-主体)が形成されており、仮に彫刻の中に自己を見出すとしても、それに違和を覚えることはない。それは、彫刻と空間との境界線を移動させる方法論からのみ生まれてくる。


註 1 作者コメント『〈かたまり彫刻〉とは何か』図録 財団法人小原流 1993年
  2 インタビュー『Chiba Art Now '02 かたちの所以』図録 佐倉市立美術館 2002年
  3 作者コメント『東日本-彫刻』図録 東京ステーションギャラリー 2002年
  4 前掲 2


『手法』について/前川義春《穿孔》   藤井 匡

2017-05-07 11:28:11 | 藤井 匡
◆《穿孔Ⅰ》花崗岩/750×250×100cm/2003年

2004年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 32号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/前川義春《穿孔》   藤井 匡


 前川義春は、自らの彫刻が成立する要件として、〈彫刻が自然の影響をうけつつ、状態として風景と一体化し、長い時間をかけて完成に向かうこと〉と〈作家の石に対する行為は自然と同化してしまわずあくまで一線を画したうえで痕跡を残しつづけられるものであること〉(註 1)を挙げている。

 この二点は共に、彫刻の制作自体に関することではなく、彫刻の長期的な野外展示に関する事柄である。つまり、作者の意識する彫刻の成立は、彫刻の制作とはズレをもっている。彫刻とは永遠=不変の存在ではなく、作者の手を離れる制作終了時点と風化による消失時点との間で、変化していく現象だと考えられているのである。ここでは、彫刻の制作は、その成立全体の一部を占めるに過ぎないものに相対化されている。

 前川義春が使用する石は、人間の目には、耐候性に優れた素材に映る。しかし、それは膨大な時間をかけて生成/崩壊の運動を続けており、正確には、人間とは時間の尺度が異なるものである。その際、石は人間には感じられない微細な出来事を集積し、差異を蓄積していく。作者の彫刻観は、他の素材にはない、こうした石の特性から引き出される。

 ただし、順番として、先に人間と石との差異が概念として掴まれ、後に概念に対応する素材が選択されたと考えるべきではない。前川義春はキャリアの最初期から石による――それも野外展示が適当な大型の――彫刻を継続的に制作してきた。石という素材と一対一で対応する作者の彫刻観こそが、石を扱う過程の中で深化されたものである。

 作者にとっての石は、時間を超越して在り続ける存在ではない。同時に、変化を繋ぎ合わせることで時間の流れを捉える、通時的な視点(歴史)を導くものでもない。それは、時間を一定の幅として把握する、共時的な視点を提供するものである。前川義春の制作方法は、この認識から演繹されている。
                   ◆         
 《穿孔》は、直方体に近い原石を横方向からコアドリルで半ばまで刳り抜き、外側四方向から矢割りして切り離した作品である。こうして分割されたパーツは、近い距離に、切り離した順序で並べられる。ここでは、石を彫り刻む作業は行われないため、原石のほとんど全てが作品に用いられる。つまり、原石から離れた形態が創出されるのではなく、同一存在の、異なった状態として提示されるのである。

 穿孔と矢割りの二つの作業から、彫刻は「原石のままの表面」「コアドリルで切られた表面」「矢割りされた表面」の三種類の表面を有することになる。この内、題名にも付けられた穿孔作業による表面は、原石の表面や矢割りされた表面と性格を異にする。

 コアドリルは石を円筒形に、文字通り、機械的に切断する機械である。したがって、基本的にはどの石のどの部分であれ、規格に応じた一定の表面が出現する。ここでは、作者と素材との関係は、主体とその延長という一方向的なものとなり、予想通りの表面(想像物のコピー)を現前させることが可能となる。

 だが、矢割りされた表面では、事情が異なってくる。割れ方を予想して矢の位置や本数が決定されるものの、それは素材に内在する石圧や石目などの摂理に依存するからである。この石の摂理は、外側から見ても完全には把握できないため、作者がどのように予測しようとも、結局は割ってみないと分からないものとなる。表面は石を割る行為と同時に発生するもので、事前の想定が現実として再現されるという思考を許さない。

 このように、穿孔と矢割りとがもたらす表面は対照的な性格をもつが、作者の主題は矢割りの表面にあると考えられる。彫刻の表面を統制しようとする態度と、作品の経年変化を許容する冒頭の要件とは、相容れないものである。実際、前川義春の以前の作品は主に矢割りの表面によって成立しており、矢割りと対比的に見せる以外には、幾何学的なカットや研磨などの機械的な表面は避けられてきた。《穿孔》では、矢割りの表面を前景化するために、コアドリルでの作業が重ねられるのである。
                   ◆         
 こうした表面を対比的に意識させる構成は、その表面をより詳細に見分けようとする動機を誘発する。その結果、穿孔と矢割りとの差異に留まらず、視覚効果では同一のはずの、矢割りと原石との差異に目を向けさせることになる。

 《穿孔》で使用される、直方体を基調とする原石の表面は、自然に生じたものではない。作者の手に届く以前に、石材業者の手で、利用・運搬しやすい大きさ・かたちに割られたものである。その方法と作者による矢割りとは、技術的に全く同じである。

 同様の方法によって割られた表面は、当然、同様の相貌を現す。両者の関係への着目は、「割ったのは誰か」ということに意味を見出すのを困難にする。石を割る行為は、制作という言葉が内包する作者=主体の存在を危うくするのである。冒頭の二つの要件は、実は、この主体を巡る問題と繋がっている。

 〈彫刻が自然の影響をうけつつ、状態として風景と一体化し、長い時間をかけて完成に向かう〉とは、制作主体とは別のものから何かが加算/減算された状態を、完成と見なすことである。ただ、それは制作主体の外側に由来する以上、いつ・どこに・なにが加算/減算されるかは作者にとっては(誰にとっても)不明である。したがって、作者自身は作品の完成を決定できない。作者の思惟と石の存在とは断絶しており、作品に対する作者の特権性は剥奪されるのである。

 しかしながら、他方で〈作家の石に対する行為は自然と同化してしまわずあくまで一線を画したうえで痕跡を残しつづけられるものである〉ことも要求される。作者と素材との接点が消失するならば、路傍の石と彫刻との違いはなくなり、完成という意味自体が失効してしまう。そのために、制作主体を完全に放棄することはできないのである。

 前川義春の設定した、相反する二つの要件は、完成の意味を宙吊りにするものである。作者の素材への関与は、始まりから終わりへと直線的に向かう歴史とは別種の時間概念を導く。ここでは、終わり=目的が見えない以上、現前する石の変容の蓄積を見続け、受容するしかない。石の変容の方が、作者の変容を引き起こすのである。
                   ◆         
 作者は、自らの行為に関して〈できうる限りシンプルな形態、行為の中で彫刻を成立させたい〉(註 2)と言う。《穿孔》では、穿孔・分割・配置の三つに限定されるが、それは、シンプルな(ミニマルな)彫刻を制作したいという意味ではない。行為を最小限にまで還元することから、作者・作品・制作といった彫刻の制度を支える基礎を問うことを表明しているのである。

 冒頭の要件では、制作と自然とは対比的に扱われている。しかし、この自然はあくまで主体の外部に位置しており、主体が語ることのできないものに属する。ただ、この問題を主体側から語る時には、そうした言葉を用いるより他はない。仮に、作品をテクストと呼び代えるならば、主体の拘束を離れて語ることは可能である。しかし、そのときには、この問題を生み出した、主体を問題とする主体も同時に消えることになる。

 前川義春は1985年から1991年までドイツに滞在し、ヨーロッパを中心に活動を行っていた。自然科学を生み出した西洋では、「God as the Great Architect」(註 3)という合理的な自然観をもち、彫刻もこの思想の延長に展開してきた。ここでは、世界を創造した神と彫刻を制作する彫刻家との間には、並行関係が形成されている。この場所では、制作主体は自明なものとして保証されるのである。

 他方、作者が生まれ育ち、現在の活動の中心となっている日本の自然観は、そうした原理性をもたず、自ら成る事実として位置づけられる。さらに、この自然は、人為と自然という対立をも排除していくように機能する。(註 4)この場所では、西洋とは逆に、主体そのものを確立することが困難である。

 前川義春の問題設定は、この二つの場所の落差から生まれてきたものと思われる。洋風一辺倒になることも、日本に回帰することも、自らが抱える矛盾から逃避することでしかない。彫刻は「つくること」と「つくらないこと」とに分離したまま留め置かれる。ここでは、矛盾を頭の中で解消するのではなく、その中を生きることが選ばれているのである。


註 1 作家コメント『第9回八王子彫刻シンポジウム』図録 1993年
  2 作家コメント『東条アートドキュメント '95』図録 1995年
  3 柄谷行人「暗喩としての建築」『暗喩としての建築』講談社 1983年(初出1981年)
  4 柄谷行人「批評とポストモダン」『批評とポストモダン』福武書店 1985年(初出1984年)


『手法』について/青木野枝《雲谷-Ⅳ》 藤井 匡

2017-05-01 10:22:23 | 藤井 匡
◆ 《雲谷-Ⅳ》コールテン鋼/440×400×400cm/2003年/撮影=脇坂進

2004年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 31号に掲載した記事を改めて下記します。


『手法』について/青木野枝《雲谷-Ⅳ》 藤井 匡


 青木野枝《雲谷-Ⅳ》は、ドーナツ型に切り抜いたコールテン鋼を二つ、ほぼ直角に熔接してできる球形を、連続的に繋ぎ合わせる作品である。細い材料の構成から、全体としては"コの字"を上向きと下向きに直角に組み合わせた形態がつくられる。この彫刻は、形態も素材自体も、空間と対峙するのではなく、空気を透過させるような透明感をもつ。量塊を基調とする彫刻とは、別種の成り立ちをするものである。
 こうした青木野枝の彫刻は、鉄板を酸素とアセチレンガスとで熔断し、それを電気熔接で組み上げていく方法から生み出される。作者は、熔断を行う理由について、工業製品の鉄が「熔断することで自分の鉄になる、という感じがする」(註 1)と語る。熔断は、形態をつくるための単なる手段ではなく、作者自身が素材との関係を確認する意味を担うのである。
 1987年以前、作者は既成の丸鋼を熔接する方法を採用していた。だが、それ以降は熔断作業を抜きにして作品が制作されることはない。
 もちろん、丸鋼と熔断した細い鉄とでは、彫刻自体の視覚効果が大きく異なる。工業製品である丸鋼は、全てが均一な太さを有する。これを彫刻を構成する線とするならば、安定感のある作品像(静止した存在)が形成される。細い材料が使われてはいるものの、それは量塊彫刻の延長に位置するものである。
 だが、熔断された鉄を使えば、見る者の視線は熔断面を順次に追うことになる。その結果、作品は全体像が瞬時に把握される確固とした存在ではなく、空間の中から緩やかに立ち上がっていくものとなる。造形面から考えると、空気と親和する作品の様態は、熔断した鉄の使用と深く結びついていることが分かる。
 ただし、作品の透明感は、視覚効果だけで達成されるのではない。熔断(そして熔接)から生じる「私の鉄」という素材の在り方が、作品の在り方に深く関与するのである。

 熔断の際、作者は定規やコンパスを使用しない。フリーハンドで描いた「だいたいのかたち」、正確な測定によらない「だいたいの長さ」といった感覚で決定を下す。ここには、事前の規範を鉄で再現しようとする態度は見られない。当初のイメージをおおよそ実現する以上の精度は要求されていない。
 また、熔断面は鋼鈑の面に対して垂直ではなく、斜めにカットされる。それは、手癖のままに切ったと思われるもので、これも、技術力よりも感覚を重視する態度によっている。加えて、通常は取り除かれるバリ(熔けた鉄が流れた痕跡)が残されることも、熔断の際には当然バリが出ることを意味するだけである。制作過程は強調も隠蔽もされず、感覚から派生した事実性が単に示されることになる。
 同様の態度は、熔接に関しても認められる。球形を連続していく《雲谷-Ⅳ》のドローイングは、球同士が一点で接するように描かれる。だが、強度を考慮するなら、そのまま彫刻化する(ドローイングを再現する)ことはできない。そのため、二つのパーツが三点で熔接され、その結果、球の連続はジグザグの軌跡として現れる。彫刻はドローイングを祖述するのではなく、両者は感覚的に対応するのである。
 一般論として、重力に抗して立ち上がる彫刻にとって、垂直-水平軸は作品像の根本に関わる問題である。球同士の接合とはいえ、垂直-水平軸を志向するならば、技術の精度を高めることで軸線の確保は可能となる。しかし、そうしたフォーマルな問題は重視されないのである。
 こうした、熔断・熔接に関する作者の態度は、事前の作品イメージの在り方に対応する。作者は、制作前に簡単なドローイングを描くだけで、模型のような厳密な完成形をもたずに作業を開始する。「形をここがちょっといけないとかって直すのって問題外というか……」(註 2)と言うように、形態は固定的なものとして掴まれるものではない。そのために、作業中の感覚が作品を大きく左右する状況が発生するのである。

 こうした制作手順が可能になるのは、作者のモチーフが気体・液体という可変性を含む状態であることに由来する。それは、固体のモチーフを固体の素材でつくる彫刻の理論構造とは、自ずと異なる展開を導いていく。
 タイトルの《雲谷》は、青森市にある地名に基づく。この作品では、作者自身がこの場所で経験した、靄のかかった大気の厚みが制作のモチーフとなっている。「空気、雰囲気、空気中の水分等、目に見えないけれど確実に存在しているもの」(註 3)が彫刻として提示されるのである。
 ただし、目に見えないものを、彫刻で直接的に提示することはできない。確かに、リングの連なる形状は、水滴の集合を連想させる。それでも、作品の形態が靄の形態に具象的に対応しているのではない。また、靄が抽象的に把握され、モデルとして提示されているのでもない。大気中の微細な水分やその流動を客観的に再現することではなく、モチーフと同じ性質を素材の中に発見することで表現されるのである。
 同様の表現は《雲谷》以外にも見つけられる。例えば、《亀池》(1999年)は、池の中から浮上してきたスッポンと目があった作者自身の経験から、池の中の水に光が差し込む情景へと向かった作品である。
 この作品では、天井近い高い場所に水平に幾つかの円が並べられ、それぞれの円は床上で収斂する直線に支えられる。上空の円形を仰ぎ見る視点の設定は、確かに水面下の世界と共通する。しかし、形態だけであれば、情景の再現は不完全にしかなされない。ここでも、鉄が内包する、水との同質性が引き出されることで実現されるのである。
 重く硬いと考えられる鉄で、靄や水などを表現することは、一見、飛躍した思考のように思われる。しかし、作者はソリッドな鉄の中に半透明で厚みのある世界を見出す。繰り返される熔断・熔接は、そうした鉄の在り方の確認を第一義とするのである。そして、その思考は作業から発見され、獲得されたものでもある。

 バーナーで鉄を切る熔断の作業は、不思議な感覚を引き起こす。手の動きに応じて鉄が切断されていくものの、手はその重さや硬さ(反作用)を感じることはない。この作業から感じられる鉄は、重力をもっていないのである。
 そして、熱が加えられて熔けていく鉄は、非加熱の鉄とは別物のように映る。熔断でも熔接でも、鉄は温度が上がるにつれて、赤色から白色へと変化していく。もちろん、熱が冷めれば直ぐに工業製品の鋼鈑と同じく、黒い酸化皮膜に被われた鉄へと戻ってしまう。それでも、作業を経た鉄は「透明な物体だったと信じることができる」(註 4)ものと認識される。この過程で感じられる、透明な存在としての鉄が「私の鉄」なのである。この鉄はモチーフである光を透過させる靄や水と同質であり、作品空間は機体や液体に包み込まれる作者自身の体験と同質性をもつことになる。
 ここでは、作品空間は作品がつくり出すものとは見なされない。「塊の彫刻は、そこに彫刻があって人はそれを見ている位置にいる気がします。私は彫刻とその空間のなかにいたい気がします。」(註 5)非固体としての彫刻が空間に浸透し、さらに、空間が作者の中へと浸透する関係が形成されるのである。
 このとき、彫刻と彫刻を見る作者とは対立する位置をとらない。作品は対象ではなく、世界を構成する一要素であり、作者も作品もその世界に対して超越した位置に立つことはできない。包み込まれた自己を、外側から見る視点は存在しないのである。それは、作品に対して作者が超越的な位置に立つことで弁証法的過程をつくり出し、フォーマルな質を問うていく彫刻とは決定的に異なる関係を形成する。
 「私の鉄」とは、単に作者の所有物という意味ではない。それは、「私の世界」の基礎となるものであり、「私の世界」が「見る者の世界」と接する(浸透する)ための媒介物となる。物質としての鉄を特別な存在に変換する作業――それが、青木野枝にとっての熔断・熔接の意味である。


註 1 Artist Interview 青木野枝『BT美術手帖』№785 美術出版社 2000年4月
  2 出品作家インタビュー『ねりまの美術 '91』図録 練馬区立美術館 1991年
  3 作者コメント『第20回記念現代日本彫刻展』リーフレット 2003年
  4 作者コメント『並行芸術展の1980年代』美術出版社 1992年(初出1988年)
  5 前掲 1