◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(1986年お茶の水画廊における展示)
撮影:高橋孝一
撮影:高橋孝一
◆橋本真之 「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
(1986年お茶の水画廊における展示)
◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
(1986年アートスペース虹における展示)
◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
(1986年アートスペース虹における展示)
2003年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 29号に掲載した記事を改めて下記します。
造形論のために『方法的限界と絶対運動③』 橋本真之
2003年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 29号に掲載した記事を改めて下記します。
造形論のために『方法的限界と絶対運動③』 橋本真之
本郷から淡路町に移転したお茶の水画廊とは、あらかじめ個展の開催を約束していた。そして、京都・東山三条のアートスペース虹を新たに紹介されて、ふたつの画廊で連続して開く個展が企画された為に、「果樹園―果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」は異なる空間を共に満足させる解を求める必要にせまられたのである。このことが「果樹園―」における展開の、仕組とかたちを決定付けた。仮にこのふたつの会場での展示企画が無かったとしたら、おそらく、私はお茶の水画廊の独特に入り組んだ空間に向かって制作し、展示したであろうし、それまでの発表における作品の個別性と連成へのこだわりによる展開がその後も続いたに違いない。この与えられた条件によって、それぞれが独立していながらひとつの空間を形成し、離れた空間に干渉し合う在り方が、一歩踏み出すかたちで私の仕事にやって来たのである。
五出の構造の中心に結接して垂直の方向に立ち上がる形態は天井高が規制する。搬入・展示を考えれば、作品の高さは2m50cmまでが限界だった。円筒がゆるやかなうねりをもって延び上がり、立ち上がった限界から傾斜角を降りて来る形態を、重層構造が受け止めた後に、地を這って展開する。この三つの部分から成る作品群と、そのまわりの壁に接して展示することになる作品群とが、作品世界の空間を形成した。1976年に発表した「運動膜」は外的な空間に規制されることが極めて少なかったが、十年後の「果樹園―」の場合は、ふたつの会場の空間形態が作品を規制するのを受け入れることで、その空間の圧迫がむしろ作品のダイナミズムを醸成したのである。
私は樹木と関わることで、はっきりと外的条件を受容する作品制作の在り方を取ったのだったが、それ以前からの雨水や草や石などの異物と関わることが、明らかにそうした在り方の出発だったのである。そして、もっと根本のところで、「工芸」というものが素材や技術や様々な道具の用法の規制を逆手にとって発想し、形態を産み出して来たことの揺り篭を経験して来たためなのであろう。私の仕事が本質のところで、造形全体を覆っている「工芸」なのだということを自覚しているのも、この為であり、西欧に発生した「純粋美術(ファインアート)」という異様な名称に違和感を覚えつつ、自らの生に根ざした「造形論」を語りたいと思うのも、このためなのである。
しかし、一方で私が「ものづくり」などという妙に慣れ慣れしい言葉をひどく不愉快に感じるのは何故なのだろうか?私は「もの」を作っているのだろうか?確かに個物としての作品は物体である。けれども私は作品を作ることが、空間をそして運動する構造を作り出しているのだということを自覚している。むしろ、私はその様な「私自身」を造り出しているのである。あるいは、その様な私自身と等価な構造として作品世界を存立させたいと望んだのである。さもなければ、私の心性は錬金術師達のように、新しい物質を造り出すという欲望に支配されて、不毛なまま自らの生を終わりかねない。私は「石」を造り出したいのだろうか?できれば私は今だ見知らぬ石を造り出したいではないか?あるいは見知らぬ金属を造り出したいではないか?そして、その自ら作り出した新たな素材で造形に向かいたいのは当然ではないだろうか?おそらく、新たな素材はその特有の質によって、方法を規制して新たな形を生むはずだからである。けれども今私は、それをあえて望みはしない。それは私の後から現われるであろう秀れた才能に期待すべきことだ。私は異物である「銅」という金属の天然に、私の存在が私をめぐる世界と共に凝着するかたちを明瞭に建立したいのである。これは造形の問題なのだが、同時に人間の存在の問題なのである。あるいは存在の様式の問題なのである。それが「私自身を造り出している」という事態の本質的意味である。
宗教にとって寺院が教義の図像の場でもあったように、少なくとも作品は世界構造を持たねばなるまい。しかも、それが宗教であることを望まず、図式であることを望まず、せめて私と物質との運動体として成立するのであれば、工芸的造形が「純粋」の脆弱を超え出ることになるはずだからである。
「存在の上澄み」とは「純粋」の問題ではない。ここに成立する倫理的次元の析出こそが私の念願であり、あえて私は造形芸術というものの在り方を、宗教に頼らずに倫理的たろうとする、精神あるいは心の傾斜角を方位としてめざすのである。そこに出現するべき形態をめぐる「空間質」の持続に絶対運動を求めずして、いまさら役立たずの造形芸術に何を求めることができるのであろうか?
銅板を叩いていると、金槌と当て盤の間で振動する銅板の表裏に一対ずつの槌目が並び、膜状組織を覆い、そしてまた打ち重なる槌目によって、銅板は張力を示し始める。あるいは、金槌とそれを受ける当て盤との間合いと遅速強弱によって、凹面になり凸面になり、曲面はねじれ始める。この打撃による曲面の動きに、私の意志と銅の動きが相乗する。あるいは銅が反発する。それは確かに熟した技術、未熟な技術の優劣もある。けれども銅のもたらす曲面の強度は正確な技術ばかりによってもたらされる訳ではない。正確な技術とは何か?設計図があるのならば、正確な技術の意味は明確だ。私自身の生に揺れるものがないのであれば、それは明確である。私にとって、この揺れる身心の反射こそが私の形なのではないか?金槌を打ち降ろし続ける、そして打撃を当て盤で受ける強弱深浅によって、私の意志を揺らして顕われる曲面の展開に結果する私自身のかたち。胸苦しい程の曲面の不連続。その不充足感が私を押しつぶしにかかるのだが、私の耐え得ない持久力が私の技術力であり、私の生きているかたちだと言ってしまえば、その正確な技術とは何かが、自身の生を超越したものとして見えて来るはずだ。消し去られそうな私の自我のかたちがそこに見える。もしも、消え去ることができるのであれば、その消え去る場処にこそ完成があると言うことができるであろうか?いや、そんなことで完成などと言うのであれば、最初から始めなければ良かったのである。
もうこれ以上は、私の肉体が、意志が、耐え得ないと断念する時、私は次なる展開にもう一歩を踏み出して息をつく。新たに銅板を熔接して、その先に進むというよりも、その先に押し出されるのだ。展開によって、かっての断念の場の未熟に気付く時、曲面の一部に左腕が入るだけの穴をあけることで、再び戻って叩き続けることができる。この可逆の行為は私の作品世界にとってやさしい救いだ。これに気付き得なかったならば、私は私の手にあまる作品世界を作り続ける意志を持ち得なかったに違いないと思う程である。結果的に、このうがった穴の位置は私自身の強度の里程標でもある。銅の表面に落ちる光と陰のあわいによって、不意に気付かされる自らの未熟。あるいは目をつぶって指先でなぞる曲面の中に見い出す自らの未熟。私自身を千の目によって試す吟味が、自らを初歩の職人だと認めざるを得ない苦さを味あわせるのである。千年の目に耐えようとして、私の意志の脆弱さを嗤うことはできる。しかし、それは私の目である。この自己を吟味し続ける日々の労働は、私の存在を確実に顕わし出す。これが私だ。そう私は断念する。他人の仕事の跡にはゆるせても、自らの仕事にはゆるしがたい未熟の跡、自我の咆哮。充足とは程遠い苦い日々。
私は数ヶ月かけて耐え続けた曲面の運動の緊張を、突然に破壊する欲望にかられる。海に潜水していた人が、その耐え難い呼吸の欲求で海面に向かうように、私は叩きつぶして曲面をシワだらけにする。その発火するような強度への集中。この瞬間の私は何者となったのだろう?むしろ私は破壊者となる瞬間を待ち続けたのだろうか?時としてこの自己破壊の欲望の解放が噴出する時、私はそれさえも自己のかたちとする意志を伴っていることを認めねばなるまい。それは決して予定調和ではないが、常に予感しながら築き上げている造形行為である。いつかやって来る調和世界の消滅を知りながら、築き上げることの徒労を愛することができるとすれば、私は跳躍して死をも愛することができるに違いないと思える。おそらく、私の生に勝利があるとすれば、どれ程の距離かは見えぬが、この道筋の向こうにあるように思える。私が私の死に勝利するというような妄想が横切る。そのこと自体を異様な願望としてしりぞけるべきであろうか?生きて在ることの、この稀有な日々。