ART&CRAFT forum

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造形論のために『方法的限界と絶対運動③』  橋本真之

2017-03-31 11:26:51 | 橋本真之
◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(1986年お茶の水画廊における展示)
 撮影:高橋孝一

◆橋本真之 「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
(1986年お茶の水画廊における展示)

◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
(1986年アートスペース虹における展示)

◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
(1986年アートスペース虹における展示)

2003年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 29号に掲載した記事を改めて下記します。

 造形論のために『方法的限界と絶対運動③』  橋本真之

 本郷から淡路町に移転したお茶の水画廊とは、あらかじめ個展の開催を約束していた。そして、京都・東山三条のアートスペース虹を新たに紹介されて、ふたつの画廊で連続して開く個展が企画された為に、「果樹園―果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」は異なる空間を共に満足させる解を求める必要にせまられたのである。このことが「果樹園―」における展開の、仕組とかたちを決定付けた。仮にこのふたつの会場での展示企画が無かったとしたら、おそらく、私はお茶の水画廊の独特に入り組んだ空間に向かって制作し、展示したであろうし、それまでの発表における作品の個別性と連成へのこだわりによる展開がその後も続いたに違いない。この与えられた条件によって、それぞれが独立していながらひとつの空間を形成し、離れた空間に干渉し合う在り方が、一歩踏み出すかたちで私の仕事にやって来たのである。

 五出の構造の中心に結接して垂直の方向に立ち上がる形態は天井高が規制する。搬入・展示を考えれば、作品の高さは2m50cmまでが限界だった。円筒がゆるやかなうねりをもって延び上がり、立ち上がった限界から傾斜角を降りて来る形態を、重層構造が受け止めた後に、地を這って展開する。この三つの部分から成る作品群と、そのまわりの壁に接して展示することになる作品群とが、作品世界の空間を形成した。1976年に発表した「運動膜」は外的な空間に規制されることが極めて少なかったが、十年後の「果樹園―」の場合は、ふたつの会場の空間形態が作品を規制するのを受け入れることで、その空間の圧迫がむしろ作品のダイナミズムを醸成したのである。

 私は樹木と関わることで、はっきりと外的条件を受容する作品制作の在り方を取ったのだったが、それ以前からの雨水や草や石などの異物と関わることが、明らかにそうした在り方の出発だったのである。そして、もっと根本のところで、「工芸」というものが素材や技術や様々な道具の用法の規制を逆手にとって発想し、形態を産み出して来たことの揺り篭を経験して来たためなのであろう。私の仕事が本質のところで、造形全体を覆っている「工芸」なのだということを自覚しているのも、この為であり、西欧に発生した「純粋美術(ファインアート)」という異様な名称に違和感を覚えつつ、自らの生に根ざした「造形論」を語りたいと思うのも、このためなのである。
 しかし、一方で私が「ものづくり」などという妙に慣れ慣れしい言葉をひどく不愉快に感じるのは何故なのだろうか?私は「もの」を作っているのだろうか?確かに個物としての作品は物体である。けれども私は作品を作ることが、空間をそして運動する構造を作り出しているのだということを自覚している。むしろ、私はその様な「私自身」を造り出しているのである。あるいは、その様な私自身と等価な構造として作品世界を存立させたいと望んだのである。さもなければ、私の心性は錬金術師達のように、新しい物質を造り出すという欲望に支配されて、不毛なまま自らの生を終わりかねない。私は「石」を造り出したいのだろうか?できれば私は今だ見知らぬ石を造り出したいではないか?あるいは見知らぬ金属を造り出したいではないか?そして、その自ら作り出した新たな素材で造形に向かいたいのは当然ではないだろうか?おそらく、新たな素材はその特有の質によって、方法を規制して新たな形を生むはずだからである。けれども今私は、それをあえて望みはしない。それは私の後から現われるであろう秀れた才能に期待すべきことだ。私は異物である「銅」という金属の天然に、私の存在が私をめぐる世界と共に凝着するかたちを明瞭に建立したいのである。これは造形の問題なのだが、同時に人間の存在の問題なのである。あるいは存在の様式の問題なのである。それが「私自身を造り出している」という事態の本質的意味である。

 宗教にとって寺院が教義の図像の場でもあったように、少なくとも作品は世界構造を持たねばなるまい。しかも、それが宗教であることを望まず、図式であることを望まず、せめて私と物質との運動体として成立するのであれば、工芸的造形が「純粋」の脆弱を超え出ることになるはずだからである。

 「存在の上澄み」とは「純粋」の問題ではない。ここに成立する倫理的次元の析出こそが私の念願であり、あえて私は造形芸術というものの在り方を、宗教に頼らずに倫理的たろうとする、精神あるいは心の傾斜角を方位としてめざすのである。そこに出現するべき形態をめぐる「空間質」の持続に絶対運動を求めずして、いまさら役立たずの造形芸術に何を求めることができるのであろうか?

 銅板を叩いていると、金槌と当て盤の間で振動する銅板の表裏に一対ずつの槌目が並び、膜状組織を覆い、そしてまた打ち重なる槌目によって、銅板は張力を示し始める。あるいは、金槌とそれを受ける当て盤との間合いと遅速強弱によって、凹面になり凸面になり、曲面はねじれ始める。この打撃による曲面の動きに、私の意志と銅の動きが相乗する。あるいは銅が反発する。それは確かに熟した技術、未熟な技術の優劣もある。けれども銅のもたらす曲面の強度は正確な技術ばかりによってもたらされる訳ではない。正確な技術とは何か?設計図があるのならば、正確な技術の意味は明確だ。私自身の生に揺れるものがないのであれば、それは明確である。私にとって、この揺れる身心の反射こそが私の形なのではないか?金槌を打ち降ろし続ける、そして打撃を当て盤で受ける強弱深浅によって、私の意志を揺らして顕われる曲面の展開に結果する私自身のかたち。胸苦しい程の曲面の不連続。その不充足感が私を押しつぶしにかかるのだが、私の耐え得ない持久力が私の技術力であり、私の生きているかたちだと言ってしまえば、その正確な技術とは何かが、自身の生を超越したものとして見えて来るはずだ。消し去られそうな私の自我のかたちがそこに見える。もしも、消え去ることができるのであれば、その消え去る場処にこそ完成があると言うことができるであろうか?いや、そんなことで完成などと言うのであれば、最初から始めなければ良かったのである。

 もうこれ以上は、私の肉体が、意志が、耐え得ないと断念する時、私は次なる展開にもう一歩を踏み出して息をつく。新たに銅板を熔接して、その先に進むというよりも、その先に押し出されるのだ。展開によって、かっての断念の場の未熟に気付く時、曲面の一部に左腕が入るだけの穴をあけることで、再び戻って叩き続けることができる。この可逆の行為は私の作品世界にとってやさしい救いだ。これに気付き得なかったならば、私は私の手にあまる作品世界を作り続ける意志を持ち得なかったに違いないと思う程である。結果的に、このうがった穴の位置は私自身の強度の里程標でもある。銅の表面に落ちる光と陰のあわいによって、不意に気付かされる自らの未熟。あるいは目をつぶって指先でなぞる曲面の中に見い出す自らの未熟。私自身を千の目によって試す吟味が、自らを初歩の職人だと認めざるを得ない苦さを味あわせるのである。千年の目に耐えようとして、私の意志の脆弱さを嗤うことはできる。しかし、それは私の目である。この自己を吟味し続ける日々の労働は、私の存在を確実に顕わし出す。これが私だ。そう私は断念する。他人の仕事の跡にはゆるせても、自らの仕事にはゆるしがたい未熟の跡、自我の咆哮。充足とは程遠い苦い日々。

 私は数ヶ月かけて耐え続けた曲面の運動の緊張を、突然に破壊する欲望にかられる。海に潜水していた人が、その耐え難い呼吸の欲求で海面に向かうように、私は叩きつぶして曲面をシワだらけにする。その発火するような強度への集中。この瞬間の私は何者となったのだろう?むしろ私は破壊者となる瞬間を待ち続けたのだろうか?時としてこの自己破壊の欲望の解放が噴出する時、私はそれさえも自己のかたちとする意志を伴っていることを認めねばなるまい。それは決して予定調和ではないが、常に予感しながら築き上げている造形行為である。いつかやって来る調和世界の消滅を知りながら、築き上げることの徒労を愛することができるとすれば、私は跳躍して死をも愛することができるに違いないと思える。おそらく、私の生に勝利があるとすれば、どれ程の距離かは見えぬが、この道筋の向こうにあるように思える。私が私の死に勝利するというような妄想が横切る。そのこと自体を異様な願望としてしりぞけるべきであろうか?生きて在ることの、この稀有な日々。

『手法』について/金沢健一《2,3,4》 藤井 匡

2017-03-29 09:41:25 | 藤井 匡
◆金沢健一《2,3,4》高さ核198cm/ステンレススティール/1996年
撮影:大谷一郎

2003年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 29号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/金沢健一《2,3,4》 藤井 匡


 金沢健一は一貫して鋼鈑を素材として扱ってきた作家であり、その仕事は〈構成的な作品〉〈鉄と熱の風景〉〈音のかけら〉の三種類に大別される。(註 1)
 これらはいずれも、熔接・熔断という鋼鈑のエッジ部分の加工作業から生み出される。最終的な提示こそ異なるものの、鋼鈑を面的に用いること、そして表面に手を入れない制作方法は共通する。作者は素材に手を加える部分を限定し、その存在感を残存させるのである。
 こうした方法の背景には、鉄は「工業製品にもかかわらず、寡黙な中に強い意志を秘めた存在感を持っている」「作品は私の造形の意志と鉄の存在の意志との接点に生み落とされる」(註 2)との作者の認識がある。それは、素材は作者の表現に従属するものではなく、作者と素材とは対等であることを意味する。この意識から出発するゆえに、鉄の存在が覆い隠されるような加工は回避されるのである。
 ただし、工業製品である鉄の意志は、木や石などの自然物とは同一視できない。目前の鉄に内在するのではなく、個々の鉄の固有性を超えたところで発揮されるものである。金沢健一のパターン化された作品を並置するインスタレーションは、こうした考察からもたらされると思われる。

 〈鉄と熱の風景〉は、小さな鉄片を積み重ねながら、熔接で固定した作品群である。その内の二つを比較するとき、形態的には大きな違いは見当たらない。しかし、線熔接と点熔接との、熱変色の仕方が大きく異なる二種類が組み合わされることから、表面の在り方には大きな違いが発生する。
 線熔接では、フリーハンドで描かれた水平線のような青-紫の変色が強い印象を与える。このため、繋ぎ目の直線的なエッジは後退し、二枚が連続するように感じられる。逆に点熔接の場合、側面の一箇所が小さな点として変色するだけであり、二枚を分節する鉄片のシャープなエッジが強く目に留まる。二種類の熔接を一つの作品の中で様々な順序で織り込むことで、多くのバリエーションを生み出すのである。
 これらは展示の際、複数個が等間隔に並べられて壁に取りつけられる。このため、個々の差異は重要性の度合ではなく、単に差異として示されるだけである。こうして、〈鉄と熱の風景〉は全てが異なり、同時に全てが等価と見なされる。
 同様に、〈音のかけら〉も各部分が等価であることを前提として成立する。
 四角形あるいは円形の鉄板をフリーハンドによる曲線でいくつかに熔断する。次いで、その下に合成ゴムを敷いて床や台座から浮かせ、打楽器のように叩いて音を出す作品である。しかしながら、制作の目的は楽器のような正確な音階(価値基準)に測ることではない。大きさとかたちに応じた音が、全ての鉄片に等しく内在することに主眼が置かれる。
 各音の等価な位置づけは、元々の四角形や円形を復元するように並べる展示方法からも伺える。ここでは、鉄片個々の形態ではなく、その間にある切断線の方が浮上する。こうすることで、ある鉄片の音と隣接する鉄片の音とが影響を与え合うことが視覚的に分かる。加えて、どの鉄片も全体の中の一部分に過ぎず、特権的な価値をもっていないことが分かるのである。
 さらに、〈音のかけら〉では、参加者が描いた曲線に鉄板を切り抜いて、個々人の音をつくるワークショップも開催される。それは、このシステムに準拠する以上、誰が決定したどんな音でも等価であるからこそ成立するのである。
 このように、〈鉄と熱の風景〉にしろ〈音のかけら〉にしろ、システム化された制作方法による、非中心的な体系が前提とされる。作品の意味=価値は、個々の作品を超えたところに存在するのである。そして、〈構成的な作品〉に見られる変化の過程は、こうした考察が深化される過程と軌を一にするものである。

 〈構成的な作品〉は、長方形に切断された鋼鈑(後にはステンレス鋼鈑)を貼り合わせた直方体を、複数組み合わせる作品である。これは、作者のキャリアの最初期から継続されているが、前述の二種類の作品を経て大きな変化を見せる。1996年に制作された〈比例〉シリーズ(註 3)からは、〈鉄と熱の風景〉や〈音のかけら〉と同一志向の、システム化された制作方法が採用されるようになる。
 その最初期作品である《2,3,4》は、198×10×20cm・198×10×30cm・198×10×40cmの三つのステンレススティールの直方体を、各側面が直角・平行に隣接するよう組み合わせる作業から演繹される作品である。このようにシステムを決定した時点で、制作可能な数と各々の形態は自ずと決定される。作者は作業を機械的に実行するだけで、主体性を発揮する場は存在しない。
 そして、展示の際には、個々が等間隔に見えるようインスタレーションされる。ここでも、〈鉄と熱の風景〉と同様、個々が等価に存在するよう配慮されるのである。システムに属する作品同士は単に違うだけで、優劣という価値は排除されることになる。
 だが、それ以前の作品は別の志向に依拠する。「鉄の箱状の部分を自分自身の黄金比ともいえるプロポーションやバランスで構成」(註 4)した作品が制作されていたのである。《2,3,4》のようなシステムを設けない場合、同じく直方体の構成によるものであっても、直方体の大きさや比率、組み合わせ方、面同士が接する角度は限りなく存在する。ここでは、作者自身の責任において選択がなされ、主体的にひとつの構成が決定されることになる。
 これらの作品は、展示に関しても〈比例〉シリーズと異なり、単体での成立を基本とする。しかしながら、水平・垂直を基調とする構成は、積み木のような可変性を意識させ、エッジで接する部分も視覚的な動勢を感じさせる。ここから、見る者は別の組み合わせの可能性を連想していく。単体の内に、可能性としての複数の像が含まれる印象を喚起するのである。
 だが、実現されたものと可能性のままに留まったものの間には、作者の主体に基づいた明確な価値の高低が横たわる。それは、2:3:4という比率がタイトル(最大要因)として使用される作品とは決定的に違うのである。この変化こそが、鉄の意志が目前の鉄の中に物象化できない、という発見によって引き起こされたと思われる。

 鋼鈑は工業製品であるため、同一の規格である以上はどの鋼鈑でも価値は等しい。この鋼鈑とあの鋼鈑との意志が異なる、ということはできない。この鋼鈑が作品に使用されるのは、偶然に手許に届いたという以上の意味をもたない。こう考えれば、どの鋼鈑を用いようとも等しい価値を体現する作品でなければならなくなる。
 また、鋼鈑は製鉄所で圧延された時点で一律な質をもつ。その後、規格に合わせて切断されるときに中心-周縁が生じるのであり、ある箇所が中心と呼ばれるのは偶発的な出来事に過ぎない。したがって、鉄の意志を想定するならば、自身の手に届いた時点ではなく、切断以前に遡行して思考する必要がある。そうすると、一枚の鋼鈑の中ではどの部分の価値も等しいと考えざるを得なくなる。目前の鋼鈑の中心―周縁を自明視して、作品をつくりはじめることはできないのである。
 このため、鉄の意志は目前にある鉄(オブジェクトレベル)を超越したところ(メタレベル)に想定せざるを得ない。そして、そのような素材の意志と作者の意志とが交差点に作品成立の基盤を置くならば、個々の作品=仮象を超越した場所にその意味は出現することになる。必然的に、作者の視線は個々の作品自体(オブジェクトレベル)にではなく、それらを統括するシステム(メタレベル)に向けられていくことになる。
 金沢健一のシステム化された方法による作品、そしてバリエーションを併置するインスタレーションは、素材として自明視される鋼鈑の存在を掘り下げていく思考に導かれる。その作品は、トリッキーな視覚効果を求める作者の主知主義的な志向にではなく、鋼鈑を扱ってきた経験に由来するのである。

註 1 金沢健一「鉄がもたらしてくれたもの」『はがねの様相-金沢健一の仕事』川崎市岡本太郎美術館 2002年2月
  2 前掲 1
3 このシリーズ名称は『金沢健一-構成する人-』(1997年、板橋区立美術館)の図録(挨拶文)にて用いられたものである。
  4 金沢健一「金属彫刻を手がけて」『ZOCALO』№35 1991年5月


「フレーム バスケット」 高宮紀子

2017-03-25 10:00:40 | 高宮紀子
◆高宮紀子 竹と紙バンド (写真1)

◆写真2  竹と紙バンド (写真1の裏側)

◆写真3 りーさんのフレームバスケット

2003年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 29号に掲載した記事を改めて下記します。

民具かご、作品としてのかご 15
 「フレーム バスケット」 高宮紀子

 先日、イギリスからリー ダルビーさんという人が東京にやってきました。彼はバスケットメーカーですが、竹を使ったオブジェも作っていて、日本の竹工芸を見に来日しました。かごの講習を頼みたいと連絡をしたら、自分で作ったフレーム バスケットの写真を送ってくれました。

フレーム バスケットは、そのメロンのような形から、メロンシェイプ バスケットとも呼ばれます。主にヨーロッパで作られていますが、その構造に特徴があり、作り方がユニークです。まず、最初に大きな輪を二つ作り、それを直角に交差させて、二つの交点をとめます。たいてい、ゴッズアイ(神の眼)と呼ばれるダイヤ形の編み方でとめます。この交差する位置でかごの深さや手の長さが決まります。輪の一つは持ち手、一つはかごの縁になります。次に、両方のゴッズアイに何本かの枝を渡し、編み部分の構造を作ります。枝が並んでいて、あばら骨のように見えるところからリブタイプ バスケットとも呼ばれますが、このリブの間を織り編みで仕上げます。

たまたま近くにある庭園形式の植物園から、園内の植物を使ってかご作りの講習をしてほしい、と依頼があったので、リーさんにフレーム バスケットの講習を頼みました。彼がいつも使うのはヤナギですが、代用にシダレヤナギを使うことにしました。シダレヤナギは川べりに生えていたり、街路樹になっているのを昔よく見かけたものです。橋のたもとに必ずといっていいほど、植えられていたのに、最近ではめっきり少なくなってしまいました。 大木になるのですが、台風で倒れたということをしばしば聞きます。以前、知人の庭にあったシダレヤナギをよくもらいましたが、そのヤナギも台風で倒れてしまいました。イギリスでもシダレヤナギがあるのですが、どうも性質が違うようです。リーさんは日本のシダレヤナギは柔らかい、編める、と喜んでいました。

イギリスにはかごの素材になるヤナギがたくさんあります。樹皮つき、または剥いで、そのまま曲げて持ち手に、または、裂いてへぎ材にして編み材に使います。樹皮の色もいろいろなのですが、染めたものも使うようです。ヤナギはかごの素材として中心的な植物で、ヤナギ製のかご細工をさすwickerが、他の素材のかごやかごのある編み方(織り編み)を意味するwicker workという言葉に使われています。
日本にもシダレヤナギなど、ヤナギ科の植物がありますが、この仲間であれば、すべて編める柔軟性をもっているわけではありません。まっすぐに育つものでも、編めるようなものは少ないです。かごの素材として使われるのはコリヤナギですが、昔は川べりにたくさん群生していたのに、今ではあまり見かけなくなってしまいました。以前、このシリーズ4(18号)で、柳行李の生産地、豊岡を訪ねたことを書いたのですが、そこでもかごを作る人が自ら畑に植えて育てています。まっすぐな枝を得るため小枝を絶えず切り、雑草を抜いて大変な苦労をして素材を育てるわけです。

西洋を問わず、ヤナギの樹は生命力が強いことで有名です。講習の時に使ったシダレヤナギが余ったので、枝を持ち帰り、葉を落として挿しておいたのですが、新しい葉が出て、今では勢い良く新しい枝を分岐して育っています。ヤナギの種類はわかりませんが、リーさんもかごの素材のヤナギを育てる畑を借りて、挿し木をして増やしているそうです。豊岡と同じように育てる途中で、小枝を切り落としますが、より太い枝になるように育てます。

写真3はリーさんが作ったフレーム バスケットで、52x30x25cmの大きさがあります。以前フランスに行った時に、ジプシーに作り方を習ったそうです。持ち手の材は直径2cmぐらいの太さで、だいたいこの太さの柳を割って編み材を作るそうです。それほど太くない枝を割って、編み材をとるので、材の形は一方は平らではなく、いわゆるかまぼこ形です。編み材は1cmぐらいの幅があり、厚みがあるので、編むのに力がいりそうです。樹皮は全て剥いでいます。かごの縁の所で、編み材がユーターンするのですが、ほぼ毎回、1回ずつ余分に巻いています。これは隙間ができないようにするためです。ツルでも同じようなことをしますが、平らな素材には面がありますから、どの面を出して編むかということが選択できます。このかごでは、縁の手前で編み材を1回ひねっています。これはかごの中と外、それぞれに常に同じ編み材の面を出したいからなのです。樹皮をとったものだと、あまり違いはありませんが、冬に採る柳では、皮つきのへぎ材ができるので、外側がグリーン、内側が木部の白い色のかごを作るそうです。
写真1は、この方法で私が作ったかごです。竹と紙バンドを使いました。りーさんに、二回目の講習を頼んだ時に習って作りました。平たい素材ということで、紙バンドを代用したのですが、一面だけ色を塗りました。かごの長さは50cmぐらいあり、写真2がかごの外側です。

フレーム バスケットは、持ち手が編み組織に抑えられていて丈夫ですので、重い物を入れて運ぶことができます。用途にあわせて構造を変化させ、いろいろな形のかごが作られています。形が楕円になるのが多いようですが、持ち手の有無の他、口や底の形もさまざまに変えることができます。かごの中を分けるための組織や枝をつけたものもあります。素材もいろいろで、ツル、または樹のへぎ材、縄類などを入れて編んだものも見かけます。
アメリカのバスケットメーカーの作品などでは、さらにそこから発展させて、貝のようにひねらせたり、いろいろな種類や色の素材を使った、かごの形をしたオブジェをみかけます。実用というのではありませんが、形が変わっていたり、貝や骨などの飾りがついていたりして、置いて楽しむためのかごです。個性的なフォームの展開というまではいかなくても、フレーム バスケットの構造を使っていろいろなかごを作っている人がいるようです。

初めてこのかごを作ったのは、ずいぶん前になります。作り方が変わっているので気に入りました。その当時、このタイプのかごは珍しかったので友人達と一緒に行った展覧会で何個か売ったものです。手の形の変わったものや、輪をX形に交差したものなど、いろいろと作りました。そのうち、組織構造や新しい造形方法に興味が移ったので作らなくなりましたが、今でもよく考えられたかごの構造だな、と思います。

「触れてくるもの」 榛葉莟子

2017-03-22 11:59:42 | 榛葉莟子
2003年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 29号に掲載した記事を改めて下記します。

「触れてくるもの」 榛葉莟子
 

 五月晴れはどこにいってしまったのかぐずぐずした雨模様の空を見上げていると、走り梅雨だからじきに陽が差すよと顔見知りのおばあさんの声がした。よほど浮かない顔でわたしは空を睨んでいたのだろう。じきに気は晴れるよと言われたような……おばあさんの声が笑っている。ほんとうに、まもなく向こうから灰色の雲のふちをうすい光が動きはじめ、濡れている若い緑はいっそう色を濃くし輝きを増していく。それにしてもこの季節、梅雨にはちょっと間があるこの狭間にふる雨に、走り梅雨のことばが新鮮だった。いいと思わない?このことば、と友達に言う。ああ、それって俳句の季語よ夏のね。といとも簡単に言われた。決まりごとの地点から発信されたら、ことばの周辺のケバケバは通じない。

 田園に満々と水が張られ、蛙の合唱の夜を迎える。あっという間に田植えを終えた澄んだ水面に支えられ、若い苗の行列の縞模様はそよそよ揺れている。ひとつひとつの苗の影はまるで誰かが黒い紙の切り絵を貼り付けたように、澄んだ水面にくっきりと静止している。なだらかな傾斜に沿った田園を見渡せば、どこまでも淡くみずみずしい草色の面は、ふわり天女の薄布を想わせる。草の土手や道端の縁に、黄金色をちりばめていたタンポポは透けた白銀の球体となって風を待っている。今を盛りとヒメジオンは白やピンクの煙ったい花をいっぱいつけて背を伸ばしている。じきに刈られてしまうなと思ったらもう手が伸びて、長く細い茎の根本から折りとった。これもこれもの欲が、一抱え程の花束になった。今時の畦道に見られる草や花は、この曇天の空や湿り気にも似た淡さが感じられる。一滴墨を溶かし含んだようなかげりのあるアカツメクサも摘む。それにしても植物はジブンの出番を心得ているかのように、季節の度合いによく似合っていると思うことがある。あるいは詩的に感じられる植物に自分の心が近づくだけにすぎないのかもしれないが、それにしても口の大きな硝子瓶に移ったヒメジオンの束はすでに土手の花ではない。土から切り放され限られた水を吸う煙ったいものに変わった。摘むんじゃなかったとつまらない後悔を恥じた。雨が降るごとに、黙々と緑は葉を広げ成長しふと窓の向こうに眼をやれば、雨の重みか緑の繁みがこちらに迫ってくる怖さがある。このあたりが広大な森であった頃の生き残りといっては変だけれど、伐採を免れた百年は悠に越す大木ミズナラが、部屋の窓から見えるところに立っている。裸の枝々をうめ尽くす芽吹きの春、萌黄色の若葉の満開は金色の花が輝いているかのような見事な変身を見せてくれた。またヒノタマのような赤く輝く球体がいままさに誕生するかのようにミズナラの木肌にくっきりと見た息をのむ神秘の夕暮れ時がある。まさかまさか……西の空を振り向くと、いましも山の向こうに沈もうとする大きな赤い球体がぎらぎらといた。まさかまさかの気狂いじみた瞬間の経験は大体が童話じみてくる事が間々あるけれど、まさかの手前に在るのは本気であり、本気が欠けていれば内、外のスイッチはつながらないからまさかを想像できない。まさかは何事か詩的な空間の創造への空色の種だ。

 田舎に住み着いた頃は森や林の中を歩き回った。形や大きさはさまざまだけれども白い花が咲く木が多いのに驚いた。植物図鑑で覚えた名前もじきに忘れてしまう頭は、しゃくにさわるのだけれども、カイモドキという名前の白い花の咲く木は、これから先も多分忘れる事はない。「かいもどきの木のしげる丘がありました。かいもどきはいつも青青とした葉をつけやさしい白い花をさかせています。風がふくと白い花びらは海の波しぶきのようにまい、しげみはよせてはかえすさざ波のようにゆれ丘はしおさいのひびきでいっぱいになるのでした…」とはじまる小さな童話に登場する白い花の咲く木にかいもどきと名前をつけた。かいもどきでなくてはならない展開なのだけれども、森の中の白い花の咲く木々に触れた経験が、その頃の関心事生命の巡りとつながり心の花を想像した。植物図鑑をいくら探してもその木が見つからないと、読者から出版社に電話があったと聞いたとき、ダイヤルを回した好奇心の人に、口の中でお礼を言った。

 ていねいに生きればいいのよと、ある日知人の母上がふと漏らした何気ないことばに触れた。身体への敬意が含まれていることばの力を思った。琴線に触れてくるひとことの重みは、どんな合理主義者の説教も尻込みするにちがいない。

「工芸のたのしさをかたちに」 中島俊市郎

2017-03-18 11:35:39 | 中島俊市郎
◆中島俊市郎 「Series -Sign Of Water-」
絹・ウール・綿・麻・レーヨン
 250×250×50mm  (各)  2002

◆中島俊市郎  「集積-Integration of Mururs-」(写真1)
ウール・絹・綿・麻等の自然物 
1000×6000mm (×2)  1996

◆中島俊市郎 「集積-Integration of Murmurs-」部分 (写真2)
ウール・絹・綿・麻等の自然物
1000×6000mm(×2)  1996

◆中島俊市郎 「Hatched Place」(写真3)
絹・ウール・綿・麻・レーヨン・竹
3000×3000×700mm

 
◆中島俊市郎 「Hatched Place」部分 (写真4)
絹・ウール・綿・麻・レーヨン・竹
3000×3000×700mm  1997

◆中島俊市郎 「Aquarius」(写真5)
絹・ウール・綿・麻・レーヨン・金属
1500×300×150mm  1999

◆中島俊市郎 「Tapestries-Alphabet Shape-」(写真6)
絹・ウール・綿・麻・レーヨン・紙・金属・羽  
150×150×40mm (168個)  2000

◆中島俊市郎  「Tapestries-Alphabet Shape-」(写真7)
絹・ウール・綿・麻・レーヨン・紙・金属・羽
150×150×40mm (168個)  2000

◆中島俊市郎  「Series-Sign of Water-」(写真8)
絹・ウール・綿・麻・レーヨン
250×250×50mm (各)  2002

◆中島俊市郎 「Series-Wearable Tapestrie-」(写真10)
絹・ウール・綿・麻・レーヨン・紙・金箔・羽
(50~100)×(50~100)×80mm  2003

2003年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 29号に掲載した記事を改めて下記します。


 「工芸のたのしさをかたちに」 中島俊市郎

 道具は楽しい。私の好きな道具を、ながめたり、さわったり、楽しんで使うことが私は好きだ。
 私達は生活のために様々な道具を使う。洋服や、靴、家具や自動車、携帯電話やパソコン、それらを生活の必要に応じ手に入れる。多様な商品郡の中から、求める機能をもつモノや、好みのモノを選択して、購入する。自分の欲しいものを、買い物することは楽しい。
私は1972年に生まれ、特に裕福ではなかったが、特に貧しくもないごく普通の家庭に育った。子供の頃に、あたらしい文房具や洋服を親から買い与えられた時は、何となくうれしかった。母親におもちゃやビデオゲームのソフトを買ってくれるよう、よくせがんだりした。私はモノにあふれた世界に育ったと思う。

 私が現在のようなテキスタイル作品を手掛けるようになったのは、大学生の頃の体験がきっかけだったように思う。私は大阪の大学に進学するまで郷里である飛騨の小さな山村ですごした。高校生の頃に美術に関心を持った私は、大学でそれを学びたいと思い進学した。専攻は染織を選んだのだが、今ふりかえると、その時分に染めや織りに特に関心もなかったのに、どうして染織専攻を志望したのか不思議に思う。大学では染めや織の様々な技法を学んだ。それまで、洋服を初めとする繊維製品はどこか知らない遠くの土地の工場で作られて、それを買って手に入れるのが当たり前だとばかり感じていたから、一本の糸に人が手をかけることによって多様な布が織りあがるその行程を学び、初めて自らの手で布を織り上げた時は、自分の手でモノを創り出すことができるのだということ自体に驚きを感じた。そして、そのことがなんとなく誇らしく思え、好んで機に向かうようになった。
そんな学生生活を送っていた頃、ある夏休みに郷里の山村へ帰省し、祖母へ土産話などしていたなかで、大学で学んでいる染や織のことについて話がおよぶと、祖母はかつて農作業の傍ら蚕や羊を育て、問屋へ納めたほか、自身や家族の衣にするため、それらから糸を紡ぎ、裂を織り上げていた事について詳しく話してくれた。また、信州の製糸工場へ出稼ぎに行った体験や、自動織機を初めて見たときの驚きなどを楽しく語ってくれた。そのような事を祖母から聞いたのはそれが初めてで、それまで身近に接して来た祖母が、かつてそのような暮らしを営んでいた事をそれまで想像もしなかった私は、祖母の生きた半世紀のあいだに、これほどまでに暮らしぶりが変ってしまった事に大変な驚きを覚えた。そして、素材を育み、それに自らの手をかけ、自身の生活のための道具を創り出し、その道具と暮らしを共にしたという、祖母がかつて営んでいた生活に次第にあこがれを感じるようになった。しかし、その生活は現代に生きる私がどれほど望んでも、手に入れる事が出来ない。人は豊かさを求め、効率的な経済活動によってそれを手に入れようとした。そして私達は豊かになりえたのかもしれないが、それと同時に多くの豊かなものをも失ってしまったのだということを祖母の昔話から感じた。

 私には望んでも経験する事のできない、モノと人の豊かな関係のある生活。その生活へのあこがれが、私が作品を手掛けるようになった原動力のように思える。この頃の私は、自身の手でモノを創りあげることが出来るのだということ自体が喜ばしくて、様々な素材に手をかけ製糸し、製織することを楽しんでいた。自然物が糸になり、布になるという現象が私の手の中におこるたびに、私は数えきれない新鮮な発見を見い出した。それまで既製品の無表情な布にしか接して来なかった私には、自身の未熟な手から生まれる、でこぼこしたヘタクソな織り物の表情が目新しく、また楽しく思えて、次第にそのことを強調した表現を試みるようになった。人の手、自身の手が残した痕跡は私を退屈させることがなかった。

 1996年に製作した「集積-Integration of Murmurs-」は、1000×6000mmの布2点からなる連作だ。自然物が布になる行程を可能な限り体験したいという意思から、食肉用の羊から刈り取られたままの原毛を入手し、精練、染色、紡毛し、製織した。モノに溢れた社会に育った私は、布が出来上がるまでの数々の行程を体験することで、かつて存在した人とモノとの豊かな関係があった社会、私のあこがれる社会のことを、確かめたかった。その製作行業は、重労働と地味な作業のくりかえしであったが、その昔と変わらない作業を体験していると、かつての人々が体験したものと同じ時間に私も身を委ねているように感じられて、喜ばしかった。この体験は現在の私にとって大切な糧となっているように思う。

 この作品を製作した当時から現在まで、私は織りを中心とした手工芸の手法を用い作品を製作している。それは、衣料として身にまとうとかの「用」や機能を持たない作品だ。私がこのような作品を手掛けるようになったのは、「ファイバー・アート」とか「テキスタイル・アート」とか呼ばれた造形作品に学生時代に数多く触れた影響が強いように思える。それらは、造形作品として視覚的にも興味深いものだったし、織りに興味をもちそれを学びながらも、手工芸についての考察を個人が現代においてどう展開していけばよいのか見当がつかなかった私にとって、最適な展開法のように感じられた。そして、それにならって、織の手法を用いた造形作品を手掛けていった。4年間染と織について学んだ近畿大学を卒業した後も、作品を手掛けたい一心で研究生として一年間大学に残り、その後、東京芸術大学の大学院に進んだ。大学院を修了するまで、私は織り物を造形作品として展開することに取り組んだ。この頃までの製作テーマやコンセプトは一貫していた。自然物を中心とする素材の美しさや楽しさを活かしながら、人間の手の痕跡を作品に投影することだった。素材感を活かしたテクスチャー表現を主体とした布を、平面から空間に展開したり、織られた布を断ち、再構成したりといった展開を試みた。1997年に製作した「Hatched Place」は、緯に部分的に竹を織り込んだ布を製織し、それを支持体として立体に立ち上げ、空間に展開した。1999年に製作した「Aquarius」は、製織した布を円筒形に形成したユニットをつなぎ合わせ、壁面に展開した。
このころまでの作品は、造形美術作品としての、視覚的な美しさや心地よさのみを、盲目に探究していたように思う。これらの作品を手掛けていくなかで、造形美術作品としての魅力ばかりを追い求めるあまり、このころの私は作者としての自身の立脚点を見失っていったように思う。手工芸の手法を用いながら「用」を持たない作品を手掛けている事について、自身が答えを見出せずにいた。そしてその疑問は私の胸中に大きく膨らんでいった。

 以後の作品展開は、この疑問への自身の考察を反影したものとなってゆく。織りや染めに限らず、陶磁、漆等の諸工芸分野において、近代から現在に至るまで、手工芸における表現を美術表現や芸術表現にまで飛躍させ展開する活動が広く見受けられる。私自身もそのような展開を示す作家や作品に強い影響を受けたし、そういった作品を好んで見たりもした。しかしながら、それらの展開をあらためて振り返ると、現代において工芸を展開してゆく上での矛盾も多く見受けられるように思える。自身が影響を受けた、「ファイバー・アート」とか「テキスタイル・アート」と呼ばれるものや、国内の美術団体や美術法人における工芸作家の作品展開を見つめ直すことで、私は自身の抱える矛盾を解いてゆくことを試みるようになった。次第にその焦点は、工芸においてその魅力を作品として展開していく過程での、美術や芸術との関係の曖昧さなのではないかと感じるようになった。工芸の魅力は美術性や芸術性を内包しているが、手工芸の手法を用い造形的な展開を示した作品の中には、作品の美術性や芸術性のみが一人歩きしている様に見えるものも数多く見受けられる。それらを工芸的な解釈による理解から切り離し、絵画や彫刻、現代美術等、他の領域の造形美術作品や造形芸術作品と並列に解釈しようとした時に、どれほどの存在意義があるのかと考えると、疑問が残るものが多く見受けられる。その原因の一つは作品における美術性と芸術性の安易な一元的解釈によるものだと私は感じている。私は自身のそれまでの作品についても同じ疑問を抱いた。そして、自身が工芸の表現領域の認識を曖昧にしたまま、他領域にまたがる創作活動を続けている事に抵抗を感じるようになっていった。手工芸の手法を用いる作家が、安易に他領域に表現を展開することに疑問を感じるようになった。この時から自身の作品の展開法が少しづつ変化してゆき、自身の作家としての立脚点を注意深く確認しながら製作に取り組むようになっていった。そして、私の関心は生活をとりまく様々の造形物における美術性と芸術性の領域認識についての考察へ展開し、そのことは必然的に、工芸の領域の再認識と、工芸における美術性と芸術性の領域認識についての考察に及んだ。

 2000年の作品「Tapestries -Alphabet Shape-」は、その作品タイトルの表すとうりアルファベットの形をした作品だ。168個のアルファベットを壁面に並べ、ウィトゲンシュタインの言葉をあらわした。私はそれまでの作品に具象的なモチーフを用いる事を避けて来た。前述の製作意図から、テクスチャー表現により成立する作品のモノとしての存在そのものに見る人の意識を誘導したかったからだ。作品に具象的な像を載せることにより、鑑賞者が作品のむこう側にイメージを広げたり、作者の制作意図に思いを馳せたりすることを避けたかったのだ。芸術作品のような解釈を避けたかった。この作品もそれまでのものと同じく、何らかのイメージや観念を鑑賞者に提示するためのものではない。この作品は、工芸品の装飾性についての私なりの解釈と考察だ。以前の私は、手工芸品や様々な道具に付与される装飾的要素が感覚的に好きになれずにいた。それが本質的なものを覆い隠したり、ごまかしたりしているように思えたからだ。しかしながら、身の回りの道具には様々な装飾が施されているのはなぜだろう。人はどうしてモノに飾りを求めるのだろうか。そのはっきりとした答えを私は今でも見い出せずにいるのだが、そういったことに思いを馳せているうちに、モノに彩りや飾りを求める人の思いや、モノに彩りや飾りを付与する人間の行為そのものが微笑ましく、愛おしく思えるようになっていった。彩りや装飾を求めたり施したりする行為は愛情の一つだと感じている。私はこの作品で、純粋な装飾行為の実践を試みた。そのために何を飾るか。その行為を特徴づけるために、装飾を付与する対象をイメージを表記する道具である文字とした。客体に、あるイメージを付与するために施す装飾ではなく、イメージを表記するための文字を客体とし、イメージに装飾を施すという逆説的な行為で、装飾行為そのものを鑑賞者に意識させることを試みた。

 2001年と2002年に製作した「Series -Sign Of Water-」では、前作と同じテーマのもと、織の手法を用い、平面作品を製作した。前作では織の手法から離れて作品制作を展開したが、工芸の魅力の重要な要素である、特徴的な技法や手法から生まれる現象に起因するモノの美しさや楽しさを積極的に作品にとり入れてゆきたいと考えるようになり、再び織の手法での作品制作に取り組むようになった。織り物でしか出来ない装飾表現を作品に与えるために、この作品では絵絣の手法を用いた。経、緯それぞれに別の図案を染色し、それらが製織されることで図案と色彩が複雑に交差して見える効果を作品表現に活かす試みを行った。この手法では、図案と色調の構成のためのシュミレーションに、コンピューターを積極的に使用している。一般的なグラフィックソフトの特性を応用し、織上がりのイメージをシュミレーションしながら、縦糸、緯糸それぞれに染色される図案の構図と色彩が、最大限の効果を発揮するよう調整作業を行った。手仕事のプロセスにコンピュータを用い出した当初は、その新しい無機質なプロセスにやはり抵抗と不安があった。そのため事前にこのプロセスでの試作をくり返し、制作過程におけるコンピュータと自身の役割を慎重に確認しながら、私なりの製作プロセスを確立した後に、実際の作品製作に臨んだ。現在では私の作品製作にコンピューターは欠かせない道具となっている。

 現在は、この手法による織の作品の制作と平行し、繊維素材によるジュエリー作品の制作を行っている。道具における装飾についての考察を進めていくうちに、私は次第に宝飾作品に関心を抱くようになり、歴史的な宝飾作品から、コンテンポラリージュエリーと呼ばれる分野の作品まで、好んでそれを見て楽しむようになった。それらにおいては道具としての機能と装飾の関係が一元的につながっているように感じられ、装飾の行為を自然な形で作品に落とし込める分野であるように思え、自身でも宝飾作品の製作を試みるようになった。2002年から2003年にかけて制作した、「Series-Wearable tapestrie-」は、絹糸と紙をはじめとする繊維素材で作られたバングルとブローチからなる連作だ。これらジュエリーとしての作品の製作は、わたしにとって楽しい仕事となっている。人を美しく飾るために、いろいろと思案するのは楽しいし、どんな人が身につけ、どのように使われてゆくだろうかと想像する事も楽しい。

 私は道具が好きだ。道具の魅力は尽きる事がないように思う。稚拙ながらも手工芸にたずさわる者として、作り手の良識を大切にしながら、私の思う道具の美しさや楽しさをこれからも作品に投影してゆきたいと考えている。ファイバー・アート、テキスタイル・アートという言葉があるが、私はこの言葉を安易に用いる事をさけるようにしている。それは、これらの言葉の「アート」という部分に違和感を感じるからだ。先人の作家達の活動によって、工芸に対する解釈の領域が広がった今日では、「アート」の領域を間借したり、その方法論を拝借したりしなくても、魅力的な展開が出来ると信じている。工芸や道具には、まだ語り尽くせない魅力がたくさん内包されているように思う。