◆国営滝野すずらん丘陵公園・子供の谷「虹の巣ネット」-全体-
撮影:小泉正幾
撮影:小泉正幾
◆国営滝野すずらん丘陵公園
子供の谷「虹の巣ネット」-上層部全体-
撮影:小泉正幾
◆国営滝野すずらん丘陵公園
子供の谷「虹の巣ネット」-上層部ディテール-
撮影:小泉正幾
◆国営滝野すずらん丘陵公園
子供の谷「虹の巣ネット」-上層部とかすみ網ネット-
撮影:小泉正幾
◆国営滝野すずらん丘陵公園
子供の谷「虹の巣ネット」-クッションを積み上げ遊んでいる様子-
撮影:小泉正幾
◆国営滝野すずらん丘陵公園
子供の谷「虹の巣ネット」-現場での取り付け作業-
撮影:小泉正幾
2001年4月1日発行のART&CRAFT FORUM 20号に掲載した記事を改めて下記します。
「21世紀の子供達と共に」 マッカーダム 堀内紀子
2001年4月1日発行のART&CRAFT FORUM 20号に掲載した記事を改めて下記します。
「21世紀の子供達と共に」 マッカーダム 堀内紀子
最近、私の母校であるクランブルック アカデミー オブ アートから「このアカデミーでの体験は現在の制作活動にどのような影響を与えたか」という質問を受け取った。
私は多摩美術大学を卒業するまでに日本で受けた教育と、クランブルックでの体験の違いに思いを馳せた。クランブルックでの体験は美しい表現でも技術でもなく、自分の内なる世界を見つめ、自分を探し出していく作業にあった。私は出口の無い暗い空間に入った。出口を教えてくれる人も、明かりも無い、じっと暗い中に座り、自分自身に問いかけていく内に、少しずつ目がなれてきて明るさを感じはじめた。立ち上がりそろそろと歩きはじめる、空間の中がますます明るくなってくる、明るさの向こうにドアーを見つけた。そのドアーを開けて次の部屋に入るとそこは又真っ暗な空間だった。でも二回目は初めての体験と違う、あきらめずに歩き続けると、きっと明るくなるだろうというかすかな希望があった。
私の創造の世界はこの暗い空間が明るくなり、次の空間に入っていく連続となった。いつも自分の内なる何かに問いかけ、これが本当の私なのかと。
クランブルック卒業後、ポフォレオを持ってニューヨークのテキスタイル工業デザイン会社を訪ねた。念願のボリス クロール社に入社、丸2年間インテリア ファブリックのプリントデザイナーとして仕事をした。その当時、米国でも指おりのこの会社での仕事は面白く実の多い体験だった。自分の中にあるイメージを開発し、布に作りあげていく作業はたのしかった。しかしこの仕事を体験してみると、さらに「布とは何なのか」という疑問がわいてきた。私自身が布というものをもっと深い次元で理解せずにプリントを施して行くということに疑問を持ちはじめた。2年間のビザが切れるのを機会にクロール社を退社した。
次に選んだ仕事はジョージア大学の芸術学科でテキスタイルを教える事だった。週3日教え、残りの日は布を掘り下げる作業「布とは何か」というテーマを追いながら、リサーチと制作に明け暮れた。この時から、自分の得意とする“色”というものを一切使わず表現していく手段を取り始めた。“布の構造が作り出す形”を求めて。
1年間のジョージア大学での楽しい生活の中で、生まれて始めて自分の中の日本文化に気がついた。日本の事をもっと勉強したいという考えが自分の中で大切になり、日本に帰国する決心をした。1970年、30歳になった年である。この夏、銀座の月光荘で友人の古江尚子(桑原尚子)さんと新しい糸の可能性を探す、「糸の交差」2人展を開いた。2週間続いた「糸の交差」展は多くの若者を呼び、連日熱心な討論が繰り広げられた。盛況だった展覧会の後、気持ちが妙に落ち込んでしまった。“布の構造が作り出す形”の追求では満足しない自分を見つけた。暗澹とした気持ちのなかでひたすら本をよんですごす内に、布は人間が人間のために第二の皮膚として作りだしたものである。その「人間のために」を忘れていた事に気がついた。その翌年第2回「糸の交差展」では画廊一杯に広がる「集団ハンモック」を古江さんと発表した。その当時はなんだか良く分かっていなかったが、布の特質を分析し、新ためて布と人間との関わり合いを求めて作ったものである。画廊に母親と一緒にきた2人の子供達がこの中に滑り込み、このハンモックは子供達の歓声と共にダイナミックなうねりのような動きをした。この瞬間私の求めていた“何か”の答えが見えた。子供達が教えてくれた「集団ハンモック」の始まりである。
自分の中に見える造形、(「樹林の内包する空気」、「浮上する立方体の内包する空気」「移動する糸による柱」等)を追いかける傍ら、日本文化、及び日本の染織の勉強、「集団ハンモック」の実験、遊び場のリサーチを続けた。
始めて公な場所に制作した「集団ハンモック」は1979年、沖縄の国営沖縄記念公園に高野ランドスケープの高野文彰氏とのコラボレーションワークで実現した。その翌年「手で触れ体で遊べる子供達のための彫刻」として、彫刻の森美術館に「ネットのお城」を制作。共に子供達の人気は高く、これらは子供たちがこの造形に入り込むことで完成された。
1987年に「光る柱」、これは制作前に都美術館の展示場所に立ったとき、天と地を繋ぐ柱が見え、そこに赤い光りが斜めに横切っていった。その見えたものを形にした。このとき始めて、自分の中に見える造形に色が入った。それは44歳で始めて息子を授かったという人生最大のドラマを体験したためかもしれない。そこに生命の色を見たのである。今になって思うと一連の「自分の中に見える造形」は私自身のポートレイトであり、私の中の日本文化の追求でもあったようだ。
この事に気がつくと、日本にこだわって暮らす理由等なくなり、自由な気持ちになった。その翌年金沢市近くの野々市町の文化会館のために、金沢工業大学の水野教授から、ファイバーワークによるステージカーテンの依頼があり、光のステージカーテン「ルミナス」を制作した。この仕事では私が教えていた文化学院の生徒たちも制作に参加した。しかも人々のために作るということで私の中に見える造形にも「人」が入ってきた。
1988年の夏私共一家は夫の故郷であるノーバスコシアに移住した。年老いた夫の両親と少しでも一緒に過ごしたいためであった。この年は夫にとっても私にとっても大切な年だった。今までやってきたことを考え直すため、一年間仕事を休んだ。
1989年の夏、私共は当時4歳半になった息子マイカを連れてヨーロッパを3ケ月間旅行した。主にフレスコを見る事と、教会、美術館を訪ねる事だった。古いもの、新しいものと見歩くうちに気がついたことは、現代美術の中に私にとっても夫のマッカーダムにとっても、心を揺さぶるものが無いということだった。ある日イタリアのパジュアにある小さな教会を訪ねた。建物の中全体がジオットのフレスコ画で覆われていて、街の人々が膝をついてお祈りをしていた。その時「私はこんな仕事がしたい、今生きている人達のために、私の出来る事で」と思った。
さて 私の出来る事、それは息子を含めた子供達のための空間作りだった。テキスタイルだから出来ること、20世紀の素材を用いて、21世紀の子供達に、今だかって無いものをこの手を使って作っていく、そう思った時、体中のエネルギーが満ち溢れていく思いがした。
カナダに戻った後、日本を発つ前に決まっていた国営昭和記念公園の仕事が動き出し、カナダに会社組織を作る必要に迫られた。私と似たような思いを抱いていた夫のマッカーダムとインタープレイ デザイン アンド マニファックア社を設立し、彼が代表取締役に、私が取締役とデザイナーとなり、当時は役員しかいない2人の会社が出来上がった。
丈夫で長持ちする最先端の繊維を使うように公園からの指示を受け、マッカーダムのリサーチの結果、カナダのデユポン社で原料着色したナイロン66を開発したことが分かった。その繊維が今手に入る素材の中で「集団ハンモック」に一番適していると判断した。繊維を購入、モントリオールにある組工場に送り組紐にしてもらい、更にノーバスコシアにある網工場で機械網に加工、そして私共の工房に運び、手仕事でユニット加工する。これに約1年かかった。出来上がったユニット約1トンを空輸し日本に飛び、金子和子さんを中心とする日本側のスタッフと取り付け作業をおこなった。これが今までで最大のユニット型ハンモックである。このタイプをスペースネットと名づけた。
その後シンガポールの動物園、浜松フルーツパーク、豊富村に中型のスペースネット「ムーンウォーク」を、更に最小な大きさでネットの遊びを楽しめる「ビーボブ」を、国営沖縄記念公園、今治市の桜井公園、観音崎公園に設置した。
有機的な形で手鈎編によるものをエアーポケット型と名づけ、沖縄記念公園、彫刻の森美術館、富士山こどもの国、そして今回、今までで最大のものを国営滝野すずらん丘陵公園に制作した。
札幌近くの国営滝野すずらん丘陵公園の中の子供の谷に制作した「虹の巣ネット」は国営沖縄記念公園、国営昭和記念公園、富士山こどもの国に続ぐ、第4作目の高野文彰氏及高野ランドスケープ プランニングとのコラボレーションワークである。いままでの経験を生かし、よりすぐれたものをめざし設計に約一年、制作に一年、丸二年の月日をかけて2000年7月、丁度私が還暦を迎えた時に完成した。巨大な洞窟空間(卵を縦に半分に割った形のドーム)の中に不思議な生き物が巣を張ったイメージ(くもの巣のようでもあり、蜂の巣のようでもある)のネット遊具大小の二点と床面には巨大ないも虫が丸くなったり、むくむくと動いているようなイメージのクッションがばらまかれている。この洞窟空間は半分地面の中に埋まりこみ、ドームの上には芝生が植えてある建物なので冬の雪の中でも利用することが出来る。
大型のネットは何層にも重なった袋状の空間を、子供達は最下層にある入り口から滑りこみ、全身を使って登り、最上層部では伸び縮みするネットの上で、でんぐり返しをしたり、飛び跳ねたりして遊ぶ。上層部から天井にかけてかすみ網のような薄いネットで周りを囲ってあるのでネットの上層部から外に落ちることがなく安全であり、しかも繊維に染め分けたネットは空間的美しさを生みだす。
子供たちは宙に浮いている気分を味わったり、それぞれの年齢や運動能力に応じて楽しく遊ぶ事が出来る。ネットの揺れはバイブレーションとなりネットを構成している紐を伝わってお互いに影響しあい、遊びは相乗効果を生みだし大きな共鳴となる。知らない子供同士でもいつの間にか一緒に遊びはじめ、障害を持った子供と健康な子供とが一緒に遊ぶ場を作り出す。伸び縮みするネットで揺れる体験は、リズムとなり、脳に入った時に、人間の五感の大本である「体性知覚」を刺激する所から、健康な子供でも、障害を持った子供でもあきのこない遊びを展開させる。
小型のネットは特別に乳幼児や障害を持つ子供達のために開発したもので、入り口の穴が大きく、しかも低い位置にあるので、安全で乗りやすい形態をしている。5つの袋状のネットの各袋に縁ロープを通す事で常にネットを一定の高さに保つ事が出来、それが乗り安さにつながる。又ネットを吊り下げているポールはヨットの帆を取り付ける技法を取り込み、子供が乗ると左右に揺れるように作った。
ショックを吸収するために、ゴムチップ舗装した床面の上に置いたいもむし状のクッションに子供達は乗ったり、座ったり、重ねてよじ登りネットに乗る足掛かりにしたりする。
今回の仕事で始めて空間とネットが一体化することに成功した。
このような仕事は一人の作家の作品というよりも、映画を作るように多くの専門家のチームワークによって成し遂げられる。コンセプト、空間デザインを高野ランドスケープ プランニングと高野文彰氏、建築図面は北海道開発コンサルタント、ネットのデザインは私、ネットの制作は私とインタープレイ デザイン アンド マニファクチュア、ネットの構造解析と取り付けフックのデザインはTISアンド パートナーズと今川憲英氏、カナダと日本を繋ぐ繁雑な仕事をこなしたのはインタープレイ ジャパンの町田廸子氏。取り付け作業は私共(マッカーダム、町田、私)の他、インテリア ワイズと横山淳氏、更に協力をして下さった、加藤美子氏、小泉悠子氏、佐々木栄子氏による。そしてゼネラルコントラクターは横山造園。美しい写真を撮り続けたて下さったのは写真家の小泉正幾氏等である。東京、北海道、カナダを繋ぐコミニケーションの手段は電話、ファックス、イーメール(図面の輸送)、フェデックス(模型や書類)を用い、必要に応じて日本に打ち合わせにでかけた。
カナダの私共の工房では、デザイン、日本語の書類を私、図面と模型作りはマッカーダムと私、染色と一目一目手で編上げていったのは私とリズ フォックス、糸巻、組紐の制作、素材の手配、会計、借金の手配はチャールス マッカーダム、という具合である。
1999年3月から制作に入り、毎日朝8時に工房に入り、リズは3時半まで、私は夕方の5時まで制作、夕食後は日本向けの書類の準備、という生活が11月まで続いた、12月に入ってから急に翌年に制作を予定していたいも虫状のクッションの発注が決まり、虹の巣ネットと同時に納品ということになった。それからは夕食後も工房に通い制作、一月の中頃から二月の発送迄は一日18時間の制作、発送前夜は貫徹、学生時代以来こんなに体を酷使した事は無かった。一目一目編みあげていく度に指や肩の軟骨が擦り減っていく思いがした。ふと「つるの恩返し」が思い浮かんだ、かつて私の歩んでいく道を気づかせてくれた子供達への恩返しである。子供達の楽しく遊ぶ様子を思いうかべて、遊んでいく動きを考えながら、形をつくっていった。約1.3トンの染色、組み紐、手鈎編をこなした。夥しい書類の準備も同時に行なった。公園側、ゼネコンとカナダ側との間に入った、町田氏のストレスも尋常ではない大変さだった。
オープンを迎えた7月15日列をなして入った子供達の歓声、そして彼等の遊びは私の想像を超えた。床に置いたいもむし状のクッションはどんどんつみあげられ、よじ登ったり、それらを足場にして、ネットに乗る足掛りにしたり、巨大なクッションは一人で動かす事が出来ないと分かると、5・6人の男の子たちがチームを組んで移動させた。などなど感心することが多く、又子供達に教わった気がした。
繊維で作られた遊具はメンテナンスをしていかなくてはならない。屋外なら5~7年間でネットを取り替えていく。今回の滝野の仕事ではメンテナンスは必要不可欠であることがはじめて無理なく受け入れられた。このような考え方を国営公園のような公な場所に理解して頂き、受け入れてもらうのに20年の月日がかかっている。そして今でも公園によっては取り替え工事の度に初めから説明のやり直しである。しかし一方で日本の行政機関の中にこのような考えを理解下さる方々がいて、沖縄、昭和、滝野の仕事が実現したのだと思う。
繊維で作られた遊具は鉄、コンクリート、プラスチック、木とは異なる柔らかさがある。子供達がさわると反応する魅力が、彼等の想像性を刺激し、あきのこない遊びを展開させる。どのように工夫しても、繊維の性質を生かして作ったものは、使用すればするほど、人気があればあるほど磨耗しボロボロになっていく。しかし子供達の楽しく遊んだ体験は鮮明に彼等の中に残るのである。
ささやかながら私が世の中に対して出来ることは子供にこびた遊具でなく、美しい、造形を作りだし、21世紀を作る子供達に楽しく遊んでもらうことだと思う。
私は今、カナダのノーバスコシアの田舎に住み、夫と16歳になる息子と共に制作と畑仕事に充実した日々を送っている。
自分の内なる声に耳を傾け、自分に正直だった結果、自分が歩く道を見つけたのだと思う。そして自分が自分が、と生きてきた道はじつは私だけでなく、私の中に生きている父や母、祖父や祖母であることに気がついた。
2001年2月末日 (マツカーダム ほりうち としこ)