ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「うるしに魅せられて」  栗本夏樹

2017-04-01 15:02:21 | 栗本夏樹
◆栗本夏樹「月の船」1997 漆芸素材を主としたミクストメディア
 H 245×W 290×D 41cm ホテルグランヴィア京都(JR京都駅ビル)


◆栗本夏樹「風雨の果てにいまだ立てる者」(写真2)
1984  乾漆・玉虫箔・乾漆粉・など 
H 210× w 110× D 40cm

◆栗本夏樹「風の削りし物」(写真1) 1984 乾漆
H 30× w 150× D 35cm ギャラリーすずき

◆栗本夏樹「祭祀」(写真3)  1984  乾漆に蒔絵・木・綿布・ほか
H 230× w 180× D 600cm  京都芸大ギャラリー

◆栗本夏樹「心域」 (写真5)  乾漆に蒔絵・木・ほか
H 180× w 200× D 300cm  東京芸大展示室

◆栗本夏樹「儀式-天にむけての-」 (写真4)  1985 乾漆に蒔絵・木・綿布・ほか
  H 300× w 100× D 900cm  京都市美術館

◆栗本夏樹「求めよ、さらば開かれん」 (写真6) 1986  乾漆に蒔絵・木・ほか 
H 240× w 210× D 40cm  シティギャラリー

◆栗本夏樹「自らなる歴史」 (写真7)  1987 乾芸素材を主としたミクストメディア 
H 260× w 240× D 240cm  東芝本社ビルロビー

◆栗本夏樹「開花前夜」(写真8) 1987 漆芸素材を主としたミクストメディア
H 150× w 200× D 300cm  東芝本社ビルロビー

◆栗本夏樹「アジアの中の私」 (写真9)  1995 漆芸を主としたミクストメディア
H 700× w 360× D 70cm アジア太平洋トレードセンター


2003年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 30号に掲載した記事を改めて下記します。

 「うるしに魅せられて」  栗本夏樹

 私は、20年以上京都に暮し、現在、京都にある芸術大学で教鞭をとっているので根っからの京都人だと思われることが多いのですが、実は大阪で生まれ育ちました。私が京都の芸術大学に入り下宿生活を始めるまで暮していたのは、大阪の泉州にある堺です。堺と言えば、世界で最も面積の大きい墳墓として有名な大山古墳(仁徳陵古墳)があり、中世から近世にかけて町衆(会合衆)の自治する自由都市として貿易や鉄砲の生産で栄えました。また、侘び茶を確立した千利休を生んだ文化都市としても有名です。
 私が育った堺の町は、海を埋め立て作られた臨海工業地帯の高い煙突からけむりの立ち上る工業都市でしたが、ザビエル公園や鉄砲町と言った地名に堺の歴史を感じさせるものが残っていました。私の同級生の何人かは、家業が刃物屋で古くは鉄砲鍛冶だったと言う者もいました。私の父は、臨海工業地帯にある新日本製鉄で作る鋼材を船で出荷する運輸会社に勤務していました。年に一度、家族が工場を見学できる日があり、溶鉱炉で鋼材を作る様子を見学したり、できた鋼材を船で積み出す様子を眺めたりしました。
 子供時代の堺の思い出として強く印象に残っているものに、南蛮行列があります。これは、堺まつりのメインイベントとして行われる催しで、カピタン(提督)役を中心に南蛮人(桃山時代のポルトガル人やスペイン人に対する呼び名)の衣装を身にまとった人々がザビエル公園の前の大通りを練り歩く一種の時代行列でした。南蛮屏風から飛び出したようなカラフルで奇抜な南蛮人の行列に海の向こうにある世界を強く印象づけられ、行ってみたいと憧れるようになりました。
 もう一つの子供時代の思い出は、友達とよく出掛けた古墳への探検遊びです。古墳と言っても大山古墳など大きなものには掘りが巡らしてあり中心部に近づくことは出来ませんでしたので、その回りにある倍家(ばいちょう)と呼ばれる小さな古墳に忍び込むのでした。忍び込むと言っても、たいてい虫とりをしたり、かくれんぼしたりして過ごすだけのことでした。とは言え立ち入り禁止のお墓に忍び込むのですからスリルがあり、私達の冒険心をかき立てたことは言うまでもありません。おまけに、墓の中に埋められている宝物のことを想像することは、子供の空想心を大きく膨らませました。
 このように私は、海の向こうにある外国に思いを馳せたり、古墳に隠されている宝物を空想したりするのが大好きな少年でしたが、人並みに高校受験や大学受験に挑む時期を過ごすうちに、私の憧れや空想の世界は、心の奥底にしまい込まれていったのでした。

 1年間の浪人生活を過ごした後、京都市立芸術大学の工芸科に合格した私は、憧れの京都での生活を始めました。私の京都好きは、父の影響によるものでした。私が13才の時、父は55才で会社を定年退職しましたが、その後は自分の好きな事をして過ごしていました。その父の好きな事の一つに京都の街をぶらぶらとぶらつく事がありました。私の姉や兄は、親と一緒に出掛けることを嫌がる年齢に達していたので、京都にお供するのは、私の役目でした。清水寺から三年坂、二年坂を通り、円山公園にぬけ、知恩院や南禅寺あたりをぶらぶらしたものでした。時には、哲学の道を歩いて法然院に立ち寄り、銀閣寺まで足をのばすこともありました。外食はほとんどせず母の作ったお弁当をお寺の境内や公園で食べて帰ってくるのですから、文字どおりぶらぶらするだけのことでした。それでも嫌がらず父について行ったのは、私も京都の魅力に引き付けられていたのだと思います。
 私が学んだ京都芸大の美術学部では、1回生の前期に総合基礎実技という授業があり、美術科・デザイン科・工芸科の学生が半年間共に勉強します。それぞれの専門分野に分かれる前に、根本的なもののとらえ方や考え方、表現方法などを学ぶ内容で、いろいろな専門分野の教員によって運営されています。いきなり科別の授業が始まらず、広いもののとらえ方や考え方を学べた事は、とてもプラスになりましたし、その時できた友達とは今でも親しくしています。
 1回生の後期から科別の授業が始まり、私は工芸基礎実技という授業で陶磁器・染織・漆工の素材や技法に初めて触れたのでした。元々、八木一夫の流れをくむ京都芸大の陶磁器専攻で陶芸を学びたいという志望を私は持っていたのですが、まったく眼中になかった漆芸との出会いによって方向転換することになりました。この出会いは、恋愛における一目惚れのようなもので理由を聞かれても困ってしまいます。ただ、漆黒の輝きに魅せられてしまったのでした。
 2回生から本格的に漆芸の勉強を始めましたが、私も御多分にもれずカブレに大いに悩まされました。起きているときは、意識して掻かないように心掛けるのですが、寝ている時に無意識に掻きむしってしまい症状をひどくさせるのでした。

 3回生になり、課題制作ではなく自由制作が許されるようになると私は、乾漆による立体作品に取り組み始めました。京都芸大の漆工専攻には、加飾、?漆、乾漆、木工のクラスがあり、4人の専任教員がそれぞれの専門分野を担当しています。私は、乾漆のクラスで、新海玉豊先生にご指導いただきました。授業の初日、新海先生が、「1年間で個展が開けるぐらい作品を作りなさい!」と比喩的におっしゃったのを真に受けて、私は、個展を開かねばならないと思い込んでしまったのでした。
 私は、1984年2月中旬、毎年開催される京都市立芸術大学作品展(京都市美術館)の会期に合わせて、美術館の近くのギャラリーSUZUKIで初個展を開きました。会場には、大小取り混ぜて5点の乾漆作品を展示しましたが、“水の削りし物”や“風の削りし物”(写真1)などの作品タイトルが示すように、自然の力で造形されたかたちをイメージした作品でした。美術館で進級作品として同時に発表した“風雨の果てにいまだ立てる者” (写真2)もやはり同じコンセプトで制作した作品でした。幸い初個展は好評で次の企画展の話しが舞い込みましたし、進級作品は、平館賞を受賞しました。初個展を私の作家活動のスタートポイントだとすれば、大変良いスタートであったと思います。

 私の学生時代は、奨学金を借りアルバイトしながらの生活でしたので、どちらかといえば貧乏学生の部類に入っていたと思いますが、学部の4年間で3度の海外旅行に恵まれました。最初は、2回生の終わりに子供の頃からためていた貯金をはたいてタイへ旅行しました。3回生には韓国、4回生にはインド・ネパールを旅しました。2回目と3回目の旅は、どちらも芸大作品展で受賞した平館賞や市長賞(買い上げ)の賞金を旅費としました。
 これらの旅の中で、多くのスケッチを描きました。美しい風景や建物などを描くこともありましたが、ほとんどは、旅で出会った人々の姿を描きました。その事は、私の興味の多くが、異文化の中で繰り広げられる人間の営みに向けられていたからだと思います。この20代前半に旅したタイや韓国、インド、ネパールでは、深い信仰に根ざした人々の生活の中に、信じる事の美しさ、強さを感じました。彼らが神に捧げる為に作った造形は、その美しさもさる事ながら、信じる事の強さから来るパワーに満ち溢れていました。

 これらの旅の体験を通じて一つの問いが私の中に生まれました。それは、「私には信じるものがあるのか?」という自分自身に対する問いかけでした。“信じるもの”という言葉を“神”という言葉に置き換えてみると、私には、信仰と呼べるほど強いものはないと思えました。しかし、“神”と呼べるほどはっきりはしていないが、この世界を生み出し支えている大きな力のような存在は感じていると思いました。そこで私も旅で出会った人々のように、その“大きな存在”に向けて私の作品を作り捧げたいと思い始めたのでした。
 私はまず、8本の漆黒の剣を乾漆で作りました。そしてそれらの剣を捧げ持つ手の形を木で作り、正面に“大きな存在”を象徴する円盤状のオブジェを据え付けました。最後に、手前に神域を示すトーテムを2本並べました。この作品は、1984年に“祭祀” というタイトルで、京都芸大ギャラリーに展示し発表しました。
 次に制作した、“儀式-天にむけての-” は、学部の卒業作品として制作したもので高さ3メートル、長さ9メートルの大作になりました。この作品は、カラフルな装飾を施した乾漆と白木や自分で染めた布などを組み合わせたものでした。この作品は市長賞と買い上げ賞を受賞し、現在、京都市立芸術大学
芸術資料館に収蔵されています。
 学部を卒業後、大学院に進学した私は、それまでの祭壇状に造形された作品を一歩進めて、見る人を巻き込む装置のような作品を作りたいと考えるようになりました。たしかに自分の“信じるもの”にむけて造形する事で、作品にある種の力や威力が宿る事は実感しましたが、それを個人的な事として終わらせるのではなく、見る人に広く開放したいと思い始めたのでした。
 私が大学院で最初に作った“心域”という作品では、人間を取り巻く制度や儀礼といったものの象徴として巨大な烏帽子を登場させています。烏帽子には、家紋のようなデザインが施されています。見る者と巨大な烏帽子(オブジェ)の間には、乾漆で作った漆黒の鏡が置かれています。鏡の外縁には、見る者とオブジェが映り込み、内縁には、鏡が置かれている空間全体が360度映り込むように設計されています。作品の鑑賞者は、不可思議なオブジェと向き合う事で自分自身の心の中に記憶された経験や知識と向き合う事になり、そのことを黒い鏡で暗示しています。
 次に手掛けた“求めよ、さらば開かれん”は、私がインドを旅行した時、体験した出来事に由来しています。日本から飛行機でインドのカルカッタに到着した私は、バクシーシ(喜捨)を求める子供達に取り囲まれ、客引きのタクシードライバーに荷物を奪われそうになり、日本とのギャップで途方に暮れました。「おまえなんかの来る所じゃない!」と大きな手で遮られた印象でした。
しかし、2ヶ月間、インド各地を貧乏旅行で回って帰る頃には、同じ手が、私を温かく受け止めてくれる手に変わっていたのでした。この出来事と重なる聖書の言葉「叩けよ さらば 開かれん、求めよ さらば 与えられん」の箇所からタイトルは引用したものです。
 大学院の2年間で作った作品は、主に東京芸大と京都芸大の大学院生有志の自主企画展「フジヤマゲイシャ展」で発表しました。
 今、こうして学生時代の作品を振り返ってみると、稚拙な思い込みのみで作品を作っていたという気がしますが、同時にこの時期のひたむきな純粋さから生まれた作品は、もう二度と作る事の出来ないかけがえのないものとして大切に思えてきます。

 大学院を修了してから現在に至るまで16年間、生活の糧は、作家活動と教職の二足の草鞋でやって来ました。実際には、大学院2回生の時から、中学校の美術の非常勤講師を始めたので、非常勤講師を7年間、大学の専任教員を10年間勤めたことになります。現在は、自分の専門分野である漆芸を大学で教えるという恵まれた環境にいますが、非常勤時代は、生活の為により好みせず、いろんな場所でいろんな事を教えて来ました。ただ、そんな中でも7年間、一貫してお世話になったのは、兵庫県西宮市にある関西学院中学でした。関西学院は、高校、大学もあるキリスト教のミッションスクールです。私自身は小学校から大学まですべて公立の学校で学んで来たので、私立の学校は初めてでした。ただ、幼稚園だけは、私も教会の付属幼稚園に2年間通いましたから、キリスト教の教えには少しだけ触れた体験を持っていました。
 関西学院では、非常勤講師も毎日の礼拝に参加することになっていました。私は、大人になって再びキリスト教の教えに触れ、幼児の時に学んだ祈りや聞いたお話の意味をはじめて理解することが出来ました。それから日曜日に教会にも通うようになり、1988年のクリスマスに洗礼を受け、クリスチャンになりました。キリスト教的な言葉で説明すれば、“種は蒔かれていた”のだし、“神に招かれた”のだと感じています。だから、自分で宗教を選んだという気持ちはあまりしません。キリスト教が他の宗教より優れているから選んだのではありませんし、いろいろな宗教それぞれに良い所も悪い所も合わせ持っているように思います。そして、どの宗教も究極的には、同じ方向に向かっているのだと感じています。

 「社会に出て一年目が肝心だ。そこで制作を休むと後が続かなくなるぞ!」と先輩にアドバイスされ、大学を出て最初の1年間は、日中は週6日間、非常勤講師として働き、帰宅後、御飯を食べる時間も惜しんで制作に励みました。学生時代に取り組んできた儀式シリーズでは、乾漆と白木や布を組み合わせて作品を作っていましたが、大学を出てからは、全体に漆塗りと加飾を施した大きな作品に取り組み始めました。作品を巨大化するには、重量をできるだけ軽くする必要があり、発泡スチロールで原形を作り、薄い合板をその上に貼って表面を木質にし、その上に漆の下地や塗り、加飾を施す方法を考えました。その年(1987年)には、240W×240D×260H㎝の大作“自らなる歴史” を完成させました。多少大袈裟なタイトルですが、これまでの漆工芸の枠を超えた独自の漆造形のスタイルへの手ごたえと、漆芸技法を使って一人で取り組む作品としては限界に近い大作を完成させた自負を込めたタイトルでした。
 同じ年に、もう1点“開花前夜” という大作を仕上げています。この作品は、“自らなる歴史”の足の部分で用いた大仏のラオツのようなかたちが花の蕾のように進化した作品でした。
 この2点の作品は、それぞれ関西で発表した後、PARTY2芝浦アートフェスティバルという展覧会に出品し、東京の東芝本社ビルロビーに3ヶ月間展示されました。このビルには、東芝の社員だけで一万人近く勤めていて、朝夕にそれだけの人々が私の作品の前を通り過ぎるのでした。

 東芝本社ビルロビーでの展示を通じて、パブリックな空間に漆造形作品を設置したいという考えを持ち始めました。しかし、私のような若い無名のアーティストにそのような注文が舞い込むはずもありません。個人住宅やオフィスやレストランなどへのコミッションワークを重ねながらチャンスを待たねばなりませんでした。7年後の1994年に最初のチャンスが訪れました。その年、大阪南港にオープンしたアジア太平洋トレードセンターのロビーに設置するモニュメントの指名コンペティションでした。複数のアーティストが指名されプレゼンテーションを行い、最終的に私の提案した“アジアの中の私” が選ばれました。三人のアシスタントを使い約一年間かけて制作し、1995年春に完成しました。この“アジアの中の私”は1996年のおおさかパブリックアート賞を受賞し、その後の私のパブリックアート作品“月の船” 1997年(ホテルグランビア京都、京都駅ビル)や“古墳時代”1999年(堺私立斎場)につながっています。

 私の漆造形作品への取り組みを、私自身のバックグラウンドと合わせて紹介してきましたが、文章をまとめるのが上手くなく、私の最近の仕事をあまり紹介できなかった事を残念に思っています。しかし、作家活動20周年を来年に控えて、20代、30代の仕事を振り返る良い機会となりました。このようなチャンスを与えて下さったArt & Craft forum誌に感謝いたします。