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「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの紐・Ⅲ-  上野 八重子

2017-08-31 09:25:24 | 上野八重子
◆片面ビロードの帽子 (豊雲記念館蔵)

◆写真1.片面ビロードの帽子  豊雲記念館蔵

[模様糸の固定方法]

◆模様糸をループにして押さえる

◆針先は模様糸の下を通す

◆模様糸を入れない状態で見たところ。
この輪の中に模様糸ループ片方が通る

◆基糸を引きしめたところ。
一段ごとにループを切り揃える

◆写真2.片面ビロードの帯(表側)  豊雲記念館蔵

◆写真2.片面ビロードの帯(裏側)  豊雲記念館蔵

◆写真3.両面ビロード 豊雲記念館蔵 


 ◆写真4.丸紐  豊雲記念館蔵
 
◆写真5.片面ビロードの帽子  今井勤子 作

◆写真5.片面ビロードの帽子(裏側)  今井勤子 作

2007年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 43号に掲載した記事を改めて下記します。

 「古代アンデスの染織と文化」-アンデスの紐・Ⅲ-  上野 八重子

 紐・Ⅰ、Ⅱで数種類を紹介してきましたが「さて、次は何を…」と考えてみた時、他にも疑似ビロード、ブレーディング、綴れ織り、多重織り、ビーズ他、多くの技法で飾り紐が作られている事に気付かされました。
そのどれもが多色、鮮色、パターンの自由、限りない労力が詰め込まれており、思わず踏み込んでみたい意欲に駆られます。それでは今回も古代に夢を馳せながら技法を紐解いてみましょう。

 ◆疑似ビロード(類単一結環組織に切り輪奈)
 この技法の呼び方は博物館によって違うようですが、感覚的には毛足の短い絨毯と言った方がイメージが湧きやすいかもしれません。
 1988年ペルー天野博物館倉庫で、長年着用してすり切れているものの、角の部分まで形が完全な疑似ビロード帽子(天野博物館の呼び名)を見た時「何てお洒落な子供の帽子!」と思ったものでした。その後、豊雲記念館で見たものも、やはり同じ形で小型のものでした。(写真・1)の様に四隅に尖った四本の角があるこの形は、高位の人物が権威の象徴として用いたとされています。米国・メトロポリタン美術館には角の部分は四辺の耳端があり、型通りに製織され縫い合わされた一枚構成による綴れ織り(ワリ文化8世紀)があります。非常に困難な整経、製織と思われ技術力の高さが窺えます。
 このビロード技法は紀元10世紀頃の一期間にのみワリ文化系海岸文化に流行した技法と言われています。ワリ文化…と聞くと思い出されませんか! この連載Ⅱ-②で触れた経糸19本、緯糸104本(1㌢)模様すべてがインターロックの綴れ織りを…この様な「綴れ織りの極致の技」を織りこなす人たちであったればこそ、この根気のいるビロード地も生まれてきたのでしょう。
 では、どういう技法なのか…触れてみる事にしましょう。簡単に言うと「結び目を作り、その環の中に模様となる色糸を挟み込んでいく」…と、ごく簡単な技法なのです。が~っ!例のごとく繊細緻密をものともしないアンデス人のやっている事ですから、文明に侵されている(?)現代人にとっては結構大変な作業となります。連載Ⅱ-①で、緻密な展示品を見て「昔の人は時間があったから出来たのよ」と言う声があった事をお話しましたが、ここでもう一度考えてみませんか!

 紀元前数世紀に染色、ルーピング、平織り、羅織り、多色刺繍等による衣服を既に作っていた事が出土品から確認されています。電気水道ガス、車もなかった時代ですから衣食住すべてが自給自足だったはず。地理的にも砂漠地域、高山岳地域、亜熱帯地域とどれをとっても簡単に食料を確保出来なかったでしょう。そんな悪条件をものともせず家族総出で農作業をし、投石紐で狩りをし…と、たくましく、忙しく働いていたのでは?と思えるのです。女性といえども楽ではなかったはず。一日の仕事を終え、夕飯を食べたらもう日が暮れて…と、決して時間的ゆとりがあったとは思えないのです。この生活を今の自分に置き換えたら、とても物作りをする余裕など作れない気がするのです。

でも、一つ考えられるのは時間のサイクルが今とは全く違っていたのでは…と思うのです。現代でも芸術、伝統工芸の世界では一作品何年何十年が当たり前かもしれませんが、一般的には時に追われながら作品を生み出している事が多いのではないでしょうか。古代の人々はきっと完成予定日と言うものがなかったのでは?(私の憶測ですが)毎日の積み重ねでやっと完成、それが何年かかったかは?こうなると「昔の人は時間があったから出来たのよ」と言う言葉も当たっているのかもしれませんね。

しかし、自給自足生活も社会の発達と共に産業化され、専業の制度や安定した生活の保障がされるようになってきたようですが、文字の無い文化ゆえ記録と言うものがなく、いつの時代から専業職というものが出来上がったのかは不明なのです。

 今から五百年程前、スペイン人による南北アメリカの発見を「新大陸発見」と言っていますが、それは初めてその大陸を見た人の見方であって、南北アメリカ大陸はずっと以前から存在していたのです。そして、そこには外来文化の影響を受けることなく、独創的な文様、色彩、卓越した技術、があり現代人も遠く及ばない高度な文明が栄えていたのです。しかし、侵略という形で入り込んできたたった数百人の人達が持ち込んだ武器、馬、細菌により生き残ったアンデス人は僅かと言われています。

人から人への伝承で技を受け継いできた民族はこれを境に多くの技法が途絶えてしまいました。この侵略がなかったら染織の世界が変わっていたのでは…と思う度に残念でなりません。 

 さて、大変な作業…と言う話から少々脇道に逸れてしまいましたが本題に戻りましょう。
一般のビロード(輪奈織)は製織中に針金を縫い込み、織り面に輪奈を作ったり、輪奈となる別糸を織り込んで作られていますが、アンデスのビロードは漁網に用いる結びの輪の中に模様となる色糸を挟み込んで切りそろえています(この製織法の違いからビロードの前に疑似がついているのでしょう)

先にメトロポリタン美術館収蔵、一枚構成の綴れ織り帽子を取り上げましたが、それは仕上げるのに非常に困難であった事から、海岸地域では日頃親しんでいる漁網の結びからヒントを得て、「綴れの様な多色模様の帽子を作るぞっ!」と強く思ったのでしょうか?この結びを利用する事でいくつかのメリットも生まれてきました。

古代アンデス人の素晴らしさは「真似をする事」ではなく「見たものから全く違う技法を編み出す」この独創性につきると思います。現代の物創りとして、この精神は常に無くしてならない事であり、古代アンデス人に「学ぶところ大」と言うところです。

1)結びから次の結びの間には若干ループ状の ゆとりがある為、出来上がった時に伸縮性の ある帽子となります。着用した時にピタッと して、きっと頭に馴染みやすかったことでし ょう。
2)又、強撚糸で強く締める事で丈夫な基布と なり、模様糸も抜けにくくなる訳です。
3)差し込んだ模様糸を数㎜に切りそろえる事で、 表面が毛皮の様な柔らかさとなり、布とは違う感 触に魅了され流行したと思われます。

実際に自分で作ってみて伸縮性がある事がわかり、故に出来上がりが小さくてよいのだ…と自分なりに納得しているのですが…他に帽子が小さい理由として考えられるのは、体型が今より小柄だったのでは?とか、高貴な人の墓からは頭蓋骨の変形(頭が縦長等)も見られる事から察し、頭が細かったのでは?とか。でも本当のところは?と言うところでしょうか。

◆3種類の疑似ビロード 
大きく分けてビロードには三種類あります。

1)片面ビロード(写真1、2)  
  模様段と結びのみの段を交互に行います。 
2)両面ビロード(写真3)
  毎段模様糸を入れます。
1段目=模様糸表に、2段目=模様糸裏に。
3)丸紐(螺旋状)ビロード(写真4)

東京テキスタイル・アンデスクラス生にこの技法に興味を持った方がいて、試行の上アンデス品に引けをとらないところまで出来上がりました(写真5)。筒平型の上部分はケーキを切った時のような3角形に作って接ぎ、周り部分は4枚を接いであります。資料本には「最後に切りそろえます」とありましたが、実際にはそれでは毛足が揃わず、模様の輪郭もはっきりしないという事で、1段ごとに3~4㎜程度に切っていったそうです。最後に彼女曰く「時間がかかる~1日に何段も出来ないのっ!」
でも、その根気の中から何かが生まれている筈!無駄な時間は何もないと思うこの頃です。 つづく




イカットのプロセス 〈Ⅳ〉コンビネーション combination -前編  富田和子

2017-08-29 09:34:38 | 富田和子
◆スンバ島東部 経絣、昼夜織の布を2枚接ぎ合わせ、カバキルを織り加えた布

◆スンバ島東部  
カバキルが織り足されたイカット


 ◆縞織のカバキル

◆昼夜織のカバキル

◆絣織のカバキル

◆カバキルの製織

◆カバキルの製織

◆イカットと組み合わせた昼夜織の製織

◆イカットとパヒクンとの組み合わせ

◆経糸紋織(パヒクン)部分

◆スンバ島西部のイカット

◆白い無地の布の織端に太いトワイニング

2007年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 43号に掲載した記事を改めて下記します。

 『インドネシアの絣(イカット)』- イカットのプロセス 〈Ⅳ〉コンビネーション combination -前編  富田和子

 絣の宝庫であるインドネシアの島々で、イカットを織るのに使用される織機は、数本の棒を用いただけの最も原始的といわれる織機であった。輪状の経糸を切ることも崩すこともなく機に掛け、織ることができるこの織機はシンプルな構造であるが故に、絣模様の自由な表現を可能にしてくれたが、他の技法にとっても同じことは言え、イカット以外の自由な表現にも一役買っているように思われる。

 ◆カバキル(Kabakil)
人物や動物などの具象的な模様が独特のスンバ島のイカットには、他の島では見られない「カバキル」を織り加えた布がある。 カバキルとは布の両端の房の部分にある、幅5~6cm程のベ ルト状の飾りのことである。 本来は布端の緯糸がほつれてこないようにする始末であったものが、次第に装飾的に手の込んだものに発展し、さらに布の価値を上げることになる。カバキルは支配者階級や儀式用のイカットに多く使用されたという。織技法には同じイカットの他に、縞織や昼夜織などが見られ、独特のコンビネーションになっている。
スンバ島東部カンベラ地方の村で、カバキルの製織を見ることができた。家の入口に竹の棒を渡し紐を掛け、その紐に短めの先端棒を取り付け、カバキルの経糸が通してあった。すでに4分の1ほど織られたカバキルの部分は、布と共に1本の手元棒に巻き込まれている。まだ織られていない布端は前に伸ばした足の指で挟み、布をピンと張った状態にする。そして、織り上がった布の経糸である房を4~5本ずつ器用に拾い上げ、緯糸として織り込んでいく。 細長いカバキルを織るために、綜絖と中筒は専用の竹製の道具を用 いていた。この道具には割れ目があり、綜絖糸や経糸を簡単に掛けることができ、しかも、手を離した時にも滑り落ちることのない便利なものであった。
 布を織る場合、経糸が経糸のままで完結するのではなく、 残った経糸が緯糸にもなり得るという自由な発想がカバキルにはあり、経糸さえあればどこにでも綜胱を取り付けて織ることができるという腰機の特性をよく表している。腰機はシンプルな構造故に、織り方の可能性も広がり大変興味深い。

 ◆様々な技法の組み合わせ
 島ごと地域ごとに様々な表情を見せるインドネシアのイカットは他の技法と組み合わせて織られた布もよく目にすることがあり、またそれがインドネシアのイカット特徴のひとつでもある。1種類の技法だけでは満足できず、布に価値を加え、より美しくするためにイカットやソンケットやその他の技法を組み合わせて織られたこれらの布は、インドネシアでは「コンビナシ(combinasi)」と呼ばれ、ステイタスを与えられている。
 以前にも述べたように、絣(イカット)も数ある織技法の一種であるが、他の技法と大きく違う点は、糸を染める前の準備の段階で絣括りを行い、糸を染め分けることで模様を表すということである。実際に織る段階の技術としては極単純な平織りであるため、織りながら模様を作り出していく他の技法と組み合わせて織りやすいことも様々な技法の組み合わせをが多く見られる要因である。併用される他の織技法としては経糸紋織、緯糸紋織(緯糸浮織、縫取織)、変化組織(昼夜織、綴織)などがある。

◆自在に操るコンビネーション
各民族、地域ごとに特色のあるイカットが織られているインドネシア、中でも特色あるスンバ島のイカットはよく紹介されているが、それはほとんど、スンバ島東部の地域で制作されているイカットである。同じ民族とはとても思えないほど、スンバ島のイカットは島の東部と西部で大きく異なっている。東部では精霊信仰の象徴として人物や動物などの具象的模様が特徴であり、人や動物が布一面に自由に生き生きと表現されている。パヒクンと呼ばれる経糸紋織や昼夜織との組み合わせも多く見られ、さらに織り端にはカバキルが加えられ、実にぎやかな布である。

 ※経糸紋織=パヒクン(Pahikeng)
 経糸紋織は地を織る糸のほかに模様のための経糸を用い、その経糸を竹べらなどで拾い、浮かせて模様を表す織技法である。スンバ島、 バリ島、ティモール島などで織られてきたが、バリ島で はすでに途絶え、ティモール島でもあまり見られない。唯一、スンバ島東部では「パヒクン(pahikeng)」と呼ばれ、現在でも盛んに織られている。イカット同様、具象的な模様も幾何学的な模様も自由に表現され、パヒクンだけで織ったものと、イカットと組み合わせたものと両方制作されている。
 パヒクンはとても手の込んだものである。地を織るための綜絖と中筒、さらに紋織(模様)をのめの綜絖を取り付け、丹念に模様となる経糸を拾い、浮かせて織っていく。また布の裏側には模様のための経糸が浮いた状態になっているので、裏側の浮糸を押さえるために地織りとは別に細刀杼を入れ、中筒開口の要領で開口部を作り、押さえ用の緯糸を定期的に織り加えている。どのようにして、このように複雑な織り方を会得したのだろうか。イカットもパヒクンもカバキルも、スンバ島東部の人々は織機の可能性を探り出し、自由自在に操って見事な布を創り出していた。

 ※スンバ島西部のイカット
 同じ島であり、同じスンバ民族でありながら、東部と西部のイカットは全く違う表情を見せている。西部のイカットの模様は幾何学模様で、部分的に使われている場合が多い。イカットよりもむしろ無地や縞模様の部分の面積が大きく、色も藍や黒地が多いので布全体はとてもシンプルである。織り端の始末として東部ではカバキルが織られているのに対し、 西部ではトワイニングが行われている。また、東部ではパヒクンと呼ばれる経糸紋織や昼夜織との組み合わせも多く見られるが、西部ではこのような他の織技法は全く見られない。

 ※トワイニング(twining)
トワイニングの原形である英語のtwineという言葉の意味には、縒り合わせ、編み合わせ、絡みつかせる、巻き付ける等の意味があるが、トワイニングは2本の別糸を用い、経糸を挟むようにして編んでいく技法である。異なる2色を配色し模様を表すと、一見メリヤス編みのようにも見える。織り端の始末として、簡単なトワイニングは他の島でも行われているが、写真のように太く、しっかりと編み込み模様が表されているのはスンバ島西部の特徴であり、さらに他の地域では見られない真っ白な大きな無地の布とトワイニングとの組み合わせはとても印象的であった。インドネシアの中でもスンバ島は、東西で両極端のイカットが見られる島である。[続く]

「円は閉じない」 榛葉莟子

2017-08-27 13:06:11 | 榛葉莟子

2007年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 43号に掲載した記事を改めて下記します。

「円は閉じない」 榛葉莟子


 騒がしく小鳥たちが鳴いている。たて続けに鳴いている声はのどかなさえずりではない。小鳥たちだって何事かの訳あって喧嘩もするし奪い合いもする。やってるやってると窓の外に眼をやれば案の定、紅葉の小枝の一部が揺れて乾きはじめたあかい葉がひらひら舞っている。いったい何をしているのかと、時には骨董めいた双眼鏡をのぞくのだけれどもいまだ感動の焦点の目盛りに間に合ったことはない。けれども耳に聞く小鳥の声のさまざまに感動するという事はよくある。たとえば夕暮れ時、近くの竹藪に雀の大家族が帰ってきた時の鳴き声の合唱はすごい。そのざーっと落ちる滝の水音のごとくのすごさはほんの一時で、さあ眠りましょうとばかりにぱたっと竹藪は嘘のように静かになるあっけなさは拍子抜けする。朝方ちゅんちゅん小鳥の声に起こされることはあっても、夜に起きているのは神社の暗闇の方から聞こえてくるほーほーというふくろうの声くらいのもので、みんな小鳥たちは陽の暮れとともに眠りにつくはずだ。ところがある夜、けたたましく鳴く鳥の声が近くに聞こえた。それは鴉とすぐわかる声で何羽位だろうか尋常ではない鳴き声だった。奪い合いでもない喧嘩でもない、なにかが起きてるそんなことを思わせるあわて振りの激しさに、どうしたのだろうと耳をそばだて暗闇ばかりの方向に眼を見開いてみても見えるはずもない。一時間くらいそれは続いただろうか。ぴたり鳴く声は止んだ。そして翌朝早く激しく鳴く一羽の鴉の声に起こされた。昨夜と同じ鴉の声は、あきらめ切れないかのように激しく鳴き続けていたけれどまもなく静かになった。あれは鴉のお母さんだ。そう思った。こどもが木から落ちたのではないか。きっとそうだ。その時そう思った。確かめに向かった眼の先の道に小さな黒いものがしんと横たわっていた。やっぱりそうだった。どうすることもできずに激しく鳴き、呼び続けていた夜の鴉の家族。あきらめきれずに鳴き、泣き、呼び続けた早朝の母鴉を更に思えば胸が詰まる。放ってもおけず袋に入れた。然るべきことの間中、鴉のお母さんの視線を感じていたのは気のせいだろうか。尋常ではない事が起きれば鴉だって眠れない夜があるのだという事実の奥にみる共通の生のせつなさか。

 大なり小なり抱えている問題や葛藤が時には睡眠をじゃまするなんて事もよくある話で、眠れぬ夜など珍しいことではない。電灯が消えた暗闇の床の中、風が庭の落ち葉を掻き集めている乾いた音が夜の静けさをいっそう濃くする。たとえばこの暗闇の床の中でさめざめと泣く事もできるし、闇のなかに感じる気配と無言の対話もできるし、そこには自由な選択がある。変な言い方かもしれないけれども生きている途上途上に、岐路は常に立ちはだかりその選択の自由はまかされている。たとえば私は脱皮を重ね続けていたい方を選択し続けているにすぎない。それは閉じない円でありずれていく円のイメージの図が動かしがたくあり、私を引っ張り続けているようにも思う。円は閉じてはいけないのだ。そう感じるのは生命のふくらみというものの企みなのかもしれないし、私たちは案外その企みの軌道に乗っかって現在をはばたいているのかもしれない。そしてそのはばたきのなか、さまざまな思想と出会ったりぶつかったりする。たとえば、久しぶりに電話で話をしていた画家の友が「何も悩みはない」と得意気に言い放ったのを聞いてえっ?と絶句したり、また別のものつくりの知人は会話の中で、「私には恥の概念はないのよ」と誇らしげに言ったのを聞いたとたん、私の内でくっと円が閉じる拒否反応の音がしたりする。悩みも恥もからめ、まるごと生身を生きている私には言い切ることは定義付けという糊付けを自らにしてしまったような逆にもったいなさを感じる。いまだ開かずの扉を発見し続けたい現在進行形の自分にとって、それらの問題にぶつかるごとにそれは対話に向かう切り口、つまりは想像し創造し開き広がっていく原点ともなる。もったいないは眼に見える物をいとおしむ節約ばかりでないのは言うまでもなく、もって生まれた精神的な力、生命力を引き出すのにも円は閉じないというイメージがある。

 秋も深まりと言いたいところだけれど、ちっとも話題にならないあることが気になる。夏の終わりから秋にかけて一日中、草むらや部屋の片隅から聞こえているはずの虫の独唱、輪唱、合唱を聞いてない。ふと気がつくとすでに晩秋に入っている。ほとんど虫の鳴く声を聞かないままもう霜が降り、草は枯れてすでに冷たい風が吹き始め、冬の活字が眼につくこの頃だ。秋の虫たちはどこに行ってしまったのだろう。天変地異。そんな言葉さえ口にしても奇妙とは思えないニユースはひっきりなしだ。思い出したのだけれど、普通に口ずさむ子守歌をうけつけない赤ちゃんがいるという事に驚きなぜたろうと不審だった。つけっぱなしのテレビに子守をさせる現実があり、テレビから流れる売らんかなのコマーシャルサウンドの中には、短調のメロディがひとつもないという。悲しみの感情、悲しみの旋律を耳にせず知らないままに赤ちゃんから情緒の芽は摘みとられていくのだろうか。

「私の歩み」  矢島雲居

2017-08-25 10:27:01 | 矢島雲居
◆“WAVE” 1991年 ワコール銀座アートスペース
Paper work 5.6×4.5×0.9~1.7
 撮影:淺川敏

◆“M0RNING GLOW” 2004年 ワコール銀座アートスペース   360×540×30cm 280×390×25cm  
撮影:浅川敏

◆“UNIVERSAL SEED(宇宙種)” 
1994年 ワコール銀座アートスペース
Paper work 4.0×4.5×0.7~1.2  
撮影:浅川敏

◆アースワーク“WAVE” 1991年 日光の杜 Paper work   
撮影:浅川敏


◆“COCOON” -生まれ変わる- 2001年  183×180×143cm  
撮影:浅川敏

◆“聖域に降りた星々の詩” 1995年 
撮影:浅川敏

◆“The red of dawn”  2004年 国際タペストリー・トリエンナーレ・ウッジ(ポーランド)  180×180cm  
撮影:作者


◆“M0RNING BEAT”  2005年 SHIBORI「触発と異層」   
撮影:小林宏道


2007年1月10日発行のART&CRAFT FORUM 43号に掲載した記事を改めて下記します。

 「私の歩み」  矢島雲居

朝早くこの杜にたたずむ。杜の朝が明けて行く瞬間を待つのです。ここは巨木が聳え立ち、荒々しい表情の岸壁が迫る、日光滝尾神社参道入口の杜、(1999年 世界遺産日光の社寺)500年以上前、先人が植林した杉は自然の杜となりエネルギーに満ちています。作品を制作する日は必ずここに来てから、作業を始めます。生まれ育ったこの近辺は私にとっての創作の原点でもあります。
2004年6月「MORNING GLOW」個展は、この杜で撮影中に出会ったオーロラのように柔らかく大きな揺らぎを持って現れた朝焼けです。数百本のテープを並べ素材の弾力性が大きなうねりを描いて、空間全体の空気と柔らかく触れ合うようにしました。2003年6月上野真知子さんのステンレスバネ線とテグスで編んだ布のインスタレーションを拝見し、素材を作った目的を思い出しました。“空間に舞う布”。作りたいと思ってから16年が経っていました。素材は和紙を細いテープ状にカットし、バネ線に糊付けしたオリジナル「和紙テープ」です。
このテープを創るきっかけとなったのは、1988年8月ワコール銀座アートスペースでの初個展で、カーブのある2枚のアクリル板に織物を挟んだ衝立「WAVING SCREEN」を発表した時です。作品を見ている内にもっと自由に自立する力を持った「空間に舞う布」を作りたいと思いました。それには素材を変える必要があると考えました。当時、東京テキスタイル研究所のかすり教室で学んでいた私は関島寿子先生のクラスの作品に触れる機会があり、一本の糸から自立した形になるバスケタリーにそのヒントがあると感じました。そして、1989年4月、初めての授業で出会ったのが“紙バンド”です。コイル状に巻かれ、そこから繰り出される、いくつものいくつもの“らせん”にすっかり魅せられてしまいました。紙バンドは15.5㎜、13本のクラフト色の紙ひもが糊付けされ、弾力がありました。この素材に可能性を感じ、自立するべく木工ボンドですり鉢状に張り付けたもの、また舞うようにらせんをそのまま生かしたもの、結び目を作って動きのおもしろさを表現したものを夢中になって作っていましたが…。もっと“シャープさ”がほしいと思いました。シャープさを求めて、織機にピアノ線を掛け、和紙を織り込んだり、試行錯誤が続きました。そんなある日、障子に面した製図台の上に20数センチのピアノ線の切れ端2本と、半紙大の烏山の鳥の子和紙が並んでいました。こういう出会いは本当に不思議です。瞬間的に“糊付けしてみては…。”そして、1989年7月シヤープで美しいアーチを描いて自立する素材「和紙テープ」が誕生しました。ところが和紙に錆が出ていたのです。神棚のいなずま型の紙垂(しで)、お供え物の下にピンと敷かれた和紙等、私にとって和紙はとても神聖な存在で、その色は“真っ白”でなければいけないと思っていました。関島先生はレポートのコメントに“錆も着色の方法では?”と書いてくださいましたが。約2年間、錆を防ぐため、糊、錆止め剤、ワイヤー等変え、また和紙を加えて、試作を続けました。最終的に手にした理想の「和紙テープ」はピアノ線がステレスバネ線に変わっただけで、最初に他のすべては完成していたことが分かりました。求める思いが、感覚を研ぎ澄まし、一度にすべてを導き出していました。
白い和紙テープの作るらせんを見ていると自然の中で揺れ動く姿が見たくなりました。最初は手軽さもあり宿泊施設の閑静な広い庭園を考えていました。ロケを行うと以外に狭く、しかもイメージが違う事がわかりました。そして、もう一つの候補地があの杜でした。狭いのではと考えていたのですが、直径2m高さ40mもの杉が従える空間は実に広いもので、幼い頃からこのスケールで育ってきたことに初めて気づきました。この杜を気に入ったのは、私の作品を撮り続けて下さっている写真家の浅川敏さんでした。
1991年6月30日早朝。白い和紙テープで1000個のらせんを描きました。雨ですべてが美しいらせんを描くことはできませんでしたが、シャープな白いらせんの集合は樹木や下草の緑の中で“場”と響き合い、ふとあらわれた「祝祭の場」となっていました。前日、杜の中心に立ち、その場で感じた流れに沿って、20本のライン上にステンレスパイプ1000本をさし、当日テープに取り付けた針金をパイプに差し込むとらせんが描かれて行きます。当日、午前3時。車のヘッドライトに照らし出されたステンスパイプは暗闇の中で無数の光の矢となり大地を突き刺していました。この地の底深い闇の部分を目にしたようでした。総勢10名、1時間30分の個展DMの撮影のためのアースワーク「WAVE」でした。
1991年9月「WAVE」個展は、あの時感じた杜に渦巻く大気やエネルギーを形にしたものです。ギャラリーの模型上でスタディーするうちに、手のひらが時計回りにゆっくりと球をなぞるように描く渦巻きが、その時の動きを捕らえているようでした。そして、それに根源的な動きを感じました。その軌跡を写し取って、最も美しいらせんを描くように配置しました。
 この作品は今年6月デンマークで16年ぶりに再現される事になりました。現在テープを制作中です。テープを変えると設計図のあるこの作品は常に新しく生まれ変わることができます。それは、精神と本質を受け継ぎながら新年を迎える度に、取り換えられる注縄の紙垂、少し飛躍しますが、伊勢神宮の二十年に一度の式年造替が持つ日本文化の特徴と共通しています。日本人の繊細な感性を紹介するデンマークでの展覧会。この作品がどんな表情で場と響き合うのか、楽しみにしています。
アースワークから3年。杜の霊魂とも言うべき球状の「SEED」を制作しました。両手の親指と人差し指で作る輪の大きさから、テープが描くアーチ形を生かして、巻止めをバランスを保つ大きさまで繰り返します。約80㎝φでした。素材はアースワークで使用して錆色になったテープです。一度限りとピアノ線を使ったのですが、予期せぬ雨に合い両側が茶色になっていました。錆を嫌い、処分も考えたのですが、当時テープを作るのに非常に時間がかかったため廃棄できず、袋に入ったままになっていたのです。それが三年経ってみると赤茶色のきれいな色合いになり、両側の錆色が中央部をいっそう白く見せ、存在感も増していました。これ以降、錆は時のプロセスを表現する欠かせない着色方法になりました。
1994年10月の個展「宇宙種」  星がたくさん生まれる星雲をイメージし、ギャラリーの同一面に、SEEDの手法を使って制作した63個の黄球を吊るしました。この展覧会を見て下さった日光在住の方の「非常に窮屈。外でなさったら。」 の一言から、1995年5月の金谷ホテル庭園でのアースワークになりました。個展が終わって一週間後、その方のお宅の庭で3日間のアースワークをさせて頂きました。吉田五十八氏のお弟子さんで中里稔氏設計の数寄屋造りの建物の前の月見台に一つ、そして庭のあるべき位置に黄球を点々と置いたインスタレーションが心に残りました。その時、公のスペースでのアースワークを勧められ、気に掛けていた時、偶然金谷ホテルの大谷川沿いの庭と出会いました。ここは、国立公園風致地区の特別地域で規制が厳しく、そのため美しい自然が保たれていました。このアースワークの題名「聖地に降りた星々の詩」を考えて下さった方のご紹介を通じて、金谷ホテルの社長にお会いし、承諾を頂く事ができました。ネックになったのが特別地域でした。大谷川沿いの河川敷に黄球を置き、川を挟んだ道路側からの空間的、意識的な繋がりをこの中心に考えていたのですが、環境庁の見解は道路から見えないこと。社長もホテルのためという意味でなく、道路から見えないのでは個人の家でやるのと同じ、アースワークの意味がない。アートであり、短期間でもあり、設置を認めてもらうように県の美術館への働きかけを勧めて下さり、県立美術館、県自然環境部へ直接出向いて話をしましたが、解決策は見つからず、可能な範囲で行うことにしました。
金谷ホテルの建つこの地は、奇しくも修験道の行場の一つ「星の宿(しゅく)」でした。日光開山の祖勝道上人はこの地で見た明けの明星に導かれ、男体山登頂を果たしたと言われています。個展の時より一回り大きくした黄球65㎝φ28個を川沿いの崖、石仏の脇、背後にある大黒山等、この地の本質を浮かび上がらせる場所に置きました。「星の宿」の行場には違う空気が流れていて、置くことは出来ませんでした。5000mのテープを使用した黄大玉は日光開山の祖に捧げるべく、庭の中央に置きました。5月20~28日の期間中、油引きしていないテープの作品もあり、連日早朝天気の神様にお参りしました。そのお陰だと思いたいのですが、予報に反し、雨は降りませんでした。
黄大玉を見た瞬間、大きい、そして時を感じる。その存在感は幼い頃から見ていた大樹の印象を強く受けたものだと思います。大樹はその場を動く事なく、自分自信で何百年もの時をかけ、人に見守られる存在になります。それを求めて、ただひたすら18㎝φの輪から巻止めを繰り返し150㎝φの作品にしました。この作品を今立現代美術紙展に出品。それをプラスマイナスギャラリーの方が見て下さり、1998年1~2月の「響き合う場」の個展になりました。この3作は“輪廻”のテーマを秘めています。赤い作品は時と共にピアノ線の錆によって朽ちた色になり、中に入っている種となる小さい球が成長し始めます。白い作品は錆によりやがて赤くなって行きます。黄球は不変である自然の摂理を表しています。
2001年作品「COCOON」。これは私の名付親である折口信夫先生の50年祭を2003年に控え、魂を慰め、宿す母なる光の衣に包まれた安らぎの場として制作しました。設計事務所に勤務した後1984年介護のため帰郷し、以前から興味のあっ織物を始めて2年後、大病に直面。その直前に読んだ先生の「死者の書」。俤(おもかげ)人のためにハス糸で織物を織る朗女(いらつめ)。思い込みが強く、私も先生のための織物を織るために生かされたのではと。しかし、先生の著書、関連書を読み進めて行くうち、先生自身の俤人のためであることがわかりました。とは言え、先生の生い立ちを知り、自分が今できる方法で何かを捧げたいと制作しました。中に人が入れるスペースを作るため、大きな一つの輪から巻止めを繰り返し180㎝φ高さ140㎝の大きさなりました。個人のために始まった制作でしたが、すべての人に通じる普遍的なテーマをもっていました。機会を見てC0COONシリーズ作品を発表したいと考えています。 2004年6月ポーランドのウッジで開催された「国際タピストリー・トリエンナーレ・ウッジ04」に日本から5人の作家が参加し、その一人として出品しました。作品は「The red of dawn」180×180cm 樹木の間を朝日が燃えるような赤で染め上げた瞬間を表現しました。会場で作品を見たとき驚きました。作品は天井高3mの中心になるように吊られていました。見る人の中心にくるようにヒューマンな位置に吊るす事を考えていたのですが、指示書に床からの高さだけ明記するのを忘れていたのです。こんなにも違ってしまうのか…。大空間で、ほかの作品と並ぶ時、いろいろな意味で刺激を受けますが、“自分らしさ”が完成していることが一番大事だとこの時思いました。
2005年にはSHIBORI「触発と異層」に参加する機会を得て、 「MORNING BEAT」を出品。「MORNING GLOW」のうねりにもっと細やかな表情がほしいとスタディーするうちに“折る”手法を見つけました。テープを折ることによって、生まれる動き、陰影。そして、それぞれのテープの重なり、和紙の存在もあって、新しい表情が生まれました。和紙は今立現代美術紙展に出品した際、地元の長田製紙所さんのご好意で頂いた銀色の襖紙の縁紙を使いました。
一つのものが生まれ、また次のものを生み出して行く。作品も人との繋がりも、不思議な糸を結び続けながら歩んで来ました。ウッジ04に参加し、ポーランドを4泊6日、一人で汽車に乗り、田園風景を眺め、町を歩いて見ると、日本の大地がもつパワーとその作り出す繊細な自然環境を改めて感じることが出来ました。その本質を見つめながら、空間を響かせる、そして磁場として発信する作品を求めて、2008年の個展に向け、日々波動を広げている泉をイメージした作品を制作しています。

編む植物図鑑①『ヤナギ:Salix』 高宮紀子

2017-08-24 09:23:06 | 高宮紀子
◆写真 2ヤナギのかご

◆写真1Salix viminalis

◆写真3. 柳で縄がなえる


 ◆写真4

◆写真5 

◆写真7 

◆写真6 夏期講習


2006年10月10日発行のART&CRAFT FORUM 42号に掲載した記事を改めて下記します。

 編む植物図鑑①『ヤナギ:Salix』 高宮紀子

 新しいシリーズ『編む植物図鑑』を始めます。前回の『民具のかご・作品としてのかご』では民具と自分の作品の繋がりを書いてきました。その中でも繊維植物について書くこともありました。植物については知識や自分の体験を記録してきましたが、集めたままのばらばらの情報で、新シリーズになったのを機会にここらでまとめてみようと思ったわけです。これまでと同じ、かごの視点ですが、主役を植物にして、編むという角度から、植物学の図鑑にはない内容にしたいと考えています。編める素材の植物図鑑というものになれば、と思い名前をつけました。

第一回目はヤナギです(写真1Salix viminalis)。ヤナギ科の植物はそれぞれ川や山、高山と育つ場所が違います。また枝の形も曲がりくねったもの、扁平、あるいはしだれるもの、そして樹木の高さも草のようなものがあれば何十メートルになるのもある。花穂は似ていると思えば、葉は細長いものだけでなく、輪状やギンドロやポプラのようにハート型もあります、という具合です。古代より人の歴史と関わって、材や薬に使われる他、かごが作られました。
身近なものはシダレヤナギ:Salix babylonica、かごの伝統的な素材ではありませんが、これで編んだことがある方もおられると思います。風にそよぐ長い枝が柔らかく編む材に、太い枝からは樹皮がとれます。枝は生の時は柔らかく編めるのですが、乾くと柔軟性はありません。細い先はぽきぽき折れます。そこで乾燥したものは4,5日水に浸けて柔らかくします。ただ生のような柔軟とまではいかない、と思っていました。小田原に住むYさんのシダレヤナギは乾燥後も4,5日水につければ十分柔らかくなるとのことです。Yさん作のフレームバスケットは、縁のところで編み材が折れることなく折り返っています。少しは折れるものもある、とのことですが柔らかいらしい。シダレヤナギにも数種類ありますし、環境の違いも影響するでしょう。いろいろな方の体験を聞いた方がいいと思いました。

 ヤナギのかご、といえば柳行李。中国、韓国に同じものがありますが、素材はコリヤナギ:Salix koriyanagiで皮を剥いて使います。川に生えるヤナギですが、豊岡では畑で栽培していました。柳行李の技術は縦に並べたヤナギの枝を細い麻糸で織る方法で、太い枝から細い枝まで使える万能の方法です。この方法は枝で編むというよりは細い麻糸で織ってまとめるというもの。一番細い枝を使うのはお弁当箱で、直径が2~3mmぐらい。この他、細い枝をまるっぽ使って、タテ材、編み材ともに使うかごも作られています。枝は細く真っ直ぐで分岐が無い枝が必要となります。そのため夏には芽をとらなければならず、たいへんな手間です。どちらも枝は収穫後皮を剥き、よく乾燥させて使う前に水につけて柔らかくします。

 ヤナギのかごといえばヨーロッパ。長さや太さ、色も違うたくさんのヤナギの種類があり、その加工方法やかごの技術が確立されています。ヤナギは採取後乾燥させ、長さによって束に分け、かごの素材として売っています。使う時は水に浸けて柔らかくします。ヤナギのかごはウイッカワークと呼ばれます。ウイッカーとは、ヤナギの枝のような柔軟な枝のことをいい、ウイッカワークとはヤナギなどの枝で作られた物のこと、かごも含まれます。写真2のように一見、普通なかごですが、実は特別な技術でできています。
特殊な技術とは、まず底です。普通ですとタテ材は底から側面を通って縁に出るわけですが、ヤナギのかごでは円盤状の底を作り、側面のタテ材を底に挿して編みます。これはヤナギの枝の元と先の太さの違い、長さ、かごの丈夫さから考えられた方法です。側面の編み方や縁のしまつも籐のかごの編み方と一見同じですが違います。かごの作り方としてはこの他、フレームバスケットという作り方が多く見られます。太い材を使ってフレームを作り、あばら骨のような骨格を作りその間を編んでうめる方法です。柳のほかの木材のへぎ材も使える方法で、どちらもヤナギの性質をうまく活かした方法です。

 今年になってヤナギを栽培している農園主のT氏を紹介してもらいました。栽培されている品種の中にかごを編むオランダヤナギがある、とのことでした。このヤナギはもともと花材として栽培されましたが、かごに使われるという説明が苗の解説にあったそうです。T氏はヤナギを知り尽くした方ですが、編むということにも関心を持って下さりいろいろと実験して報告して下さいとのことで、送ってもらうようになりました。
最初に送られてきたのは鉛筆より太い枝。編めるか試してみたのですが、まず驚いたのが、枝全体が捩れに対して強いということでした。これはシダレヤナギと違う点で、全体が柔軟で繊維の束のようにしなって捩れ、曲げに強い。例えば、写真3のように枝で縄をなうこともできます。

 とにかく生のままかごを編んでみました。太い枝だったので、ずいぶんと力はいりましたが、久しぶりに全身で編むということを体験できました。枝の柔軟性は独特です。急な曲げにはポキンと折れるのではなく、ふにゃりと曲がります。太いものは編むのがたいへんですが、鉛筆ぐらいの太さまででしたら、捻るようにして編むと少し楽に編めます。この性質が発揮されるのは、捻り編みの類の編み方の時です。太いものでも3本、4本で追いかけて編む捩り編みですと(写真4)とてもよくわかる。普段、一つの編む技術としてみていたこの技術が、実はヤナギを編む技術だったのだとその時初めてわかりました。枝が持つ弾力のおかげで、他の素材ではむつかしい構造も可能です。たとえば写真5のようなトレイ。枝で輪を作り、タテに太い枝を渡して横に枝を入れて編むだけのものです。輪に材の端がかかっているだけですが、とまっています。密に材を入れれば外れることはありません。
枝からへぎ材をとることもできます。半分に割り、それを半分にして1/4にします。割った材の真ん中の隋を削って表面の層だけにすると柔軟な編める材をとることができます。これでどんな作品を作るのか、今はわかりませんが。このヤナギの学名はSalix viminalis、ヨーロッパでかご編みに使われるヤナギであることがわかりました。

 編むヤナギを体験できる、そう思った私はT氏に夏期講習用にヤナギを大量に切ってもらうことをお願いしました。実はヤナギを切るのは冬。夏は枝が水をいっぱい吸っているので、乾燥後皮に皺がよってしまう、品質も心配。それで水をあげてない季節に切るといいのですが、ヤナギの枝は得がたい素材です。いろいろな都合もあって夏にお願いすることになりました。
講習が始まる一週間ほど前に、農園に伺い、ヤナギの畑をみせてもらいました。切ってもらうのは二年目の株のもの。ずいぶんまっすぐ伸びています。心配していた分岐も先だけでした。というのも分岐するとその先の枝は細くなるからです。写真6は夏期講習の模様です。大量に送られてきたヤナギを参加者に手伝ってもらい、葉をとり、枝を分けているところです。
夏期講習は、ヤナギを使ってもらい、伝統的なヤナギのかごの技術を体験してもらう内容でした。普段は造形的なチャレンジを勧めているのですが、実際の素材を使って技術を体験することで、素材と技術との関係が見えるかもしれない、そう思いました。
クラス中、枝の長い先が飛んで、鞭のようにしなったり、太くて編めなかったりでいろいろな問題が起こりましたが、そのつど問題解決をしてもらい、なんとか終わりました。ヤナギを編む技術というのは、ほんとうによく考えられていて、ヤナギの太さや長さを常に勘定にいれて編むことに徹底しています。枝の元から編み、先で編み終えたり、必要な箇所で必要な編み方をする合理的な方法です。柔らかい素材ですと自分の造形意思がかなり通せるのですが、ヤナギの場合はそうはいきません。そこに面白さがあると思いました。

 緑色をしていた枝も今は黄色から薄茶に変わってきています(写真7)。これからもオランダヤナギとのつきあいが続けばと思っています。未知のことが多い楽しみなヤナギです。