ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「 心不思議 」    榛葉莟子

2013-11-11 14:17:31 | 榛葉莟子
Img_0006



1994年10月1日発行のTEXTILE FORUM NO.26に掲載した記事を改めて下記します。

 どこからも、なにもやってこない、たいくつに閉ざされる時がある。溜息が自分を囲みはじめ、いつしかぎっしりと詰まった溜息の汚物の箱の中に、どっぷりとつかっている自分にぎくりとする。
私はその日、妙にそこから動きたくなった。
 一時間ほど汽車にゆられ私はM町の駅前に立っていた。見知らぬ町を歩き回りたいと思ったのだ。
夏の陽を反射する車の群れや、ぎらぎらとした表通りのコンクリートの道や、陽にさらしだされた四角い建物などが、攻撃的に迫ってくる感覚をおぼえ、いまの私にはそれは強すぎた。が、私はその表通りを選んでいた。それは、いま自分のなかにある弱々しいものを、あの容赦なく照りつける夏の陽に焼きつくしてもらえる事をのぞんだからだった。しだいに吹き出てくる汗を全身に感じながら私は騒音と暑さの中を歩いた。周りのはなやかさには何の関心もなく、ただひたすら歩いた。願いとはうらはらに疲労が追い撃ちをかけてきた。限界を感じたころ、前方に古書店の看板が眼にとまった。
 私はにげこむように重いガラス戸を開け店の中に入った。陽影のあかるさと涼やかさと静けさと、本のにおいと時空を超えた不思議な郷愁のようなものとが混じりあった、透明な薄い膜のようなものに、包まれていく心地良さが、そこにはやはりある。几帳面に積み上げられた本に囲まれた奥から、ふと顔をあげた店の主らしい老人と眼があった。なにか言うでもなく老人はすぐに読みかけの本にもどっていった。ほおっておかれるのをいまはありがたい。広くはない店内には他に客はなく、幾段にもきっちりと並んだ本の背の色とりどりを、ひいてゆく汗を感じながら順ぐりにながめていった。古書店とみれば入ってしまうことが習性のようになっているとはいえ、その時ばかりは、私をひきよせてくれる本の気配は皆無であった。
どこからも、なにもやってこないたいくつがまだ尾をひいていた。ただ本の前をずるずると移動していった。まるで礼儀でもあるかのように一冊の本をひきだし、ぱらぱらと頁をめくった。
 店の外でキイーツと自転車を止める音がした。「やあ、げんき?」と男の人の声。「はあ、なんとかやっています……なあんていう年になっちゃいましたよ」若い男の人の声がそう言ってわらった。
男同志のあいさつが妙に私の耳を開かせ、ガラス戸の外に眼をやった。陽射しの中で、互いちがいに向けた自転車にまたがったまま話をしている年のはなれた白いシャツの二人の男の人がいた。短いことばを交わし、じゃあと言うようにかるく手をあげお互いの自転車はそれぞれの方向に走り出した。白いシャツが陽射しのなかに遠のいていく後ろ姿を私は眼で追っていた。
何事もなかったようにガラスごしの外には陽射しがもどっていたが、たったいま、私はなにかとても美しいものをそこに見たような安らかさと妙なもどかしさを感じていた。
うすい色セロハンが宙にゆらいだ。
何という事もないありふれた日常の光景が、どこか古典的な映画のワンシーンを想わせた。あの二人は、ついこの間まで少年と大人の関係だったのだろう。
なんとかやっていますと言って、ひと呼吸のあと、なあんて年になっちゃいましたよと言った若い男の人のことばのなかには、少年時代を知ってくれている人への甘えと郷愁がふくまれている。あそこには時間がゆったりと流れていた。それぞれの方向に自転車は走りだし遠のいていくその後ろ姿の画面に、おわりの文字が表れひとつの物語りは消えていたが、私にはそれでおわらない何かちがったものが入りこんでいた。
 開いたままの本に眼を移した。すでにもういない自転車の残像が白い頁に写っている。それは殆ど感覚的な内部の素朴な出来事にすぎない。
陽射しのなかに走っていく自転車に乗った白いシャツはどんどん遠のき、やがて陽射しのなかに吸い込まれていく。一瞬カチャッと音がして、あたりがぐにゃりとゆがみ、そのなかから白い光の点があらわれ次第にプロペラのようにくるくると旋回しはじめる。そしてくるくるくるくるとかろやかな音をたて、螺旋を描きながらしだいにこちらに近ずいてくる。ぐんぐん近ずいてきて……と、そこまで想いめぐらしていた時、ふと、私は身体のかるさを感じた。
くるくるとかろやかにまわるかすかな音を、さっきから身体の内に聞いていたのだ。
ああ、ここにいた。宙ぶらりんの糸が一瞬ぴんとはった。手もとに開いたままの、本の頁の謎めいた一行が私を呼んだ。
……眠れる幼児のごとく天に住まえる者は運命なしに呼吸する……
 本にかこまれた奥の老人に、私はその本を差し出しお金を払った。老人はていねいに紙袋に本を入れた。
はい、ありがとうという老人の眠たげな眼がわらった。
お互いの口もとがゆるんだ。
みえない了解がそこにあったような気がする。
ガラス戸を開け外に出た。
夏の陽射しは相変わらず容赦なく照りつけている。
私はみえざる大きな手の気配を感じながら広く明るい空を仰いだ。身体のなかでかろやかにプロペラは回っている。
 心の高鳴りが駅への道をいそがせた。








国際フェルト会議’94に参加して  /田中美沙子・櫻本洋子・塚田久美

2013-11-04 16:36:55 | TEXTILE FORUM
1994年5月16日発行のTEXTILE FORUM NO.25に掲載した記事を改めて下記します。

 1994年4月8~10日にイギリスのグロスターで、国際フェルト協会(IFA)主催の会議が創立10周年を記念して開かれました。フェルト作家の交流が盛んになっている今日、ハンドフェルトの技術表現の理解とその発展が目的で設立されたこの協会は、世界で200人の会員を持ち機関紙を発行し、紙面を通じて材料と技法の情報を提供しています。
 日本からは昨年まで、フェルトコースで学んでいた、桜本さん、塚田さんと私の学生時代からの友人4人が参加しました。あまり会議の情報もなく参加した私たちでしたが驚いたことに、当日会場で京都の礒辺さんと北海道の石田さんとお会いすることができました。
 会場のある、ハートプリーカレッジはロンドン・バディントン駅からインターシティーで2時間半のグロスターから、さらに車で約30分の丘陵地帯にありました。ここはイングランドの中央部に位置するコッツウォルドの一部にあたります。コッツは羊の囲い、ウォルドは高原という意味を持ちコッツウォルド種(イギリスの純血種:非常に古い長毛種でロムニーと似ている)という良質の羊の産地です。
 6日の早朝、私たちは目的地に向かって出発しました。列車で途中の街スインドンで下車してレンタカーによる楽しい旅の始まりです。 ドライバーは塚田さん、ナビゲーターは地図を片手の桜本さんでバイブリーのコートホテルヘ向かいました。途中のサイレンセスターは教会を中心に創られた石造りの落ち着いた街です。ここで昼食、買い物、サイレンセスターパリッシュ教会の見学をしました。
ここは羊の取引が盛んだった街とのことですが、現在はその当時の古い家屋がショップとして使われていました。
 私たちはどこまでも続く羊の丘と青い空を満喫しながら日没前、バイブリーのコートホテルに着きました。ここは1633年の領主の館で外見は苔むし古びていますがビクトリア時代様式でまとめられ、暖かく重厚な室内は旅の疲れを癒してくれました。館の中を流れる川に群がる鳥や、館を取り巻く村の石造りの家々の煙突から立ちのぼる煙りの情景は、まさにおとぎの国そのものでした。はちみつ色の家並と表現していた旅行雑誌に納得していました。
 8日の朝コッツウオルド地帯を北上してグロスターのハートプリーカレッジに到着しました。会場と宿泊に使われたハートプリーカレッジは、AD760年以前に建てられた荘園領主の館でした。 しかし、この広大な土地に建てられた館は18世紀の終りまで一般には公開されなかったのですが、現在は農科大学となっています。
 レセプションは夜8時から参加者約100人で始まりました。参加者の年齢の幅は広く多くの女性に交じり男性の姿も見ることができました。私がことさらに興味を引いたのは、フェルトで作られたベストや帽子やアクセサリーなどをさりげなく身に付けている参加者の姿でした。この様子は風土から生まれた素材への愛着と歴史そのものではないでしょうか。我々日本人が持つ木綿や絹へのこだわりの感覚と同じなのだと思いました。食堂は交流の場でもありました。名刺の交換や作品の写真を見せたり、衣類の説明などで大変にぎやかで、特に年配者のフェルトのお洒落が上手でした。この会議とは直接関係はないのですが、年配の参加者の生き生きした姿は、後日のロンドンのビクトリア アルバート美術館での年配者達が、受付やショツプで働いている姿と重なり合い感慨深いものがありました。開会宣言のあとワインを片手に展示されている15名の作家の作品を鑑賞しました。作品の多くはウォールハンギングの形態で厚いものと薄いものに分けられ、繊細で色彩豊かな表現がされていました。形態は様々でした。素材はメリノを中心に絹布や他の繊維、そして木の葉など自然素材が効果的に使われミシンによるステッチが施されていました。展示会場は意外に狭いため立体の作品がみられなかったことが多少残念でした。ワークショップの講師は、イングランド、アイルランド、スコットランド、アメリカ、デンマーク、ドイツ、オーストリアから構成され、中止のコースもありましたが6コースで始まりました。
 また同時に講義として、ジャネット・レッドシャムの「ASPECT OF MY WORK」、ステファンブーンの「MONGOLIA」、レニー・ゴールドスミスの「ALTERD FORMS AND SURFACES 」、ジャネット・アプレトンの「INSPIRATION IN GERMANY」、エリザベス・ウエスタイナーの「MYTHOLOGICAL INPLICATIONS OF FIBER AND TEXTILES」などがありましたがワークショップと同時に行なわれたためすべてを受講できなかったことは残念でした。

ワークショップ 
フラットな作品の多い中で、イングランドのジャネット・アプレトン(JEANETTE APPRETON)の半立体の作品は面の積層と画面の切断による空間の作り方が魅力的でした。ブルーでまとめられた画面は薄手の布がコンバインされテクスチャー、色彩の対比を強調した美しい作品でした。
 彼女のワークショップは「フェルトデザインのための水彩絵の具:WATERCOLOR FOR DESIGN」で次の日、私はこのワークショップを受講することにしました。彼女のスケッチブックは沢山の水彩やコラージュなどのドローイングで一杯でした。内容は抽象、具象を問わない自由な表現で溢れるようでした。ワトソン紙に描かれたドローイングと、それをフェルトで表現した作品が対称的に隣り合わせで展示されています。紙のなかの絵もフェルトの作品もそれぞれが完璧に自立した作品なのです。
 私は次のような質問をしてみました。「絵として十分完成されているのに何故フェルトに置き換えるのですか?」彼女は次のように答えてくれました。「もちろん紙の上での表現は大好きです。でも素材も大好きですし、もっと積極的に触覚感を作品の中に入れていきたいのです。だから羊毛を軸に布をコンバインさせたり多重の効果で表現しているのです。」語学に大いに不安はあったのですが、彼女の表現に対しての実直さと素材に対する深い興味を知ることができました。
 ドイツのカタリーナ・トーマス(KATHERINA THOMAS)の『キルギス・ラグの作り方:KIRGHIZ RUG 』のワークショップはスライドによる講義と実物による説明でした。ラグの制作は残念なことに中止になっていました。キルギス・ラグはカザフ地方で作られているフェルトの敷物です。カラーフェルトを模様にして作ります。その作り方はネガ、ポジの関係で模様をカットして、それを羊やラクダの毛を強撚糸にして縫い合わせます。そしてさらにステッチでベースのフェルトと縫い合わせるのです。模様は単純で力強くどこか日本のアイヌの模様と似ているように思えました。
 アメリカのレーニー・ゴールドスミス(LAYNE GOLDSUMITH)は『変化させた形態と表面の変質:ALTERD SURFACES 』のテーマでした。羊毛、紙などを使い表面の変質と変容を日常私達がよく使う道具や材料で表現する方法を見せてくれました。例えば電気コテで焦がす、穴を開ける、樹脂や糊で固める、しわを作るなどでした。
 デンマークのレニー・ニールセン(LENE NIELSEN)の「動物の毛:FUR FROM ANIMALS」はフェルトのベースにウエンズリーディール(WENSLEYDALE)種の毛を接合させて、ボリュウム感や毛の方向の作り方、巻き込んでローリング出来ないときなどのサンダーによる振動での縮絨や薄いフェルト同志の接合の方法など興味を引きました。
 以上がワークショップの紹介ですが10日にはマーケットで作品や書籍、材料などの売買も行なわれ楽しい交流ができました。今回の会議とワークショップは2日間という短い期間でしたが内容は充実していていました。特に講師達と直接触れ合いながらのワークショップ、スライドレクチャー、作品鑑賞など意義深いものでした。
(田中 美沙子)

今回の渡英に誘っていただいた時、よく考えもせずにお返事をしてしまい、後になって学生の頃から英語が大の苦手であったことを思い出し、どうやってフェルト会議を乗りきるか、とても心配でした。
 会場では、やはり日本人は目立つようで、沢山の人達に話しかけられたのですが、何分辞書を片手にほとんど感をたよりの会話なので、どこまで通じていたことかという具合でした。 しかし皆さんが、とても明るく陽気な方々でしたので疎外感を感じることもなく、とても暖かく受け入れていただきました。
 会場での展覧会やレクチャーでとても意外だったのは、ラフな作品やダイナミックなものがなくて全体的に、とても繊細であったこと、材料は英国羊毛を使用せずに、ほとんどのものが染色されたメリノタイプを用いていることでした。これは作品の傾向と深く結びついているのですが、立体作品がなくて絵の具のかわりに羊毛を使っているような絵画的でシンプルなものが主流であるからです。この点が日本でフェルトをやっている私達との大きな違いの一つでした。この事を含めて今後について考える課題を数多く与えられた旅行でした。特に、もう少し英語が話せるようにならなくては、と痛感致しました。
(櫻本 洋子)

コッツウォルズ丘陵地帯は、イギリスの田舎で最も美しい場所と言われ、車でB道路を走ると、これでもかという程の広大な牧草地の至る所で羊たちに出会うことができた。そして、ライムストーン(石灰岩)を積み上げたハニーカラーの家並みにとても心が安らいだ。そのコッツウォールズの東に位置するグロスター市外に、フェルト会議の行なわれたカレッジ・ハートプリーハウスがある。
100名程の各国のフェルトワーカー達が一同に会し、レクチャー、作品展が行なわれた。この会議はどちらかと言えばクラフト指向のフェルトワークが多く、それは作品展からもうかがえた。私自身の作品を何人かに見てもらったが、あまりいい評価が得られず残念だった。造形的な作品との違いはあったにせよ、フラットな面に抽象画を描くような感じの画面の構成は、とても繊細で丁寧で技術も高いと感じた。羊を多く産した国々のフェルト文化に歴史と伝統を感じざるを得なかったし、クラフトの分野でのフェルトの位置付けと質の高さは現在の日本には考えられないものがあったと思う。
 私の貧しい英語力では一方通行の解釈しかできず、聴きたいこと伝えたいことが不十分に終ってしまった不甲斐なさも大きかった。
(塚田 久美)


「 支えきれないもの 」 高橋新子

2013-11-01 09:06:40 | 高橋新子
1994年5月16日発行のTEXTILE FORUM NO.25に掲載した記事を改めて下記します。

 初夏の明るい空の色に誘われたわけではないが、必要があって沖縄の並河工房に琉球藍 の注文電話を入れた。
 「泥状のものならすぐに発送できますが、練り状のものは少し時間がかかります。お天気が良ければ早くできますが、今沖縄は雨降りで」という内容の返事だった。
 琉球藍は今は沈殿させた時の泥の状態でカメに入れて山の中に埋めてあるそうで、これは恐らく大変合理的な保存方法だと思った。それを必要に応じて出荷するらしく、水分を除去したものが「練り」で、ちょうど粘土のような固まりとなっている。先方の手順通りに仕上がりを待つことにして近況などを話していると、藍草を栽培している人が高齢となられ、この先安定して供給してもらえるかどうか分からないと言う。琉球藍の明るく澄んだ陽気な藍色は他の藍では得られないものなので、この染料は是が非でも残して欲しいと力説すると、伝統工芸、藍染、本物志向と世間でもてはやされてはいても、それを根底で支えているものは農業。その従事者も年々高齢となり、採算がとれなければ後継者も育たない。今後藍の栽培を他の地域…おそらく外国…に求めることも検討しなければならない。ということだった。
 日本の伝統文化のうち重要と認定されたものは、文化財保護法で「国による記録の作成、伝承者の養成、その他保存のための適当な措置を講じ、保存に当たるべき者に対してその経費の一部を補助し、公開に関する経費の国庫負担」を定め、これに該当しなかったものに対しても「都道府県や市町村が条例を制定し、その地域内での無形文化財の指定、保持者の認定を個々に行って」 いることになっている。琉球藍製造の伊野波盛正氏は勿論国の無形文化財となられているが、その後継者は育っているのだろうか。記録作成等の措置を構ずべきものでは、有松嗚門絞、黄八丈、唐桟縞、各地の手漉和紙等、当事者の多大な努力の結果産業として健在なものもあるが、技術者の死亡により跡絶えてしまったものも数多い。さらに都道府県指定の技術、指定されなかったこまごまとした日常生活と直接結び付いた技術も、根底で支えている農業や林業の衰退とともに、いつの間にか消えてゆくことになる。国の「経費の一部補助と公開に関する負担」は充分とは程遠い額であることは衆知の事実であり、当事者の誇りと「贅沢はしなくとも技術は守らなければ」という求道者的心意気に支えられている面が大きい。
 日本古来のエ芸品は「美しいものと共に暮らす心地良さ」を持っている。これは作者が素材を単なる自已の表現手段としてではなく素材に対する親身な付き合い方を通して、その技術を磨き上げていったからではなかったろうか。しかし生活様式の変化と価値観の多様性は、手仕事の存続を徐々に追いつめているのは事実である。
 過日、名入れの番傘を注文した先から電話があった。
 「仕上がったので明日発送しますが、実は名前を書く提燈屋さんが亡くなったので孫に当たる人が書いたけれど、どうも字が上手くなくて……勘弁して……。」
 この電話のあと、私は技術の存続を願って乏しい財布をはたいて琉球藍の追加注文を出した。残って欲しいものはまだまだ沢山ある。