折り紙 「内包するカタチ 外包するカタチ」
生活空間の選択 -どこで生きていきますか- 三宅哲雄
「ついにきたか!」という思いで壁によりかかるが立っていることができず床に座り込み、ただ揺れが収まるのを待つが、なんと永いことか…。幸い家や家具の倒壊を免れ怪我も無く生きている。 命の危険を感じるときが人生で多くあってほしくないが、その危険から免れると危険の度合にもよるが日が経つにつれその恐怖を忘れていく。生きつづけていくには恐怖という記憶を心の奥にしまい込み、代わりに夢や希望が生まれることで生きることができる。
でも、忘れてはいけない忘れられないことはある。
1996年12月20日発行のART&CRAFT vol.6に「糸からの動き」という原稿を掲載したが改めてその一部を下記します。
動くかたち
阪神大震災から二年になろうとしています。被災地での復興もようやく緒についた感がありますが、まだまだ時間がかかりそうです。このところ関東地域でも震災の影響を感じることを多く見聞きいたしますが最も顕著なのは首都高速道路の橋脚補修工事で高速道路の下のセンター寄りのレーンを通行止めにし、橋脚の基礎を補強すると共に橋脚に鉄板を巻き、橋脚の強度を高める工事です。たしか、アメリカのロサンゼルスの大地震の際、建設官僚や学識経験者と言われる人々は『日本の道路は安全です。関東大震災級の地震があっても倒壊しない設計がなされています。』と発言していたように記憶していますが何故この安全な道路を補強するのでしょうか。また、最近のマンションやプレハブ住宅の販売用チラシ等で目に付くのは耐震設計とか耐震工法・耐震構造という言葉です。国民の多くが阪神大震災の脅威をテレビ等で実感し、今日迄の道路やマンションそして住宅に不安を感じているので、より頑強な建築物に補修したり、地震に対する安全性を売り物にしているのでしょう。西欧の構築物の歴史は自然(人を含む)との戦いの歴史であり、今日迄ピラミッドなどを除けば全ての歴史的構築物は倒壊や廃墟と化し、自然との戦いに完敗したと思われます。しかしながら、この戦いの思想『より強く、より堅牢で』が都市計画から我々の身近な衣類まで物づくりの思想として今日でも顕在ですが、最近になり、戦う思想から生まれた耐震構造ではなく、受け入れる思想から生まれた免震構造の建築物が実際に建築されています。このような思想に基づいた人間の知恵は最近生まれたものなのでしょうか?日本の伝統木造建築の研究を続けている日本大学芸術学部教授深谷基弘氏にご意見を伺いました。『日本の伝統木造建築における土、風、光、水、人とのかかわりについて教えてください。』という質問に『建築は自然に対抗するのではなく、自然を受け入れる、いや自然そのものである』という職人の知恵と工夫を教えていただいた。その中で特筆すべきことは各種の木組み(継手、組手)の仕口には、楔や太柄という部材が使用され、仕組まれている。柱は本来、円柱が原則であり、材の加工には、材を生かす道具が使用され、建築するとのことです。代表的な例として“槍鉤"等があげられます。こうして建てられた建築物は気候の変化や少々の地震のエネルギーを建物全体で吸収し、限度を越えたエネルギーを受けた場合はバラバラに倒壊するが、すぐに再構築可能な状態で倒壊するのだそうです。倒壊しないように造るのも人間の知恵ならは倒壊を予想して造るのも知恵なのです。 少し視野を広げて見ると人間を含めた自然のエネルギーを受け入れ、固定した「かたち」でなく「動くかたち」の物づくりは伝統木造建築だけでなく私どもの身の回りに数多く現存していることに気付くでしょう。着物、折り紙、住居、流れ橋、南京玉すだれ、等々、自然の素材に人間の知恵と工夫を加え、一見固定した「かたち」を保持しながら自然や人的エネルギーを受けると「かたち」を変えるが、決して当初の「かたち」を失ったわけではなく、多くの「かたち」を保有しているのです。このようなものづくりは西欧文化から生まれたものでなく東洋の風土から生まれたものと思われますが、戦後の民主化と高度経済成長という西欧化の波により先に述べたような固定した物づくりや生活様式が一般化し、東洋の物と思想が失われる結果となりましたが一般にいうバブルの崩壊により「物を所有する豊かさ」から「真の豊かさとは何か」を考えるようになり今日までの固定した政治、経済、教育等々に疑いの目を向けるようになったことは事実でしよう。しかしながら、幼少の頃から受けた家庭内外の教育や社会人となり生産性、効率制、利益第一主義の社会で生きていくすべを身に付けた人々にとって今日の社会変化を肌身で感じることはあっても、いかに対応したらいいのか判らないというのも現実ではないでしょうか。昨今のRV車ブームはその一つの捌け口として自然との接点を求めてはいるものの、自分の足で土を踏みしめ、全身で自然を感じるという方法を選ばず、車という動く個室を利用して普通車では入る事が不可能な山川に立ち入り人口環境とは異なる自然環境に都会と同様の快適さを維持しながら踏み込むことを可能にしたからでしょう。この現象は固定したものの考え方から一歩も前進したものでなく、ただ方向を少し変えたにすぎないと私は思います。都会の喧騒を自然に持ち込み、むしろ自然破壊を促進する結果となるでしょう。(以下略)
阪神淡路大震災から16年が経ち、震災の中で生を得た子供が選抜高校野球大会に出場し甲子園球場で活躍している。思い起こせば私が高校生であつたころ(1960年)チリ地震津波が三陸海岸を襲い多くの命が奪われたことや過去の津波の教訓から大型公共工事で防潮・防波堤を構築する計画が推進された。その背景は後に高度経済成長期と呼ばれることになる浮かれた10年の始まりであった。1964年には東海道新幹線が開通すると共に東京オリンピックも開催され1970年の大阪万国博覧会までの日本列島はゴールドラッシュさながらの喧騒でうかれ、人々は何でも出来るという風潮が席捲していた。自然環境に恵まれた日本人の文化は自然エネルギーを如何に利用するかで育まれてきたが経済成長という巨大な渦を動かすエネルギーが求められ1963年茨城県東海村に日本初の原子力発電所が開設され、1971年3月には今回津波に襲われた福島第一原子力発電所が稼動してエネルギー需要に答えてきた。 高度経済成長は政府や経済界そして多くの国民によって生み出されたものであるが、一方、日米新安全保障条約の締結、成田三里塚闘争、などの国内問題や1960年~1975年迄続いたベトナム戦争など全世界で経済成長に伴う自然破壊や矛盾が問われてきたがアメリカを始めとした資本主義国家の動きは2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件迄その方向性を修正することはなかった。
生まれ育ち、手の届きそうにないような大きな夢や希望を持ち、多くの困難を乗り越えて人は生きていきます。幼い頃、地位や名誉も無い頃、経済的に貧しい頃…は上を目指し努力します。しかし、それらが一つ一つ解消され物的や経済的豊かさを得、それなりの地位や名誉を獲得すると失うことを恐れ保身になります。私は今日迄多くの優秀な人々との交流を持てたことは幸せでありますが哀しいものでもあります。夢や希望は内向きになり、お金や物に執着する姿は見たくありません。
多くの資産が失われ、復興に必要なエネルギーも短期的に回復することはありませんが物や情報の豊かさを超えて自然と共棲する「ふるさと」の再生に向けての暖かい多様な支援と活動が持続的・継続的に生まれることを願います。