ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「作る・考える・書く」 関島寿子

2015-08-01 09:30:16 | 関島寿子
1996年2月20日発行のART&CRAFT FORUM 3号に掲載した記事を改めて下記します。

 黒地に自でWRITE IT DOWN と大きく印刷したTシャツを私は持っている。7・8年前、ニューヨークの北にあるカトナで地域のバスケット製作者グループの為にワークショップをした時、記念に贈られたものだ。期間中、私は繰り返し「書き留めなさい」と言い続けたので、この特注の標語付Tシャツをもらうことになった。後日送られてきたニューズレターに参加者の一人エレヌ・フリードマンさんはおもしろい体験談をまとめていた。要旨は次の通り。
 「私は読むのは好きだが、書くのはにがて。なのにヒサコは三日間も私達に実験したことを細大もらさず書き留めさせた。半信半疑ながら意識の流れを辿るように、オートマテイズムの日記みたいに書き続けた結果、材料や技法や作家としての自分を再考するすばらしい体験ができた。(中間略)
  書くメリットをまとめて見ると………
    1.記憶の助けになる
    2.考えを視覚化できる
    3.簡潔に整理、要約できる
    4.重複を避ける
    5.系統立てられる
    6.参照できる
    7.関連性が見えてくる
    8.言語と思考が精緻になる。
 これが彼女がまとめた、私のワークショップの効用だ。私はこのシリーズを通じて独習の方法を書いて来たが、その最重要点は書くことによって、分析し体系づけ、視覚と結びつける事なのだ。エレヌさんは、見事にそれを箇条書きにしてみせてくれた。
 書くといっても、文章で書くのではない。単語で書く。半切位いの大きい紙に気づいた事を何でも書き散らす。でも、ただの連想ではダメ。ちゃんと実験して、手と目で確認したことを書く。似た事柄は自然に一箇所にまとまってくるはずだ。あまり無理に分類したり、早く意昧づけをし過ぎると、既成の見方しかできないので、最初は、あまり考えずに書くのがコツだ。調査をする時に、あまり結果を想定してすると、事実を見そこなってしまうのと同じだ。自分の気づいていないものを意識化するには、注意深く、しかも、先入観を持たずに、書く必要がある。沢山の言葉が並んだら、同類の観念を色ペンでマークしたり関連性のあるものを線で結んだりする。又、その同類の観念に呼び名をつける、それによって意味を抽出していくのだ。
 白分が何にどんな関心を持っているのか、それが、更には、かご作りとか工芸とか人間がものを作る活動とどう関連するかも少しづつ明かになる。書くのは作るのとつながっているのだ。
 エレヌさんは先程の文の末尾に、「……とうとう私は何故書くことが大切なのかを書く役目まで引き受け、この文を書くハメになってしまった。今も書くのは嫌いだけれど、このレヴューを書くのは楽しかったわ」という落ち迄つけて締めくくった。半信半疑の読者の皆さん、考える、作る、書くの不思議な循環に飛び込んでください!        

ドローイング代りに考える 関島寿子

2015-04-01 08:22:22 | 関島寿子
1995年10月20日発行のART&CRAFT FORUM 2号に掲載した記事を改めて下記します。

 私はよく人に、「こういうものを作る時、予め紙にドローイングをするのか」と質問される。答えはノーなのだが、そう言うと、私が場当り的に、枝や樹皮を格好よくアレンジして作っていると誤解されそうで心配になる。実際は多くの時間とエネルギーを作業以外に使っている。紙とペンでドローイングする代りに、どうやら私は考えているらしいのだ。これまで5回にわたって書いて来たことはその一部だ。それと作ることが、どんな風に結びついてゆくのか、今回、単純化した例で説明してみることにする。
 その前に各回の主旨を通して見ておこう。
 第1回「学び方を学ぶ」(『テキスタイル・フォーラム』25号94年)では、創作には、技法以外に、人から習う事のできない何かが必要であり、それを自力で獲得する道程が創作につながると主張した。第2回「自分に向けて設問する」(同誌26号94年)では、形を企画する以前の段階を意識的に設定して、自分の中に隠れているものを引き出す方法を例示した。第3・4回「素材を相手に独習する(1)と(2)」(同誌27号94年と『アート&クラフト・フォーラム』準備号95年)では、各自が自前の素材観を持つ必要性を指摘した。なぜなら、素材という、使用を前提にした呼び方が示すように、作り手と物質の関係は定式化しやすい。本当に新しいものを作るには、常にそれを見直す必要があると考えるからだ。そして第5号、前号に続く。そこでは、民具のかごを模作する事を奨めた。それによって、技術を独習できるのと同時に、自分の判断力や発想が、他との比較ではっきりするからだ。
 さて、ここに枝がある。私が、その曲がり方がおもしろいと感じたとする。こんなとりとめのない所からでも作品作りは始まることがある。確かなことは、自分が、その曲がり方に、なつかしさや、好ましさを感じるというような事だけだ。そこで私はストレートに、何故そう感じるのか、何故今改めてそれに気づいたのかを自問する。作り始める前に答えを出そうというのではない。答えを知ろうと方向づけをしておくのだ。その一方で、実際に枝を用いて、どうすれば、そのおもしろさが形に表わせるか考える。すると次第に、曲げるとは何か、角度とは……、内側と外側の空間の質の差はどうして生まれるのかなどと、一般的な問いが湧いてくる。同時に、枝の物理的性質がよくわかってきて、それが自然と、形づくるための技術的回路にまとまるのだ。最初の感覚的で素朴な把握が、かごの構造のルールや、形が成立する一般論につながっていく。
 この過程は、ちょうど、枝という物質や手が、言葉や脳と同様に、考えることに加わったようなものだ。すると、不思議なことに、ただの枝、普通の動作や言葉が、私なりの重要性を持ち始める。「考える」といっても、これは「感じとる」のと中間のような事かもしれない。物と言葉の間を行き来しながら、私は自分の中から何かを引き出し確認しているのだ。「引き出す」という意味の英語はdraw。ドローイングと同語だ。本来ドローイングにも同様の内面的な作用があるということなのだろう。  (了)

「かごを相手に独習する 」 関島寿子

2014-12-10 15:56:32 | 関島寿子
1995年7月20日発行のART&CRAFT FORUM 創刊号に掲載した記事を改めて下記します。

 前回には材料と工法をあまり固定的に結びつけて見ずに、様々の可能性を受け入れられるような柔軟な態度で物質とかかわることによって、創作のチャンスを広げられることができるという事を述べた。今回は同様な融通のきく見方を身近にあるかごに向けてみようと思う。何でもないかごが急に雄弁に語りかける教師に変わるはずだ。
 今年で発行十年を迎えた『バスケタリー・ニュース』に人気定番の企画、「オリジナル・レプリカ全集」というのがある。最近号の「アマゾンの葉かご」で42回目を数える。毎回、世界各地のかご類の作り方を原物を見て推理解読して、手近な材料で複製し図解を載せる。編集者は解読人の投稿に従って実際に作ってみて、予想外の発見等を「蛇足」と称してコメントする。模造品を作れるようになっても大した意味はないと疑う人もあるかもしれないが、そんな事はない。見ただけではわからない事が色々わかってくる不思議さは何とも楽しいものだ。百見不如一蝕!
 かごというのは一種の組立て技法なので、見るだけでも構造のあらましはわかるものなのだが、実際に模作してみるとまた別の面が見えるのである。たとえばこういうことだ。話をわかりやすくするために、かごとは少しちがうが、「紙を二重にして何かを包んだような物」を模作すると仮定する。紙二枚で包めばいいのだと了解して手近な材料で似た事をしてみる。するとたちまち、いろいろな問題が起こってくる。曲げる度に二枚がズレてきて納りが悪くなるとか‥‥。曲がりなりにも似たものを作り上げるのには、内側になる紙を薄いものにするとか、少し小さめに切っておくとか、何か工夫をしなければならない。材料の厚みや柔軟性、包まれる物体の形などが複雑に関係することが身をもってわかる。
 このような具体的な問題解決のプロセスをよく観察すると、造形上のテーマがいろいろ発見できる。たとえば、ズレとは何か、層が重なるとは何か、曲げるとは‥‥‥.立体と平面の関係は……、厚みとは何か等々。これらの問いを白分に向けて見る。立体またはその成形についての観念がとても自然なかたちで問い直されるはずだ。
 アマゾンのかごを日本のシュロの葉で模造する目的はコピーする事ではないのだ。たとえ似て非なるものができ上がったとしても、使ったこともないアマゾンのヤシの葉や、それを巧みに使いこなしたオリジナルの作者がとても身近に感じられて嬉しくなる。ついでに、もちろん、シュロの葉の性質もよくわかってくるし、レプリカの作者である自分自身の技術力や発想力も客観的に評価できる。
 このシリーズで私か書いている様々の独習法も、かごの模作と同じで、読んでみるだけでなく、実際に手を動かして試してみると、効果がもっとよくわかるはずなのですがー----。こう書いている私自身、「オリジナル・レプリカ全集」と「蛇足」を読んで感心するだけで、実際に作って見ないことが多いので、独習のチャンスを日々逃がしていると反省している。

「素材を相手に独習する-2-」 関島寿子

2014-08-01 08:49:17 | 関島寿子
1995年4月20日発行のART&CRAFT FORUM 創刊予告号に掲載した記事を改めて下記します。

 当たり前のことだが、動植物なら各々の生理に従って、鉱物などなら物理に従って存在しているのであって、初めから「素材」であるわけではない。使おうとして初めて人は物質が持つある性質に気づき、利用できるようになるのだ。技術はこの時点から生まれてくる。私にとってかご作りのおもしろさは、このように素材として植物を再発見し、自分独自の技術の誕生を味わう事だ。造形の場でいう素材とは、かたちを作るのに直接用いられる材料となる可能性を秘めた物質のことだ。この三つは、人が物をどういう目で見るかの段階または三つの相とでもいうものだ。創作のチャンスがそこにある。

 オルレアンに住んでいた時、私は古い運河の岸辺の薮で、ヘギ材によさそうな真っ直ぐ伸びた何かの若枝をみつけた。竹などを割るように1/2、1/4と順に均等に割ろうとするがうまくいかない。仕方なく一本づつ削っていたら、削りかすばかり出て使える分は少ししかとれずがっかりした。ところが、ふと気がつくと、床に散った削りかすは光沢があってなかなか美しい。結局私は枝全部を削り尽して、大きな器に山一杯の、いうならササガキゴボウのようなものにした。それを別の長い樹皮で縫い固めて作ったのが、最近皆さんが時々目にする、フワフワボールのようなかごだ。長い枝はなるべく長いままを生かして使うのが素材を生かす事だと思い込んでいたのとは逆の結果になった。短い繊維を合体して、例えば績ぐとかするのが繊維を使う技術の基本だと心得ているつもりでも、素材に対する反応が柔軟でなければ、二つをうまく結びつけて見ることはできない。

 物質の中からどのような性質を自分が読みとるかという事を、少し離れて観察していると、自分が今何を考えているのかとか、何を見逃しているのかとかを冷静に知ることができておもしろい。このように、物質の領域と、自分の領域を、材料として使うという働きかけ方で関わらせる時、自分固有の素材観ができ固有の技法が生れて来る。それによって作られたかたちは、私のものの見方を反映したものになるはずだ。
 ところで、この若枝には後日談がある。プロヴァンスのアヴィニヨン近<の村でかご作りのフェアがあった。ブルボネーズ山地の村から来た職人団が、この枝を使っていた。ノワゼットというハシバミ類だとわかった。刀先がそり返ったナイフで枝先から数センチのところを浅くそぐように切り込んで、次に、枝全体を膝に当ててそらせる。すると縦に裂目が走って均一の薄いヘギが取れるのだ。必要な部分だけをはぎとるといった感じの方法なのだ。ヘギ材にしてみようという私の初めの見当ははずれていたわけではなかったのだ。昔ながらの方法を知るのは大事だ。でも翻って、もし私がこの方法を初めに習っていたら、削りかすを縫い固めるかごを思いついたかどうかわからない。

 ぶ厚い壁に囲まれた空間を作る事を私は長く夢みていたし、最も短かい材料でかごを作るという実験もできた。それまで「縫う」ということは平面を継ぐことに限定されていたのだが、立体的に絡めて一体化する方法として拡大解釈された。削った枝のかごは私には意味深い。
 「素材」という段階は、このように、様々の思考や感覚の種を育てる状態だ。そこでは物質の領域と、自分の意識の領域が、混在して、新しい統合のチャンスを待っている。  (了)



「素材を相手に独習する 」 関島寿子

2014-02-14 12:49:38 | 関島寿子
1994年12月25日発行のTEXTILE FORUM NO.27に掲載した記事を改めて下記します。

 本紙二十五号では「学び方を学ぶ」という題で、独習法の発見と創作の関係を説明した。二十六号では、独習法の具体的方法の一つとして、「自分に向けて設問する」ことを述べた。形のために形を考えるのではなく、作品の中身と形や手法を同時に発見するための、一種の概念的な方法はいろいろ考えられる。前回のもその一つであり、今回から考えようと思う素材の領域からの発想も、もう一つの可能性だ。単純に素材からヒントを得るというのではなく、素材とは何か、素材と創作の関係とは何かを根本から考え直そう。独創的な素材観が創作の一側面となる予感がする。言うならば「素材を相手に独習する」ことが創作にっながるはずだ。
 今年の秋、東京国立近代美術館の工芸館で「素材の領分」展があった。担当学芸員の樋田豊次郎さんが前号にも趣旨を書いておられたから、読んだ方も多いと思う。実際に展覧会を見た方もあると思う。そのギャラリー・トークで古伏脇司さんは、「“漆という素材について再認識した内容が、即表現の中身なのだ”と話しても、現代美術の場では、わかってもらえない」と、もどかしそうに話していた。私自身、素材というのは、表現手段に止まらず、表現の中身になりうると考えているので、彼の発言がよくわかる。と同時に、現代美術の発生や発展の経緯を考えれば、わかってくれない理由もよくわかる。ここで、私なりの歴史的な把握を述べる余裕はないが、「個人的な素材観が表現の中身になる|ということを改めて主張する事が、漆にしろ、かごにしろ、工芸から派生した造形を探究する人の役目なのではないかと私は思っている。
 これまで、素材と創作の関係と言えば、己を引っこめて素材の声を聞くか、さもなければ、自己表現のための手段、材料として素材を支配するかの二極に分かれていたようだ。各々の立場から、「ああ、またか!」と聞こえて、来そうなほど、使い古されたスローガンだ。
 双方からの非難はある意味で確かに当たっている。素材から受ける制限を簡単に容認してしまうと、その事に白虐的な快感を覚えたり、それを伝統の重みだと勘違いすることになりかねない。すると、古い使い方から踏み出せない。又、伝統的製作でない場合でも、素材の神秘な力に頼るというような姿勢だと、製作は場当たり的になり、骨子となる個人的思想を構築できない。
 他方、自己表現からばかり考えていると、物質の論理として目前に示されている現実から学ぶことができなくなる。自分の都合ばかりで物を見るからだ。思想に見合う材料を次々と求めるあまり、物質とのかかわり方は浅くなり、手でものを作ることから思想へのフィードバックが起こらない。
 いづれにしても、どちらかに片寄った視点では、自分以外の存在である物質というものに対する一貫した考えを自覚しにくい。しかし、双方の欠点をよく観察して見ると、二つが凹凸のはめ込みパズルのように相互に補完する関係にあることがわかる。 ということは、一方を他方の論理で修正しつつ、二つを結びつけるなら、新しい素材観が生まれて、今までとは違うかたちで造形に役立てられるのではないか。
 次回は、物質-素材-材料-物質……の三相の循環の中で創作が行われる事、物質領域と自己の領域の関わり合いなどについて話す予定だ。