ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「闇色の眼」 榛葉莟子

2016-01-23 10:06:51 | 榛葉莟子
1997年3月20日発行のART&CRAFT FORUM 7号に掲載した記事を改めて下記します。

 春一番の強風のなか、風をよけようと横町に曲がった。シャッターの降りている店と店との間の隙間に、猫がサッと走り込んだ。猫も風よけだ。こんな日は、八ケ岳は吹雪いてるだろうなあと、ふと思ったら、猫のこと、犬のこと、鶏のこと、あいらしい顔や声やしぐさが頭をかすめた。
 犬、猫、鶏などと、 一緒に生活できる環境であった頃、そういえば、もうひとつの生き物が、身近にいた。それは、冬になるとどこからともなくチョロリとやってくる。はじめて、それに気がついた時、あまりの小ささ、可愛らしさに、ひめいをあげる前に、かわいいという感情が先にたったブローチのようなねずみ。図鑑を開いてみる。ヤマネだろうか、ヤマネズミだろうか。いまも、はっきりしないが、ヤマネは冬眠するというから、ストーブの季節にやってくるブローチねずみはヤマネズミかもしれない。栗色の毛なみ、くりくりとした丸い眼、ほそくながいしっぽ。お皿に残っている猫の食べ残しがお目当てらしく、猫の留守を見計らっては、どこからともなくチョロリとやってくる可愛らしい冬の夜の訪間者だった。カリカリと、なにかを噛っている音が続く。秋ぐちに収穫しておいたくるみをみつけたのだろうと、そおっと、懐中電灯で音のあたりをのぞくと、いる。からだには大きすぎる程のくるみを両手で支え、さも、うれしそうにカリカリやっている。人の気配に逃げるでもない、このブローチねずみの冬の夜の訪間をいつしか待っているようになっていた。
 ところが、ねずみはねずみでも、天井裏で毎晩、運動会を繰り広げているねずみもいた。猫には見向きもしない、天井裏の先住者ではあるが、真夜中の騒々しさには閉口した。こらっと、天井をつつくと、しーんとなる。が、しーんはつかのまの静寂。とうとう、ある夜、ねずみとりを仕掛けることになった。
 ねずみとりを仕掛けるという事の目的は、ねずみを捕まえることであり、その後のねずみの運命は誰もが想像するそれであり、それ以外のねずみとりを仕掛ける理由は見当たらない。金網の上部から内側に向かって突き出た釣針状の針金の先に、ねずみの好みそうな食べ物の一片を突き刺し、その臭いに魅かれたねずみが、その空間に踏みいり、食べ物にほんのちょつとでも触れた瞬間、バネ仕掛けが働きバチャ。入り口は閉じられ、ねずみは出るにでられぬ囚われの身となる。
 真夜中である。さっきから誰かに呼ばれているような気がしてならなかった。呼ばれる声に起こされ眼をあける。うとうとしては眼がさめる。カーテンのあわせめから漏れているひとすじの月あかりが、生き物のように額にはいあがってくるこそばゆさがあつた。…さん、…さん、ああ、やっぱり誰かが呼んでいる。声は台所の方からか。わたしは、のこのこ起き出して、手さぐりで台所に行き電気のスイッチをひねった。突然明るくなった板の間の隅からガサッと音がした。仕掛けたねずみとりのなかにねずみがいた。ああ、かかったんだと、わたしは口のなかで言いながら、誰かが呼んでるだなんて夢でもみていたのだろう、バネの閉まる音だったんだと、電気を消そうとした時だった。
 …さん、と声がした。どきっとして声の方をみた。ねずみとりのなかから、じいっと見上げているねずみの眼と合う。呼んだ?と、わたしは言っていた。ねずみは、うなずいた。わたしは、しゃがむとねずみとりの金網に、顔を近ずけまじまじとねずみをながめた。びっしりと短い褐色の毛でおおわれた全身はつややかで、小刻みに震えているではないか。闇色の大きな丸い眼は濡れてひかっている。その濡れた眼が、じっとわたしをみている。闇色の眼とわたしの眼があわさるようにとまった瞬間だった。金網がゆがみ、ぐにゃりと変形しはじめ、床にくずれ、溶けた飴のようにとろとろと、流れていく。なにかちいさい声がして気がつけば、戸の開いたからっぽのねずみとりがぽつんと、床にあり、煮干しがひとつころがっている。ねずみはすでにいない。
 灯りを消し、手さぐりでベッドのなかに戻った。コトリともせず黙っている天井を見上げる。深い闇色の向うの存在を想う。
 パタンと音がして、ニャッと、耳もとで猫がないた。ゴロゴロと、のどをころがす柔らかな生命をふところに抱きしめ目を閉じる。  

「竹のドラゴンボール」 上野正夫

2016-01-20 14:09:25 | 上野正夫
1997年3月20日発行のART&CRAFT FORUM 7号に掲載した記事を改めて下記します。

竹のドラゴンボール(埼玉県秩父郡吉田町での試み)
 1992年の10月に千葉県安房郡三芳村で「素材・感じる自然展」という野外彫刻展が開催された。私と英国のValerie Pragnellの二人の作家が村から作品の制作を依頼された。作家が自分で作品の設置する場所を選定する事や、その場所から受ける印象を作品の主要なテーマにする事などで当時話題になった。この時に制作された作品を見に来て感動した吉田町の人たちから、私たちの町でも同様の制作ができないかという相談があった。
 そのころ若手建築家の日詰明男が、自ら考えた星篭を竹を使って大きなスケールで作って見たいと考えていたので吉田町の人達に紹介することにした。彼は高次元幾何学の専門家で準結晶建築を実現するための具体的な架構技術をすでにいくつか発見していた。星篭もその一部であった。吉田町の人たちは星篭の制作にあたって、ボランティア・グループを結成した。30代から40代の人達が中心のこのグループは日詰明男の星篭をもじって「星ボックリの会」と名づけられた。文化活動がボランティア・グループによって始められ、その後、NonProfitable Organization(非営利機構)やFoundation(財団)やSocity(ソサエテイー)に発展していく事は、欧米ではめずらしくない。けれども日本では、造形美術に関する活動に対して人員や資金の支援をするために自発的にグループが組織された例はまれだ。今後予想される政府による関連法案の整備に合わせて星ボックリの会の組織もはっきりしたかたちになってくるのかもしれない。欧米での文化活動の現状をかんがえると、日本にはめずらしい将来性のあるグループだと言える。

 日詰明男の計画にしたがって星ボックリの会は長さ6mの真竹を300本伐採し制作を手伝った。竹は水はけのよい急な斜面にはえている場合が多いので、伐採の作業は急斜面の藪の中を6mの竹をかついで上り下りする事になり、慣れている人でもかなりきつい仕事だ。藪蚊との闘いも大変だったようだ。1994年の11月には300本の竹の伐採を終えて制作を開始した。その冬には日詰明男と星ボックリの会による直径8mほどの星篭が西秩父を見下ろす丘の上に完成した。日本で最初の準結晶建築の実現でもあった。この作品は筑波大学で開催された形の科学会で発表され大変好評だった。彼はこの後、町の保険環境課からの依頼で「黄金比の階段」を作った。小さな谷の勾配をたくみに利用して自然素材で作った階段は風景の中に溶け込んで、違和感を感じさせない。階段の歩幅が黄金比になっていて歩きながら黄金比のリズムを感じさせるように設計されていた。風景に調和して、さりげなく道路の脇から山頂に向かって延びているこの階段は、コンクリートの土留で覆われた山道の単調さに比べれば数倍楽しい。このような完成度の高い作品を受容する地域には、それを判断するためのある種の共通な感覚に基づく基準がまだ残っている様に思える。秩父地方は関東でもかなり古くから開けた地域で、かっての文化的な蓄積が今も息づいているのにちがいない。

 1995年の2月には山形県山辺町の「まんだらの里雪の芸術祭」で招待されて来日したイギリスのTrudi Entwistleが山形からの帰りに一週間ほど山逢いの里に滞在した。彼女は私の友人のIan Hunterという彫刻家の大学での教え子で、植えた柳を編み込んで大地に根付いて成長する彫刻を作り出すまだ20代の作家だ。関東で柳が芽吹く2月の下旬が柳を植える時期だといわれる。星ボックリの会の人達は町中の柳を探したが、造形に適した行李柳は見つからず、河原に自生していたネコヤナギ等を植えて作品が制作された。柳は水辺を好み、枝をさしただけで簡単に根づく生命力のある植物だ。今では、龍勢会館の水辺に作られた作品の一部は完全に根づいて、今後の展開が期待される。生きた柳を毎年編む事によって形を作っていく彫刻は植えた瞬間には完成しない。その年に伸びた枝をそのつど編み込むことで少しずつ形を形成していく。むしろそこに住んで毎年作品を管理する側の人達が作品を完成させると言ってもいい。その意味では、Trudi Entwistleの仕事はそのきっかけを作っただけかもしれない。その後、彼女はいくつかの計画案を星ボックリの会へ送った。

 私は1996年の4月から1997年3月まで東京テキスタイル研究所で「竹の教室」という講座を担当した。竹を単なる素材としてではなく、それをとりまく環境やその地域の文化も含めて竹そのものを総合的にとらえることを目的とした講座だ。97年の1月と2月は、吉田町の山逢の里で合宿し、野外作品を生徒達が中心になって共同制作した。「山逢の里」は吉田町下吉田に出来たキャンプ場で、コテージや宿泊棟や大きな浴室棟もあり野外活動のためにはかなり充実した施設だ。参加した生徒は実際に工芸作家として活動している人や教えている作家がほとんどで、かなりレベルの高い人達だ。11月に現地調査をして12月の授業で各自が原案を出して話合った結果、直径2m程の球体を3個、山逢の里に設置することに決まった。竹を使って球体の篭を三つ作ると言うことだ。使われる長さ6mの真竹30本は12月から1月にかけて星ボックリの会の人達が伐採してくれた。構造体は私が設計した。アジアやアフリカで古くから竹や藤を使って作られている鞠の形を骨組みとして利用した。実際のデーターはフラー(Buckminster Fuller)の作った物を参考にして、数理計算ソフトのMathematicaを使って作成した。この骨組みの方法は篭製作者の間で広く知れ渡っているが、大きな物を作る場合どうしても構造上の設計が必要とされる。

 1月11日と12日の吉田町は快晴だった。11日の1時頃に現地に着いて2時から竹の加工と骨組みの制作を始めた。竹割りと最初の骨組みの制作は私が担当した。先週積もった雪がまだ地面に残っていたが、日光の当たっている間はなかなかここちのよい温度だった。4時頃に秩父の山なみに日が沈むと、野外の気温は急激に下降し制作は困難になった。野外での制作は気象条件がかなり影響する。最初の骨組みの制作はすんなりとは行かなかったが、次からは順調に進み、12日の夕方には予定どうり骨組みが3つ完成した。直径40cmくらいの小さな球体が大きな球体といっしょにあると面白いという意見が生徒から出て、生徒達は家でそれぞれ1個ずつのちいさな球体を作ってくることになった。

2月1日と2日も晴天で作業はかなり急ピッチで進んだ。前回の制作で皆が竹のあつかいや現地の気象条件に慣れたのと、鞠の構造を体でおぼえた事が幸いした。人数も前回よりも多かった。3人の生徒と三宅校長親子とバスケタリーニュースの取材に来た篭作家の本間一恵氏と星ボックリの会の人達で十数人の集団になった。午後には目黒区美術館の榎本寿紀氏もかけつけた。骨組みの間にランダムに竹を編み込んでいく作業を続けた結果、生徒達が家で作ってきた3個の小さなボールと合わせて合計7個のボールができて、ボールの一部は龍勢会館の庭にも設置する事になった。龍が手に持っている宝珠(ドラゴンボール)の原形は意外にこんな形だったのかもしれないと思った。

 吉田町は龍勢で有名だ。毎年10月10日の祭りには全国から見物客が吉田町に集まり、静かな山里の様子は龍勢の豪快な発射音と共に一変する。龍勢は長さ十数mもある真竹の先に火薬をくくり付けロケットの様に天空に向かって飛ばし、その年の豊作を占う壮大な祭りだ。竹のロケットそのものも龍勢とよばれている。中国の雲南省やインドシナに広く見られる古くからの水神にちなんだ行事だ。龍勢は泰族の水かけ祭りの際に行われる龍舟のレースの時にも打ち上げられ、中国では高昇と呼ばれている。「龍勢会館」はアジア各地の龍勢を展示したり、吉田の龍勢をビデオで見せたりする、世界で最初の龍勢にかんする博物館だ。龍勢に関する研究センターでもある。町では、中国の雲南省シーサンパンナ泰族自治区まで現地調査に行っている。この時のビデオを見せてもらったが、雨期を直前にした景洪の町を流れるメコン河の河原で、竹で作ったいくつかの発射台から次々に打ち上げられる竹のロケットはすざましいものだった。泰族の水かけ祭りでの光景で、これも水神に関する祭りだ。私は竹に興味があって、かって一カ月ほど景洪の町に滞在した経験がある。近郊の村々では、寺院の仏像の背景には必ず水神のナーガが祭られていた。村外れの共同の井戸はとても大切にされ、村ごとに特徴のあるカラフルで装飾的な屋根がかけられていた。

 水神はインドシナではナーガで、中国に渡って龍になったといわれる。フラーの著書、TETRASCROLLやCritical Pathを読み返して見ると水神のナーガに関する記述がよくでてくる。フラーは竹などの六つ目編みによる篭の製作技術は竜(ナーガ)を信仰する海洋民族によって、南太平洋やアジアやアフリカのマダガスカルや南米の一部に伝えられたと考えていたようだ。六つ目編みによる竹篭を竜を信仰する海の民が伝えたとする解釈だ。中国語では、龍も籠もロンと読み同じ発音だ。ウーロンチャ(鳥籠茶)のロンだ。おそらくナーガ(龍神)の信仰と縄や篭の製作技術は大古の同時期に相互に関連しながら発生したものなのだろう。力学的にみると、縄も篭も一種のエネルギー集積装置だ。
 晩年のフラーはナーガに関する著書を出版する計画をしていたとも言われている。六つ目編みの六角形は球面を覆う為には12個の五角形になる。12個の五つ目編みによって編まれた球面がアジアやアフリカの海辺で古くから竹や藤を使って作られている鞠の形の一つだ。これがフラーが提案した31個の大円のうちの6個の大円にあたる。
竹は雨期のある地域に成長するし、加工する時もよく水につけるので水と関係が深い。そもそも青竹そのものの比重は水に近い。そんな事もあってか、竹の教室の生徒達と星ボックリの会の人達によって作られた7個の球形の篭は竜にちなんで「ドラゴンボール」と名づけられる事になった。











「文明開化以前」 高橋新子

2016-01-18 11:18:36 | 高橋新子
1996年12月20日発行のART&CRAFT FORUM 6号に掲載した記事を改めて下記します。

 過日港区芝公園近くの交差点で信号待ちをしていたとき、近くに「ハイテクKOBAN」という看板を見た。外観はごく普通の交番であり窓には人影があって「ああ、お巡りさんが居る」という様子だった。いったい何がハイテクなんだろうと翌日問い合せてみた。広報担当者によると「対話システム」が設置されている交番のことで、巡査が留守の場合でも通報や相談に応じられるように、テレビ電話がある、操作はきわめて簡単ということだった。価格の点で、すべての交番に設置されているわけではないが、一度是非立ち寄って見て下さいという妙な誘いを受けてしまった。
 ハイテク機器は日常生活の中にどんどん入り込んでいるが、我が家ではそれを充分に使いこなしてはいない。電話のシステムにしても、組み込まれている機能の十分の一以下しか使いこなせない。たくさんあるリモコン装置も一度停電すると、インプツトのやり直しに手間取ることになる。多すぎる機能や情報は時としてやっかいなものとなる。
 かって古人達は草木を煮出して何度も何度も染め重ね、手間ひまかけて染織品を作っていた。そのまだるっこさが今風に合わないのか「早く濃く染める」為の工夫がどんどん進み、媒染剤や助剤が覚えきれない程の数で出廻ることとなった。中には自然界に存在するものの仲間や、その関連物質とは程遠いものもある。媒染剤でも助剤でも染めに対する反応が著しく、定着も堅牢なもの程弊害も起き易すく、中には毒性を持つものもある。最近銅鍋やアルミ鍋のように煮炊きで変色するものについて、食器の中に浸出する成分の危険性が取り沙汰されるようになった。銅もアルミも媒染剤の中では、最も一般的なものとして定着しているお馴染みの物質である。では古人達は何を使って染めていたのかと改めて考えることになる。
 文明開化以前と現在とを比べてみる☆染料は野山や平地にあるものと輸入品を少し。これは現在の草木染とあまり変らない☆媒染剤や助剤は椿灰、木灰、わら灰、石灰等の灰汁。天然の明ばん、鉄気水、鉄漿、梅酢、柚子やザクロの汁、米や雑穀のおかゆ。現在の品揃えは、とにかくすごくたくさんある。☆良質の水、よごれない大気、そして当時の絹。これは現在入手不能である。室町時代の能衣装や江戸の小袖を見た人の目に映ったあの佳麗な染織品の仕掛けは、もうごくありふれたものだった。私達は手に負えない程のハイテク品を揃えたが、基本的なものを失ってしまった。
 東京テキスタイル研究所で草木染の講座を受け持つようになって10年になる。染めるものは絹だけではなく木綿も麻もウールもある。それぞれの素材によって扱い方は少しづつ違うが、基本的には同じ理屈で染まってゆく。美しく堅牢な色を求めるのは当然のことではあるが、文明開化以前の技法についても考える場を持ちたいと思っている。さらに古人達が使っていた煮出し用の鍋についても知りたいことがたくさんある。                    

「イタリアの風土と美術」 松山修平

2016-01-15 10:57:12 | 松山修平
1996年12月20日発行のART&CRAFT FORUM 6号に掲載した記事を改めて下記します。

 イタリアと聞いて何を思うだろう。まず頭に浮ぶのがファッション、そしてイタメシという言葉が定着した感のあるイタリア料理。そして、いろいろな分野で騒がれているイタリアンデザイン。そしてスポーツ、忘れてならないのがサッカー、Jリーグ誕生以後スキラッチなどの選手も来るようになり『セリエA』という言葉もイタリアプロサッカーの最高リーグであることも良く知られるようになった。他に自転車のロードレース『ジーロイタリア』、トンバを代表とするスキー。そしてソフイアローレン、マストロヤンニなどあまりにも有名である映画。カンツォーネ。それから……それからアート。美術の話をしょうとしていながら、その前に頭に浮ぶことがあるのだからこまりものである。そして旅をすることを考えたら行きたい所だらけになってしまう。 20年いても、まだまだ行きたい所ばかりだ。旅の話は、別の機会に改めてお話ししたいと思う。一口に美術といっても先史代の遺跡、エトルスク、ギリシャ、カルタゴ、ローマ、ルネッサンス、バロック、近代では形而上学派や未来派、現代では、トランスアバングァルデイア、アルテポーベラ…、それぞれを追っても莫大な量になってしまう。
 ここで頭に入れておかなければいけないことは、イタリアがローマカトリックのお膝元であつた点であり宗教界からの制作依頼が具象美術の発展に果たした役割は極めて重要であり、それを決定づけたといっても過言ではないことである。
 このようなイタリア観を順にならべると、やはりアートは最後の方になってしまっている。つまり、ひとつにはイタリアの美術そのものがあまり日本に知られていないことを物語っているのだろう。イタリアでは反対にと言うか、マシジャーレ、アモーレ、カンターレなどとならび衣食住のバランスを保ちながら人生を楽しむためにアートを取り入れているということなのである。生活をより豊かにするためのアートということを生まれたときから知ってぃるようにも思える。多かれ少なかれ何らかのアートを生活の中に活している人が多いイタリアと本当の意味のコレクターが少ない日本との異いということは重要なことに思える。日本は版画の時代を経験し、これからアートの時代を迎えようとしているのだろう。
 そしてまた別のイタリアの特色は地理的条件の民である。歴史的に常に中心的な位置を示している。古くは地中海文化圏の中心であったしルネッサンス時においての君臨は、ここで改めて書くことはない。そして中心でない時でも、かならず深い関係を保っていた。それもイタリアという一つの国ではなく各地方の都市国家をしてである。そして約130年前に初めてイタリアとして統一国家になったわけで政治的には古きそして新しい国でもある。現在でも地方の歴史的豊かさに根差して、それぞれの地方の特色ともなっている。各地方ごとに文化圏を持っていると言い換えても良いだろう。先程のコレクターの話に戻れば大コレクターでなくても、沢山の小コレクターとしてアートを愛する人々が、それぞれの地方に居るということなのである。一方で小都市が政治・行政面で自主性を持ち文化的な自立を果していたからこそ、体系的ではないにせよ、そうした自治体の手で数多くの展覧会が催され現在の美術市場の誕生と発展に間違いなく貢献して来たのだろう。そして小さいながらも精力的に活動を行っている画廊は星の数ほどあり、あらゆる社会層に現代アートヘの関心が行き渡っている。そして美術市場を見る上で見逃せないのがアートフェアー(美術見本市)つまり画廊が集まっての展示即売会(日本でのNICAF)であり、その数は全国で約10数力所あるが、その中で一番重要なのは50年近く続いているボローニヤのフェアーで毎年1月に開催されている。その場はイタリアの画廊同士や海外の画廊との取引と交流に使われている。
 またヴェネッィア・ビェンナーレは100年にわたり同時代の美術の動向を知る上でも国際的な交流をはかる上でも最も重要な祭典であろう。開催時にはアメリカを初め各国の美術関係者がヴェネッイアに集まるといっても過言ではなく居ながらにして何らかの国際交流が可能な街でもある。これが先程言っていた地理的条件の良さということだろう。
 また別の特色としてイタリアの人口は5000万人であるが、その同数の約5000万人が移民などでイタリア外に住んでいると言われている。ただ我々は、このように言うと、すぐにマフイアを想像してしまうわけだか、この人々は南イタリアからの移民であるが北イタリアからの移民はユダヤ系イタリア人を含み、すぐにアメリカ社会に透け込んでいった人々が多い。例えば美術の分野でも有名な画廊のオーナーであるレオ・キャッスル(カステッリ)氏もイタリア系である。アメリカのアーティストと通常思っているアーティストでもイタリア系のアーティストも多い。あるいは結婚相手など親類にイタリア系の人がいたり、またイタリアにバカンスの家を持っていることがイタリアと関係している美術関係者もいたりする。つまり思っているよりもアメリカや他の国とも身近な国なのである。
 話は戻るがイタリアには一口に言って日本の日展や二科展のような大きな公募団体は存在しない。そして、また日本画、洋画、現代アートというような分類もない、この場合、何で描かれているという材質の違いよりは何を表現しているのかが一番重要な要素となっている。そして画廊とは別に評論家を中心として各地方の公共の建物を利用して企画される展覧会により、ある考え、美術論の提案が行われている。例えばトランスアバングアルディアはジェナッツァーノというローマから東に約50kmに位置する丘の上の小さな田舎町で、その町の中心にある古城跡を会場として1980年にボニート・オリーバが中心となって企画した「複数の部屋」展が生まれている。ボニート・オリーバはその後、そこで企画展を数回組織しているが、このような地方の出来事が世界のトランスアバングアルディアになりうるというのも先程の他の国との密接な関係があるからであろう。
 そして、もう一つのイタリアと日本との違いの中で重要だと考えられるのが遺産相続のことで、日本では通常3代で財産が無くなるなどと言われているように相続税には厳しいものがある。ところがイタリアを見ると、間違いなくその家が持っている財を、その家が保っているようである。それは、その財を通して先祖から守ってきた家風というものを後世に伝えられるということなのだと思う。それは安心して美術品を身のまわりに居き観賞できる。これこそ生活を豊かに楽しむためのアートが存在することだと思う。そして、ある人(例の小コレクターともいえる人なのかもしれないが)は、今の生活を楽しむために古い作品を手ばなして現代アートの作品を購入して家に飾っている。
 例えば私の知人にも家に入ると、サロンに1500年代の絵画と現代の絵が同じ壁に飾られている。
 そして国としてみたときイタリアは潜在的な文化遺産は計り知れない。この例は意味をなさないかもしれないが日本ではバブルのときゴッホの「ひまわり」が53億円という値がついた。それが今どのくらいの価値になっているのかは知らないが、それは、まだ値段がつく価値ということである。しかし、例えばダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ティツィアーノ、ピエロ・デッラ・フランチェスカ、…などの一点が市場に出たとして現在いくらとなるのか、どこかの国を売ることで購入可能なのか?などと考えるとイタリアが保有している世界の宝がどれくらいなのか計り知れないものであることがわかる。
 これらの家と国の財産の蓄えがイタリアの底力を示しているように思える。
 しかしイタリアが今まで書いてきたように全てが旨くいっているわけでは勿論ない。現在、非常に難しい時期を迎えている。相次いだ汚職による政治的不審と政党間の不調和など、諸々の政治不安定とECへの加盟のためにさらなる税金が予想されることなどから、公共事業への投資、例えば都市計画、地方自治体の開発や文化活動への援助、美術品の購入など、だれひとりしてイニシアティブを取ることを避けているようである。イタリアは国をあげて自分たちの個の財産を守るために解決策を模索中のようである。
 今回、現在の美術の動向というものを何人かの作家を例に上げて示そうかとも思ったが、それでは、あまりにイタリアの全体像が見えにくいように思い、このような内容となった。今後は他の国のアートの現状を調べつつ日本からのアートの発信をどのようにしていくべきか考える必要もあるように思われる。
 

「けはいをきくこと」 坂巻正美

2016-01-11 08:59:44 | 坂巻正美
1996年12月20日発行のART&CRAFT FORUM 6号に掲載した記事を改めて下記します。

 北海道に移住して、二か月が過ぎようとしている。雪が積って晴れた朝、雪原にドゥローイングが描かれていた。線は三つの点の連続で、森から出て細い道を横切り、なだらかな起伏の牧場で大きく回転しながら数回小刻みに方向を変え、一度交差して森へ戻っていった。野うさぎによるランド・アートである。白い画面の片側は、緩やかな曲線が空の青で切り取られ、反対側はカラマツの金色の細かい葉が散りばめられて、森に向かってグラデーションされている。
 目の前に広がる雪原と東京の風景との、空間の質の違いからどのような形が生まれてくるのだろうか。

 彫刻はイメージの物質化によって、空間の質を創造する。
 一つのイメージからは、無限に解釈が生じ、特定の解釈ができない。イメージは感覚的に受け入れる以外に方法がなく、論理的に理解することが成り立たない直感的な領域にあるものだ。
 彫刻として物質化されたイメージは、空間の質を変化させる。空間の質は、物と虚空の境界の有様によって決まってくる。
つまり、実の空間と虚の空間に、イメージの場を創造することが、彫刻の空間である。イメージは実の空間と虚の空間の境目から、内と外へ向かって無限にその波動を広げてゆく。
 彫刻の空間は、現実の社会の空間に創造的イメージを発し、その波動の広がりによって、少しずつ空間を変化させてゆく。

 近代の西洋彫刻の概念は、フォルム、バランス、ムーブマンから構成されるマッスの強さや素材の恒久性などにより、自然と対抗する形で人間の意思を物理的に存在させることを求めて進んで来た。これは自身の制作を振り返ってみても、実感させられていることだ。現在の僕の彫刻は、物理的な印象としての存在感を拒否して、虚の空間と実の空間の境界が、はっきりしていない。実の空間を構成するのは、灰、土、水、苔、繭、木の枝、蝋などの自然物が主である。形は空洞であったり、次の瞬間には、崩れて変化してゆくような、否恒久的素材で造られている。
 実の空間として在る個々の素材は、与えられた形や場所によって虚の空間に向ってイメージの波動を発し、空間を創造変化させてゆく。
人間の内面の精神的な現象であるはずのイメージを、物が内側から発している現象として考えてゆくと、無機的な素材が、有機的なものに見えてくる。イメージは、人の内面で起る精神的現象であると同時に、空間全体を構成している重要な素材であると考えている。
 イメージを素材と呼んで創造される彫刻は、空間に物理的な存在感の強さを求めない。そして、実の空間の素材は、恒久性を持たず、虚の空間に物理的な抵抗感を感じさせることの無いように、静かに置かれる。このような彫刻は、近代西洋彫刻の概念から遠く離れて行くであろう。

 彫刻を造る時、目の前に在る物が発しているイメージを、自己の精神の現象としてのイメージに重ね合せる。物に手を触れ、形を変える必要があれば、少し時間をおいてその時が来るのを待つようにしている。しかし、そのタイミングを逃す時の方が多い。手を触れる必要が無いほど素材と自己の内側のイメージが重なり合う時は、虚の空間に置く場所が見えて来るまで待っている。
 イメージを物資化するということは、自己の内と外に起きている様々な現象を素材に置き換え、感受したイメージに従って、空間を体系化するということであろう。
 僕の彫刻を見てくれた二人の鑑賞者の感想から、イメージと素材の関係について考えてみたい。一人は、「灰で造られた形からは冷たさと死や神聖な雰囲気を感じ、土の形からは温かさや生命力を感じる。」と語ってくれた。もう一人は、「作品の空間全体から静かで温かく包まれるようなイメージを感じる。」と語ってくれた。前者は、実の空間に在る土と灰の二つの素材を、対極的なイメージで捉えた感じ方で、後者は、空間全体の印象を直感的に捉えた感じ方であろう。
 作者のイメージによって物質化した彫刻は、個々の鑑賞者によって感受され、さらに創造がくり返される。そして虚の空間を通じ、作者と鑑賞者のイメージが交差して空間の質を変化させてゆく。

 この世界が、個々の人間の行動や思考によって創造されていると考えるならば、行動や思考の背景にはイメージが在り、僕には世界全体が彫刻に見えてくる。
この彫刻の素材は、個々の人間のイメージの集合ということか?妄想から叡智まで、心と脳で起こる現象あるいは、人の行動全体を指して彫刻の素材と呼ぶことになるのかもしれない。
 個々の人間のイメージの力によって、世界が創造変化してゆくというならば、イメージの物質化によって、空間の質を創造する彫刻表現は、ある種、神聖な儀式のような行為に思えてくる。
 僕にとっての彫刻表現は、この世界をどのように感受したかということを、イメージとして空間全体に浸透させてゆくことを望んでいる。
 素材が内包している現象を感受しながら、自己の内と外に在るイメージを構成してゆく。これは、虚の空間にただようけはいとしか呼びようのない印象をも、空間の質を創造する素材として捉えてゆくということである。