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橋本真之著「造形的自己変革」-素材・身体・造形思考 が刊行されました。

2016-07-08 13:18:51 | 三宅哲雄
橋本真之著「造形的自己変革」-素材・身体・造形思考 が刊行されました。

 このたび美術家の橋本真之氏の著作『造形的自己変革-素材・身体・造形思考』が、美学出版より刊行されました。
 『Art&Craft forum』で連載された「造形論のために」(加筆修正・改題:造形的自己変革)をはじめ、工芸と美術の境界を超えて造形の本質を探究してきた、橋本氏の造形論が本書にまとめられています。

ネット書店ほか、全国の書店で注文取り寄せが可能です。また版元の美学出版のHPからも直接購入ができます。
ぜひご一読ください。

三宅哲雄


『造形的自己変革 ─素材・身体・造形思考』
著 者:橋本真之
発行所:美学出版
    Tel.03-5937-5466/Fax.03-5937-5469
    URL: http://www.bigaku-shuppan.jp/
    E-mail: info@bigaku-shuppan.jp

「作品とともに歩む」 中野恵美子

2016-07-01 11:45:47 | 中野恵美子
◆「時相」240H×200Wcm 絹、和紙

2000年9月20日発行のART&CRAFT FORUM 18号に掲載した記事を改めて下記します。

21世紀への手紙②
 「作品とともに歩む」   中野恵美子(染織造形作家)
 
 カーテン越しに入る光がやわらかい。気管切開による独特の呼吸音が規則正しいリズムを繰り返している。ガンの転移により植物人間化した父を看病していた時の事である。美術方面に私をすすめたかった父の意に反し文学部に進んだが、作ることは嫌いではない。「親からもらった命を大事に生きよう。生きた証として自分の作品といえるものができたら……」遅まきながら一大決心をする。若い人に混じって予備校に通い翌年、東京造形大学に入学する。28歳だった。

 染織といえば着物または服地の制作が一般的であったが、大学へ入ることで、当時、タピストリー界では草分け的存在の藤本経子先生、島貫昭子先生に出会いその道へと導かれていった。技法書の少なかった時代に、島貫先生により紹介されたピーター・コリンウッド(Peter Collingwood)の「テクニックス オブ ラグ ウィービング」(Techniques of Rug Weaving)は、さながらバイブルのようであり、むさぼるようにサンプル織に励んだ。そうした環境のなかで、織物による表現の世界へと方向が自然と定まっていく。今でこそ工芸素材による表現は当たり前であるが、その頃は目新しくその可能性に胸を踊らせながら取り組んだものである。

 今、振り返ってみると、折り目節目に人と出会い次の世界へと展開していったのがわかる。そして移り住んだ外国での影響が作品の内容に変化をもたらしてきた。変容は単に受け身であったのではなく、自ら求めた部分も大いにある。その流れに沿って辿ってみることにする。

●-日本-  
 卆制の研究課題である「テクスチュア」から派生して綿テープによるテクスチュア制作、さらには組みへと展開させていくことそれが卒業後も続いた。染織そのものは日常生活の中で宮参り、七五三、成人、結婚と人生の「ハレ」の場を飾る。人の一生は白の産衣で始まり、白の帷子で終わる。その間を色が彩る。また、1年のサイクルにも農耕を中心とした日本では正月、節句、田植え、収穫、そして祭りと「ハレ」がある。テーマは主にその「ハレ」に関するものをとりあげ、技法としてはベルトを織りそれを組むというものであった。

①「饗宴」(230H×170W・ ウール) 
 ②「舞」(160H×360W・ BSF、ウール、銀糸、金属)

 色々、展開をこころみていたが表現として考えた時、真に内容をとらえているのだろうか? 表層的、装飾的になっているのではないか? 意味、内容のあるものにするにはどうしたらよいのだろうか? 次々と疑問がわく。そのような折、アメリカ、ミシガン州にあるクランブルック・アカデミー・オブ・アート(Cranbrook Academy of Art:全米唯一の大学院のみの美術学校)の教授ゲルハルト・ノデル(Gerhardt Knodel)氏(現・学長)に出会い渡米する。中年の留学である。  

●-アメリカ-
 “What is art for you?”“What does it mean for you?”“Why do you use this material?”“What is the necessity?”とさながら禅問答のような質問攻めにあい、慣れない英語で“What to say”“How to say”に追いまくられる毎日であった。

 当時読んだ本、ガストン・バシュラル(Gaston Bachelard)が『ポエティック・オブ・レヴェリ』(The Poetics of Reverie)の中で「人は貝を外側から作るが、貝は内側からつくる。」「アフロディテは貝から生まれた。大は小から生ず。」と述べている。この一文は、パターンとして貝殻の模様につい目がいくが、貝殻は命を育むものとして存在すること、内側にあるものとの関係で外側も成り立つという当たり前のことにあらためて思いを至らせてくれた。

 客観的にとらえていた「祀り」「祭り」を主観的につくることを試みる。

③“The Gurdian”(240H.×90W・  サイザル、麻、金属糸、木) 
漠然とした存在、呼吸する存在‘something behind’を求めて制作する。パターンとしてではなく、「気」をすくいとるかのようにピックアップ技法で織る。
④“Pachamama, Stepping Out”(360H×130W×110D・ サイザル、麻、金属糸、木)
 トウレッキングで訪れたアンデスの女神パ チャママが歩み出す姿と自分自身壁から抜け出したい思い、そして布自体の自立性を重ねあわせて表現する。棒が布を支え、布が棒を支え立体としての意味が出る。

 「黙っていても作品は語る」という日本から、制作の背景をことばでもとらえていくアメリカでの留学体験は、創ることそのものを、自分自身を、そして自国の文化、環境をあらためて見直すよい機会となった。最終的には「作品が語る」が、掘りさげはやはり必要である。壊され、立ち直り、“Pachamama, Stepping Out”のように一歩踏み出してクランブルックを修了する。2年のアメリカ生活を終え帰国すると今度は主人の転勤で南米ブラジルで生活することになる。

●-ブラジル-
 多民族の人々が生活するブラジルは気候も人々の気質も日本、北米とは完全に異なる。また新たなスタートである。広大な大地、豊かな自然。珍しい動植物の数々。造物主はすごいデザイナー!とその様相の豊かさに目をみはらされる。初めて降り立ったリオデジャネイロの赤い土の色が忘れられない。今でも目に焼き付いている。以来その色は自分の作品に血脈のように登場する。 むきだしにさらされた鉱物質を含む地層をみていると地球の生成に関心がいく。動植物等生命を育む大地の存在は母なる大地として認識できるが、一度掘ってしまえば補給のつかない鉱物を宿す大地も母ということばがつくのであろうか。他愛ないことを考えていた。

南米といえばプレ・インカの織物は染織史には欠かせない。そのアンデスに滞米中の1986年に引き続き88, 90年の計3回、各1ヶ月 トウ レッキングをしながら村々を訪ね人々の暮らし、染織と生活との関わりを見て歩いた。16世紀半ばにスペイン人フランシスコ・ピサロによりインカ帝国は滅ぼされたが、それまで染織品がアンデスの人々の日常はもとより社会構造の中に如何に深く関わっていたかもあらためて知る。 南半球で生活することにより、これまで征服者側のみの歴史を学んできたということに気付かされ、歴史観、世界観が広がった。

 ことば(ポルトガル語)を覚え、人々と知り合い、作品を作りためるのに3年という時間は丁度よい期間であった。サンパウロ近代美術館の1室で個展をする。ブラジルの赤い土を一面に敷いて作品を展示した。

⑤“Inside and Outside”(160H×300W×19D・ サイザル、麻、針金)


 ⑥“Homage to the Earth”(「大地に捧ぐ」210H×60W×60D・ サイザル、麻、金属糸、金属)支持体は背骨となり、作品と一体化する。

●-そして再び日本-
 3年間暮らしたブラジルでは材料は色々あったが入手に不自由を感じ、そのことは素材、技法、そして内容を今一度見直すよい機会となった。帰国後、素材を自分の環境から得られるものに限ってみる。主人の母親がたしなむ書道の反古紙に着目する。かつて訪れた宮城県白石市の「紙布」の素晴らしさ、山形県鶴岡市致道博物館・民具の館で見た着物は緯糸に大福帳の和紙が織り込まれ絣のように見えていた、その印象及び記憶が和紙による制作へと私を促す。また、反古紙を素材として再利用することは彼女の書道に費やした時間、エネルギーを追体験し作品にとりいれることになる。さらに織り込まれた文字が情報の内包、時間の凝縮へとつながる。さながら一粒の砂にも生成の情報が宿るように。

 ものの生成には熱、圧力等の物理的な力が大きく働いている。そのような無作為の行為を如何に自分の作品にとりこむかも課題であった。強撚糸と和紙を組み合わせて織り、整織後湯に浸けてみる。強撚糸は水と温度という物理的条件により見る間に縮む。ぬれてやわらかくなった和紙は、それにつられて平面から半立体へと変容し、思いがけない効果を呈す。縮むことで生じた表情は時には和紙であることを忘れさせ、石のように見えることすらある。石のようでありながら実は紙であり、重そうに見えて軽い。

 和紙といえば墨と柿渋。水に強いことから色も必然的にきまってくる。墨の濃淡の美しさにひかれるようになったのもこの頃である。
 試行錯誤の連続だが、様々な体験、記憶、メッセージが素材の記憶と共に渾然一体となって現れてくる世界、時間、空間の集積がかもし出す広がり、奥行き、そんなものを求めて制作する。作品を通して見る人とコミュニケーションできればと思う。

 ⑦「時相」(240H×200W・ 絹、和紙)

●-更に- 
 今、コンピューターライズド・ジャカードに取り組み始めた。コンピューター上のデジタル情報が織機の上で経糸及び緯糸の直交により具体的な情報・存在となるその瞬間を面白く思う。画像を取り込み、複雑な組織を入れる。手機ではできないことの可能性にひかれる。時間はスパイラルを描いて流れるのであろうか。造形大卒業前後、織の組織を色々試そうと、こわれかけたドビー織機を動かしていたことがあった。かつての体験がよみがえり新たな世界へとつながる。

 一貫して経糸と緯糸により繰り広げられる世界に取り組んできたが、「織」でできること、素材そのものの可能性及びイメージが糸化、具体化してあらわれること等興味はつきない。染織を通しての自己確認の歩みはまだまだ続く。さながら道標をたてながら一歩一歩、歩むかのように。作品とともに歩む。      (なかのえみこ・東京造形大学教授)