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21世紀への手紙 -夢を求めて- 三宅哲雄

2010-12-28 11:26:39 | 三宅哲雄

21世紀への手紙 -夢を求めて-    

東京テキスタイル研究所20年の歩み

三宅哲雄


当り前(1970年代)

 私は昭和49年、前年に開校した川島テキスタイルスクールの企画担当として染織の世界に足を踏み入れた。「年齢・性別・国籍・学歴等々を問わず、世界に類の無い学校にしたい」と言う川島織物経営者の熱意に共鳴してのことである。

 何事も外から見るのと当事者として関わってみるのとでは大違いと言われているが染織の世界も同様で建築設計に従事していた私には驚きの連続であった。「ものづくり」にとって、素材や技法そして用途などは全て自由であるものと思っていたが現実はひどく異なり最初に素材や技法そして用途ありきで作品や商品が制作されることが「当り前」の事として存在していたのである。私は今振返ると1970年代はこれらの「当り前」が世間一般でも通じる『当り前』に変わる日が近い将来必ず来る、いや来させなければいけないと自分に言い聞かせながら仕事をしていたのであった。


 1971年(昭和46年)京都国立近代美術館で「染織の新世代展」、1973年(昭和48年)には第6回ローザンヌ国際タペストリー・ビエンナーレと京都国立近代美術館で「現代工芸の鳥瞰展」が開催された。これらの展覧会には今日もファイバーの造形作家として活躍している堀内紀子、小林正和、藤岡恵子、小名木陽一、久保田繁雄などが30代の若い作家として登場し、帯や着物や平面のタペストリーが染織であるとされていた世界に多様な素材と技法で三次元の作品を発表した。これが日本でファイバーアートとして登場した最初である。1975年(昭和50年)第7回ローザンヌ国際タペストリー・ビエンナーレには小林正和、島貫昭子、松本美保子、八木マリヨなど日本人7名が入選し、ポーランド・ウッズで第1回国際テキスタイル・トリエンナーレが開催され小林正和は最高賞の文化芸術大臣賞を受賞する。1976年(昭和51年)には京都国立近代美術館で「今日の造形>-ヨーロッパと日本-が開催されると共にフランス・アンジェフェスティバル(現代日本のテキスタイル展)には小林正和、堀内紀子、小名木陽一などが出品している。翌1977年の第8回ローザンヌ国際タペストリー・ビェンナーレでは日本人12名が入選し、京都と東京の国立近代美術館では「今日の造>-アメリカと日本-が開催されるなどファイバーアートの花が咲き誇った時代であった。しかしながら、一般社会はもとより美術界で認知されたものでなく、いわば美術界のあだ花程度の評価しか下されていなかったのが実情であろう。なんとか一般の人々にもファイバーアーティストの存在とその仕事を知ってほしいとの思いから当時京都国立近代美術館の主任研究官(現館長)であった内山武夫氏の協力を得て川島文化事業団より「ファイバーアーティスト日本」を発行し37名の作家と作品を紹介した。編集段階では100名程度の作家をリストアップし50名程度に絞り込む予定であったが50名を超える段階からリストに載る作家はほとんど大学新卒程度の作歴しか持たず、まだまだ層の薄さを実感し、自由な造形作家を育てる教育の場の充実と作品の発表の機会や評論活動など作家が育って行く幅広い運動として時間をかけて取り組むことが必要であると思ったのである。


 この時代に台頭した作家は多様で人括りにまとめるわけにはいかないが、出身校では高木敏子が指導する京都市立芸術大学とアメリカの大学院大学クランブルック・アカデミー・オブ・アートと堀内紀子が指導する文化学院アート&クラフト科はユニークな作家を送り出した。地域的には関東と関西に大別され、関西特に京都を拠点にして活動をしている作家の数と力が大きい。京都在住の作家が目立つ理由の一つとして西陣という伝統的な織物産業が集積している地では多様な情報を入手しやすいことが最大の理由だと思うが、その中でも伝統を踏まえながらも可能性に挑戦しようとする企業の存在も忘れてはいけない。川島織物は勤務時間外で個人の作品を制作出来る場として「西陣工房」を設け作品制作を側面から支援することなどで小林正和、小林尚美、草間てつ雄、礒辺晴美などを、龍村美術織物からは小名木陽一、伊豆蔵織物から伊豆蔵明彦、等々が作家として育っていった。こうした個性豊かな作家の活動が内外の発表の機会を得ることと重なり1970年代は染織の世界にファイバーアートという領域を加えることになり、造形活動の『当り前』に一歩近づく方向性を指し示した時代であったのであろう。


多様化(1980年代)

 1981年(昭和56年)川島テキスタイルスクールから分離独立して東京テキスタイル研究所を設立することにより私は東京に居を移すことになる。企業の枠から離れることで自由にはなったのであるが経済的負担が重くのしかかつた。だが『当り前』を求める活動を止めるわけにはいかない。関島寿子指導による「バスケタリークラス」田中美沙子指導による「フェルトクラス」冨田潤指導にる「ウールの絣」「フェルトラグ」そして「手紡ぎ」などを通年のクラスとして開講する他に長野県白樺湖畔に蓼科工房を設立し夏期講座として「バックストラップウィーブ」「バスケタリー」「草木染」そして堀内紀子指導による「スプラング-空間と実験-」冨田潤・新道弘之指導で外国人を対象に本藍の醗酵建から「かすり」と「しぼり」を教える講座や海外研修旅行そして1984年(昭和59年)にはイギリスからピーター・コリンウッドを招聘し東京と京都で作品展とワークショップを開催した。


 ファイバーアートの世界も全盛期を迎え、ローザンヌ国際タペストリー・ビエンナーレで入選する日本人作家も毎回新入選者を加え、ポーランド・テキスタイル・トリエンナーレとロンドン国際ミニチュア・テキスタイル展の三大展覧会が作家の登竜門としての評価を得ることになる。国内での展覧会も多様な展開をみせ、ギャラリーと学芸員そして編集者などの協力で1981年(昭和56年)にはファイバーワーク・ミニアチュール展、1986年(昭和61年)には、わたなべひろこ企画によるFIBER AS ART展、1987年には田中秀穂企画によるTODAY ART TEXTILEが民間レベルで開催されると共に1983年(昭和58年)群馬県立近代美術館で「ファイバーワーク展」、1987年(昭和62年)東京都美術館で「布のかたち糸のかたち展」など地方自治体美術館での開催が美術館建設ブームと共に波及していく。発表の機会が外国に偏っている状況から脱却し、日本から発信するという意気込みが経済的余裕を伴うことで象徴的に生まれたのが1987年に京都で開催された国際テキスタイル・デザイン・フェア(ITF)であろう。こうした時代に田中秀穂、庄司達、榛葉莟子、熊井恭子、等が次々と意欲的な作品を発表し作家としての評価を不動のものにした。


 当研究所は世の中の動きに逆らうように1987年川島テキスタイルスクール時代から通算14年間拠点にしてきた目黒から世田谷に移転し、教育方針を大きく変えることになる。


 1980年代は繊維素材に固辞せず各種素材を使用すると共に技法的にも織る・編む・組む・結ぶなどの技法を自由に使った作品が続々と発表され、展覧会に出品する作家も元来染織に従事してきた作家だけでなく彫刻家や現代美術の作家などが混在して展覧会を構成することもありうるようになり、㈱織絵は「現代作家タペストリーと彫刻展」をアートビジネスの一環として開催することで作家は作品制作で生きていけるという夢に近い状況を生み出した。このような多様な展開が、また一歩『当り前』に近づいたと思ったのであるあるが、そうでないことを90年代になって実感する。


混迷(1990年代)

 90年代に入つても80年代後半の流れが大きく変わることはなく1990年(平成2年)には掌中新立体造形展、1991年には清流展が企業の支援を受けて開かれると共にソフト・スカルプチャー展やアバカノヴィツチ展、1992年には第1回国際絞り会議、英国現代テキスタイルアート展などが盛大に催されたが一方第15回国際ローザンヌ・ビエンナーレとしてタイトルを変更しながら一年遅れで開催されたこの展覧会が混迷の契機になるとは思ってもいなかった。


 テキスタイルの世界で今だセーター・マフラーという用途に限定された状態にある編物の社会の発展を願って1990年英国在住の編物作家木原よしみを招聘して東京と京都で「不思議の色糸ワークショップ」を、1991年には遊牧民の文化に学ぶことを目的として千葉の鴨川、東京、静岡、京都と移動しながら素材や技法そして用途に拘束されず多様な作家が各会場でコラボレーションする特異な催事として「移動する遊体展」を企画すると共に1995年には「作り手」と「書き手」との交流を願いつつ季刊美術誌「工芸」を発行するが、縦割り社会の壁は厚く「工芸」は3号で休刊に追い込まれた。


 1995年(平成7年)第16回国際ローザンヌ・ビエンナーレはついに公募を中止することになるが、これと連動するかのように日本全国で華やかに開催された展覧会が消えていき以後1999年に横浜美術館で開催された「世界を編む展」、2000年の「大地の芸術祭」と「三宅一生展」迄意欲的な展覧会に会うことはなかった。


  1970年代の画一的な社会から現代は多様化され自由になつたと言われているが私にはそうは見えない。かって美術大学の卒業制作展は技量は未熟とも個性的で溢れるようなエネルギーを発散する作品で生め尽くされていたが、昨今の卒展は流行の素材と技法で統一されている。この風景は、かつて染織が着物や帯と壁掛けであった時代とどこが違うのか何も変わってはいないのではないか。ただ、こうした作品をかっては教師が半ば強制的に求めたのであるが、現在は生徒が自主的に制作した結果生まれものであるところに抱える問題の深刻さがある。コンピユーターが日常の道具として定着した今、一層この傾向に拍車がかかり、美術や芸術が一面では特別なものから身近な存在になることに異論を唱えるつもりはないが、薄っぺらで均一で、だが自己顕示欲の強い作品など見たくもない。

 芸術は経済社会とは一線を画くし連動するものでないと微かな期待を持ち続けていたが一般に言うバブルと共に見事に浮沈した。しかしながら、常に右肩上がりの進歩や発展があるはずはなく揺れ動きながら微かなりとも向上することがあれば良しと思わなければいけないと常々自分に言い聞かせているが寂しい。


 私は今春より埼玉県秩父郡吉田町に1000坪の畑を借り藍と綿を栽培している。春の種蒔、初夏の草取り、そして秋の収穫を迎えた。老いて土に帰るのであろうが、私は元来染織は農業であると言いつづけて来たが中々機会に恵まれなかった。5年前から上野正夫指導による「竹の教室」が年に1回現地で作品を制作し設置するという活動を続けているが、その流れで私の「通い農夫」が始まった。今年は全て実験なので特別な行事は組んでいないが、8月の下旬に「子供の造形教室」夏期合宿と911月に秩父の民具「スカリ」の講習会を現地の人々の協力を得て実施した。来年は東京では不可能な講座を秩父で開講しようと準備中である。機械を使って、すぐ答えがでる仕事でなく大地に耳を傾け、自ら種を植え、身体を動かし自然の営みの中で生み出すことを会得しながら、物事の成り立ちと繋がりを実感する講座になれば幸いだなと思っている。


再び「当り前」が『当り前』になる日に向かって初心新たにささやかな活動を続けていく所存である。            

(東京テキスタイル研究所代表取締役 三宅哲雄)