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「ディグリーショウとテキスタイル展」木原よしみ

2016-02-08 11:21:11 | 木原よしみ
1997年3月20日発行のART&CRAFT FORUM 7号に掲載した記事を改めて下記します。

 すっぽりと新緑に包まれるイギリスの6月は、美術系大学や専門学校のデイグリーショウ(卒業展 )の季節でもある。学校見学を兼ねて、幾つかのデイグリーショウを覗いてみるのは面白いし、実際に、日本人来訪者をあちこちで見かける。地方の大学は、より多くのコンタクトに接する機会を求め、ロンドンで第2回目のデイグリーショウを行うことも多い。というのも、ディグリーショウの持つ意味が、単なる形式的なものには終わらないイベントだからだ。そこは、卒業を控えた最終的かつ重要な学位審査の場であり、そして、何かしら新しいコンタクト、販路、職、他を勝ち取ろうとする試練の修羅場なのだ。
 限られたスペースの中で、それぞれが、自身を精一杯プレゼンテーションする。保守的なラインにそったもの、総合的な美術系が集まるという利点を活かしたクロス分野的なもの……。まるで「卒業制作トレイドショー」と言えそうなブース群からは、生徒達の様々な努力の跡と関心の焦点が伺えて、私のような「他人事」という気楽な野次馬意識を持って訪れる観客を喜ばせてくれる。
 もちろん、緊張した面の本人達は、作品の絵葉書、工夫を凝らした名刺、履歴書、制作解説、等を用意して、好機到来を待ち受けているわけだ。ブースには、ディグリーショウを目差して作られた作品だけではなく、数年間に渡って積み重ねてきた、ドローイング、試作、小品、習作、写真、といった時間の幅を持つ「展開の過程」も展示されている。
 若い息吹で賑わうディグリーショウは、現在から、近い将来への動向を感じる好機でもある。

 こんなディグリーショウの全国総合版がある。「The New Designers」という名称で、毎年7月中旬に、ロンドンのイスリングトン地区(クラフトカゥンセルも同地区)にある、ビジネスデザインセンターにおいて、2Dと3Dで成り立つ2部構成のイベントとして催される。

★2D(Dimension): テキスタイル、グラフイック、ファッション、他
★3D : 陶芸、家具、インテリア他

 1997年、第11回「The New Designers」は、下記の通り予定されている。
Business Design Centre
52 Upper Street,Isligton,Londoh NI OQH tel:44(0)171-359-3535

★2D:7月10日~13日
★3D:7月17日~20日
 全国のテキスタイル学科のディグリーショウが、一度に見られるなんて!出不精の私にとっては、実に便利なイベントなのである。もちろん、一定の科目に限られることによって、多方面との対比の面自さは半減してしまうが、ここならではの長所もある。
 広い会場にびっしりと群がるブースの大群は、各学校毎に固まっている。そして、自然に、今年の出来の善し悪しが、学校差となって、もろに浮き出てしまうのだ。それは、有名校という基準ではなく、その年に、オ能のある生徒を得た学校は、良い影響を回りに与え、結果的に、豊作につながるということのようだ。冷やかしの観客である私は、スリル満点で、楽しくなってしまうが、立場が変われば、これは、随分恐ろしい修羅場といえる。まさにこれは、学校という温室から、外の現実社会ヘ踏み出そうとする第一歩かもしれない。ひしめきあう卒業生の群れの中で、個人的に、抜きん出た関心を集め得るのは、生易しくはないだろう。
 実務主義のサッチヤー首相の時代には、コンピューター系の学科設立が優先され、美術系は、合併、民営化、等というように縮小の道を歩んだ。補助金削減を補うために、日本人特別コースなるものが現れたのもこの頃だし、デイグリーシヨウを通した作品販売に対する学校側の特別コミッション等々、様々な噂も流れた。実は、デイグリーショウで作品を販売するのは、以前から行われており、有望な新人を射止めるというスリルは、コレクター達の関心を集める。最も売れる場として、ロイヤル・アート・カレッジのデイグリーショウは、良く知られていると聞いたこともある。
 ここ数年、私は、The New Designerを覗いている。特にテキスタイルの目新しい動きが感じられなかった理由の一つには、暫く続いた不況時代の影響も多いに考えられるだろう。でも、昨年は、ちょっぴり新しい芽を出したように感じてしまった。その展開を楽しみにしている。

 ビジネスデザインセンターから、クラフトカゥンセルまで、徒歩5分程度。1996年は、「テキスタイルの年」だったそうで、クラフトカゥンセルによる特別展“Under Construction:Exploring Process in Contemporary Textiles"をちょっと覗いてみることにした。
 展覧会は、7名のテキスタイル作家により、特に、この展覧会のために試作された作品で構成されていた。
  出品作家:
RushtonAust,TadekBeutlich/PollyBinns,MiChaelBrennand-Wood/Caroline Bloadhead,Sally Freshwater/Clio Padovani
 特に、喧騒に沸き返るディグリーショウの直後だっただけに、一瞬"Under constructin"の、閑散と静まり返っているような空気に触れて戸惑ってしまった。この空気は、単に人数の問題だけではなく、息継ぐスペース、完成度、洗練、…様々に対比して生まれたものだろう。ただ、焦点無く粗削り過ぎというのは問題だし、端正に洗練しすぎるというのも、何か欠けているように思えてしまう。
 "Under Construction.で、特に私の個人的な嗜好に合って印象に残ったのは、The meaning of Shadows(影の持つ意味)のテーマに沿って制作された、Caloline Broadheadの作品と、Tadek Beutlichによる“ Spectators”(観衆)だった。Calorineは、ジュエリー作家として、イギリスのコンテンポラリージュエリーの世界を名実ともにリードしてきた人である。80年代半ばから、クラフトカゥンセルが、本格的に押し出している「クラフトビジネス」つまり、芸術性の高い作品を制作する一方、市場販路を考慮した、ある程度のマスプロジュースが図れる商品を持つことで、クラフトによる経営を成り立たせるということなのだが、そういった意味では、早くから、C.Nボタンを商品に持ち、イギリスデザイナーの大御所、ジューン・ミュアーのファッションショーに関わり、彼女は、先駆者の一人ともいえる。現代ジュエリー作家として活躍する一方、Calorineのテキスタイル作品は、時折、こういった種類のフアインアートテキスタイル展で見かけてきた。白地がジャバラ状に片腕を覆う、異様に巨幅の白シャツ、等々。Calorineの「影」は、透明感のある生地とワイヤーを使い、表情を持つ人間をその中に感じさせるような服を形取り、底辺に現れるはず?の影が、描かれている!描かれた架空の影に、スポットライ卜による実際の影を添わせた作品、反対に、ライトで実際の影を消してしまい、架空の影に支配される作品、影が実物を写し出すという架空の影と実物が逆転した作品、等々。
 ‘97年2月16日、皮切りのロンドンを終了し、これから全国を巡回する、クラフトカゥンセル主催の展覧会「0bject of our time」の入口とっかかりに、再びcalorineの影シリーズ“Shadow Dress"が、ちょこんと影をおとしていた。

 次々と災難が降りかかってきたためか、年齢的なものなのか、多分、様々全てをひっくるめて、最近の私は、作品の中に何かユーモアや人間味を感じるものに魅かれる傾向が強くなってきた。
 工芸というと、特に流れを追っているわけでもない私には、Too much!収集不可能になってしまう。では、テキスタイルは?というと、ここでも怪しい雲行きが現われるが、少しは流れるので、この場合は、テキスタイルに限って、果たして「人間の声」をその中に織り込むことは可能なのだろうか?この質問は、実は長く持っている。答えは、「可能」だと思う。ポーランド紛争の時に作られた、背中に運命の重みを背負っているようなアドカボヴィッチの作品は、今でも印象に残っているし、数年前、クラフトカゥンセルの主催で、イギリス人のコーデイネイトによって構成された「現在アメリカンキルト展」では、通常見かけるグラフイック的な装飾作品の他に、社会に関連したテーマを持つ作品が様々に盛り込まれていた。例えば、政治、環境汚染、民族、エイズ、等がそれに当たる。
 もちろん、社会問題のみが「声」だとは、思っていない。“Under Construction”と“0bject of our time”に展示されている、ロウで溶かしたような一塊の群集が、言い知れない叫びを上げている Tadek Beutlichの作品、"Spectators”に対面すると、私でなくても、何か人生の重みを感じる「声」を聞いたように思えるだろう。
 日本のアート系テキスタイルの場では、バランスを主体とした緊張した作品が多いように感じる。一方、一般の場では、コミックや幼稚園の世界からそのまま飛び出してきたような趣向が、必要以上に、異様な幅を聞かせているように見える。ある意味では、そのまま、日本の社会を物語っているのかもしれない。
 それにしても、大人のユーモアや声は、どこに隠れてしまっているのだろう。数あるテキスタイルヘの取り組みの中で、こんな現社会を反映するような声を持つ作品が表に出てきても面白いと思う。それは、デイグリーショウにはない大人の味ではないだろうか。
 イギリスでは、クロスカルチャー、工業+クラフト、コミュニティーアート、クラフトビジネス…80年代からのクラフトの流れは、少し休んで、再び、新しい流れの矛先を見せようとする気配を感じる。