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「追悼 十川忍」 三宅哲雄

2012-02-01 19:21:01 | 三宅哲雄

Img_0017 ◆八幡平にて

生活空間の選択 -どこで生きていきますか-  三宅哲雄 


19921010日発行のTEXTILE FORUM NO.20に掲載した記事を改めて下記します。


 昨年9月に発行したテキスタイルーフォーラムN0.17号に寄稿していただいた「かたち」編集者十川 忍氏が7月4日逝去いたしました。


 十川氏とは昨年7月岩手県八幡平に同行し京都芸術短大の学生が制作したパオ(ゲル)で無為の時を過ごし、秋には千葉県鴨川でバンブーシェルターを熱海ではフェルト天幕を制作しました。


 ところが「移動する遊体」プロジェクトが終了するのを待っていたかのように12月上旬に病の兆候が表れ、西洋医学による治療を拒否し、東洋医学に基づき病との闘いを半年にわたり続けましたが帰らぬ人となりました。十川氏とは3年程度の付合いながら立場が異なるものの作家を支援する仲間として無言の連繋を感じていました。残された一人として十川氏への思いを記します。


作家研究

 昨年の春に大磯で第2回「作家をとことん研究する会」が開かれ、前回の橋本真之研究に続き今回はバスケタリー作家関島寿子研究でした。「作家をとことん研究する会」は今日迄の定式に従わずに会が成立するか否か企画段階から問題でした。特に研究される側の作家に対し“何も謝礼を払わずに済むか”ということでした。第一回の会では表面化しなかったものの第二回の会では会の後半にこの問題が問われ、深夜迄主催者である「かたち」の笹山氏と十川氏に質問が浴びせかけられたのです。参加者の多くが定式に拘束され理解に苦しんでいたのです。


 十川氏は会の主催者であると共にほぼこの時期迄に関島寿子の工芸論(工芸現想参照)を書き上げ、関島寿子の良き理解者でもあったのです。


 作家をとことん研究する会」は会として作家の内面に触れながら参加者は自らのこととして考え、作家は自ら裸になることにより自己の啓発に役立てるのです。会は笹山氏が冷静に運営し、一方十川氏は作家の内面に飛び込み、作家自身が気がついていない自己を発見する努力を重ね、ジャーナリストとして表現してきました。


 個人の信条、価値観等は異なり、私のような凡人は常々自分の尺度で人を見てしまいます。よりどころが自らしかないからです、しかし十川氏は無我で作家に接触し無理をせず、常に作家のペースで冷静に又納得する迄時間をかけて取材し作家の独自性を発見する努力を重ね、橋本真之、小林健二、そして関島寿子研究等を進めてきました。


無為に過ごす

 詳しいことは知りませんが十川氏は「かたち」の編集者になる前、10余年は一切の生産活動をせず、人との接触も可能な限り避け、生命を維持する最低限の食住以外何もしないで生きてきたということです。


 私共はこの世に生を得てから多くの自然や人々との係わりを好むと好まざるとにかかわりなく日常のこととして生きています。宇宙の存在も生の起源も特に意識することなく、知識や物そして金銭の蓄積に努めると共に地位や名声を求めて人とのつながりを積極的に推めますが、ほとんど利害関係で成立し空虚な日々を送っているのです。たしかに全ての人が綺麗事を言って生きられる世の中ではありません。十川氏も、このような生活が出来た環境にいたから可能であったと言えるのでしょう、私も20数年、夢を追いかけております、それが可能であったからです。


 人間を含め全ての生物は同一ではなく、その人、その生き物でなければという生があるのだと思います。


 十川氏は学生時代を含め20数年自らの生について考え抜き、生物の個体間との関係において五感では感じられないものの存在を感じていたのではないかと推察します。


 特にここ数年「かたち」に係わり、無為に生きようとすればする程、人との交わりが増幅し、その結果、各人の内面に自らでは亨受することが不可能なエネルギーが満ち溢れるのを感じたのではないでしょうか?


 特に病との闘いを始めてから気功療法、西式療法等で素直に療養する話を聞くと無為の生活が感じられるのです。


私は死ぬが、我々は生きる

 「人は死して、生きる者の心の中で生きている」若い頃はこの言葉を実感することはほとんどありませんでしたが、人生も折り返し点を過ぎると肉親はもとより友人に先立たれ胸中は穏やかでありません。


 通常、人との交流は生を前提にしています。生は永遠ではなく誰でも老いや病や事故等で死に直面しています。しかし死を無意識の領域に追い込んでいるから生きていけるとも言えるかもしれません。宗教の多くは死後の安らぎを求めて現世での功徳を処す教えを説いています。十川氏は私と同様に無信論者であったと思いますが信仰で死を考えていたのではなく生と死を切り離すことなく、生なる内に死を包含して生きていたのでしょうか? 私は親が生前になにげなく語った言葉を親の死後、突然、鮮明に思い出すことがあり、又、後に考えると人生の岐路で友人が語ったことが大きく人生を決定づけたと思うことがあります。


 人は、いや人を含めて全ての生物は個体では生きられません。多くの生物等に物心両面で支えられて生が存在するのです。


 十川氏が信条とした言葉は「私は死ぬが、我々は生きる」だと聞いています。


 私は十川氏が笑みをたたえながら語る姿を忘れることなく夢の実現に向かいます。


 皆様はこの言葉をどのように受け止めますか……


 十川 忍氏、安らかに……