ART&CRAFT forum

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作り手と使い手 (2) 高橋新子

2015-07-01 08:14:18 | 高橋新子
1996年2月20日発行のART&CRAFT FORUM 3号に掲載した記事を改めて下記します。

 和紙とその原料や作業工程に関心を持つようになってから、まだ4~5年と日は浅く、一つ知れば十の疑問が生まれ、二つ知れば百の無知を思い知らされる毎日である。
 それに注ぎ込んだ時間と費用は私にとって「かなりのもの」だとしても、実際には何万分の一にも満たないごく僅かな手応えを掴みかけているに過ぎない。「ここからここまで」と決めてかかってはいても、次々と押し寄せてくる情報や疑問は膨れ上がるばかりである。時に捜していたものに出会ったりすると、嬉しさのあまりにさらに深みにはまり込むことになる。特に伝統的技法で手漉きにされた美しい和紙は、ただもう手で触って、陽に透かして見て、うっとりとしてしまう程である。しかし当然のことながら、これをどう使いこなすかということが課題となってくる。
 最近では従来になかった新しい分野への和紙素材の開発や展開、あるいは新技術への試みもさかんに行われ、目新しい造形も多く見られるようになった。原料が叩解(こうかい)されて充分に水分を含んだ時の造形の自由さと、乾燥時の形の確かさは素材として、いかに優れているかを示すものである。
 過日、大阪の国立国際美術館で開催された「紙の世界」展では、私の紙に対する理解とはかなり異なった次元で造形された、内外の作品群と出会うことになった。「紙を素材とする立体、インスタレーション、版画等を展示し現代美術における紙の可能性を考える」という趣旨を知れば「なるほど」と納得するのだが「盗んででも持って帰りたい」と思う程のものはなかった。
 生活の中で、心地よく一緒に呼吸し、いろいろな用事を果たしてくれて、暑さ寒さや紫外線から身を守ってくれて、さらに限りなく優しくて強い母親のような、思うだに涙腺をズルズルにしそうな、あの和紙の肌触りは何処にも見当たらなかった。これは勿論次元とか、価値観とかセンスとか、気候風土とか国民性とか、つまるところ生い立ちに至るまでの違いかも知れないが、理屈抜きで古来からの和紙は、底知れないパワーを持っていながら軽やかで美しい。
 年の瀬近くに開催された和紙セミナーで、越前生漉き奉書を漉く岩野市兵衛氏の講演を聴いた。生漉きというのは椿100%の紙のことで、氏はこの紙しか漉かないそうである。越前奉書は従来はご祝儀袋や免状、寺社用紙に用いられたが、先代の市兵衛氏が浮世絵などの木版画用紙を開拓し、この紙一筋で人間国宝となられた。この紙は版木が200~300枚程の多色刷りにも傷まず伸縮もしないと云われている。興味深い職人の工夫談の最後に「私が目指しているものは、ただひたすらすっきりと素直に漉き上げた紙です」といわれた。会場の参加者一同は「う~ん」と深く感ずるところがあった。この紙をどのように使ったらよいのだろうか。

「ハレ」と「ケ」高橋新子

2015-03-01 07:40:12 | 高橋新子
1995年10月20日発行のART&CRAFT FORUM 2号に掲載した記事を改めて下記します。
 
 東京テキスタイル研究所の今年の特別講義は「糸」がテーマであり、現在までに「生糸」「藤糸」「苧麻」「綿」が終了し、残るは「葛布」のみとなった。実際に現場で生産や指導に携わっている方々のレクチーを受け、実技を実習できるという貴重な体験講座である。天然繊維の糸は、それぞれに民族の歴史を重く背負う土着の伝承技術であったが、現在では大規模な生産ラインに乗るものと、人目につかないところで滅びかけているものとに分かれてしまった。しかし大量生産品の絹と綿糸も、個人の生産ベースでは同じように滅びてゆく要因を持ち合わせている。良い素材を作る、あるいは持ち味を引き出す為の工夫や知恵は、どれも人手に負うところが多く、その手間ひまが応分の現金収入に結び付かないからである。所謂「ハレ」と「ケ」は古来の衣料では晴れ着と普段着であり、現在原始布と呼ばれているものの多くは「ケ」の部類に入る地味な日用品であった。その材料は身近な山野にあって、日常生活のサイクルの中で糸にされ、女性達の手で織り上げられたものだった。いま藤布やシナ布、太布、芭蕉布、上布等の市場価格はあまりにも高く、珍品扱いの「ハレの品」となってしまった。市場にはけっして出回らない藤糸の値段を見て「自分で作ればもっと安くできる」と考えがちであるが、山に入って藤蔓を切りそれを持ち帰って中皮を取り出し……という全工程を識り、その技術水準の高さを目の当たりにすると、この値段は妥当なのだろうと妙に納得してしまった。生産者側から見れば、これでもほんの僅かな手間賃程度なのかも知れない。原始布の持つ素朴な美しさと逞しさも理解する人は少なく、たとえ理解されたとしても、その高価な布を実生活の中でどう使うかということになると、名刺入れやバッグ、帽子等の小物として細々と出廻っているだけである。勿論一間巾いっぱいのドーンとしたシナ布の暖簾を、作家ものとして見かけることはあっても、それはとうてい庶民の手が届くようなものではない。
 好事家か金持の所有物になってしまったかっての日用品を、芸術とか美術品と呼ぶ人はあまり居ないが、糸そのものを優れた素材として入手できる窓口があって、さらにもう少し安価であれば、手仕事をする者や表現を試みる者の手を経て「ハレの舞台」に登ることもあるし、静かに日常生活の中で息づく「ケのインテリア」になることもあろう。
 講座で学んだことで高い完成度を求めなければ、自分達でこれ等の糸をなんとか作ることはできる。そして繰り返しによって技術は上達する。かいこを飼って繭を取り、糸にしたり、綿を栽培して糸を紡ぎ、布に織る技をみせる人々とも、知り合えるようになった。商業ベースに乗らないレベルでこれ等の技術を静かに追い求めている人々の存在は趣味の域を脱し「ハレ」や「ケ」の枠を越えた、新しい価値を形成しているように思われる。                  

「原点に返る」高橋新子

2014-11-02 13:34:05 | 高橋新子

 
 1995年7月20日発行のART&CRAFT FORUM 創刊号に掲載した記事を改めて下記します。

 藍染の絞りの踊り浴衣を着て盆踊りを踊りたい一心から、とうとう藍染の泥沼にどっぷりとはまり込んでしまった経緯は、今までに何度か拙文にしたり人に話したりもしてきた。実際に染めた踊り浴衣も20枚をとうに越すと、もうひとつ納得できないものが目についてくる。それは文様付けやデザインもさることながら、「染下」つまり生地にも問題があるのではないかと思われる。馬喰横山町の問屋から仕人れる白生地は確かに細くて上等のコーマ糸を使って、すっきりときれいに織り上がってはいるが、もうひとつ藍の吸い込みと発色が悪く真底染まり付いてくれない。「もう御腹いっぱい、これ以上食べられません」とても云うように藍の色を布の表面に押し戻して来る。つまり染料がなんとなく浮いてみえるのである。藍はもちろん徳島の藍で醗酵建にしている。しかし何処かが違う。
 数年前麻布で開催された藍の絞り染め展には見事な衣裳が揃い何度も足を運んで見とれたものだった。その中の浅舞絞りと謂われていた着物の中の2枚は幼なじみの実家の所蔵品である。1枚は確かに見覚えのある踊り浴衣だった。彼が少年の頃着て踊っていたものだ。‥‥踊りが上手だったかどうかは覚えていないが…・。展覧会終了後さっそく借りて具に手に取って見ることができた。まず糸と布地の風合いが良い。手紡ぎ木綿地とあるようにざっくりとしていて、しかもしっかりと張りがある。経糸緯糸の密度は現在市販されているものの約1/3。重さはほぼ同じである。糸は太いが軽いということになろうか。これは祖母に当たる方の嫁入り支度に実家で染めたものということなので、ざっと百十数年前の浴衣である。毎年踊って汗をかいて洗って、それで現在も着られる状態になっている。こんな衣類はそうざらにあるものではない。藍の色は生き生きと濃淡相呼応して見とれるばかりである。やはり手紡手織の手わざと丹念な染めによってこの浴衣の命が保たれていると言うべきなのだろう。
 「染めて着るのならこのような布で」やはりそう思ってしまう。当然のことながら布捜しを始めた。「着尺幅で手紡手織の白木綿1反」折にふれ手蔓をたどって‥‥。しかしまだ入手していない。そんな布はとうの昔に地上から消えてしまったらしい。木綿の布は沢山出回っている。便利になって安くなっていろいろ創意工夫があって品質がよくて多用化されて、当然流行があって使い捨てられる。
 自ら畑で綿を育て糸を紡ぎ布を織るという驚異の手わざを見せる友人のT氏は、しかしこの途方もない企みに加担してくれた! 私は厚かましくも「2反程お願い」してある。とはいえ私も何かをしなければ申し訳が立たない。インド綿で手紡手織の布、風合いが目的に近いものを着尺幅に切って染めてみる。しかし少し違うように思う。ガラ紡の糸を作る工房と知り合えたが欲しい糸を作ってくれるだろうか。自分でも織らなければと機織りを始めるが半年そこそこで当然下手くそである。でもあのような布で百年着られる浴衣を染めてみたい。
 大きな声では言えないが私は確か来年あたり60才になるはずである。まだまだ夢見がちの年頃である。

「文献と伝承」 高橋新子

2014-07-01 18:29:26 | 高橋新子
1995年4月20日発行のART&CRAFT FORUM 創刊予告号に掲載した記事を改めて下記します。

 先人達の技術と知恵を得る手段の一つとして資料を調べ文献を読む場合「はて?」」と迷うことがある。かなり以前に染料植物の薬用効果について薬草図鑑で調べていた時のこと。紅花の中国での利用法の項で「中国の明時代に出た天工開物(てんこうかいぶつ1637年)には、ベニバナで作った紅花もちを烏梅(うばい)水で煮出して、稲わら灰で作った灰汁でたびたび澄ませると、色は大変鮮やかになる」という記述があった。いささか専門的な話になるが、実際に紅染をする場合には、この手順は逆で、まず灰汁で紅をもみ出してから酸で発色定着させるのが常法である。これはどこで話が逆になったのだろうか。著者か、訳者か、図鑑の原稿の時なのか、謎解きのような気分で何年かが過ぎた。 

最近いろいろな文献に出逢うチャンスがあって、延喜式、紺屋茶屋染口伝書上下、農業全書、斉民要術、さらに問題の天工開物をも入手することができた。これは中国における技術の百科全書で、著者は宋應星。世界歴史年表にも載るほどの名著らしい。和訳者はこの書の研究などで第一人者といわれる薮内清氏であった。上巻の三に染色の項があり「諸色の材料」の最初に出てくるのが深紅色である。「その原料はもっぱら紅花もちである。これを烏梅水で煮出してさらに鹸水で数回澄ませる、或いは稲わらの灰を鹸に代えても作用は同じである……」和訳本でも手順は逆であった。薮内氏がこの書を読み始めたのが昭和23年ということであり、1992年第21刷発行のこの本に至るまで読み違いを見落としていたとは考えられない。

 宋氏による序文の終わりの方に「日ごろ天工開物という一冊の書物を書いたが、残念なことに家貧しく珍奇な器物を買って考証しようにも生活の資に乏しく……やむをえず自分一人のせまい見聞のままに、これを自分の心におさめて書きとめたのであるから、事実にあわないこともあろう……」と記してあった。これにはほんとうに驚かされた。天工つまり神の創られた万物について解き明かしたものであるという本の著者にしては、あまりにも無邪気過ぎはしないだろうか。それとも尊大な自信家の見せかけの謙遜なのだろうか。
 
ともあれ、天工開物は挿絵入りの楽しい本であり、産業全般にわたる細やかな記述は読者を飽きさせない。各項目の最初に書かれている「私はこう思う……」で始まる氏の技術観は、自然のエネルギーとうまく共存共栄する方向を示している。紅染の手順が逆であってもかまわないことにしよう。自分の仕事の答えは自分でさぐり当てれば良いのだから。それよりこの本のスケールの大きさの中で遊んでいるうちに、次のヒントを頂戴してしまおう。                   



「 伝承 」 高橋新子

2014-05-01 08:42:10 | 高橋新子
1994年12月25日発行のTEXTILE FORUM NO.27に掲載した記事を改めて下記します。

 紅花から出来る限り純粋な紅色の成分を取り出して作る「紅」は、古来より寒紅が最良とされ、年間の最低気温が出る一月末から二月の初めの十日間ぐらいを目標にして仕事の段取りにかかる。紅とは勿論口紅のことであり、時代劇で化粧をする女性が紅皿から小指の先につけて……というお馴染みの品である。特に笹色に輝き蛍光を発する紅皿を作ろうとするならば、寒中にそれなりの覚悟をして臨まなければならない。
 ある博物館に、展示品として数年毎に新しく作った笹色紅を納めている。これは、昔ながらの方法で作った紅は当然のことながら、夏の湿気と高温では美しい色を保つのが難しく、ふた夏も越せば表面が赤黒くなって、甚だ具合が悪くなるからである。

納める紅はほんの数皿であるが、その分だけを作ることは出来ない。紅花中の紅の含有量はごく微量であり、作業中のロスも大きく、良質な成分だけを取り出すには乾燥した花びらで最低四キログラムを必要とする。取り出した色素は紅皿にするほか、布・糸・紙等を染め、その他余すところなく使い切るように心がけている。

 この一連の作業には、隅々に至るまで先人達の知恵の凄さが詰まっている。今まで博物館に納める以外に紅皿を商品化することはなく、これ等の紅ものは、自分と身近な人の為に使用してきた。紅皿は心ときめかす程の雅やかなものではあっても、おそらく理解者はごく少人数であり、この色が現代感覚に合うか、コマーシャルベースに乗るかという点で、多くの問題があると思えるからである。

 同じような理由で、つい先頃まで日常生活の中に根付いていた工芸技術や手仕事の知恵で、今は途絶えてしまったものは数知れない。一度絶えてしまうと、それを掘り起こして再生させるには、並大抵の努力では出来ないといわれている。実際にそのようなケースを見聞きすることも多い。

 しかしその一方で先人達の知恵から学ぼうとする人々は根強く生き続け、今や「伝承」という分野を形成し始めた。この動きは染織のノウハウや材料を求めて立ち寄る先々で、プロ・アマチュアを問わず最近見聞きすることが多くなった。過日訪問した五日市の黒八丈染がそうであったし、上総博物館のはたおり友の会、神奈川県蚕業センターに関連している各分野の人々、野蚕学会のメンバー等。その目的はそれぞれ、収入の増加であり、自己表現の手段であり、趣味の充実であり、探求心であったりとまちまちではあるが、「もう一度原点に戻って」という点で共通するものがある。

 さらに染織の分野に限らず、「何々にこだわって昔の知恵を生かし」という売り込みの商品も、ごく僅かながら目につくようになった。二十年毎に行なわれる伊勢神官の遷宮は、神殿を建て替え、道具や調度類を作り替え、装束を新調することで、その技術が途絶えないように神事にこと寄せて、先人遠の知恵を確実に伝承する為の行事であると見る人もいる。

 先人達の技術と知恵の奥深さと凄さは、計り知れないものがあり、伝承といっても、とうてい全うできるものではない。材料も方法も目的も価値観も時代と共に変わってゆくのは当然のことではあるが、何千年にもわたる積み重ねのノウハウのほんの一端でも、次の世代に手渡せたら、師へのささやかな報恩になるのではないかと思うことがある。

 持てよ、その前にまだまだ私自身が学ぶべきことが山程あった!