◆「40×40cmの布達」 1991年 INAXスペース、札幌市
1997年3月20日発行のART&CRAFT FORUM 7号に掲載した記事を改めて下記します。
三宅さんから、原稿の依頼がきました。北からの通信がほしいとの事、創り手側からのことばがほしいとの事、自分のことばで語ってほしいとも、言ってましたっけ、さてと、何を書けばよいものか。ここ小樽は、外は見事なほどの雪ですし、内はテレビからのヒット曲が流れる程度。やはり、京都から帰ってからの16年間の自分の仕事を書くしかありません。
暗中模索の宿命的チャレンジャー、誰か(Art&CraftForumの創刊号で竹田恵子氏)が、書いていました、私のことを呼んでくれた様で、勇気が湧きました。
自分のことばでと、言われたけれど、ことばはいつもどこかで拾ってきたものばかりたくさん拾い上げては、うれしくなったり、悲しくなったり、時には支えになる事もあります。そんな代表格を書かせてください。
※芸術は科学や哲学と等しく、存在の神秘に関わる人間の業である。<繊維>(いと)を手にした芸術家に、特に内在する無限の可能性とその周囲に漂う時間との空間の意味深さを予感する。そして〈繊維〉(いと)に導かれながら、その共同者として、作品という存在を写え続ける
-加藤玖仁子-
※芸術はカオスである。カオスは生命である我々自身がカオスである。第2の自然。
無意識(たましいのエネルギー)
↓ ←外部エネルギー(考え。ことば)
意 識
-ルドルフ・シュタイナ-
※ 工芸は芸術の無意識
-遠藤利克-
-加藤玖仁子-
※芸術はカオスである。カオスは生命である我々自身がカオスである。第2の自然。
無意識(たましいのエネルギー)
↓ ←外部エネルギー(考え。ことば)
意 識
-ルドルフ・シュタイナ-
※ 工芸は芸術の無意識
-遠藤利克-
(このことばは、先の竹田恵子氏の文にも取り上げられていました、又読売新聞1995.12.1夕刊に北澤憲昭氏の「工芸という深い淵」という記事の中にもありました。)
時として出会うこれらのことばのおかげで混沌とある事が、暗中模索の中にいる事がうれしくなってくるではありませんか。これでやっと宿命的チャレンジャーとしては、次に進むことができるのです。
1991年、1993年、1995年の3回の個展はファイバーアート展としています、このことばは、自分への課題と考えています。いずれも40cm×40cm角の布だけのインスタレーションです。集積することによる、部分(単体)と全体(空間)との関係が問題でした。展示会中、見る側から、私の無意識がこれであったかと思う指摘を受ける事があります、「形而上学的機能を想定させるインスタレーション」(これも北澤氏の記事)とでも言うべきでしょうか。私自身も、展示会中に形を越えた形の事を感じる事があります。
現代アートにインスタレーションという括りがあるとすれば、それは現代アートとして、しかし、そんな階級的括りの事を思うとつらくなるばかりです。自分はどこに立っているのか、どこに向かっているのか、不安になる事が多いのですから。
単体(織られた布)に対しては、布の特性を生かす事と殺す事の両端への“ゆれ”を感じています。その“ゆれ”の部分は、個展以外の作品に楽しんで出しています。
織るという技術(行為)は、工芸そのものと感じています、何故なら肉体のリズムが無意識に近いのです。
私の仕事は、工芸と芸術の交差点を、行き来しているのではと、考えています。
今年は、個展をと考えている所です、今回は、もっとその交差点の猥雑差を出してみたいと考えています。
次回には、北の地の状況が、もう少し書ければと思っていますが、私自身の目が全体を見える様になってからにしたいと思っています。