ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

「終わらない始まり」 榛葉莟子

2017-05-12 13:22:51 | 榛葉莟子
◆榛葉莟子 「楕円の果実」 2004年

◆榛葉莟子「沈黙の鳥」 1985年

◆榛葉莟子「老木の花嫁」 1981年 伊奈ギャラリー個展出品作品

◆榛葉莟子「呼応」 1985年

◆榛葉莟子「休息の森」 1987年
「糸のかたち布のかたち」出品作品  東京都美術館

◆榛葉莟子「鳥のように立つ」 1987年
「現代織の表現」出品作品

◆榛葉莟子「うねうねと延びていく」 1989年
サントリー美術館大賞展
「挑むかたち」出品作品

◆榛葉莟子「月夜の庭から」作品写真によるコラージュ 1995年
千疋屋ギャラリー個展

◆榛葉莟子「転写・記憶のリズム」 1999年
千疋屋ギャラリー個展

◆榛葉莟子「物語りのおくへ」 2002年
アートスペースMAYU 個展


2004年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 33号に掲載した記事を改めて下記します。

 「終わらない始まり」 榛葉莟子

 歩いていると時々耳もとでひゅうひゅうと細く幽な口笛のような音色が聞こえてくるのです。幽な音色はどこか遠くからのようでもあるし、近くのようでもあるし、あっと思うまに消えしばらくするとひゅうひゅうと聞こえてくる。消えたり聞こえてきたり何だろうとふと耳に手をやり驚きました。その可愛らしい音色は耳たぶにぶら下がっている小さなイヤリングの輪の中を、吹き抜けて行く風の音だったのです。小さな輪の中を揺れながら通り抜ける空気の気持ち。風の口笛を教わった小さな輪っか。一日二日留守しただけでもこの季節青葉若葉に満ち満ちた風景への変貌に驚きます。普段は悠々伸び伸び堂々ゆったりの印象ですけれども、芽吹きの季節は早回しの成長過程のフイルムのように、ほんとうは大忙しなのかもしれません。でもふつう毎日じっと緑の成長に眼を凝らしている訳ではないし、ふと眼をあげて驚いているにすぎないのでしょう。シンプルな巡りのある日と言ってしまえば、なるほどで終わりますけれども、いつだって終わるわけにはいかない何かが人の心を動かします。

 好きなようにとのありがたい注文をうけ、不安と意欲の縒り糸状態から始まった連載コラム欄。今回はいつもより長いものをとの注文に、はいと引き受けたものの、内心の命ずるままを通じてそうしたいようにそうしているにすぎない自分ですから、いつものように意識の流れに沿って始まるだけです。けれどもいつもと少しちがうのは、常日頃モノツクリを目指す若者と接する機会の多い中で感じられる三宅氏の憂いや、外づらばかりの比重にとらわれた自由の錯覚故の軽薄に赤いブザーをの胸中が読みとれて、私の頭の一隅で点滅しているのです。

 思案しつつ言葉を探し宙に眼をやる。ぴちゃんぱちゃん雨垂れの音。雨降りである。雨垂れの音のリズム。そういえば昨日は夏野菜の種を畑に蒔いたのでした。丁度、良い具合に今日は雨、天からの水やりにほっとしたりします。胡麻粒ほどの一粒一粒の種が夏にはみずみずしくピーマンはピーマンに、トマトはトマトに育って食卓をにぎやかにしてくれます。胡麻粒ほどの種の中に意志といっては変ですが、そうあるべきようになっていくものの指示があるのだと想えば、当たり前といえば当たり前ですけれど不思議といえば不思議です。話が飛び過ぎるかもしれませんが、自分の現在をみていくとどうしてもそこに必然の大きな力の作用に、まるで動かされているかのような想いが浮かびます。さまざまな経験も思考も自分の身に起こるあれやこれやは、ひと連なりの動きであり、その動きそのものの中に生きる自分を見いだしていくように思えます。偶然が必然に転回する気づきはいつでも後からやってくるようです。生まれてきたことは偶然であるとの境地を聞いたことがありますが、その境地の背後に感じられるのは偶然という必然と言いますか、両方が溶け合ったそうあるべき事実と思ったりします。私は二十代の頃からアート畑に入りましたが、そうしたいようにそうしている心の動きの流れに乗ってきたに過ぎません。その動きは複雑に絡み合い曲がりくねった流れの方へ方へと動いて、さまざまなケシキを見せてもらえているような気がしています。

 たとえば立ち話でも本の中でも何でもいいのですが、ふと漏らした相手のひとことが言葉が、心に点火され思わぬ道筋への思考に向かわせることがよくあります。逆思考が適切な表現であるかどうかは解かりませんが、そうしたいようにそうしてきた当たり前の道中、何気ないひとことが私の心に点火して、当たり前の発生現場探索は始まりました。それは三十数年前の何気ないひとことがきっかけとなります。「あなたは自己に忠実なのがいい」と言葉をもらった時、誉め言葉と気づく前にえっと驚きが未熟な頭をかけ巡りました。そうしたいようにそうしている当たり前は、だれもがそうである当たり前と思っていたのです。自己に忠実である他に何に忠実であるというのだろうか。直観だけでは済まされない背後が気にかかりはじめました。逆に私の中で問いが芽生え、当たり前の発生現場、源を見とどけたい意識が生まれました。自己に忠実。ならば自己ってなに?

 今、その経験の道中を再び訪ねなくてはならないのは、あげくの果てのでんぐり返しの気づきがあるからですが、これは意外とつらいものがあります。比喩をふんだんに使ってなどと思案していると、ふと、助け船が見えてきました。そこには、かつてある公開講座でのシャベリの下敷きメモがありました。括ってみると、自分の感覚と外部との結びの経験がこうだああだと、経験する道中、出会うものに結ばれていく眼にこだわり、信じてついていく自分がつづられその道中の背後には、当たり前の発生現場の問いの意識がつきまとい、常にそことの結びが感じられ、更に道案内のように記憶のなかの感覚がつきまとっているのが見え隠れしています。常に出発は感覚から始まっています。若い人の心に点火する言葉の力が生まれてくれればと、かつての公開講座私のものづくりのメモの下敷きを通して、書き進めてみます。

 なぜか新品が嫌いな子供でした。運動靴でもシャツでもお古のようにどこか潜り抜けてきたような気配をものに感じとれば好きと思えました。一人で絵を描いていたりガラス窓に流れる水滴の行方をあきもせず眺めていたり、ひとり遊びに何の不満もありませんでした。いわゆる美術教育というものを経験していませんが、自分の気持ちに沿って動いて来ましたら18,9歳の頃、デザインスタジオの見習いの仕事についていました。そこでイラストレーションの仕事を覚え、27歳の頃フリーになりました。何年か経つ内スムースな仕事の流れの安定にふと違和感を感じはじめ、テキストに沿って絵を描く事が苦しくなっていました。自分への不満の眼はある日、露店商の店先にぶら下がっている青色の小さな袋に引き寄せられました。それはいかにも素朴がにじみ出ている織物でした。その風合いに触覚が反応したのかやってみたいとなにか嗅ぎつけたかのように予感が走りました。

 結婚し家族が出来仕事を続けながら、休みがちではありましたが二年間程お茶の水文化学院アート&クラフトに通い始めたのは三十年程前になります。染織を経験し更に造形作家堀内紀子クラスで勉強し始め、そこでの新鮮な経験は言葉の力の発見でした。問いのたてかたひとつで新しい意識が自分のなかに生まれる事を実感しました。それはたとえばナゼツクルノカの内的問いでした。ずっとアート畑に身をおきながら、自分の仕事に密着した内的問いの言葉が見えていませんでした。不満の眼の発生は心の奥からの信号であり気づく前に、すでに自分をあるべき場所につれてきていたのでした。ナゼツクルノカの問いは深く、その頃の私に想像できたのは生きる事と密接につながっているという漠然とした想いが浮上しただけでした。すると今度は自分の内からイキルワタシトハナニカと問いが追いかけてくるのでした。私のなかに宿りはじめた新しい経験と意識は、じわじわと滲みていきグラデーションから色濃く染まりはじめていく予感は、自らの造形へ、との走り書きのメモがいつしか私の内部に鋲留めされていきました。

 自分は現実にココに生きているわけです。自分の生を想像し考えていく上で幼い頃の記憶を呼び寄せる必要が出てくるわけですが、私の場合、ずうっと巻き戻していきますとフィルムの途切れる寸前に見た不思議が今も脳裏にはっきりとあります。暗闇のなかに見た眼です。妙な話になりそうですが赤ん坊の私をじっと見ている眼を見ている私の映像です。記憶のフィルムの巻き戻しはそこでぱちんと切れました。けれども切れた向こうを想像することはできます。二つの姓の結合です。それなくしていまここに、こうして存在しているチャンスは訪れなかった訳です。では父は母はと想像していけば、どこまでも果てしなく拡がる網目状の映像が見えてきます。つまり私の発生の源にまでも関心の眼が生まれます。そこにまた新たな意識が加わる訳です。

 はじめにイメージありきと言いますが私も同じように感じます。その奥には感覚がひかえているからこそのイメージありきと想像します。五感覚といいますが、私はもやもやとした触覚のなかに視覚聴覚味覚嗅覚は含まれていると思います。心触りや手触り、肌触りとさまざまな触りの感覚は、本来元々のその人の本質のようなところと深く関係しているのではないかと思うのです。感覚は幼児体験の記憶と言われやすいですが、それで話が終わったら想像は退屈なものになってしまいます。はっとして何かに触れた時にふと感じるあのなつかしさは、幼児体験を超えた果てなく深いところからやってくるのにちがいないと感じられてくるのです。たとえば自分に密着して魅かれる触覚的質感のイメージを見ていきますと、硬直し、固定化し、閉じられ遮断されたイメージとは逆の、動き変化し、溶け合うような流動的なイメージがあります。更に丁寧にみていきますとねじれ、うねり、重なり、動き、流れ、ゆらぎうごめいている起伏の表情がみえてきました。それは自分の内の気がかりとして浮かんだり沈んだりしていました。

 私はいま八ヶ岳の麓に暮しておりますが、田舎が好きだとか憧れてなどの理由ではありません。夫が目指しはじめた木の仕事と私の内にむくむくと沸き起こってきた自分の世界へのなにか熱い予感とが合わさって、それはある日、偶然見た満開の桜に引き寄せられるように車を止めた時からすでに始まっていたのです。5月の連休の頃でした。村は春らんまん。いっせいに芽吹いた植物群に村中は柔らかな色彩と香りで充満していました。折り重なるように数十本の満開の薄桃色に眼を奪われながら門をくぐっていました。そこにしんと家があったのです。色あせた外壁に桜の色が染み込んだその家は、眠たげな夢うつつの様子でした。桜の下にブランコやキリンの滑り台が退屈そうにありました。幼稚園ということはわかっても、ながい年月人の出入りがない廃屋状態の家の中をのぞくと、薄明るい部屋中に割れた窓ガラスが散乱して、星屑のごとく一面きらきら光っていました。と、羽音がして見ると大きな虫が部屋の中を飛んでいます。それはカマキリだったのです。飛ぶカマキリを初めて見ました。ああ、ここは子供たちが去った後、小さな生き物たちの遊び場になっているんだろうなと想像されました。おいでよ、こんどはあなた達があそぶ番と家に言われたような気さえして私達はすぐ借りる交渉に動き出したのでした。

 目には見えない大きな手に引かれてこの場所につれてこられた必然を感じたのは、これから経験するさまざまな不思議や神秘を通して発見する新しい自分でした。発見は時に本の中にあり、時に思索の中にあり、時に苦悩の中にあり、時に造る手の中にあり、野の草にあり、星にあり、闇夜にあり・・・見聞きし触れる生活全ての背後に潜んでいる神秘と感じられる感動を次々と経験するのでした。

 それはたとえばひとり誘われるように森の中に出かけたときでした。立ち並ぶ樹々や下草からのぞく小さな花や絡まる蔦を眺めたりしている時、呼びとめられたように一本の老木の前ではっとして足が止まりました。その老木のからだは曲がりひねり、ひだとしわに被われていました。その根は力強く大地に踊り、もりあがりくねり、あるがままの醜い姿に圧倒されました。それから私の内に沸いてきた感動は、その姿、形の中に秘められたイノチを感じたと同時に浮上した、美しいとはこれだということでした。あるがままに生きる美しさを老木を通して教わり、そして美と醜は対立するものではなく溶け合ったひとつの存在力ではないのかと思われたのでした。それにしても不思議なのは、この老木に似た樹に会うのは初めてではなくそのたびに驚きの歓声をあげていたはずですが、その時の心のありようが見たものは、姿形の驚きにとどまっていたのかも知れません。その人のその時と言うのでしょうかおもしろいものだとつくずく感じます。

 その経験を機にとは言い切れませんが、経験が経験を呼ぶように道を歩いていても、どこにいても強引な程に私を引き寄せ振り向かせるものは次々と現れてきます。感覚が目覚めたように、不思議なのは顕微鏡で拡大した綿毛のごとく、クローズアップで眼に飛び込んでくる、見えてくる感覚なのです。それらは、朽ち欠けたものや溶けかけたもの、錆びて崩れかけたものなど木石鉄ブリキガラス植物実などの、風化したり廃物寸前の物や機能を失ったものなどばかりです。それらのものに感じられる沁み込んだ歴史や、これから何かに成っていく予感を感じさせるものたちに見る表面の面白さだけではありません。私を引き寄せるものの中に眼差しを感じはじめ、石を見れば石もこちらを見ているという具合に、それは生きもののように親しみが生まれてくるのでした。あっと眼を止めたものに感覚が反応する内と外と引き合う引力の関係は、引き合う二つのいのちが結ばれてひとつに成り、そこに新しいいのちが誕生し始める源と共通の予感があります。見えるものでも見えないものでも、ふっと自分と結ばれ関係するそこには、いのちとつながるもの、魂のつながりともいえるようなものが生まれている気がします。そこになにか神性な気配を感じてなりません。というような遍歴をシャベッタことになります。

 あらゆるものと結ばせている出発は感覚です。経験や思考に連れ出すのもその人自身の生まれつきの感覚が出発です。と想わずにはいられません。ふと自分の周辺を見渡してみると、身につけるものに限らず自分で選んだいわゆるコノミのものばかりに気づくと思います。自分とそっくりな好きなものばかりかと思います。自分の記憶の貯蔵庫を透視するように、記憶物を次々と思い起して言葉に書きつけてみると、そこから立ち上がり触れてくる色や香りや音や味など、誰のものでもない自分の感覚の連なりが感じられてくると同時に、今の自分とつながって見えてくると思います。あまりにも密着している己の感覚がないがしろにされているのは惜しいことです。その試みは、ぽとんと奥底に雫が納まったように自分に納得します。自分の感覚をていねいに観察し、徹底的にこだわってみることで、新しい意識を生み、ものの見方が開けます。目覚めていく感覚、そのことに気ずけば、日々の生活の其処此処にあっと感応し、眼を止め結ばれたものの奥によく似た自分を発見し、なぜとか、どうしてとか、その人の内部に何事か主体的な動きへの経験がはじまるのではないでしょうか。感覚を出発とし、丸ごと全体の自分の経験に、忠実な自分の内部から沸き起こってくる意志の力、どうしてもという必然。持前の技術や知識やセンスが力を貸してくれはじめ、さまざまな創作へと展開されていくのは、そのあたりがミソなのではないでしょうか。

 なにもかもオミトウシの内なる意志の力の計らいはあるべきようにあるべき場所に自分をつれていきます。偶然は常に必然と手を組んでいて、ミツケタ?などといって微笑む。問いの意識をポケットに忍ばせていなければ、偶然は偶然で終わる。予感から発見へと内心の命ずる歩行は、いつだってそれで終わるわけにはいかない何かがむくむくと登場してくる果てしのなさ。

 心の内に潜入し、その奥深い世界を掘りすすむそれはどろどろとした七転八倒の苦悩と至福の裏表の転回転回の道中でありますが、その時その時の内心からのシグナルは外部に見る世界と一体であり、手を動かすことと思索が、思索することと手を動かすことが、そのどちらもが絡み合う経験を通して次第に立ち上がってくる物体。八ヶ岳に移住して最初にかたちになった「老木の花嫁」があります。作品の名前は自分の内から生まれた詩的な題名が好きです。

 1981年人を介して建築家の岩淵活輝氏に見ていただく機会があり、京橋の伊那ギャラリー(現・INAX)でオブジェと絵で構成した初めての個展の機会を得ました。初めての不安を口にする私にある人が、誰だって初めてはあるんだよと声をかけてくれました。期間はながくひと月近かったと思いますが、東京に泊まり込み毎日ギャラリーに通いました。作品は己のさらけだし。さらけだされた私を前に私はどのような顔でいられたのだろうか。最終日の夜、アスファルトの道でそのまま眠りたいと思った疲労の限界だけは覚えている緊張の日々でした。帰宅して会った久しぶりの息子の背が伸びているように見えました。芸術新潮と流行通信の取材があり「老木の花嫁」と「うねり」が掲載されました。この個展を機に、グループ展を含め毎年個展の機会を得ました。

 1987年東京都美術館での「布のかたち糸のかたち」展の出品依頼がありました。まだ作品の数も少なくあの広い空間に戸惑いましたが、10年間の作品は新作と見ていますとの学芸員の言葉に、「休息の森」を加え6点の作品で空間を構成しました。その経験で気がついたことは、ものの周辺はものとつながり空間を生んでいく。ものと溶け合い空間は立ち上がり呼吸しばじめるのかと漠然と感じ、そして作品の大小ではないなとの意識が遠くで芽生えました。

 1989年「サントリー美術館大賞展」に出品依頼がありました。このときすでに堀内紀子先生は、距離じゃないとひとこと残して、日本を離れカナダに移られていました。背後で細やかな配慮の応援と経験をいただいた、敬愛する師の眼を今も常に厳しく感じています。この展覧会でさまざまなジャンルで活躍する多くの造形作家を知り、薄々感じていたジャンルという囲いに疑問を持ちました。この前後から私の内で変化の予感を感じていました。それは軽やかさを身体が先に知らせていました。ちらちらと隙間から明るい光が差し込んでくる気配が見えていました。当然出品作品には私には見える次が混入していました。

 それからの数年、模索しながらも、追いかけられるように前を引き摺ったままの自分を展覧会でさらけだしていました。その時期、自分への不満の眼は重症の退屈の経験となりました。

 1995年「月夜の庭から」と題した京橋の千疋屋ギャラリーでの個展に向けての制作を続けながら、「老木の花嫁」の時代を通過したと感じました。内側で透明な水滴がぽとり落ちる音を感じた時、暗く重いそれでいて秘密の花園のような洞窟の重い扉が、開いたような明るさに満ちた広々した空間を内部に感じていました。ここから再び出発できると思えました。それは糸を手にした時の必然と変わらない。糸は奥に向かったにすぎません。奥底で紡ぎ出す透明な糸は、私の内で結び目をつくりながら今も延び拡がっています。それは内と外を仕切るものではない、内も外も溶け合った透明なうすいうすいもの。

 ものをつくるとは呼吸することと同じと感じます。ものは生命そのものであり、生命は源の宇宙につながる。あたり前を通過した当たり前に気づく度に、先に進んでいるとは逆の、逆に向かっていると感じみえてくる不思議。先は後ろ?先端には源が点滅しているのです。結局は空間をつくるということではないだろうか。かって大きな空間に作品が立った時に、空間が呼吸しはじめると漠然と感じたそれとつながります。空間とは宇宙であり、宇宙とヘソノオで結ばれた私という内なる宇宙の声に耳を傾け、それを通してそうしたいようにそうする、当たり前を通過した自己に忠実であることの当たり前に納得したのです。

 1995年以降の個展には、銅版画やコラージュなどが加わりました。いつ頃からか私の内に幾何学的なかたちが見えてくるのが不思議でした。幾何学的なというのは心に浮かぶままをデッサンしていくと、かたちが現れてくるのですが、単純化といったほうが合っているかも知れません。と同時に色彩を感じます。それはナマナマしい色彩ではなく遠い色彩……。汲めども尽きぬ泉がこんこんと湧き出ていてね、と昔年寄りが言っていたように終わりはないらしい。


 童話や絵本のことに触れてみたいと思います。たくさんはありませんが幾冊か絵本化された出版物があります。(挿絵の本は別として)絶版になったものもあります。地味ですけれども静かな小さなおはなしです。心が瞬間見た経験を通して言葉が生まれ、いつしか想像につながって小さなおはなしのようになっていくに過ぎないのですが。私にとって童話や絵本は創作方法のひとつの連なりであって、こんなふうに表現したいという想いが通じた時に実現するということです。ある詩人が「詩人だから想像するのではなくて、想像するから詩人なのだ」と言っていましたが、想像なくして考えることはできないし、想像はあらゆるものと話しができるのですから、ジョンレノンがソウゾウシテゴランヨと歌っているように誰の心にも響く言葉です。童話や絵本はこどもだけのものではないことはサンテグジュペリの星の王子様や宮沢賢治の童話の深さが教えてくれていて、あらゆるものと結びあわせ、あらゆるものと話しをしようと歌う声が聞こえてきます。

 はげしく雨が降ってきました。さっき郵便受けを覗きにいったとき、葉っぱに白い蝶がいました。びっしょり濡れた羽根が葉っぱにはりつき蝶はぴくりとも動かない。死んでるの?と言いながら触れてみるとぴくっと動きましたので、軒下の葉っぱに移しました。どうしているのだろうかあの蝶……。

(注)Art & Craft vol.20 造形作家 マツカーダム堀内紀子特集参照

-お知らせ-
-向こうから- 榛葉莟子個展
2004年6月25日(金)~7月6日(火) 日曜休廊
ART SPACE 繭
〒104-0031東京都中央区京橋3-7-10
 TEL:03-3561-8225

「マタタビのかご」 高宮紀子

2017-05-10 09:45:47 | 高宮紀子
◆マタタビのかご(写真 1)

◆道具とマタタビの枝、材 (写真 2)

2004年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 32号に掲載した記事を改めて下記します。

民具としてのかご・作品としてのかご 18 
 「マタタビのかご」 高宮紀子
 
会津若松から西へ入った、もうすぐ新潟県という所に大沼郡三島町があります。三島町には町営の生活工芸館があり、かご作りや木工などの工芸を教えていますが、今から6年前、東京テキスタイル研究所のかごのクラスで『ものづくりツアー・マタタビのかご作り』に参加したことがあります。11月でまだ雪が降らないと言われていたのですが、初雪がどんと降り、厳寒の小川の縁でのマタタビ採りをしたのがいい思い出です。

 マタタビは落葉ツル性植物なので、冬は葉が落ちて枝だけになります。その上、雪が積もっていたので場所がまったくわかりません。よく見ると雪の中から1本のまっすぐな枝が伸びているので、それを目当てに探しました。枝は一年を経ているものを採るのですが、慣れないために違う植物を採ったり、若すぎる材を採ったりで、なかなか素材集めもたいへんだったことを覚えています。
 
 その後、三島町へは工人祭りの時に訪ねた後、しばらく行かなかったのですが、今年の1月に『ものづくり体験ツアー』に参加する機会がありました。この体験ツアーは、毎年冬に、マタタビのかご、またはヒロロのバッグ作りということで生活工芸館が募集しています。今年の冬は、二泊三日のマタタビのそば笊作りでした。現地に午後集合し、マタタビの加工の方法を少しだけ、あるいはかごを作っている工房を訪れる、二日目に笊をしあげ、三日目は自分達で蕎麦をうって笊にのせるといった内容です。そば打ちも魅力ですが、私達、つまり編むことが好きな人間にとっては食べるよりは作る方ということで、他の編み組品の作り方を三日目に習うことにしました。

 旅館の女将から、今年は全然雪が少ないですよ、まだ全然ありませんと教えられ、よかったと思っていたのですが、やはりハプニングがありました。東京方面から三島町への交通機関は、三つあって、まず高速バスで会津若松まで行き、そこから只見線に乗る方法、電車だと東武で会津田島まで出て只見線、もしくはJR新幹線で郡山、磐越西線に乗り換えて会津若松まで行き、そこから只見線という方法です。生活工芸館の最寄り駅は只見線の会津西方駅ですが、只見線の本数が少ないため、どうしても東京からだと会津若松駅発が午後1時過ぎの電車で2時30分に着くルートしかありません。たいがいの人はこのスケジュールでやってきます。

 厳しい寒波がちょうど大陸から降りてきた時で、東北は雪嵐のニュースがしきりでした。高速バスは雪で遅延するからと思い、新幹線で郡山まで出ることにしました。せっかくだから、会津若松でおいしい昼ご飯でも食べようと思い、早めの新幹線に乗って郡山へ到着。さあこれから会津若松へとなるはずが、大雪のため磐越西線が運休という足止めをくらうことになりました。その後、大幅に遅れて発車した満員の電車にゆられて会津若松に着き、心配して迎えにきてくれた生活工芸館の北館さんの車で送ってもらいましたが、現地へついたのは夕方6時を過ぎていました。工芸館で予め加工したマタタビをもらい、そのまま旅館に戻って当日参加した方に教わりながら、材を組んで四角い底を作り二日目にそなえました。

 二日目は底の周りを編み、縁をつけて完成させます。今回作るのは小さな浅い笊ですが、四角く底を組んだ後、編み材で周りを編む時の角の所がむつかしくうまくいきません。編み材は平たい材といってもかまぼこのように表の面は曲面ですから、丸く円周を編み始める角の所の引き具合がむつかしいのです。うまくできると、四つの角が底側に出て接地するわけです。その後もぐるぐる周りを編んで少しずつ立ち上げますが、編み材どうしの間に隙間があいてなかなか思ったようにいきません。この二点が今回の関所だったようです。

 編み部分を終えたら縁を巻いて仕上げますが、以前習った方法とは違い、二重の縁を作る方法を教えてもらいました。この方法は今回笊を教えてくれた五十嵐文吾さんが考案したようです。展示会に行ってマタタビのかごを見た時に、何とかしてもっといいものができないかと考え、それまで一重だった縁を二つ作る方法を考えたそうです。写真1の右側が今回作った笊で、左は6年前に参加した時に作った笊です。二重の縁の作り方は、最初の縁材にタテ材を巻きつけ互いに組むように始末した後、別の太い縁材を最初の縁の外につけて、1本の材で巻きます。こうすると、小さな笊も一回り大きくなるし、縁が丈夫になることで、見栄えもよくなるわけです。また縁にはクマモヅルというツルを使いますが、このツルの茶色が見えてアクセントにもなっています。

 余った時間にマタタビの枝の加工方法を教えてもらいました。マタタビの枝は採ってきたらすぐに、外側の茶色の皮とその下の緑色の層をこそげ取ります。生活工芸館では、取ってきたマタタビの枝を束ねてシートをかけて外で保存していました。皮をこそげとると下から真っ白の木部が現れます。それを道具で3本~4本に割っていくのですが、この作業がむつかしく、マタタビの枝によっては途中で切れてしまいます。その後、中心のスポンジ質を削り取り、幅決めなどで薄さや幅をそろえるのですが、これもたいへんです。だいたい幅4mmぐらいの材を作るのですが、せっかくきれいに割ったものでも、均一な幅と薄さに削る時に材が切れたり、失敗したりで、最後までたどり着く材料はわずかしか残りません。写真1左の6年前に作った笊の材はほとんどの加工を自分でしたので、粗く太いおおらかな材になっているのがお分かりいただけると思います。前回は材を加工するのにほぼ一日かかりました。編むよりは、材の加工にかかる時間がともかく多いということです。

 マタタビの加工は竹の加工と似ています。編み方の技術も竹のかごと似ています。何故、竹ではなくマタタビを使うようになったかというのは、よくわかりません。一説には竹が無かったからという話がありますが、三島町には竹やぶがあります。あまりいい竹は育たないかもしれませんが。竹の加工と似ているのでおそらく道具も似たような物が多いと思いますが、マタタビの方が柔らかいので、扱いは楽だと思います。

 三島町ではいろいろな道具を作っていて、前回行った時も枝を3本や4本割りにする道具がありましたが、今回も工夫された道具を見ることが出来ました。写真2の左側にあるのがそれで一枚の鉄板にいろいろな大きさの四角や丸のきざみを入れたものです。四角い形のきざみは、幅出しで幅をそろえるために使います。そして丸いのは外側の皮をこそげとるために使います。写真2の左から二番目はマタタビの枝(茶色の外皮がついている)、割った材(中にスポンジ質が残っています。このスポンジ質を取り去ります。)そして右端の材が加工が完了した材です。横になっているのが、ヒロロです。

 三島町ではマタタビ、ヤマブドウ、ヒロロ、ワラ、ガマを使った編み組品を奥会津編組細工と呼び、いろいろな製品が販売されています。2003年にマタタビ、ヤマブドウ、ヒロロの各細工が伝統的工芸品に選ばれ、また町の活動として取り組んできた「桐の里 みしま工人卿」(手に職を持つ様々な工人達が活動し、その技術を他の人にも伝える活動など)が2003年度の毎日地方自治大賞の最優秀賞に選ばれています。

 6年前に行った時も感心しましたが、実際作っている人に会ってみると、作ることが生きがいに思えるほど、力が入っているというか、楽しんでいらっしゃるということがわかります。三島町のものづくりが盛んなのは、こういう生きがい感といった他に、今回習った五十嵐文吾さんのように、個人の工夫をどんどん取り入れている所にあるのではと思います。伝統的な技法をそのままというのもいいと思いますが、新しい工夫が取り入れられる、そういう展開もあるほうが伝統に活力を与えると思います。

 ヒロロという草を編んだバッグを例にとっても同じことがいえると思います。元来ヒロロでスカリという編み袋を作っていたのですが、技法をそのまま活かし、モワダやノカラムシの皮も入れて模様をだす方法を考え出し、現代の女性が持つおしゃれなバッグが作られています。値段は高いですが、耐久性があり一つきりの製品を持ちたいと思う都会の女性に人気が高いのです。
ヤマブドウのかごもどんどんおしゃれになって、元の山仕事の鉈入れとか、背負いかごの感じは失われましたが、新しい形も生まれ、まさに個人の技術によって工芸が生きていると感じがします。

 もう一つ、三島町のものづくりの盛んな理由は、町民向けのものづくりの講座です。私達が行った時もちょうど町民向けのかご作り教室と重なったので、その様子を垣間見ることができました。その日はマタタビ、ヤマブドウのかごをみなさんで習って作っているのですが、その場は同時に情報交換にもなっていました。講習は毎回あるのではないので、普段は家で作っているのですが、この日だけは工芸館にきて先輩の方法を見たり体験したりしています。町民は無料で参加することができるということ、りっぱな施設があることもすばらしいことですが、ものづくりが好きな人がこれほど多くいるとは、驚きです。
国から伝統的工芸品に指定されたと書きましたが、その指定を受けるのにはいろいろな条件があります。ざっというと、日常生活で使う物であること、手作りであること、100年以上の伝統があること、同じ材料が100年以上使われていること、産地を形成していることなどですが、どれも持続するのはたいへんなことだと思います。特に素材などは、毎年同じ質を確保するのはたいへんです。栽培できるものならいいのですが、自然に頼るということになると、環境の保護や、新しい場所を見つけたり、掃除をしたり切ったりと毎年手間がかかることと思います。

 ものづくりの上で、作り手どうしの健全な競争、つまり個人の工夫がどんどん取り入れられ、そして同じようなものを作らないものづくりが持続すれば、伝統がどんどん時代と一緒に流れ出し、魅力的な製品が生まれるような気がします。そのためには、技術を磨くだけでなく、技法の解釈を幅広いものにしていく必要があります。大きなお世話ですが、将来造形作品に挑戦する人が出てくることは望めないかしらと思いました。

造形論のために『方法的限界と絶対運動⑥』 橋本真之

2017-05-09 09:54:29 | 橋本真之
◆「果樹園―果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(作法の遊戯展1990年、水戸芸術館)

◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
(金属とガラスの造形展 1993年、神奈川県民ホールギャラリー)

◆橋本真之「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
(手わざと現代展 1993年、埼玉県立近代美術館)
撮影:高橋孝一

◆橋本真之「無限大と無限小を往還する構造」

◆橋本真之「凝集力」1990年 AZ ギャラリー、グループ展

◆橋本真之「凝集力」 1990年 お茶の水画廊、個展

2004年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 32号に掲載した記事を改めて下記します。

造形論のために『方法的限界と絶対運動⑥』 橋本真之

  『無限大と無限小を往還する構造』
 京都の画廊アートスペース虹における企画グループ展「ノート‘88」展で、「無限大と無限小を往還する造形モデル」を最初に発表した。運動膜の初期構造の展開の再検討を様々に繰り返している中で、不意に気付いた、奇妙な落とし穴に落ち込むような発見だった。すなわち、膜状組織の最初の円筒状になった出発の両端が、外側にひるがえって互いに結びつけば、いわばドーナツ状の最初の重層構造になる。そのように結びつかずに、いずれか一方の端を内包する形で、最初の円筒の中にロート状にすぼまりながら入り込む。そして、円筒を通り抜けた後、ロート状に拡がり反展して、再び全体を内包する。ロート状にさらに小さな円筒の中をくぐり抜けて全体を内包する…。このようにして中心軸から限りなく離れた距離と、限りなく中心軸に近付いた距離に向かって往き来するのである。それを無限に繰り返す。この螺旋系を断面とした回転体は空想的で観念的な構造だが、無限大と無限小をひと連なりのまま往き来して、互いをささえているのである。この構造をそのまま造形するのは不可能だが、無限大と無限小を無限に往還するという考えが、私をひどく誘惑するのだった。私は鍛金という物質的なあまりに物質的な造形技術によって、模式的ではあるが具体化しようとした。それまでの私の実在への執着とは、明らかに矛盾する方向への願望だった。けれども、図面上で確信できる程度の造形上の問題ならば、私をいつまでも捉え続けることはできなかったに違いない。けれども、模式ではあるが、具体的に鍛金によって可能な入口を、私は見い出したのである。数学者であれば、数式によって表現することに向かうのであろうが、私にとっては、その具体的な空間の質に触れることの方が重要だったのである。この事は、私にとって明瞭に踏み出すことのできた一歩だった。少なくとも私はこれまでと別様の、ひと連なりの多重の層構造を見い出したのだった。

 水戸芸術館の現代美術ギャラリーは天井高が6mあった。1990年の開館に向かって床の最後の仕上げをしていたがギャラリーの埃っぽい半透明な空気の充満の中に立って、床と壁の感触を確認した。この6mの天井高と、その自然光の降り注ぐ天井が私の制作を決定的に刺激した。この空間は「果樹園-」に5mに近い高さを要求している、それなら私はそこに「無限大と無限小を往還する造形モデル」を立ち上げるために、この仕事を出発する。――そう考えた。ここに「果樹園-」の部分を変換するという「運動膜」以来の考えを実行に移すことが出来たのである。そして、それは次々と部分を変換することによって、いずれ作品全体が入れ替わることになる。私の作品世界における特有の造形上の発見がいくつかあるとすれば、そのひとつにこの新陳代謝としての「造形変換」をあげておかねばならない。私における作品世界のかたちとは構造としてのフォルムであって、それは運動する世界構造としての具体的な展開形態である。それは長い時をかけて実現されることが必要なのであり、決して急ぐべき展開ではない。それは地層が形成されるように「降り積む時」が「造形的強度」に変成して行くのである。その端緒をこの展覧会で示すことが出来れば、それで良いと考えた。私の方針は明確だった。私の努力はすこぶるシンプルだった。4m50cmを超える高さの位置に球体状の「無限大と無限小を往還する造形モデル」を掲げるためには、「果樹園-」の中心にまで貫く形態を立ち上げねばならない。これが自らに課した課題であった。そして、そこから降りて来る形態の分岐によって、自重を分散させてささえるのである。私には初めての高さだった。4m50cmの長さをチェーンブロックで釣るのが仕事場の天井高の限界だった。ここにあるのは具体的な距離なのである。無限大だの無限小だのというのも、この手触りの中に見い出すのでなければ、私にとって仮空のことでしかない。無限大という不可能の手触り、無限小という不可能な手触りが、共に重要な感触なのだ。この手触りを自覚している限り、私が本質的に傲慢になることはあり得ないだろう。宇宙は人間の身の丈に合うようには出来てはいないが、この地上では自分の身の丈から認識するより他はないのだと覚悟していれば、空疎なかたちになることはあるまい。 

 展覧会は好意的に迎えられた。少なくとも、私の作品を喜んで迎え入れた人々がいた。それから3年後に開催された‘93年「手わざと現代」展('93年、埼玉県立近代美術館、カタログテキスト・松永康)。出品した「果樹園-」は以前の倍の量に増えた。そして、最初の出発の中心部と対比的に第2の中心部が出来た。「無限大と無限小の往還」の構造を内部にかかえた中心部が成立したのである。それはまだ連接する部分が出来なくて、「果樹園-」の中で孤立したかたちで展示した。埼玉県立近代美術館の企画展示室の天井は低いので、水戸芸術館で展示した変換した状態をそのまま展示することは出来なかった。水戸では壁に寄りかけて展示した最初の中心部から立ち上がる形態を、もとのかたちに戻して展示した。その替りその年の内に、最初の中心部の変換状態を神奈川県民ホールギャラリーで展示出来たのは幸いだった。(注1)

 「果樹園-」は展示空間にフレキシブルに対応するようになって来た。私の作品世界は、この「ゆるやかさ」を持った構成の在り方を許容することが出来る。この事は私の作品世界の大事な一面である。何故ならこの「ゆるやかさ」なしには運動展開は不可能だからだ。緊密な構成とは、すなわち足し引き出来ない閉じた構成なのである。言い替えれば、そうした在り方に対して私の構成は開かれた構成である。しかし、ゆるやかな構成であっても、密度がなければならぬ。強度がなくてはならぬが、固くてはならぬ。私の作品世界には、密度を前提としたゆるやかな強度が要求されているのである。

 『凝集力』
 運動膜の出発における展開の再検討をしていた。――とはすでに書いたが、そうした試みの中で、展開の方向が空間的拡大に向かう在り方と、一方で空間的縮小に向かう在り方の二極があることに気付いた。豊かさは拡大の方向にあるとは誰しも考え勝ちだ。無限に拡大する方向と無限に縮小する方向の連続する往還体についての発見は、前章で書いたとおりである。けれども同質量の物質が空間的に圧縮され続けるとしたら、その物質はいかなる「力」を与えられるのだろうか?と考えた。というより、考えるより先に手が動いていた。最初の円筒を両端から金槌で叩いて、しわを寄せながら縮小に向かった。そこに縮小しようとする強度があった。造形上の構成を失って、単に密度だけがそこに強度として顕われるのだった。すでに私はこの姿を十代の終わりに、収縮する林檎の中に見い出していた。林檎が腐って、やがて水分が蒸発して行き、表面の皮が縮んで行くとき、しわが寄って内部に向かい始める。そのしわの形態の動きは異様な強度を持っていて、私の目を長いこと釘付けにした。「凝集力」のこの仕事は物理的に収縮への造形行為なのだが、自分自身の出発の根拠に向かって収斂しているかのようだ。この仕事は人目を引くことを望めない造形行為である。これは徹底の果てが求められている方位なのであって、この仕事が人の心を動かすことがあるとしたら、発生する不可解な形態を引き込み続けて、全てを消去して行くような場処を思わせるからに違いない。実際、内部空間を圧縮するように叩くことで、膜状の形態は一撃一撃の下で瞬時の変化にうねった。しわ同志が寄り合い、離れ、山々は立ち上がっては消えた。この方向は膜状組織が不規則に折りたたまれて層状の塊になった。(注2) 私はなおも叩き続けた。やがて、層状の塊は雲母のように、その薄い金属膜を乖離させ始めた。塊になったとはいえ、融合している訳ではないので、層状の金属膜同志が反発して剥がれ始めるのである。これらの仕事は渾沌とした出発の場処に向かうのだった。私は20代の始めに、このような場処から出発したのだった。遠い軌道を描いて出発に戻って来たのだと自ら知った時、再びその先が同一の軌道を描くのかも知れないと思うと、自らの運動の将来を、見知らぬ荒野で一人コマのように回転している姿として想像する他なかった。この堂々めぐりの先には何が在るのか?何か自分自身の中に空怖しい感情が充ちて来るのに気付いた。一体、何に向かっての凝集なのか?いずれ大展開の時が来る。そう自らを納得させずには居られなかった。

(注1)「金属とガラスの造形」展、1993年。(テキスト・畠山耕造)
 (注2)「凝集力」の初めて発表は1990年AZギャラリーにおけるかたち社主催のグループ展。
 

『手法』について/前川義春《穿孔》   藤井 匡

2017-05-07 11:28:11 | 藤井 匡
◆《穿孔Ⅰ》花崗岩/750×250×100cm/2003年

2004年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 32号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/前川義春《穿孔》   藤井 匡


 前川義春は、自らの彫刻が成立する要件として、〈彫刻が自然の影響をうけつつ、状態として風景と一体化し、長い時間をかけて完成に向かうこと〉と〈作家の石に対する行為は自然と同化してしまわずあくまで一線を画したうえで痕跡を残しつづけられるものであること〉(註 1)を挙げている。

 この二点は共に、彫刻の制作自体に関することではなく、彫刻の長期的な野外展示に関する事柄である。つまり、作者の意識する彫刻の成立は、彫刻の制作とはズレをもっている。彫刻とは永遠=不変の存在ではなく、作者の手を離れる制作終了時点と風化による消失時点との間で、変化していく現象だと考えられているのである。ここでは、彫刻の制作は、その成立全体の一部を占めるに過ぎないものに相対化されている。

 前川義春が使用する石は、人間の目には、耐候性に優れた素材に映る。しかし、それは膨大な時間をかけて生成/崩壊の運動を続けており、正確には、人間とは時間の尺度が異なるものである。その際、石は人間には感じられない微細な出来事を集積し、差異を蓄積していく。作者の彫刻観は、他の素材にはない、こうした石の特性から引き出される。

 ただし、順番として、先に人間と石との差異が概念として掴まれ、後に概念に対応する素材が選択されたと考えるべきではない。前川義春はキャリアの最初期から石による――それも野外展示が適当な大型の――彫刻を継続的に制作してきた。石という素材と一対一で対応する作者の彫刻観こそが、石を扱う過程の中で深化されたものである。

 作者にとっての石は、時間を超越して在り続ける存在ではない。同時に、変化を繋ぎ合わせることで時間の流れを捉える、通時的な視点(歴史)を導くものでもない。それは、時間を一定の幅として把握する、共時的な視点を提供するものである。前川義春の制作方法は、この認識から演繹されている。
                   ◆         
 《穿孔》は、直方体に近い原石を横方向からコアドリルで半ばまで刳り抜き、外側四方向から矢割りして切り離した作品である。こうして分割されたパーツは、近い距離に、切り離した順序で並べられる。ここでは、石を彫り刻む作業は行われないため、原石のほとんど全てが作品に用いられる。つまり、原石から離れた形態が創出されるのではなく、同一存在の、異なった状態として提示されるのである。

 穿孔と矢割りの二つの作業から、彫刻は「原石のままの表面」「コアドリルで切られた表面」「矢割りされた表面」の三種類の表面を有することになる。この内、題名にも付けられた穿孔作業による表面は、原石の表面や矢割りされた表面と性格を異にする。

 コアドリルは石を円筒形に、文字通り、機械的に切断する機械である。したがって、基本的にはどの石のどの部分であれ、規格に応じた一定の表面が出現する。ここでは、作者と素材との関係は、主体とその延長という一方向的なものとなり、予想通りの表面(想像物のコピー)を現前させることが可能となる。

 だが、矢割りされた表面では、事情が異なってくる。割れ方を予想して矢の位置や本数が決定されるものの、それは素材に内在する石圧や石目などの摂理に依存するからである。この石の摂理は、外側から見ても完全には把握できないため、作者がどのように予測しようとも、結局は割ってみないと分からないものとなる。表面は石を割る行為と同時に発生するもので、事前の想定が現実として再現されるという思考を許さない。

 このように、穿孔と矢割りとがもたらす表面は対照的な性格をもつが、作者の主題は矢割りの表面にあると考えられる。彫刻の表面を統制しようとする態度と、作品の経年変化を許容する冒頭の要件とは、相容れないものである。実際、前川義春の以前の作品は主に矢割りの表面によって成立しており、矢割りと対比的に見せる以外には、幾何学的なカットや研磨などの機械的な表面は避けられてきた。《穿孔》では、矢割りの表面を前景化するために、コアドリルでの作業が重ねられるのである。
                   ◆         
 こうした表面を対比的に意識させる構成は、その表面をより詳細に見分けようとする動機を誘発する。その結果、穿孔と矢割りとの差異に留まらず、視覚効果では同一のはずの、矢割りと原石との差異に目を向けさせることになる。

 《穿孔》で使用される、直方体を基調とする原石の表面は、自然に生じたものではない。作者の手に届く以前に、石材業者の手で、利用・運搬しやすい大きさ・かたちに割られたものである。その方法と作者による矢割りとは、技術的に全く同じである。

 同様の方法によって割られた表面は、当然、同様の相貌を現す。両者の関係への着目は、「割ったのは誰か」ということに意味を見出すのを困難にする。石を割る行為は、制作という言葉が内包する作者=主体の存在を危うくするのである。冒頭の二つの要件は、実は、この主体を巡る問題と繋がっている。

 〈彫刻が自然の影響をうけつつ、状態として風景と一体化し、長い時間をかけて完成に向かう〉とは、制作主体とは別のものから何かが加算/減算された状態を、完成と見なすことである。ただ、それは制作主体の外側に由来する以上、いつ・どこに・なにが加算/減算されるかは作者にとっては(誰にとっても)不明である。したがって、作者自身は作品の完成を決定できない。作者の思惟と石の存在とは断絶しており、作品に対する作者の特権性は剥奪されるのである。

 しかしながら、他方で〈作家の石に対する行為は自然と同化してしまわずあくまで一線を画したうえで痕跡を残しつづけられるものである〉ことも要求される。作者と素材との接点が消失するならば、路傍の石と彫刻との違いはなくなり、完成という意味自体が失効してしまう。そのために、制作主体を完全に放棄することはできないのである。

 前川義春の設定した、相反する二つの要件は、完成の意味を宙吊りにするものである。作者の素材への関与は、始まりから終わりへと直線的に向かう歴史とは別種の時間概念を導く。ここでは、終わり=目的が見えない以上、現前する石の変容の蓄積を見続け、受容するしかない。石の変容の方が、作者の変容を引き起こすのである。
                   ◆         
 作者は、自らの行為に関して〈できうる限りシンプルな形態、行為の中で彫刻を成立させたい〉(註 2)と言う。《穿孔》では、穿孔・分割・配置の三つに限定されるが、それは、シンプルな(ミニマルな)彫刻を制作したいという意味ではない。行為を最小限にまで還元することから、作者・作品・制作といった彫刻の制度を支える基礎を問うことを表明しているのである。

 冒頭の要件では、制作と自然とは対比的に扱われている。しかし、この自然はあくまで主体の外部に位置しており、主体が語ることのできないものに属する。ただ、この問題を主体側から語る時には、そうした言葉を用いるより他はない。仮に、作品をテクストと呼び代えるならば、主体の拘束を離れて語ることは可能である。しかし、そのときには、この問題を生み出した、主体を問題とする主体も同時に消えることになる。

 前川義春は1985年から1991年までドイツに滞在し、ヨーロッパを中心に活動を行っていた。自然科学を生み出した西洋では、「God as the Great Architect」(註 3)という合理的な自然観をもち、彫刻もこの思想の延長に展開してきた。ここでは、世界を創造した神と彫刻を制作する彫刻家との間には、並行関係が形成されている。この場所では、制作主体は自明なものとして保証されるのである。

 他方、作者が生まれ育ち、現在の活動の中心となっている日本の自然観は、そうした原理性をもたず、自ら成る事実として位置づけられる。さらに、この自然は、人為と自然という対立をも排除していくように機能する。(註 4)この場所では、西洋とは逆に、主体そのものを確立することが困難である。

 前川義春の問題設定は、この二つの場所の落差から生まれてきたものと思われる。洋風一辺倒になることも、日本に回帰することも、自らが抱える矛盾から逃避することでしかない。彫刻は「つくること」と「つくらないこと」とに分離したまま留め置かれる。ここでは、矛盾を頭の中で解消するのではなく、その中を生きることが選ばれているのである。


註 1 作家コメント『第9回八王子彫刻シンポジウム』図録 1993年
  2 作家コメント『東条アートドキュメント '95』図録 1995年
  3 柄谷行人「暗喩としての建築」『暗喩としての建築』講談社 1983年(初出1981年)
  4 柄谷行人「批評とポストモダン」『批評とポストモダン』福武書店 1985年(初出1984年)


「早春の雪」 榛葉莟子

2017-05-05 10:51:22 | 榛葉莟子
2004年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 32号に掲載した記事を改めて下記します。

「早春の雪」 榛葉莟子

 あっ、梅が咲いた。の声に硝子越し庭に眼をやる。ああほんと、一つ咲いてる。いや、二つ咲いてるよ。どこどこと、まだすっぽりと冬の色相に覆われた堅い庭の梅の木に眼を凝らす。眼を凝らさなければ見つけられないくらいの小さな白い花が細い枝に離れて二つ、けなげに春が来ることを知らせている。いくつ咲いたとか、けなげだとか思うのも、ぐるり家を囲む桜の大木の傍らの日陰に生え出たように細いその木が梅の木であることに、ながい年月まるで気ずかなかった見る側の素朴な心情にすぎないけれど。

 何年くらい前になるだろうか。春が来る待ち遠うしさの退屈の眼がぱっと開いた梅の木発見のある日の午後があった。何もかもが枯れた風景のなか硝子越しの向こうに一瞬煌めいたような白いものに眼が止まった。何だろうあれ、ほら枝に白いもの。まさかまさかと不思議な光を見とどけたい思いで庭に走った。さして気にも止めなかった細々しい木の枝に煌めいたものが、一輪の梅の花だと知った瞬間の驚き。毎年こうして白い花が咲いていたのに気ずかなかった自分への不満も生まれた。けれどもこの木いっぱい白い花が咲いていて気ずかぬはずはない。なるほどと合点がいったのは七日たち十日たち、梅の木をどれほど眺めていても花は数えるもなくなんとも地味にわずかな開花で終わった。そうして初夏の頃、いくつか小さな青い実がぶら下がっていた。梅の木は小梅の木だと分かった。さあ、それからは妙なすまなさも混じり合い梅の木は気にかかる存在となった。のび放題の細い枝の散髪をしたり、根もとに栄養になるかもしれないとなにやかにや気を使う程度の手入れだけれども、いくらか姿はたくましく成っている。毎年細い枝々に並ぶ蕾は増えた。そうしてまだ寒風のなかぽっと光のような一輪が開花する。あれから何回小雪は散らついただろう。小雪から雨になり雲間からちらちらと陽が見えはじめると、枝に留まる水滴はルビーやエメラルドに煌めき、蒸発する間もなく地面に吸い取られる。そうして足の裏に堅く触れていた地面がふっくらと膨らんで来る頃、其処比処と地面の表面が裂けはじめる。裂けてめくれた地面の表皮。その奥に深々と拡がる暗黒の地中を覗く時いつも感じる畏怖。古い英語では黒はひかり輝くとの訳があったと聞く。その訳は闇のなかの光と思い切って口に出してみたい私のなかの畏怖と通じる。

 捜し物があってごそごそやっていると、二十数年前の引っ越しの際、荷物を詰め込んだままのダンボール箱がいくつか湿っぽい暗がりにあった。アルバムとか小物とかマジックペンの黒い字が読める。そこに棒を束ねたように紐で結んである古びたイーゼルがあった。こんなところに…と引き寄せて紐を解く。高校生の頃、兄にねだって手に入れた油絵道具一式の内のイーゼル。ほこりを払い三本の足をひろげてみたが、すっかり金具がさびて調節の鋲も回らない。キャンバスを置く溝の縁に白っぽいくすんだ青色の絵の具がへばりついている。ああそうだったの思いと共に、薄曇りの淡い空が見渡せるすすきっ原でイーゼルに向かって絵を描いている二つの後ろ姿がまぶたの奥に写し出された。絵が好きという共通が近ずけた友人と出かけた早春の武蔵野。彼女は美大に進み私はデザインスタジオの見習いの職を得た頃だった。けれども友人の関係はあまりにもはやい突然の彼女の死と共に消失した。ああ、そうではないな。たったいま古びたイーゼルに残っている青色が友人との再会へと招き寄せてくれたのだから。それにしても再開した彼女の横顔は若いままだ。追憶。それは突如として顔を出す。通夜の夜暗闇の道で友人の死を激しく泣いたのは自分であり、とてつもなくながい時を経たいま、友人の死に激しく泣くこともなく、早春の武蔵野で絵を描く二つの後ろ姿を一枚の絵を見るように、微笑んで見ているのも自分なのだとの思いが浮上した途端、なにかがざわついた。心に描いた明るい一枚の絵は、いまも自分の心に生きる友人との合作ではないのかと想像した。なにか心が定まったような思いがしたせいかイーゼルを修繕して部屋に持ち込んだ。ここに立つイーゼルはすでに友への追憶から遠ざかったただの古びたイーゼルであり、試みているものを離れて見るための仕掛けでしかない。

 朝、カーテンを開けると雪が降っていた。白い庭だった。周りの木々に薄く積もる雪の白と水を吸った黒の枝々は清々しく、延びていく音さえ聞こえるようだ。そして梅の木はどの木よりも早く満開の時を迎えたかと見紛うような美しい雪の花を咲かせていた。