さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

White Australia Black history

2010年01月05日 11時02分24秒 | Web log
3日前、タオルを取りにビーチから家に戻る道すがら
White Australia Black History というステッカーと
アボリジニーの民族旗のステッカーを張った
キャンピングカーを見かけた。

オーストラリアの白豪主義による暗黒史を批判する
ステッカーだ。

誰が運転しているか気になって、追い越すタイミング
を伺っていたが失敗した。

アボリジニーか、それとも左翼系白人か、有色人種か

それにしても、強烈なメッセージである。

意思を表明するというだけで、思いの強さが伺える。

理不尽な扱いをされると、泣き寝入りして落ち込むと
いうよりも、明らかに強い怒りが自分の中に生まれている
ことに気付く。

怒りは、自分の存在を否定されることへの危機感から
来ているのかと思う。

で、何につけ、いちゃもんをつけたくなるのである。

この前も、Perth市にあるカトリック教会で行われた
クリスマス・ミサがテレビで放送された。市長、州知事など
がクリスマスにちなんだメッセージを述べていた。

で、見る人見る人が白人なのである。

司教、聖歌隊のメンバー、礼拝参列者、全てが白人。

違和感を感じずにはいられなかった。

オーストラリアは多民族国家である。
確かに白人は多いけれども・・・全部ってのはとても不自然な
感じがした。

しかも、テレビで放送しているのであるから。

で、私が逆差別的発言をしていたら、白人であるマイクが
私の態度に怒り出した。

マイクも一応、白人ですからね。

きっと誰の中にでも「差別」というより「区別」をしたくなる
欲求ってあると思う。範疇化するというか。

そうすると楽ですから。

郷里、学歴、会社、居住エリア etc で、差異化し、優劣という
ラベルを貼りたがる。

そして多かれ少なかれ、人は競争を通して、そのラベルを獲得
することを求める。

本能の中に生存競争が組み込まれているのだから、生きている
限り逃れ得ない。

差別も、競争も人間である限り、ほっとけば自然とおこなって
しまう業なんだろうと思う。

でも、その原理の中に身をおいている限り、人に勝たなければ
満足はやってこないから、常に競争なのである。

Aさんには負けたけど、でもBさんには勝ったわ~の連続だ。

表面だった競争・優越意識以外にも

「○○さんは、可愛そう、大変そう・・」といった類の同情という裏に

「・・・・でも、わたしは○○さんよりも幸せ」

などといった無意識の競争・優越感があったりするのであるから
難しいもんだなぁと思う。

そして、生存競争という他人との戦いから逃れたいと思っても、
結果、自分の中にある本能との闘いを余儀なくされる。

勝たなければいけない相手が、自分なのか他人なのかの
違いだけ。

人種差別のような扱いを受けたときに、不当な扱いに
対する自分の怒りを一体どこまで抑えられるか・・・

不当な扱いをうける理由が見当たらないだけに、
自分の怒りを正当化してしまうことになり、
それを抑える自信がない。

大抵、民族運動というのは支配国へ対する憎悪と暴力と
いう形で表現されるのは常である。

そしてそれはとても本能の働きからいって自然なことだと思う。

が、インド独立の父、マハトマ・ガンジーが提唱した
「不暴力・不服従」というスローガンを掲げた独立運動は、
インドという「自分」とそしてイギリスという「他者」と
同時に戦ったという意味で、すごいことなんだなぁと思うので
ありました。

署名

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