次は,1931年生まれの作家,河瑾燦(ハ・グンチャン)の文章。
植民地に育った子どもがいかに日本文化にどっぷりつかっていたかを窺わせます。
幼い頃,私が初めて見た映画は,日本のサムライ映画だった。国民学校一年の時だったから,今から五十年前のことである。もちろん日帝時代である。その頃は映画のことを「活動写真」と呼んでいたが,なるほど確かに動いている写真を見て,私は不思議でたまらなかった。その中に登場するサムライたちの姿も珍しかったし,特にチャンバラを繰り広げる場面は私を魅了してしまった。
映画を見た後,私はいつまでも「サムライ」たちとその剣術が忘れられなくて,一体そのような人たちが住んでいるところはどこだろうか,実際にそんな世界があるのだろうかと疑いに落ち込んだりもした。なぜなら,私はその頃大邱に住んでいたが,私たちの大邱という都市では,そのような人たちを見かけることができなかったからだ。それが日本という国の歴史の中に登場する武士たちだということを知ったのは,何年か経ってからである。
私が初めて見た絵本も,やはり日本の「講談社の絵本」であった。「四十七士」という題名であったが,憤懣やるかたなく死んだ藩主の復讐を敢行する武士たちの話で,どれほど面白く,胸をドキドキさせたか。私はその絵本をランドセルの中に入れて学校へまで持ち歩き,一年に買ったものを,三,四年になるまで大切に保存しながら,遊びに来た友達に見せて,自慢したりした。
(略)
私が初めて読んだ漫画もやはり日本の「ノラクロ」という漫画だった。動物を擬人化して日本軍――その頃は皇軍――の優秀性をそれとなく表した,そんな漫画だったが,それもやはり面白かった。その漫画を読みながら,私も早く大きくなってノラクロのような勇敢なヘイタイサンにならなければということまで考えた。それは三年生か四年生の時だったと思う。
それからまた,私が初めて読んだ小説もやはり日本の時代ものだった。「雲隠才蔵」という少年小説であったが,ご飯を食べるのも忘れるほどだった。「サムライ」小説の味を覚えた私は,吉川英治が書いた「宮本武蔵」全六巻を,国民学校六年の時読破した。それは父親の本箱に並んであった。
父親が転勤して,その頃は田舎に住んでいたが,私たちの村には国民学校が二つあった。一つはわれわれが通う学校で,もう一つは日本の子供たちが通う学校だった。私たちの学校は教室が十くらいあり,日本人の学校は教室といっても二つだけだった。学生数もわが校は六,七百名くらいいたが,日本人学校はせいぜい三十名ほどしかいなかった。それほど大きいわが校には,学級文庫というのがなく,図書館のようなものもなかった。学生たちのための本というものは,一冊も備えられていなかった。しかし,日本人学校には二つの教室の両方ともに数百冊もの本が並べられている大きな本箱が,一面の壁面をすっかり占めるようになっていた。大きなわが校と小さな日本人学校の奇妙な対照といわざるをえなかった。
河瑾燦『文芸』1988年夏季号/鄭大均『日本(イルボン)のイメージ』(1998年中公新書)より再引用
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