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朝ドラ「虎に翼」で終戦直後の日本の孤児たちの姿を見て、韓国の『ユンボギの日記』という本を思い出しました。
私が韓国関係の仕事を始めた1990年代初め、日本で雇ったアルバイトの韓国人留学生のなかに、尹福姫(ユン・ボキ)という女性がいました。彼女が入ったとき、前からいた留学生が
「ユンボキ!」
と言って囃し立てました。
事情を聞くと、韓国で『ユンボギの日記』という映画があって、その主人公と名前が似ているから、ということでした。
「ユンボギの日記」とは、まだ韓国が貧しかった1963年、極貧家庭の李潤福(イ・ユンボク)という小学生が書いた日記で、最初は本として出版、その後映画化されました。
「ユンボギ」というのは「潤福/ユンボク」の呼び名。韓国では名前を呼ぶとき、しばしば語末に「イ」をつけます。
正確に言うと、「ユンボキ」(アルバイトのフルネーム)と「ユンボギ」は最後の音が「キ」と「ギ」で違うのですが、似ています。
本はベストセラーになり、映画も大ヒットしたため、1990年代当時、「ユンボギ」の名を知らない韓国人はいませんでした。
本は翻訳されて、日本でも出ていたので、私もさっそく読みました。
『ユンボギの日記―あの空にも悲しみが』(塚本勲訳、1965年、太平出版社刊)
李潤福(イ・ユンボク/ユンボギ)が大邱(テグ)の国民学校(日本の小学校)4年生だった1963年6月から64年1月まで、学校の宿題として書かされていた日記です。
ユンボギは、病身の父親と三人の妹、弟といっしょに暮らしています。
母親は、ユンボギが6歳の時、父親の飲酒と女性問題が理由で家を出てしまい、行方知れず。その後、父親は体を壊し、満足に働けなくなったため、家族は極貧生活に陥ります。
ユンボギは2歳下の妹とともに、不法にガム売りをしたり、裕福な家に行って「おもらい」(物乞い)をしたりして食いつなぎます。学校に給食はなく、弁当を持っていかなければなりませんが、子どもたちは弁当を持っていけないので昼飯は抜き。ガムが売れないときは朝ごはんも食べられない。
担任の先生はユンボギのそんな暮らしぶりを日記を通して知り、はげましたり、ときには物質的援助もしながらユンボギを見守ります。
そんな中で、あまりの生活苦に妹のスンナ(8歳、小二)も家出してしまう。
母親と妹が恋しいユンボギは、妹が慶州にいるらしいという噂を聞いて、探しに行くことにする…。
日記はそこで終わります。
日記を読んで感動した学校の先生(担任の先生とは別の先生)が、東亜日報の記者に知らせて新聞の記事となり、ユンボギの名は全国的に有名になりました。さらに先生は、日本でベストセラーになった『にあんちゃん』(在日コリアンの少女の日記)の例を思いついて出版社に持ち込み、出版にこぎつけたということです。
私は、韓国にかかわる仕事を始めてから、韓国について、語学・文化・政治・経済などあらゆる分野の本を読み漁りましたが、『ユンボギの日記』はこの時初めて読みました。
朝鮮戦争後の韓国が「世界最貧国」と位置づけられていたことは別の本で知っていました。この本は、当時の悲惨な状況を生々しく伝えてくれたのです。
私が生まれたのは1961年。物心ついてから、飢えの経験、お腹が空いているのに家に食べ物がないという経験はしたことがない。日本は豊かだったのですね。
1963年に、隣の国で飢えている子どもがたくさんいたというのは、ショッキングな事実でした。
ユンボギが生まれたのは、年齢から逆算すると朝鮮戦争が終わったころ。
母は所在不明とはいえ、両親が揃っていますから、戦争孤児ではありません。
ただ、「虎に翼」の映像は『ユンボギの日記』の内容と重なるところが多かったのです。
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