朝ドラ、「虎に翼」で、主人公猪爪寅子の明律大学の同級生に、崔香淑(さい・こうしゅく/チェ・ヒャンスク)という朝鮮半島出身の女性が出てきます。
モデルになった三淵嘉子の明治大学の同級生に朝鮮半島出身の女性がいたという情報はないので、おそらく架空の人物。
ドラマの中で彼女は、女性として、また朝鮮人として二重の差別を受けたことになっています。
NHKのホームページによれば、崔香淑は、「朝鮮半島からの留学生。法律を学んだ兄の勧めで明律大学女子部に進学した。日本語が堪能で、寅子たちともすぐに打ち解ける」と紹介されています。
兄の潤哲(じゅんてつ/ユンチョル)は東京帝国大学で法律を学び、卒業後は出版社で文芸誌の編集に携わったとのこと。
崔香淑は寅子と同じく1932年に明律大学女子部、35年に法学部に進学し、37年に高等試験を受けて不合格、翌年の試験は受けずに、朝鮮半島に帰りました。
そのころ、潤哲は日本の出版社で働いていましたが、同僚の朝鮮人が秘密集会に出て治安維持法で逮捕。潤哲も関与を疑われ、朝鮮に逃げるようにして帰ります。その兄から「朝鮮に帰ってこい」という手紙が来て、香淑は高等試験を受けずに帰ったのですね。
潤哲が東京帝国大学をいつ卒業したのかは不明ですが、1932年から1937年の間でしょう。
東京帝大の法科の学生は、当時の超エリート。ほとんどの学生が高等文官試験(国家公務員試験)を目指し、合格して朝鮮総督府の官僚として凱旋するのが普通でしたから、潤哲が日本の出版社に就職して文芸誌の編集をするというのは異例です。
もしかしたら、高等文官試験に落ちたか、学費が払えなくて大学を中退したのかもしれません。
ドラマの感じでは、潤哲はたんに疑われていただけではなく、実際に反政府的な民族運動や労働争議に関与していたことが示唆されています。
1930年代後半は、特に朝鮮半島出身の帝国大学生の間では、反日運動は下火になっていて、逆にしっかり知識を身につけて、朝鮮の近代化に尽くそうとする人が多数派でしたから、ドラマの設定はやや無理があるように思います。
鄭鍾賢著『帝国大学の朝鮮人―大韓民国エリートの起源』(渡辺直紀訳、慶応義塾大学出版会、2021年)は、植民地期に「帝国大学」を出た朝鮮半島出身者の記録をつぶさに調べた労作で、当時の事情が詳しく書かれています。
それによれば、東京帝国大学法学部を卒業した朝鮮半島出身者は、最初に卒業者が出た1906年から1945年まで合わせて163人(中退を含まず)。
卒業後の進路は、約50%が官僚、40%が教員。民間企業への就職は少なかったようです。
また、「帝国大学」に進学した人々の出身は、貴族階級(「朝鮮貴族令」にもとづく)の子弟、朝鮮王朝時代の名望家の子弟、植民地ブルジョア(両班、地主)の子弟が多かった。
当時の日本の教育制度は、「六・五・三・三」制。小学校は今と同じ6年ですが、旧制中学5年、旧制高校3年、大学3年。内地の帝国大学に進学するためには内地の旧制中学・高校に通わなければならず、その計8年と、大学3年の計11年の学費・生活費が必要になります。1年当たり平均684円で、これは朝鮮半島の平均年収に匹敵したそうですから、かなりの資産がなければ子女を日本に送ることはできない。
家が裕福ではない場合、成績優秀ならば、総督府の官費留学生として奨学金を受ける道もありました。
あるいは渡航費だけ持って日本に渡り、働きながら勉強する苦学生もいました。運がいいと、日本人の篤志家に資金援助をしてもらえたりした。もちろん、学費が払えなくて退学した学生も少なからずいたでしょう。
以前紹介したことのある任文桓の場合、同志社中学の学費が払えなかったとき、担任の原忠雄が仕事を紹介してくれたり、東京帝国大学に合格したときの入学金は、岩波書店の岩波茂雄社長が援助してくれたそうです。
任文桓『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』
ドラマに出てくる崔兄妹が、どのタイプだったのかはわかりません。
二人の子どもを日本に送り出すことができたというのは、朝鮮の実家がかなり裕福だったのでしょう。
先の本によれば、朝鮮で三一運動や反日運動に加担したために逮捕・投獄され、朝鮮の中で高等教育を受ける機会を閉ざされた者の中には、渡日して日本で旧制中学・高校に通い、帝国大学に入るケースもあったようです。
彼らは近代化された日本に圧倒され、日本に抵抗するよりは協調し、朝鮮の官僚として祖国を発展させる道を選ぶものが多かった。「転向」と言ってよいかもしれません。
帝国大学法学部を出て高等文官試験に合格した者たちは、総督府の官僚や地方行政の枢要な地位を占め、解放後は、新しい韓国の行政機関で要職につきました。
50年以上経って、韓国で進歩勢力が政権を握ったとき、彼らは「親日派」の烙印を押され、その子孫は名誉を失墜したり、財産を奪われたりすることになるわけですが…。
ドラマの中の崔香淑の、来日前の経歴はよくわかりません。
1932年に20歳ぐらいだとしたら、1910年代に生まれたことになります。
日韓併合の後ですから、1910年の「朝鮮教育令」、1922年の「新教育令」に沿った教育を受けたはず。
朝鮮の伝統的教育機関に書堂、郷校などがありましたが、これらの期間は男子だけを対象に漢文教育を行っていました。
日本の統治下になって、女子は初めて教育機会を得ることになりました。
当初、朝鮮人用の初等学校である「普通学校」は4年制。それが1922年の教育令で、日本人用の小学校と同じ6年制になりました。
その上の中等教育は、男子は4年制の高等普通学校、女子は3年制の女子高等普通学校(女学校)。
女学校には私立の貞信女学校や、日本人、淵沢能恵が作った明新女学校もありました。
消された日本人の功績
公立の高等教育機関としては、京城法専、京城医専、高等工業、高等農林、高等商業などの専門学校があり、1926年には京城帝国大学も開学しました。女子の高等教育機関としては梨花女子専門学校が有名です。
崔香淑は、4年または6年制の普通学校、3年制の女子高等普通学校を出たあと、朝鮮で高等女学校を卒業したか、日本で女学校を出たか…。
普通学校、高等普通学校ともに、授業で使う言語は日本語でしたから、「日本語が堪能」なのは当たりまえ。
東京帝大、京都帝大は女子に門戸を開いていませんでしたが、東北、九州、北海道の帝大は、少数ながら女子を受け入れています。
1945年以前に、帝国大学に進んだ朝鮮人女性は10人で、そのうち法学を専攻したのは1人だけ。それ以外は英文学5人、西洋史2人、朝鮮語文学1人、植物学1人です。
10人中9人は梨花女子専門学校出身。もう一人は公立の京畿高等女学校でした。
兄の勧めがあったとはいえ、崔香淑が来日して法科を目指した、というのは異例です。
日本では1923年に関東大震災があり、1930年代はまだ復興の途中。大震災では、朝鮮人虐殺(リンク)という事件があり、そんな状況の中で兄が若い妹を日本に呼び寄せるというのもあまり現実的ではない。
まあ、架空の人物についてあれこれ想像しても意味はないのですが…。
あの当時、日本では女性に対する差別があった。それだけではなく、朝鮮出身者に対する民族差別があり、さらに朝鮮独立運動に対する弾圧があった、ということを印象づけたいのでしょうが、史実に照らしてみると、やや無理があるというのが私の感想です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます