帰任後しばらくの間,韓国料理は避けていました。せっかく帰ったんだから,やっぱりおいしい和食か和風洋食が食べたいということもあり,どうせ日本の韓国料理はまずいだろうという思いもあったからです。 でも,帰国後3週間ほど経って,そろそろ韓国料理が恋しくなってきた。特に,韓国生活最後の数カ月でその味を知った,「朝鮮族風羊串焼」。韓国料理というよりは,満州料理ですかね。 その話を中国人の同僚にすると,さっ . . . 本文を読む
東大教授の小堀圭一郎が,人に紹介されて金素雲の知遇を得,韓国の民話について話をかわすうち,小堀氏が韓国の昔話をよく知っているので,素雲は小堀に「三国遺事などをよほど勉強したのか」と尋ねた。「いいえ,勉強などは一向に。実を申せば唯一冊子供向きの本が私の知識の材源なのです。子供の頃に愛読し,何故か今でもなくさずに持っていてなお時々取り出して読むことがあります」「何という本です」「『三韓昔がたり』とい . . . 本文を読む
金素雲の波瀾に満ちた生涯については,自叙伝『天の涯に生くるとも』で読むことができます。 その中から。金素雲は、六堂(崔南善)と春園(李光洙)について、若い学生たちに、「種痘というのがあるでしょう。病菌をわざわざ移植して、腫れ物を作った後には大きな疵跡が生じるけれども、その種痘のおかげで体全体は病気から逃れることができます。 民族を裏切ったり節操を曲げたといって、今、六堂と春園のような人が本国で非 . . . 本文を読む
四方田犬彦の本に『われらが他者なる韓国』(PARCO出版,1987年)があります。 著者は,文芸評論家,映画評論家として有名ですが,1979年に日本語教師として韓国に1年滞在したことがあり,これはそのときの経験を綴った本です。 韓国社会は1988年のソウル五輪を境に激変しました。同書は,それ以前の韓国を知るのに貴重です。その中に,「金素雲の思い出」という小文があります。「君が今いるこの国は韓国語 . . . 本文を読む
11年ぶりに日本に帰って来て,何がいちばん変わりましたか,などと聞かれます。 まあ,日本社会は安定しているから,そんなに変わったところはない。物価もあまり変わらないし…。強いて探せば,「ケータイ」でしょうか。 1996年当時は,よほど特別な職業の人以外は持っていなかったと思います。ケータイじゃなく,ポケベルが出始めていたころ。携帯電話は目玉が飛び出るほど高かった。 それに,インターネット。これも . . . 本文を読む
金素雲の辞書の序文から再引用します。 一時、韓国語が存亡の危機にさらされた時代があった。日本が戦争に総力を集中した1940年頃である。電文用語から韓語は締め出され、韓国語による新聞、雑誌は廃刊を迫られて追い追いに姿を消していった。もっともその以前から日本語の常用は強いられており、小学児童が母国語を口に上せば罰点をとられたりしたが、戦況の拡大につれて、いよいよ迫害は露骨化して来たわけである。 この . . . 本文を読む
韓国語の中に入り込んだ日本語の追放が叫ばれるなか,日本製の「倭製漢字語」の流入は,解放後も続いていたということを以前書きました(→リンク)。 それは何も,解放直後の法律の直訳,世界文学全集の翻訳だけにとどまらない。現代もなお続いています。1980年代,まだ韓国が国際著作権条約(ベルヌ条約)を批准していなかったころ,日本を含めた外国書籍は翻訳し放題でした。小説,学術書,学参,百科事典…。 私が90 . . . 本文を読む