金素雲の辞書の序文から再引用します。
一時、韓国語が存亡の危機にさらされた時代があった。日本が戦争に総力を集中した1940年頃である。電文用語から韓語は締め出され、韓国語による新聞、雑誌は廃刊を迫られて追い追いに姿を消していった。もっともその以前から日本語の常用は強いられており、小学児童が母国語を口に上せば罰点をとられたりしたが、戦況の拡大につれて、いよいよ迫害は露骨化して来たわけである。
このような時代状況の結果として,親子の間に深刻な葛藤があったことは,先に紹介しました(→リンク①,②,③)。母語喪失の危機に見舞われたのは,子どもだけではありません。よき臣民たろうと努めた結果,母語より日本語のほうが達者になり,ついには自分の気持ちを日本語でしか表現できなくなった大人もいました。
朝鮮戦争当時,半島南端の鎮海にいた金素雲のもとに,半島北部で長く教師生活をしたという女性が避難してきた。そして,七十首ほどの短歌を置いていったそうです。
冒頭は,祖国の言葉では自分の真情をあらわせないことを詫びる歌でした。
心をし 祖国(くに)ことばもて あらわせぬ
われを ゆるせよ 過渡期に生(あ)れば
流れ来て 南の果てに落ち葉かく
おきな おうなに なりはてしかも
同族の 討ちつ討たれつ 幾十(いくそ)度
はや むつみてよ はらからなるに
この女性の二人の息子は,朝鮮戦争勃発とほぼ同時に戦死しましたが,その事実を母親が知ったのはずっと後のことだったそうです。
若き日を 生み育みつ老い来しを
女は哀し 子らみな征(ゆ)きぬ
あまりにも 日々に乱るる国なれば
若き生命(いのち)の 散るぞ哀しや
戦死を知ったあとの歌。
星二つ 夕空に出てむつまじき
世に在りし日の 吾子らにも似て
東海の無窮花(むくげ) 花咲く 美(うま)し国
まがつみ充ちて 哀しき民よ
(鄭大均『日本(イルボン)のイメージ-韓国人の日本観』中公新書1998年)
日帝下の学校で,長年日本語による授業をし,日帝末期には,おそらく家庭内でも日本語を常用し,和歌に親しみ,ついに朝鮮の言葉,詩歌では思いを表現できなくなった。
悲劇だと思います。
一時、韓国語が存亡の危機にさらされた時代があった。日本が戦争に総力を集中した1940年頃である。電文用語から韓語は締め出され、韓国語による新聞、雑誌は廃刊を迫られて追い追いに姿を消していった。もっともその以前から日本語の常用は強いられており、小学児童が母国語を口に上せば罰点をとられたりしたが、戦況の拡大につれて、いよいよ迫害は露骨化して来たわけである。
このような時代状況の結果として,親子の間に深刻な葛藤があったことは,先に紹介しました(→リンク①,②,③)。母語喪失の危機に見舞われたのは,子どもだけではありません。よき臣民たろうと努めた結果,母語より日本語のほうが達者になり,ついには自分の気持ちを日本語でしか表現できなくなった大人もいました。
朝鮮戦争当時,半島南端の鎮海にいた金素雲のもとに,半島北部で長く教師生活をしたという女性が避難してきた。そして,七十首ほどの短歌を置いていったそうです。
冒頭は,祖国の言葉では自分の真情をあらわせないことを詫びる歌でした。
心をし 祖国(くに)ことばもて あらわせぬ
われを ゆるせよ 過渡期に生(あ)れば
流れ来て 南の果てに落ち葉かく
おきな おうなに なりはてしかも
同族の 討ちつ討たれつ 幾十(いくそ)度
はや むつみてよ はらからなるに
この女性の二人の息子は,朝鮮戦争勃発とほぼ同時に戦死しましたが,その事実を母親が知ったのはずっと後のことだったそうです。
若き日を 生み育みつ老い来しを
女は哀し 子らみな征(ゆ)きぬ
あまりにも 日々に乱るる国なれば
若き生命(いのち)の 散るぞ哀しや
戦死を知ったあとの歌。
星二つ 夕空に出てむつまじき
世に在りし日の 吾子らにも似て
東海の無窮花(むくげ) 花咲く 美(うま)し国
まがつみ充ちて 哀しき民よ
(鄭大均『日本(イルボン)のイメージ-韓国人の日本観』中公新書1998年)
日帝下の学校で,長年日本語による授業をし,日帝末期には,おそらく家庭内でも日本語を常用し,和歌に親しみ,ついに朝鮮の言葉,詩歌では思いを表現できなくなった。
悲劇だと思います。
これを読んで思い出すのは,赴任早々,妻が韓国語を習っていたハルモニ(おばあさん)。
日帝時代,まだ幼かったときに日本に渡り,日本で日本の教育を受けて戦後,韓国へ帰還。どうりでとても流暢な日本語を話します。東部二村洞でこれまで何人もの奥さんたちに韓国語の個人レッスンをしてきたとのこと。市販の韓国語学習書をベースにして独自制作のプリントも使う。なかなかしっかりした授業だったそうです。
そのおばあさん,学校時代の同窓会を行うときは,離れの個室のあるお店(たとえば大苑閣)を予約するらしい。
なぜならば,日本の歌をほかのお客さんに聞かれるのが嫌だから。
日本で,日本語で青春時代を送った彼女たちにとって,思い出の歌はすべて日本語。普通の会話はもちろん韓国語ですが,宴たけなわになると自然に歌が口を衝く。しかし,みなが共通に知っている韓国語の歌はないので,勢い日本の歌になってしまう。
以前,韓国のふつうのお店で日本の歌を歌っていたとき,ほかの韓国人に露骨に嫌な顔をされて以来,離れの個室にしているそうです。
あのハルモニも今は80過ぎでしょう。お元気で過ごされているかどうか。
学校では教授用語が日本語であるだけでなく,朝鮮語は使用禁止(校長先生により,徹底度合いは違う)。
ただ,日常生活でも「日本語常用運動」が展開されたものの,これは難しかったでしょう。
特別に親日的な家庭でだけ,使われていたのでは。