コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

ミニカン4回目 傾聴の基本で現れる効果

2013-06-09 17:27:37 | ミニカウンセリング

昨日のアップで傾聴の基本から外れたやり取りについて触れたが、「基本重視」で学んでいるミニカン(ミニカウンセリング)研修会ではその効果が現れている。

この研修会では参加者同士がペアを組み、あらかじめ録音しておいた「逐語録音」を起こし、「逐語録」を作成して、研修会の時間でみなで検討する。
この週は、今年度初めてミニカン研修会に参加された方がカウンセラー役として話を聞いたときのものを使用した。

カウンセラーは初めてなので一生懸命基本に即したカウンセリングを行ってくださった。
もちろん、最初から完璧なものは出来ず(というか、完璧なセッションなんて実現可能か?)上手くいく部分、足りない部分などがある。
むしろ、そういう部分をはっきりさせて学び成長していく機会だから、「こうする方が良いんじゃないか?」ということがわかるほうが良い。

そんな中、二つの印象的な場面があった。
逐語の言葉をそのまま外部で使用するのはルール違反なので、似たようなシチュエーションに変えておく。

「最近慣れてきたんで、時間が上手につかえてきて、楽になってきました」
「時間が上手につかえたんですね」
「うん、そうですねぇ…上手に…、あぁ、楽になったんですよ」

これは時間が上手に使えたことを訴えていると大事にしたところ、クラエントもうひとつしっくり来ず、自分の言葉とカウンセラーの繰り返しを受け止めて、「上手につかえた」ことより、そのことで「楽になった」ことの方が訴えたかったことだと気づき、再びその言葉を協調している場面です。
最初から「楽になった」ということを受け止めきれていなくても、カウンセラーの想像や理解ではなく、クライエントの言葉をそのまま繰り返すことで、クライエント自身ももう一度今の自分で振り返って、話題の時点ではなく「今・ここ」の時点での感情に到達できる例ですね。

「なんか、相手の話を誤解して」
「誤解して」
「うーん、誤解というか…自分の思いで決め付けてたんですね」

これは「誤解」というキーワードを繰り返すことで、クライエントがその言葉を自分の耳で聞きなおすことで、より正しい言葉に深めている場面です。
カウンセラーが先走りして、想像して、「(流れから行けば)この言葉のほうがよりしっくり繰るんじゃないか」と思っても、クライエントの言葉をそのまま繰り返すだけで、自らの内省でもって焦点が当たっていく。
そうすると、仮に到達点が同じであっても、与えられた言葉ではなく、自ら湧き出た言葉なので深みが違いますし、このあとの成長の糧になると思います。

もうひとつは大事なキーワードを繰り返すことが出来なくて、クライエントが無意識に何度も何度も繰り返して行く場面。

「なんかお互いに、なんかトラウマに…」
「トラウマに…」
「んーなんかそういうトラウマに過敏になってるというか…過敏になってる関係かなぁ…過敏になってる」

うまいこと、クライエント自身が確信していける過程なんですが、一度「過敏になってる」という言葉を繰り返してあげれれば、「そうなんです」と確信してその続きの話題に入っていけるんですね。


このように、無理にカウンセラーが先回り・想像しなくても、クライエントの言葉をそのまま繰り返すだけで、気づきは深まっていく。
なにも言葉を形で「オウム返し」しているのではなく、そこにはクライエントの「自由に思考を遊ばせる」邪魔をしないという配慮が入っており、逆に言えばカウンセラーの言い換えは邪魔をする場合もあるということ。
そして、その「繰り返し」がはまってなくても、クライエントが自分で内省してより正しく伝える言葉を選ぶし、はまっていれば「そうそうそう!」と話題が進んでいく。
それぞれ最終的に

「楽になったんですね」
「決め付けてたんですね」
「過敏になってるんですね」

と、内省の到達点を繰り返してあげれば良い(それでまだしっくり来なければ、再び自ら言葉を捜す) 

それは、カウンセラーがクライエントを大事にする「受容」そのものであるし、よりよい関係が構築されていく。
カウンセラーがクライエントの気づき・成長を信じている姿。 

もちろん、それはクライエントのペースでの気づきであり、成長であるから、時間がかかる。
逆に言えば、時間を惜しむから早く進めようとカウンセラーの思いが混じった言いかえをしてしまう。
(良かれと思ってはいるんでしょうけど)

まず、基本的な傾聴ができた上で、ケースバイケースの「促進術」が出来るかもしれないが、基本抜きでは怖いことになりそうで、前回のアップとなった気がする。


ミニカン3回目

2013-05-23 23:47:39 | ミニカウンセリング

最近は、ブログにする前にミニカンでクライエント役として話をして、言葉にすることでこの身から放して、そおっと眺めてみてる気がします。
そしてミニカンの報告を兼ねてブログの話題にしている感じ。


この日話をしたのは、先週にあった出来事。
PTA会長を務めさせてもらっている息子の学校のスクールカウンセラーさんが保護者向けにお手紙をくださり、私自身もカウンセリングに関わっていることや、またPTA会長として、一度お話をさせていただきたいと思った。
カウンセラーさんが学校にこられる日に連絡を取り、空いている時間にお会いすることに。
1時間ほど、いろんなお話を聞かせていただき、こちらも話させていただきました。
なんとなく、カウンセラーの暗黙のお約束って感じで、そこで話した内容はミニカン実習でも話しないし、ブログにもしない感じです。
ただ、私のカウンセリング感を素直に話させていただき、またその所で聞かせてもらえる素敵な時間でしたってことを、ミニカン実践で[感じを伝える」だけで深まってきました。
あぁ、本当にいい時間だったんだなぁと。

じつはそのことは、その日の午後にあった事と対比的に連動していきます。
その日の午後は、今度は娘が通う高校で「進路説明会」がありました。
もちろん、「理想の進路に向かうためには」という、目的のはっきりした話ですから、目的に「適う・適わない」というはっきりした到達点があります。
しかし、私にはその伝え方が気に食わず、「しんどい」感じしか残らなかった。

まずは近年の進学状況を説明されるのですが「短大卒が”当たり前”」[無遅刻・無欠席が”当たり前”」「評定平均○○点が”当たり前”」という具合です。
もちろん、叱咤を含めて[できていないものは今からでも頑張れ」ということでしょう。
しかし私には、それは[できていないものは切り捨てていく」という風にしか聞こえません。
”当たり前”というラインを出して、それに満たないものは「ダメ」というレッテルを貼る。
今、その当たり前の状況になれない子らを、ますます追い込んでいく言葉…
もしかしたら発奮して”頑張る”ことができるのかもしれません。
しかし、外圧で「頑張る」ことができたとしても、それが息切れしてできなくなったときの落差は…

思えば、午前中に話してきたことは、いかに「ゆっくりとその子の気づきを待つ」事が大事かという話でした。
それに対して、できるものを基準にしたものさしで測っていく姿は、しんどさしか感じられません。

義務教育ではなく、ましてや私学であるならば、子どもも”商品”として、進学率を高めるものとするのは、商売をやっている私にも理解できます。
それが次の子ども(商品)らを受け入れるす術ですし、職員が給与をもらう糧となるのですから。


と、カウンセリングの集まりに出るとどうも自己防衛の敷居が低くなって、感覚の認識がナイーブに成りすぎるのかもしれません。
ラベル付けで語るのはまずいですね。
しっかり子どもに向き合って教育のことを考えてくださる先生も、高校や私学にも一杯居られるはずです。

こうやって放してみて気づくことは、やはりカウンセリング的な「相手を尊重する」関わり方がとても大事なことと、外圧で何かを変えることではなく、そこに居るパーソンには自分で「成長」していけるパワー・エネルギーがあることを信じさせてもらえることなんだなと。

いろいろな出来事を経験し、放してみる事で、気づきがもらえます。


ミニカン2回目 エスカレータに思う

2013-05-16 01:18:12 | ミニカウンセリング

 

世話役が一名欠席があったが、参加者は全員そろった2回目。
いよいよミニカウンセリングの実習を体験していただいた。

今までの先生は、「手探りで不安でもまず体感」していただく形で進めていたが、私はちょっとだけおせっかいして「意識して欲しいこと」を先に少し話して実践していただいた。
それが良いことかどうかは、いずれ結果として現れるかもしれない。

2回のセッションを行い、初めてミニカンに参加された方をおふたり組ませていただいた。
技法としては当然ぎこちないが、カウンセリングを学ぼうという気持ちはひしひしと伝わってきた。
今後のために、いくつかの課題も提示させていただけたので、再び組むことができたときが楽しみだ。

で、片方の方にクライエント役としてお話したことが「今日感じたことをブログにしたいので、ここで話しさえてもらいます」ということで、それをついでにブログの話題にしておく。

 

ミニカンやエンカウンターの場面でしばしば話題にする「エスカレーターの使い方」について、この日電車で出張に行く際にいろいろ考えていた。

エスカレーターは立ち止まって乗るもの
これがまず基本である。
数年前までは「右側はお急ぎの方のためにお空けください」などのアナウンスも流れていたが、数年前より事故防止のためにこのアナウンスはなくなった。
また「手すりを持ってお乗りください」などと、じっと乗ることを推奨してきている。
しかし、「歩くな」という積極的な働きはない。

長年刷り込まれた意識は強く、今でもエスカレーターに乗る人は片側を開けている。
そのために、とまって乗りたい人の側には長蛇の列ができ、片側は誰も使っていないという状況が起きている
駅のエスカレータなど、電車が着いていっぱいの人が利用しようとしているのに。

仮に20段あるとして、両方にちゃんと乗れば20人が利用できる。
しかし、何煮に遠慮してか10人片側に乗り、その後ろに10人並んで待っているという具合だ。

という状況に対していろいろ考えていた。

まず、PTAという立場で。
子どもには正しいことは正しいと教えることは大事である。
マナー・モラル・ルールをちゃんと知って、守る。
もちろん、大人がその規範を示す必要がある。
だから「エスカレーターは立ち止まって乗るもの」という公共のルールを教え、それを守ることを示す。
遠慮なく、子どもと並んで横に広がって乗る。
駆け上がってくる輩が居ようとも、こちらは間違っていないから引かない。
時折「ちっ」といわれることもあるが、正しくない使い方で事故に巻き込まれたら溜まったものではない。

でも、子どもからしたらみんなが片側空けてるのにそれをふさいでるのは心配らしく「お父さん、空けなくていいの?」と言ってくる。
正しいことは伝えながらも、社会で敵を作る必要がないのでそこは子どもの気持ちを汲んで諍いは避ける。
でも、正しいことは何かはしっかり示したい。

次にカウンセラーの立場として。
カウンセリングで学んでいることは「相手の気持ちを大事にする」ということだ。
こちらの思いは置いておいて、「あなたはこう思うんですね」ということを重視する。
それは正しい・正しくないの価値基準じゃなく、相手の価値観をも認めるというもの。
そうすると、エスカレーターを駆け上がってでも早く移動したい方の気持ちは…
乗り換えのために、ここで走れば間に合うのに…
もちろん、そういう方は階段が横にある。
しかし、階段を上がるスピードにエスカレータの移動速度が加われば…
となると、私はモラル違反だと思っても、その方の「急ぎたい」気持ちを受け止めるべきなのか。

さらに思いは仏教(真宗)的な思考に入っていく。
ようは、自分が正しいということを示したいがために、周りとの協調を損ねてしまう考え方に支配されている私の姿…
自分中心の考え方はおそろしいものだ。
ではどういう風に動いていくか…
「あなたがエスカレーターを駆け上がることで、いらいらする私が居る。
私の中にこんな怒りや苛立ちの心があることを教えてくれてありがとう」
そう、外の世界を通じて内省の世界へと飛躍する。
そして…
「こんな私なのに、そんなものをこそお目当てだと願ってくださる。
あぁ、南無阿弥陀仏」
と。

別に宗教的なトランスではなく、内省ということは自分のありのままの姿を直視することで、そんな過酷なことをできるだけの「赦し」と出会うことであったりする。


などと、いろいろ考えていった先に、もうひとつの境地が訪れる。

私の心・思いはコロコロ変わって、いかにもそれらしい理屈をつけて回る。
でも、「今はどの立場」なんて割り切るものじゃなく、全部が私を構成している思いだ。

そして結論。
健康のために階段使えばいいじゃん。


ミニカン1回目

2013-05-07 21:09:09 | ミニカウンセリング

ミニカウンセリング研修会 第1回

今年も10回のミニカン研修会が始まった。
今までは世話人ではあっても、先生がメインで進行されて私はサブ。
しかし今回から、先生に横で指導していただきながら、私がメイン進行をする形に。

まぁ、年齢的なことを考えれば、今までの先生方が活躍されていたのはもっと若い頃からなのだから…とは思いつつ、未熟感がただよう私で大丈夫なんだろうかと。

とはいえ、流れを流れとして受け止め、意を決してお引き受けしたからには(できることしかできないが)精一杯務めさせていただく。


初めて参加される方が4名(うちおひとりは今日は欠席)継続・お久しぶりの方が3名(こちらもおひとり欠席)の7名に、世話役が4名で、計11名の集まり。

今日は総論的にミニカウンセリングというものを説明させていただき、世話人の実践を見ていただき、今後の予定を確認する。
毎回使用しているテキストを読ませていただくが、今まで教えを受けていたものを一つ一つかみ締めるように、私自身の学びになった。
お育てを受けていたんだということが腹底に響いてくる

終了後にある方とお話していたときも、偉そうなことが口をついていたが、それらは全部実践を通じて先達に教えていただき育てていただいたことだ。
それを、初めてあった方に質問されて答えることで、自分自身がもう一度聞かせていただける。

知識だけで身につけたものなら、この腹底の響きは無いだろう。
実践を通じて、失敗も含めて経験をつんできたことは”0”ではない。
到達点から見れば未熟は未熟だが、熟練者になってから動くのでは遅いかもしれない。
今、役割の流れが来ているなら、そこに乗ることで同時に学ばせていただこうと。


昨年から始めた「新しい傾聴を生み出す会」の活動も、それがあるからこのベーシックなミニカンで気づけることがある。

いやぁ、いろいろとお誘いを受けて、良いご縁にあわせていただいていると、つくづく感じる。

真宗カウンセリング研究会の情報はこちら 

新しい傾聴を生み出す会の情報はこちら


自分と向き合う  ミニカン4回目を通じて

2011-06-03 00:00:30 | ミニカウンセリング

記録は前後するが、火曜日には色んな出来事があった。

朝から、祖母の100日法要

昼からは、PTA関係でミーティング

夜には、真宗カウンセリング研究会のミニカン

 

法のこと、PTAのこと、カウンセリングのこと…まさに、このブログ記録している私の関心ごとが一気に訪れた日だ。

それぞれ、いろんなことを感じていたのだが、そのことが夜のミニカンで行ったクライエント役15分間で意識化され、根底にあるものが言語化されてきた。

 

すでに二日経っているので、そのときの気持ちとはまた違ってきているけれど、もう一度ブログにすることで言葉にしてみたい。

 

 

祖母の法要は禅宗で、般若心経などをお勤めした。

真宗にご縁がある私にとっては、個人のために経を上げて個人の得にするという感覚はない。

しかし、普段触れないお経であっても、そこに書かれている言葉に普段真宗でお勤めするのと同じ言葉があちこちにちりばめられている。

 

実はその時はあまり祖母のことに心が寄っておらず、そういう宗教的な部分での思いしかなかった気がする。

しかし、最後に今後の予定を相談していたら、この祖母が住んでいた家で法事をするのはこれが最後だということが明らかになってきた。

祖母の家は借家で、祖母ひとりが住んでいた。

なので、この100日法要が終わり、あとは残っている荷物を片付けて1ヶ月以内に契約を終えることになる。

 

お勤めの中に、名前は忘れたが「嘆くことに区切りをつける」という意味合いのお経があったことを聞いた。

祖母への別れと共に、この家とお別れすることを実感したことで、逆に区切りが付かなくなった私がいた。

なんともいえない気持ち…

 

このことをクライエントとして話したときに「寂しい」という言葉になって現れてきた。

この家で祖母と暮らした6年間の思いが、ここにとどまることを許されず、形としてもなくなっていく。

無常の教えで十分に知らされているというのに、そこに手をかけ、頼り、失われることを認めたくない…

なんともいえない寂しさだ。

死ということは、別れということはこういうことだ。

 

 

一方、PTAのミーティングでは週末に行われる「山の家」という4泊5日の行事にボランティア参加するPTA役員や学生らとの打ち合わせ。

私自身は「子ども大会」という子どものための宿泊行事を経験してるからある程度分かるけど、やっぱり子どもの安全面もあるんで綿密な進行打ち合わせ。

それに先駆けて子どもらとの対面式があったけど、2クラス分ひとりづつ自己紹介。

挨拶の規範を示すべく、「○○です、よろしくお願いします」という子どもらに、こちらも全部「よろしくお願いします」と言葉にして返す。

立ち上がって、しっかりと挨拶する子はいいんだけど、立ち上がりながらしゃべりだして、立った状態でとどまることなくすぐ座る子どもが多かった。

こちらの挨拶のタイミングが取りづらかったなぁ。

土日の二日間だけ手伝いに行くけど、声をかけて挨拶することをできるだけ実践して、挨拶の気持ちよさを伝えたいなと。

 

 

と、午前・午後だけでかなり複雑な心境のメリハリ。

テーマをつけるとしたら「別れと出会い」か。

 

ミニカンは先週休んだので、ちょっとわくわく。

今回から蓄語録の検討も始まって、ミニカンらしくなってきた。

後半には15分の実践だけど、今回初参加の方とペア。

蓄語録からインスパイやされた話題から、ご自身の今やりたいこと、そしてそこに関わるカウンセリングへの期待と不安を言葉にされた。

 

私の中に、その方のカウンセリングへの関わりに関して伝えたいことがでてきたけれど、ここは話題の中身についていくのではなく、クライエントさんの気持ちに寄り添っていく。

交代して自分がクライエントとなったときに、先に書いた法事での思いを言葉にする。

「寂しい」という言葉に集約したときに、しっかりその言葉を返してくださった。

そのことで私の中にあった「言葉にしたい思い」は昇華された。

それは、こうしてカウンセリングという関わりのすばらしさを再確認することだった。

そこで、私の中の「この方に伝えたい」ものがむくむくとわきあがってきた。

 

人との関わりの手段としてカウンセリングのテクニックを学ぶことはとても大事なこと。

でも、そうやって「テクニックを学んで関わりたい」と思うことの根っこ、「この人と関わりたい」という”思い”があること、それがテクニック以上に大事なこと。

 

まずは”思い”

だからこそ、相手を大事にしたいという気持ちがでてくるし、大事にしたいから自然と傾聴していくことが出来る。

この”思い”を大事にしないで、テクニックを磨いても…ねぇ。

 

そういうことも言葉にしていくことが出来た。

15分という「私の時間」をもらえることはとても素敵なことだ。

 

 

最後の分かち合いで、「何かを得よう」と参加された方々が、実践に触れることで「自分のことを見つめてみる」方向にシフトしていかれるのを感じた。

あぁ、これがカウンセリングだなぁ、と。


過去との遭遇  ミニカン2回目・月例会を通じて

2011-05-20 12:11:13 | ミニカウンセリング

この数日も非常に密度の濃い日々となっております。

 

火曜日にミニカンの2回目があり、その後友人と飲みに(私はその後仕事があったんでソフトドリンクでしたが)、夜勤仕事の後、水曜日は朝から華光会の「親鸞聖人750大遠忌事業」ミーティング(その様子は別ブログにて)、夕方から真カ研月例会。

で、ミニカン、ミーティングを通じてもいろいろ味わいがありましたが、それらが月例会でのチェックイン時に言葉となって明確化されてきました。

 

 

ミニカンでは、2回ある実践のうち最初はタイムキーパー役なんで、私は1回だけの実践。

今回初めてミニカンに参加されたNさんと。

1回目に別の方とペアを組んで実践され感じておられた、「聞くことの難しさ」を聞かせてもらい、私は最近のPTAの関わりの中で感じていることを話しました。

初実践だったので、10分間という短い時間でしたが、やはり言葉にしていくことで明確になってくるものがあります。

Nさんは初めての実践ということで、まだ聞き方は力が入りまくりなんですが、一度だけしっかりとレスを返してくださいました。

そのレスが私にとっては大きな意味があり、そこまで話したかった話題の中に流れる”気持ち”を一旦抑えることが出来、そこから先になる根っこの問題にシフトしていけました。

残念ながら10分ではその入り口までにとどまったんですが、最近の問題が実は過去からの問題につながっていることがハッキリとするきっかけをもらえたんです。

ミニカンのすごさと、レスの大切さをあらためて実感できました。

 

そのあたりからのつながりも含めて、ミーティングの中で気持ちが動いていきます。

 

ある提案に対して、過敏に(私はそう思ってなかったけど)反応している場面がありました。

軽い気持ちで「ちょっと不安がある」ということを口にしていたんですが、そのことを具体的にどういうことか問われました。

漠然とした”感じ”として話していたことを、具体的に伝えようとすると困ってしまい、無理やり言葉にしようとして空回りします。

それこそ、「単に”感じ”があるだけです」が本当の気持ちなのに、「分かってもらおう」と力が入るにつれて、自分のものから離れていくんですね。

結局、過去の出来事を引き合いに出して、また”そうなること”を恐れているという話をしているのですが…

 

そのことが夜の月例会チェックインのときに振り返ることで、ちょっと明確化されてきました。

恐れているのは、その”過去の出来事”ではなくて、その出来事があったときに私自身が負担になり、不安になり、押しつぶれそうになった”私の気持ち”なんですね。

「また、あんな経験をすることになったらどうしよう」

 

実際は、まったく同じことが起こることはまずないでしょうし、私自身いろいろと成長してきていますから、出来事に対する対処はいろいろ幅広くなってると自負しています。

しかし、心根のところでの”弱い部分”はそのままで、「弱い部分がある私」という受け止めは出来るようにはなっても、「弱い部分を克服」したわけではないんですね。

(その受け止めだけでもかなり昔とは違う自分にはなってますが)

 

 

前の日のミニカンで、一度レスで押さえてもらった言葉は「引きずっている」という言葉でした。

自分が発した何気ない言葉ではあるんですが、カウンセラー役のNさんが「引きずってる」と言葉にしてレスしてくださったことで、「そう、わたしは引きずってるんだ」と、自分自身で在れたんですね。

それが違う形で、やはり「引きずってる私」に出会うことになれました。

 

それぞれファクターは違うんですが、私の本質の問題はそこに在ります。

(他にもいろんなファクターを引きずってます)

 

ミーティングのときに、その時は意識できなかった「引きずっている私」によって、閉じてしまったことにより押し出せなかった話題がいくつかあります。

それらの話題を、次の機会にもう一度「私の気持ちとしてどうしたいか」ということを含めて持ち出したいと思ってます。

 

もうちょっと深いところまで意識化・言語化したい気持ちもありますが、毎週あるミニカンで徐々に触れていければいいなと思ってます。

(来週はPTAがらみの会合があるので、ミニカン欠席しなくちゃなりませんが)

また、月例会でもロジャース氏の論文輪読が始まりますから、楽しみです。

 

理論と実践…いいご縁に恵まれてます。


ミニカン研修会 1回目  PTAに関わる思いも含めて

2011-05-11 09:36:01 | ミニカウンセリング

いよいよ10週間のミニカン研修会が始まりました。

待ちに待ってた・・・と言う気もしますし、気が付けばこの日を迎えていた…と言う気もします。

 

今回は新しく参加される方が3名、継続して参加される方が3名、そして世話人3名の9名です。

最初に自己紹介を兼ねてのチェックインがあったのですが、これがまたいい時間。

特に、初参加の方がその動機を述べられたんですが、これがまた3者3様であり、それでいてどれもまさに「真宗カウンセリング」につながってくるもの。

10週間学ばれることで、”今の自分”に対する答えが、きっと自分の中の気づきとして現れるだろうなと期待しています。

そう、研修と言っても、何かをお教えするんじゃなくて、体験することで気づいていく作業の繰り返しなんだと思います。

 

そのあと資料に沿って、ミニカウンセリングの歴史、手順、効用などが説明されていきました。

その過程でデモンストレーションとして、私ともうひとりの世話役Sさんとで5分間のミニカン実演。

 

そういえば昨年もやったよなぁと思い出し、昨年のブログを見たらちゃんと記録してました。

 

今年は5分と言う短い時間だったので、一番言葉にできそうなところで、ここ数日のPTAに関わる話をしました。

最初のチェックインでもその話題に触れていたので、そういう意味でも最初の説明が省けますから。

 

 

京都市の小P連会長の思いに感動していること。

それを受けて行動してみたい気持ちがあること。

一方で、あまり動きすぎると周りや、後に続く人に迷惑をかけるんじゃないかと心配していること。

 

この時点で、「心配している気持ちがある」ということが私のテーマになってきます。

しかし、話進めるうちにちょっと違う側面が出てきました。

 

その「行動してみたい気持ち」を11日にある集まりで周りに投げかけてみたいけれど、うまく伝わるかどうか心配。

 

最初は動くか動かないかという揺れの中での心配でしたが、話しているうちに「行動してみたい」という私が本当の私だと気づき、次は「行動する」前提でそれが受け入れられるかどうかの問題に変わってきています。

 

 

カウンセラー役のSさんが、最初の「心配」ということをうまく受け止めてくださり、「心配」という感情を経験しきれたために、自分の気持ちが明確化され、その問題から次の問題に進んでいけました。

 

いやぁ、5分のデモンストレーションとはいえ、しっかり聞いてもらえると言うことは自分の中で気持ち・思いがシフトしてくるもんですね。

 

まずは形の所から入っていかれるでしょうが、新しく経験する方々の姿を通じて、当たり前にしてしまっている部分をじっくりと精査する勉強がさせてもらえそうです。

(天狗の鼻を折ってもらえるって事ですね)

 

 

ということで、いいタイミングでミニカンがあったので、月曜日に刺激を受けて動いている私自身の思いを、今晩の「南支部PTA連絡協議会」にぶつけてみようと言う気もちになっています。

反応が悪ければ、それはそのときで。

 

うん、活き活きしてる自分が居ますね。


ミニカン継続学習会11月 ~華光大会の関わりを振り返って

2010-11-28 17:30:28 | ミニカウンセリング

今月のミニカン継続学習会が木曜日に行われた。
参加者3人に世話人3人、3組でのミニカン実践が2回。

前半の組み合わせで、最近の心境を聞いてもらうことでゆったりと振り返ることが出来、後半の組み合わせでは具体的に先日の華光大会で感じたことを話してみた。
カウンセラー役を引き受けてくださった方もその法座に出られていたので、細かい状況説明なしで話せるのが少ない時間の実践ではいい具合に働いた気がする。

このミニカンを通じて、このブログにも書きたいと思っていた、座談を通じて感じた”関わり方”の問題が寄り鮮明になった気がする。

先日、華光大会の話題をこのブログに書き始めたとき、ひとつは法にたいする思いで、もうひとつは先達への思いであり、その二つはすでに書かせてもらった。
その一方で、座談会で感じたことは、私の中では鮮明になってるけど、こうして外に出すにはいい言葉が見つかっていなかった。

ここ数回の大きな法座では、わたしは少人数限定の部屋を担当していた。
どうしても大きな行事のときは座談会の時間が少なく、さらに大人数が集まることで一人一人へのゆっくりとした関わりが出来なくなってしまう。
また場面的に、複数の方が一人の方に「伝えたいこと」を勧めていくことで、一番大事にされるべき「求めている方の今・ここのありよう」を待ちきれずに進んでしまうこともおこったりしている。
いや、確かに無常と言うことを正面から捕らえれば、”この次”などあるはずもない。
そこはよく分かる。
そんなとき、少人数の部屋では、ゆっくりと、少なくとも目の前の方が、自分の話したいことを言い切るまで待って進めることが出来る。
まぁ、あくまで比較のレベルだけど。

それは、カウンセリングのワークショップや、支部での学習会などでも念頭において進めてきていること。

しかし、久しぶりに大人数の座談会に関わらせてもらって、話し手になっている方のペースを待ちきれずに、複数の方から言葉が投げかけられる場面になってしまうのを感じた。
なんとか割ってはいって話し手の方の気持ちを確認するんだけど、表に表れている言葉や態度のところにどんどん周りの人が反応しちゃって…

気持ちを言葉に表すってのはとても難しいことで、時には(人によっては)いろいろ回り道をしながら、やっと自分でも気づけていない自分の本当の気持ちに素直になれていくし、さらにそれを外に出る言葉にしていくのはとてもデリケートなものが必要だと思う。
逆に、攻撃的な意思から自分を守ろうとする反応はすばやく、開きかけているものが閉ざされるのはほんの一瞬の出来事。

確かに、仏法に関わることは、こちらの都合・思惑を超えたところにある。
そこへのこだわりを捨てることは大前提だ。
駄目なやつがいくら頑張っても、それは自力でしかない。
駄目を駄目と知ることが肝要ではある。

しかし人間通しの言葉の関わりを、その奥底にうごめく微細なものを無視していくと、伝わるものが変わってしまう。
流れの中でじっくり伝えることなので単純に画面上の文字で伝えることは難しいのだが、今できる範囲で言葉にしてみると…

「駄目な私」ということを「駄目でない」ようにするのではない。
「駄目な私」というありようは否定されるものではなく、そこがお目あて。
「駄目な私」だからこそ、本願が起こった。

微細なところを表そうとすればするほど、言葉数が多くなってきていやになるのだが。

しかし、座談の場面などで、攻め立てるような口調、話し手の言葉をさえぎるようにかざされる真実(と思っている)の剣で責められると、「駄目な私」が否定されることが一番の問題になってしまう。
駄目でないようにすることしか考えられなくなる、あるいは駄目がお目当てだと言うところを信じられなくなる。
今の”ありよう”が否定され、ひどければ今の自分の全人格が否定されたようにしか伝わらなくなってしまう。

もちろん、伝えようとする方の気持ちも分かるし、そのやるせない思いは聞き届けて欲しいところだ。
しかし、思いより先に、態度や口調や言葉が伝わってしまう。

今回の法座を通して、ここの伝え方・関わり方がとても大事なんだけど、時間や人数の問題で難しいことも痛感した。
出来ないことを嘆くのではなく、そこをゆっくりと関わる機会がもらえるのならば、私に出来ることは精一杯させてもらおうと言うことと、すでに確立されてきている真宗カウンセリングや学習会を大事にしていきたいと言う思いがハッキリしてきた。

しかも、ここの大事さを共に深めていける先生方が華光には居られる。
それに、私の関わり方だけが正解ではなく、人によってはその厳しさから頑なな心を一歩踏み破って前に出てこられる方も居られる。
そこは、他の先生に任せておけばいい。
なにも私がオールマイティに全部引き受ける必要もないのだから。


この私のために、法座のすぐ後に思いを聞いてもらい、言葉にすることで、明確にしてもらえるミニカンというご縁があった。
カウンセリングから法を味わえるし、法からカウンセリングを味わえる。
”すごい”ことが、私の中で起こっているのを感じる。

 


ミニカン研修会 終了

2010-07-25 08:47:58 | ミニカウンセリング
暑い日が続きます。
昼間に暑さでバテ、夜も仕事で出ることがあったりすると、なんかゆっくり寝ている気がしません。
時間を考えれば十分な睡眠はとってるとは思いますが、生活時間の混乱は身体に負担を与えているかもしれませんね。
寝床に入っても指先の痺れなどが気になって寝付けなかったりもします。
身体からのSOSをじっくり聞いてみないとな…なんて思ってます。
(思ってるだけでいたわっていないのがまずいんですが)

このブログもずいぶんサボりがちです。
ミニカン研修会も、5回目まではアップしましたがその後途絶えてます。
そのまま、全10回が終了し、打ち上げも終わってます。
ミニカンが火曜で、その火曜・水曜と深夜の仕事が続くので、ついつい書き込むモチベーションが萎えてしまってました。

じゃあ、モチベーションがあがらないことだけが書き込まない原因か?というとそうではありません。
ミニカンはとてもすばらしく大事な時間でしたし、今のわたしに大きな意味があります。
毎回触れ合う、カウンセラー・クライエントの関わりの中で、相手のパーソナリティに影響を受けることもあれば、私自身の扉の向こう側に触れる機会もありました。
ただ、それを言葉にまとめて残しておこうという感じがここしばらくなく、「その場その場の味わいに任しておきたい」という感じが強かったように思います。
時間を置いてから、無理に思い返して言葉にすることに、違和感までは行かなくても「ちょっと違う」という感じがあったかもしれません。

うん、中身をあれこれ思い返すことより、その時間を経験としてある「今のわたし」で居れることに重きがあるって感じですね。

先日、ミニカンメンバーでの打ち上げ(飲み会)があったのですが、10週の研修を通すことで、知識としての成長だけではなく、身をもって体感した「真宗カウンセリング」を経たパーソナリティを感じました。
それは「あのときああだったね」という振り返りではなく、「今のあなた」との出会いです。
研修を経た「今のあなた」

ますます、「今・ここ・わたし」の深さが味わえますし、お互いの「いま・ここ・わたし」が触れ合える関係を喜べる。
信頼し、信頼され、お互いを大事にする。
この大事にすることができるエネルギーの根源に「阿弥陀仏の願い」を、時には表出し、時には奥底で、確かに流れていることを感じる関係性。

仏法の話題をすること、できることが「真宗カウンセリング」なのではなく、パーソナリティからあふれてくる(本来の)「真宗」をベースとして関わりあえること。

8月にはその「真宗カウンセリング」に浸れる3日間のワークショップがあります。
このこともまた話題にしたいと思ってます。

10週間をともに学んだ9名の同胞。
素敵な出会いをありがとうございました。
できるならば、またお会いしましょう。

ミニカン研修会 5回目

2010-06-14 20:40:58 | ミニカウンセリング

先週だけでもブログネタはいくつかあったんですが…
なんというか、本業・副業・ワークショップ準備・PTAがらみ・ミニカン・家族サービスetc.いろいろある用事の優先順位がうまくつけられず、結果時間ばかりロスしていろいろ迫ってきてるという…

そんななか、ミニカン研修会だけはきっちり予定として決まってるので、しっかり参加してきました。

逐語録検討の後、ペアを組んでのミニカン実践。
今回の研修会に初めて参加されたKさんと初ペア。

初めてペアを組むと当然緊張が(先方にももちろん)あるのですが、前日に別件で50分のミニカンのクライエントをしていたこともあり、その余韻でかなり”開いた”状態。
先にカウンセラー役でしたが、気負わず、クライエントさんが自由にされるがままに寄り添わせてももらいました。
「心地よく話せた」ということを振り返りで言ってもらい、さらに楽になった状態でクライエント役。
今思い返せばかなり深い話を…むしろ初めてペアを組んだから話せるような、いろんなしがらみに関わる話をしていました。
実践として考えると、かなりきついものだったかも知れません。

そこまで深いところを話したのは、その前日のクライエント体験が影響してます。
カウンセリング先輩のSさんが逐語録が必要ということでそのお手伝いを。
いつものミニカン15分ではなく、50分のカウンセリング。
聞き役で50分以上の経験はありますが、クライエントで50分は記憶にありません。

話の導入は仕事であった出来事からなんですが、15分だとそこからの”気づき”で終わるようなところからさらに私自身の奥底にまで意識がダイブしていきます。
いままで何度か触れかけては「そっと」していた部分。
父親との関係…認めてもらうことがなかったことに対する、穴の開いた感覚。
そしてその穴を埋めるように、私を認めてくれる人の渇望。
さらにはそういう親代わりともいえる人との関係と…そこからさらにいろいろ、今こういうオープンな場所では言葉に残すのを躊躇するようなことにまで「直面」する時間でした。

自分なりにがんばっている
認めてほしい
もっとがんばれといわれる
自分の頑張りでは駄目だと否定される

やってきたことが変化する
自分のやってきたことが認められない
自分の頑張りでは駄目だと否定される

おそらく相手側にはそういうつもりがなくても、私にとってはそういうことでしかない…
これが、親に認めてもらえなかったことが奥底に黒い塊として存在して、いろんな人との関係に投影されていることを、言語化することで見つめる時間でした。


月曜のクライエントでたどり着いたもの。
それを火曜日に再び味わいなおす。

すでに数日たって、また違う見方もできるのですが、いまなおこの腹底に居座ってる”影”に「触れても大丈夫」という感覚は残ってます。
あまり積極的に触れにいこうとは思いませんが。


明日はミニカン研修会
水曜日は月例会
そして土曜日からワークショップが始まります。

なんか、ワールドカップどころじゃありません。
っていうか、昔ほど燃えてなかったりもしますが…
その辺はまたべつの機会に。