コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真カ研月例会 5月

2010-05-26 08:42:06 | 真宗カウンセリング
順番は入れ替わりますが、先週の水曜日に真宗カウンセリング研究会の月例会がありました。

今回から新年度として(4月は総会)新しい論文の輪読がスタート。
この論文は数年前にされていたそうですが、メンバーも変わってきているし大事な部分なのでもう一度ということで。

「ロジャーズ選集」から「セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」と言う論文を。
参加者は7名。
常連のうち数名が体調不良や他の予定で欠席。

今回は次回からのレジュメ担当の決定などをした後、まずこの論文を含む章の解説文を輪読。
つづいて論文の序文と、「問題」という章まで。

解説の部分では、この時代(論文がまとめられたころ)の研究者たちからの評価(主に批判)や、逆に表彰されたさいの表彰文を通じて、その位置づけを再確認。
専門的なことを深く追求し、「分かるものにだけ分かる世界」を求めていく人たちからは「軽い」という評価をされていたようだが、ロジャーズ氏が一つの「わかりやすい」結論を導くまでは、数多くの仮説とそれを実証する実践が費やされていることを軽視しすぎている。
事実、ロジャーズ氏が明らかにしてくださった「必要にして十分な条件」というのは、今に引き継がれてきて、さらにそれを根底において様々なアプローチにつながっている。
いま、私が様々な形で人と関わっていくことには、直接的に学んだり、あるいは人の姿を通して学んだりした「必要にして十分な条件」が大きく影響している。

もし、ロジャーズ氏がただのセラピストで、自分の前に訪れるクライエントだけを相手にして、そのセラピーに終始しただけならば、今の私は無かったかもしれない。
自らが達した「確信」の世界を、後に伝わる言葉にするためにさらに検証を続け、論文として記述することに努められた。

その決意的なものが、論文の序章に書かれている。
「理論のごく小さな断片を取り上げて、もっと完全にそれを記述し、そしてその意味と実用性を探求する」

おそらくセラピーの現場ではロジャーズ氏に内在している理論を、そのクライエントに合わせて断片的に応対することで、完璧に近いセラピーを実践されていたんだろう。
それを「完全に記述」することで、「意味と実用性」を後進のものにわかるようにしたのだ。

自らの悟りを、自己だけで完結させずすべての衆生に伝える決意をしたお釈迦様のように。
また、自らの信を何とか伝えようと言葉を尽くしてくださった先達のように。

今の私を作り上げている小さな断片には、様々なおかげが満ちているのを感じる。
仏法の三量のように、カウンセリングの学びとしても、自らの了解と、学術的・理論的な学びと、活きた実践の世界が補い合い、引っ張り合いして、わずかずつでも歩ませてもらっていることが、とてもうれしい。

早速、来月のレジュメ担当になったので、ロジャーズ氏の世界に触れていこうと思うし、それを発表して他のメンバーの話を聞いて深めるのがとても楽しみだ。

京都支部学習会 5月

2010-05-25 08:09:21 | 「聞き方・伝え方」学習会
久しぶりに日曜開催となった京都支部学習会「聞き方・伝え方の学び」
他の場所で支部法座があったり、かなりの大雨だったりしていつもの顔ぶれが見えなかったりもしたけれど、初めて参加してくださった方が数名。
同日に日曜礼拝の遠足があるので、子どもをそちらに預けて参加してくださったおかあさん方や、以前から参加したいと思いながら二の足を踏んでましたという関東から(!)の参加者など。
また、お仕事の関係で日曜でないとなかなかさんかできないって方も久々に。

事前に始めての参加者があるだろうということを聞いていたので、事前にいろいろはかりごと。
あまり意識せずにいつも通りって方がいいとも思うけど、ついつい欲張ってしまう。

始まる時間の時点ではちょっと少なめの人数。
いつもどおり2分間黙想して、外の音や自分のうちからのメッセージを意識してもらう時間。
そして自己紹介しながら分かち合い。

初めての方の緊張を少しやわらげる事が出来ればと、ちょっと企画ものを。
「流れ星のエクササイズ」というものをやってみる。
以前、別のワークでS先生に教えてもらったもので、いつか機会があればと暖めていたもの。
約一年間参加して慣れてきた方も、初めての方も、「いかに聞いていないか」ということの確認。
ほとんどの方が、「自分の思い込みで話を聞いている」という感想。
そのことにちゃんと気付いて、またそれをしっかり言葉にして返してもらえるところに、参加してくださってる方の成長を感じる。
絵を描くことや、間違ってるかもしれない、上手く出来ないってことなんかに抵抗や不安があって当然なんだけれど、そういうことも含めて「今・ここ・わたし」ということにオープンになって、素直に出来ていないことを言葉にしてもらう…これってすごいことじゃないかなと。

この分かち合いの時点ではじめてのお母さんお二人が送れて参加。
エクセサイズを経験してもらいたかったなって思いと、途中からだとちょっと緊張するかなってことが気になってたけれど、ここはそのまま分かち合いを続ける。

一息ついて、「聞き方・伝え方」の実践。
今回はいきなり3人組になるんじゃなくて、まずは「聞く態度(聞いてもらう態度)」を確認するワーク。
これは以前「地域若者サポーター養成講座」で教えてもらったもの。
といっても簡単なことで、ペアを組んで話し手と聞き手に分かれるけれど、最初の数分は聞き手は「反応しない」というルール。
今回は最初3分が無反応で、残り2分は好きなように聞いてもらうということで。
予想通り、最初はついついうなづいたり返事したり。
そこをぐっと我慢してもらって”壁”になってもらう。
この作業で「聞いてもらってる」ってことの喜びを体験してもらう。
やはり反応してもらうとうれしいし、聞くほうも反応しながら聞くほうが楽しい。

でも、普段の生活の中で、ちゃんと反応してるかどうか…そのことを振り返る機会にもなると思う。

休憩を挟んで3人組の実践。
いつもはランダムにペアを決めるけど、今回は私を含めて3名の世話役を振り分けて、初めての人が固まらないように配慮。
後の分かち合いを含めて、「聞くことの難しさ」と同時に、「聞いてもらえることのうれしさ」を感じてもらえたようでうれしい。


家庭や友人たちの間で「話を聞いて欲しい」というのは当然の欲求で、それが満たされていないとしんどさが残る。
ある程度は聞いてもらえる仲間や環境はあったりする。
しかし、ただ聞いてもらうだけではなく「ありのままの私」を聞いてもらうことはすごくまれなことで、とても難しいこと。
どうしても、話の内容に対して「聞き手の思い込み」や「分かったつもりの同調・同情」なんかが混じってしまい、ひどいときは話題を「聞き手の話題」に摩り替えられて取られてしまったりする。
余分なものを交えず、足さず、話し手の「言いたいこと」をその通りに聞く。
そのことで、話し手が自分でどんどん自分を振り返っていくことが出来るし、奥の奥にある自分自身に出会っていく。

話し手を「大事」にする聞き方…
それは話し手が、「ありのままでいられる」ように聞いてあげること。

うん、この学習会は私のための学習会だなとあらためて…

次回6月は、会場や私の予定の関係で平日の夕方に開催。
6月23日(金) 17時から20時です
近日、案内をアップします。

ミニカン研修会 2回目

2010-05-20 23:51:57 | ミニカウンセリング
まずは前回に引き続き、ミニカンの進め方、逐語録の取りかた・作成の仕方などを学習。
当たり前のように行っているミニカウンセリングの、その意義や大事にしているところをもう一度資料を基に教えてもらうことで、来談者中心の考え方をももう一度再確認させてもらえた。

その後、今回の逐語録発表の担当者と担当日を決めて休憩。
今回は参加者が偶数なので、世話役は逐語録への絡みはなし。
その分、毎回の検討をしっかりさせてもらおうと思う。

後半はペアを組んで実践。
初参加のうちお一人が欠席だったので、残りの二人の初参加者にはM先生とSさんがペアを組んで、私は昨年から継続参加して居られるMさんと。

何度も実践を経験してこられたと言うことはとても大きなことで、”旧知”という安心感だけではなく、安心して聞いてもらえるということを感じさせてもらえるだけの力量が備わっている。

話の内容は触れないが、ふっと浮かんだ話題から話をしていくことで、勝手に「今話したいこと」につながっていく感じがある。
すごく自由でいさせてもらえる…
この感覚はカウンセラーの聞き方で与えられるものだと思う。
もう一方では、この時間だけではなく、ここにいたるまでの様々なお育てによる「経験」が、私の中から余分なもの・構えを省いてくれている感じを味わう。

ただ、ひとつだけ余分なものが常に片隅で存在を主張している。
それは「いつかは触れなければ」という思いと「触れたくない」という両方の思いに結びつく。
自由に話したいことに乗っかりながらも、そのちょっとした不自由が現れは消える。
今回は時間が短いと言うことが分かっていたので、深くその「触れたくないもの」に関わらないだろうという計算の上で、少しだけその話題に近づいてみる。

遠巻きに言葉にしてみる。
その話題に触れることに痛みを感じる。
怖さも感じる。
結局、「そいつが存在している」ことを感じたところで時間になった。
ちょうど良かった気がする。

ミニカンの心地よさは、油断を誘う。
ついつい、自由の雰囲気に乗って、無防備になっていく。
今は、その無防備になっていくことにも自由でいられるし、それをとどめようとする動きにも自由でいられる。

最後の分かち合いで、少し心の動きを言葉にしてみたら、最後に先生から「無理しないでいいですよ」と一言いただいた。
自分では自由と思いながら、どこかに無理があったのか…
その言葉が温かく感じられたし、同時に素直に「無理」という言葉も受け入れられた。

毎週、定期的に自分と向き合う時間があるということは、とてもうれしいことだ。

ミニカン研修会 1回目

2010-05-15 21:48:46 | ミニカウンセリング
火曜日に今年度のミニカン研修会が始まりました。
参加者6名と世話役3名の9名で、これから10週に渡って深めていけそうです。

今回は「ミニカウセリングとは」という基本的な学びと、ミニカンのデモンストレーション。
私がクライエント役、もう一人の世話役Sさんがカウンセラー役となって10分間のミニカウンセリングを皆さんの前で行います。

最初は「見本」となりやすいように具体的な話題のほうがいいだろうなという意識が働き、今私の中で問題となっている仕事(収入面)の話題を話し始めました。
みなの前で話すということと、具体的なという意識は、私から自然なものを取り除き、意図的な口調になっているのが自分でも分かります。
しかし「そういうところから話し出そう」というのもまた私自身なのですから、ここは「意図的に話したい」という私に任せてみました。
聞いてくださるSさんへの信頼は問題ないですし、会場の部屋もなんどもなんどもここで話し・聞きしている場所ですから違和感はありません。
いつしか、私の中から「意図的」というものが消え去り、浮かんでくるままに話をしています。

仕事の話題から、それを問題にする元になる家庭での問題。
さらにはそういう問題と絡んでいくことで、「私がしたいこと」と折り合いをつけているということが浮き彫りにされていきます。
そんな話をするつもりじゃなかったのですが…

話をすることで、ばらばらに置いていたトピックが、その位置関係を表してきて、私の中でつながって行きます。

初めて真宗カウンセリングのミニカウンセリングに触れた方がどのようなイメージを持ったかは分かりませんが、作られたデモンストレーションじゃなく、(言いか悪いかは別として)生のやり取りに触れてもらえた気はします。

次の火曜日に逐語録の担当や発表順を決めたら、逐語録検討やミニカン実践も始まっていきます。

とても楽しみになってきました。

言いたいのか、伝えたいのか

2010-05-14 12:12:57 | 親子コミュニケーション・Light
昨日、娘が体調を崩して学校を休みました。
火曜日に発熱で一度休んで、水曜日は運動会…それは少し回復したんで参加したんですが、結構寒かったりしたんでまた調子を崩したんでしょう。

そのときに私はいなかったんですが、連れ合いが学校を休むかどうかたずねたときに、どちらともつかない態度に次第にイライラしてきたようです。
(まぁ、本人はしんどいんだから頭もそうそう回ってなかったと思います)

連れ合いとしても、欠席ならば学校に連絡をしなければいけないし、自分の仕事に出かける時間もあるので余裕は無かったんでしょう。
「言わずにおれなかった」という表現をしてましたが、少しきつい言い方をしていたようです。

ここでいつも思うのですが、この「言わずにおれない気持ち」にはいくつかの複雑な思いがあるようです。

言いたい事を「言いたい」のならば、相手の状態がどうあれ、こちらの感情のままに(感情を満足させるために)一方的に投げかけることに主題があるのでしょう。
相手が泣こうが困ろうが怒ろうが、私が「言い切る」ことができれば、それでOKのはずです。
乱暴な言い方をすれば、内容が伝わらなくてもいいんです。

しかし、「伝えたい」(聞いて欲しい)のならば話は変わります。
こちらの言い方に、相手の様子を盛り込んで話す必要が出てきます。
こちらが乱暴な態度に出て、相手が心を閉ざせば、いくら丁寧に伝えようとしても、言葉は伝わりません。
「言わずにおれない」というときはおそらく何らかの感情が動いていますから、最初はこちらの「思い」で言葉を発し始めるでしょう。
そこで、そのまま自分の感情を押し付けるのではなく、一度相手が「聞けている」かどうか確認する「一息」が必要になってきます。
そのことを思い出せるかどうか…確かに感情的になっているときは難しいと思います。
だから、自分のためにも「一息」つく。

私は「言いたい」のか「伝えたい」のか。

伝えるということは、双方向のコミュニケーションです。
相手がそこに「居る」ことをしっかり認識して、「寄り添う」気持ちを思い出してください。

でも実際は「伝えたい」のに、相手をどこかに置いといて自分の感情とお付き合いしちゃいがちです。
伝わらなかったことで、余計に困ったり悲しくなったりして、さらに感情がかき混ぜられて「自分でも何がしたいのか分からない」ことになっちゃいませんか?

もちろん、「言わずにおれない気持ち」の中身は複雑で、簡単に分析することは出来ないでしょう。
ましてや感情が燃えたぎってるときにはなおさらですね。

まぁ、分析することはしなくても、一息ついて、声のトーンを落として、ゆっくりと話するようにする…
コミュニケーションって事から行くと、自分のためにも一息つくのは大事ですよ。

贅沢な悩み

2010-05-11 23:15:00 | 日常雑感
先週金曜日の「伝道研究会」
今日あった、「家庭訪問」
今日から始まり10週に渡る「ミニカン研修会」
コメントへのレスに、いただいたメールでの話題

それぞれにいろいろ刺激があって、書きたい。
でも、いろいろと時間に追われ、じっくり書き込んでられなかったりする。

特に、今日は久々にミニカンでクライエント役をし、しかもそれは初参加を含めたミニカンの参加者に「実践はこうやります」というデモとして。
相手は抜群の信頼感の先輩カウンセラー。

もう、気持ちよく開いちゃってますので、今もいろいろ無防備に飛び出してきそうで…

そういう意味では、いま書き込む時間が無いのは良かったかも。

とりあえず、今のハイな気分を記しておこうと思います。
明日以降、その時点その時点での私で書き込みしていきます。

気付きへの時間 ~永代経にて~

2010-05-07 00:04:55 | 真宗
GWも終わりましたね。
私は、本業は休みなれど、副業のほうは連休中もあり、その合間を縫って永代経にお参りさせていただきました。

3日間の法座ですが、大方の方は3日間この法座のために時間をやりくりして、法座漬けの日々を送られます。
しかし私は、普段の生活の中に組み込まれる形で参加。
これが良いのか悪いのか…

まぁ、家から歩いても10分かからない場所が会場ですから、家での用事や仕事と”折り合い”をつけて参加できます。
しかもそれで「フル参加」出来るのですから(体力的な問題はありますが)

「そんな心がけで法座に臨むなんて」ってなお叱りもあるかもしれませんね。
でも考えようによっては、そういう”折り合い”がつけられず、「生活か法か」なんて選択を迫られたら「生活」を取りかねない輩だってことは百も承知です。
そんな輩が、環境のおかげで「どっちつかず」のまま、法に浸らせていただける。
しかも、「役割」が与えられることで、「油断」しか出来ないやつが「油断できない状況」に置かれる。

そんな周辺状況でありながら、私自身はちっとも困っていません。
そこにブレないものが末通ってるんですね。

今回は人数限定の小グループ座談を担当しました。
合間の夜中に副業に出かけたりすることもあったので、代理が聞かない「一人先生・司会状態」は荷が重いかなという懸念もあったんですが、「限られた時間で法を伝えるアプローチ」の中でこういう少人数でゆっくり話を聞く場の重要性は、最近の私の関心ごとでもありましたし、「私しか出来ない」っていう自負もありましたので引き受けました。

「私しか出来ない」って言うのは、なにも能力的なことではなく、ちゃんとした「先生」の場所には多くの方が殺到されますから「3人限定」なんていう場は持ちにくいでしょうね。
本当は先生方も一人一人の話をじっくり聞きたいという気持ちを持っておられるでしょう。

また逆に大人数が集まる場には多くの「法を伝えたい」という方も参加されます。
時には一人の求める方に複数の方が「お勧め」される場面もあるでしょう。
そのことに功罪があったりします。
なんといいますか、「畳み掛ける」ということの必要性も捨てがたいのですが、それが「押し付け」になり、「領解」とは少しずれた伝わり方になることもあります。

今回、3日間少人数のグループでは、「ゆっくり」ならではの深まりです。
私がなにか伝える事をしなくても、お一人お一人が「今の自分」を語ることで、その語りの中から現れる「言葉」に自ら気付かれていかれます。
そこに「仏願のはたらき」があることをその都度都度確認していくお手伝いをするだけ。

一見、大きな心境の変化は現れていないようにも思われますが、今まで「そう思わないといけない」と受け止めていたものが、押し付けや詮索ではなく、「こう聞かしてもらっていた」と腑に落ちるという楽な感覚で動いていたように思います。


「人数の多いところで責められて”傷つく”から、やさしい高橋の部屋」だと思ってる方もいるようですが、別にカウンセリング的な場所にしているつもりはありません。
多少口調はやさしいかもしれませんが、「真綿で首を締める高橋」と若者に言われるように、大事なことは外していないつもりです。
小人数だから、一人一人の話をゆっくり聞ける(邪魔されない)という要素は大きいでしょうけど。
そのことを大事に出来る背景には、カウンセリングで学んだ関わり方、非暴力の考え方に根ざしてはいます。
しかし、人間同士の関わりを超えた「出世間の教え」は外せません。
いい気分で終われるもんじゃない、「わが身の真実」をごまかすことは出来ませんから。
ただ、それが「責め」と受け取るのではなく「気付き」であるということだけ。

法座で感じたことをいろいろ書こうと思ったんですが、大まかな印象のところで長くなっちゃいました。
今日はこの辺にしておきます。

宙ぶらりんな思い

2010-05-02 01:12:40 | 日常雑感
前回は足元を見つめる話でしたが、今回は逆に地に足がつかない話です。

明日、娘の部活生活最後の公式戦があります。(勝てば翌日も続くのですが)
小柄な体格ながら、身体がぶつかり合うバスケでよくがんばったと思います。
その雄姿を観にいってやろうと思ってます。

最後の試合ということを娘に聞いてから、自分自身の昔の話を思い出していました。
私も高校時代は軟式テニス部に所属しており、へたくそながらもがんばってました。
受験のこともあり、ほかの部員よりは一足先に引退する公式戦、その前夜のことです。
試合に備えていつもより早い時間に就寝につきました。
しかし、階下よりただならぬ雰囲気が伝わってきます。

父と母がけんかをしていました。
それまでも口論はあったと思います。
しかし、その日は父が母につかみかかっています。
当然私は間に入り、何とか停めようとします。

父の相手は私になり、いつしか父の手は私の首を絞めていました。
もちろん、殺そうなんて気は無かったと信じています。
本気を出せば、私は父を振り払うこともできたと思います。
いつの間にか体格的にも、力的にも、勝っていたんじゃないかと…それはひとつの意味で衝撃でもありました。

しかし、それよりも父が手を出していることが衝撃でした。
もちろん、体罰として父から”しつけ”を受けてきたことはあります。
ですが、それが母に向かっているのはショックでした。

それ以来(そのことだけではないのですが)父に対して、わだかまりと、溝を感じる距離感が出来たように思います。


先日のブログに書いたように、そんな父と久しぶりに顔を会わせました。
そこにはやけに柔和な父の姿が在ります。

そのとき、私のわだかまりの行き場がなくなりました。
直接対峙して、そのわだかまりを乗り越えていく…フォーカシングなどを通じて、そういうプロセス・変化が通り道だと思い込んでいた感があります。
しかし、わだかまりをぶつけるべき父はそこに居らず、別の人物です。

これはわだかまりが解決したこととは違います。
わだかまりはわだかまりとして私の心の奥底に残ったまま、解決の機会・対象を失ったんです。
これが今後、どのような影を落とすのか、あるいは自然消滅するのか、今の私には分かりません。

同じようなことは他の場面でも起こってきます。

私の心に影を起こした問題がいろいろあります。
なかには相手との関係が変化して氷解していくものもあります。
また、父の件と同じように、こだわった相手が変わってしまい、思いをぶつける対象でなくなってしまって宙ぶらりんのまま、朽ちるのを待っている思いもあります。
へたすると、相手が変わってしまった原因に私も関わっていると責めてしまう心も起こってきます。
解決しない心に、追い討ちをかけるように責める心。

少し幸いなことは、そういう心も含めて、「いま・ここ・わたし」と受け止めるだけの経験が確かにあるってkとでしょうか。
仏法に照らされるわが身の部分と、カウンセリングで培ってきた自らへの受容の経験。

アルコールが入って、よく分からない文章になってる気もしますが、これを記しておきたいなという私の欲求に従っておこうとおもいます。

私はかなえられませんでしたが、最後の試合にかけてる娘を、そっと見守って応援したいと思います。