コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

日曜礼拝 6月

2009-06-29 23:47:34 | 真宗
日曜日は日曜礼拝。
今月は私がご法話の担当を受けていました。

子どもたちに向けて仏法の話を聞いてもらう…すごく難しいですね。
毎月ある日曜礼拝ですが、法話はちゃんと考えられてテーマが決まっていきます。
4月には新学期ということもあって「仏様のお話を聴くというのはどういうことか」、5月には「はなまつり」を通して「おしゃかさまのおさとり」を聞かせてもらいます。
そして6月から「罪悪」「無常」「因果の道理」「お救い」と続いていきます。
ということで罪悪のお話。

2週前には骨子は固まっていたんですが、先週の支部法座で「二種深信」のお話を聞かせてもらった時点で「罪悪の話だけだと”機の深信”に偏ってしまう…なんとか”法の深信”まで話せないか…」などと悩んでしまいます。
まぁ、大人でも二種深信を理解(?)するのはなかなか難しいようで。
私の場合はイメージ先行で受け取るんで、はなから理解は捨ててますが…

と、「下手な考え休むに似たり」なんですが、ここは当初の予定通り、「わるいこと」を”身口意の三業”として、話しました。
いや、これだけでも壮大なテーマなんですが。
「十悪」を「子どもの聖典」を参考に、子どもの言葉に置き換えて、黒板に並べてから三つに分けていきます。
そして、心で思うことはつかまったりおこられたりしないけれど、「地獄行きの種」ということは変わらないということを。
あと、自分では「わるいこと」だと思っていなくても、「ほとけさまの目」からみたら「わるいこと」がある。
たとえば「食べもの」って思っているのは「いのち」をいただいているということ。
ここに絞って話してみました。
できるだけ具体例を出していったつもりですが、原稿時点で考えていた「私の経験談」をすっ飛ばしちゃいましたね。

この法話は、録音されたものをいただきましたので、原稿化しようと思ってます。(というか、依頼されています)
元の原稿のままでもいいんですが、実際に話したことを起こしてみて、それぞれの足りないところを補ってまとめようかなと。
最初は元原稿のままHPのコラムにアップするつもりでしたが、せっかくなんでまとめてからアップして、ここでお知らせします。

思いのほか、子どもらからの応答があったので、ちょっと楽に出来たのと、やっぱ若くともお育ての力はすごいなと。


法話のあとは学年ごとの分級座談会になるのですが、各分級の先生方も法話を元に子どもらと話をしてくださったようで、心強かったです。
私は、大人の分級で、大人向けに少し詳しく三業を話させてもらい、後の時間でみなさんと深めさせてもらいました。
「自分の心で犯す罪悪、迷いに迷ってきている間に溜め込んだ業魂、そこにめがけての南無阿弥陀仏」
ご縁を通じて、味あわせていただけました。
いや、形だけ「先生」などと持ち上げられますが、聞かせていただいているのは私のほうですね。

先生役が回ってくるのは「さぼっとらんで聴聞せんかい」のお心ですね。
得させていただきました。

「尊重」をめぐる話 -4  「死別体験者への言葉かけ」を通じて

2009-06-27 23:46:23 | 真宗カウンセリング

「別離の悲しみを考える会」に参加したあと、ブログにすることでもう一度かみ締めなおしたり、講師の鷹見さんにお礼のメールを送ったりして、少し俯瞰したところからもう一度問題を押さえてみる事が出来ました。

そうすると、もう少し聞いた話の具体的なところでも振り返ってみたいなという欲求が生まれています。
ちょっと、その気持ちに乗っかってみようと思います。

もしかしたら、これから書くことは「あたりまえ」のことかもしれません。
しかし、それを「あたりまえ」と思っていない人の言動によって傷つく方が居られるのも事実です。
ならば、「あたりまえ」と留めておかずに、言葉にしてみることでもう一度私自身が、新たなものとして取り込むことに意味があると思います。


講義の中の一説に「死別体験者への言葉かけとして、控えたほうが良い表現」というのがありました。

安易な励まし・保証
 「しっかりしてね」
 「がんばってね」
 「大丈夫だよ」「大丈夫もうすぐ元気になるよ」
安易な同意
 「あなたの気持ちはよくわかる」「心中お察し申し上げます」
悲しんでいることを責めたてる
 「いつまでも泣いていてはだめ」
 「悲しんでいても死んだ人は喜ばないよ」「悲しんでいても死んだ人は生き返らないよ」
 「泣かないで」
悲しみの比較
 「あなたはまだましよ」「○○を亡くした人はもっと悲しいんだよ」
 「あなただけじゃないのよ」
 「~するより、まだよかったんじゃない」
 「長く苦しまないでよかったんだよ」
立ち直りの時期や方法を勝手に決める・急かす
 「もうそろそろ立ち直ってもいいんじゃない」
 「早く新しいパートナーを見つけて元気になって」
 「また作ればいいじゃない」
 「早く遺品の整理を」
 「納骨はどうするの」
無理解
 「あなたは強いわね」
 「元気そうでよかった」
 「時間が癒してくれるのよ」
 「○○さんの気持ちもわかってあげなくちゃ」
関係の無い話・理解できない話
 自分の体験談やアドバイスの押し売り
 同じような境遇の赤の他人についての話
 難しい話・専門用語の羅列
死の意味(意義)や原因を勝手に決める
 死(遺志)を社会化することを押し付ける
 「先祖のたたり」「悪因縁を取り除いてあげないといけないですよ」
 遺族感情に反した死の意味づけ

「別離の悲しみを考える会」資料より

いかがでしょうか。
励まされて元気になるタイプの方も居られますが、みんなが必ずしもそうじゃない。
「自分は励まされて元気になったから」といって「がんばってね」と声をかけてあげることが、相手の苦痛につながる場合もあるなんて想像できましたでしょうか。
「あなたの気持ちはよくわかる」なんていうのも、相手に方に寄り添っていることだと思ってなかったでしょうか。
比較して、「まし」だと思ってもらうことが美徳だと思ってませんでしたでしょうか。
勝手に相手の調子を決め付けるのも論外です。

こうやって見直してみると、「あなたのために」という気持ちでスタートしているはずが「理解してあげている私」に酔ってしまうことになっていないでしょうか。
もちろん、そんなつもりは無く、ほんとうに「あなたのために」という気持ちなんでしょうが、それが必ずしも相手の方の気持ちに添っているとは限らない・・・ということを意識して欲しいんです。

だめなことばかり言われても困りますよね。
ではどうしてあげたら良いんでしょうか。
じつは、「こうすれば良い」っていう正解を提示することは出来ません。
ただ、私はこうしているってことがあります。

まず、こちらが話すんじゃなくて、相手の話を聞いてあげる。
何も返事をしないのも辛いですから、相手の方が話された「気持ち」を口に出して返してあげる。
たとえば「悲しい」と言われたら「悲しいんやね」と。
勝手に想像をつけくわえて「親を亡くして悲しいんやね」とか、「辛く悲しいんやね」とか、「すごく悲しいんやね」とするんじゃなく、相手の言葉だけ返す。
相手が沈黙しているときは、ゆっくり待ってあげる。

実はこれは簡単なようで、なかなか出来ていないことです。


今回の話題は、「死別体験者への声かけ」として書いていますが、普段のコミュニケーションでも通じることが多くないでしょうか。
ちょっと悲しみを抱えている友達や、悩んでいる子どもに対して、アドバイスや励ましを送る…それが、本当に相手が望んでいることかどうか。

私は以前から「がんばれ」という言葉に対しての思いや、相手の気持ちを決め付けることに対して、「そうじゃないんじゃないだろうか」ということを言い続けてきました。
それらは、カウンセリングを学んで「相手を尊重する」というのはどういうことかということを深く意識してからより強くなっています。
細かいテクニックをなぞっていくのもひとつの道かもしれませんが、その奥底にある「相手の尊重」ということが身についてくれば、言動は後からついてきます。

まずは、これは「言って欲しくない」ということを鏡に、自分の間違いを意識してみるところから、「じゃあ尊重ってどういうことだろう」って考えてみて欲しいんです。
「相手の嫌がることをしない」っていういのは、まずやってみることが出来るんじゃないでしょうか。


ご縁・出逢い・心の動き ~「別離の悲しみを考える会」との関わり

2009-06-26 00:02:11 | 真宗カウンセリング

昨日話題にした「別離の悲しみを考える会」ですが、そこに参加するまでに至るところで、なかなか面白い心の動きがあったのでそれを書いてみます。

まず最初のきっかけとしては新聞の記事なんですが、私は基本的に「新聞を隅から隅まで読む」と言うタイプではありません。
時間のあるときに、ちょっと休憩がてら眺めると言う感じで、一切読まない日もあれば、2・3日前の新聞でも他にすることが無ければ読んだりします。
普段、仕事の合間にネットでニュースサイトを見たりしてますから、速報性はそこで情報を得ますし、興味を持った見出しがあれば、検索していくつかのサイドからその話題を深めていくことも出来ます。
そうすると、新聞で話題になる”事件性”のもので興味のあるものは、すでに古い情報となっていますから。

ですから、新聞を見ているとき、目では文字を追っていますがほとんどは「頭に入っていない」状態ですね。
しかし、ふとしたときに「気になる」ものに出会います。
それは本当に偶然の産物で、同じ記事でもこちらの心の居所が違えば見逃していることでしょう。

今回の「別離の悲しみを考える会」はまさにそういう出逢いでした。
何かが心に触れた…
今思い返すと、そこに説明をつけることは出来ますが、その時点では「意識しないなにか」でしかなかったんですね。

ただ、これだけで終わっていれば「ちょっと興味を持った話題」で終わっていたかもしれません。
次に重なった偶然は、その記事を読んだ次の日に「真宗カウンセリング研究会 月例会」があったこと。
会のはじめに、チェックインをかねてそれぞれが気になる話題や、心境を語る時間があるのですが、私はその記事を読んだことを口にしていました。
そこには無理に「真宗カウンセリングに関係する話題を」という意識は無く、その時点で心に留まっているいくつかの話題のひとつを言語化してみるという単純なものです。
実際、他の方が話されているときに「自分の番が来たらこの話題を…」と言う候補がいくつか浮かんだり消えたりしていました。
タイミングや、他の人の話題に心動かされることがあれば、まったく違ったものを口にしていた可能性もあります。

そうやって、心の隅に残っていた話題を言語化してみる…すると、その話題が私の中で深まってきます。
それまでの意識より、「話題にした責任」を勝手に自分のなかに作り上げていきます。
その責任は、別に負担になったり脅迫的に感じたりするものではないんです。
気になる異性を意識するというか…勝手にドキドキしてる感じに近いでしょうか。

月例会から帰ってくると、ネットでもう一度その話題を検索するに至って、「参加したいな」というところまで気持ちが固まってきます。
でも、そういう場合でも、ちょっと別の予定が入ったり、事情が出来れば他を優先する程度のものです。

当日、子どもに「帰宅する頃、お父さんは外出してるかもしれんから、鍵だけは忘れないように」という念押しをし、出かけられない理由をひとつつぶしておきます。
しかし、「ちょっとパソコン関連の調子が悪い」という連絡が入ってきたりします。
「どうしても参加したい」と言うものなら、「別の予定が終わってから、夕方にお邪魔します」という選択もあったでしょうが、私の中の優先順位によりトラブルのケアのほうに向かいました。
2時過ぎから作業を始めて、30分くらいでなんとか解決しました。
ここから会場の本願寺までは車で10分ほど。
最初は自転車で向かうつもりでしたが、それでは間に合わないので車を出して会場へ。
この時点で「もう留めるものはないから、参加しよう」と言う気持ちが盛り上がってきます。

そうして会が始まり、前回書いたような話を聞かせてもらったのですが…
最初に持っていたイメージは「自死を防ぐために」という話題だろうと言うものでしたが、「残された遺族への関わり方」ということでちょっと気持ちが引いた感じがありました。
しかし、講師の方のお話は、学者や周辺の関係者の話ではなく、話し方や言葉は丁寧なものの「当事者」「経験者」の「心の叫び」として届いてきました。

対策を考えたり、応対することではなく、「聞いて欲しい」「知って欲しい」という声を聞かせていただくこと。
これは、私が今大事にしている「尊重」のまさに第一歩の部分です。

もしかしたら、その次なる「行動」を求められているのかもしれませんが、まずは「聞く」ということで、講師の方の気持ちに寄り添うことができれば…。
終わる頃にはそういう気持ちが中心になっていました。

 

ふと目にした新聞の記事…そこから1週間の間にいろいろな心の動きがあります。
まったくもって不思議なことです。
偶然の出会いにして、必然があったと。
それを”ご縁”と思いますし、出逢いであったと思います。
今後、どう動くかは別として、今回の出逢いも取り込んだところで、今の私が”在る”ということはハッキリしています。

真宗カウンセリングが正しいこと、大事なこと、必要なこと。
まずは私個人にとってであり、そこから様々な関わりの方に広がっていければ。
西光先生と今話が出来れば、先生の目指されていたものをお聞きできるのですが、その歩まれた道を、先に歩む先達を訪ねながら、私なりの動きを。
(ちょっと意気込んじゃってるかな)

 


「別離の悲しみを考える会」

2009-06-25 02:21:00 | 真宗カウンセリング

西本願寺の聞法会館で行われた「別離の悲しみを考える会」に参加してきました。
http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/next/pdf/pos2.pdf

これに参加するに至るまで、また参加しての気持ちと言う部分と、内容に関しての部分と、二つ大きな「書きたいこと」があります。

まずは中身についての思いを書いて見ることにします。

 宗派が昨年、約1万カ寺の僧侶を対象に行った自死問題に関する調査では、「僧侶がかかわることができると思うが、何もできていない」との回答が最も多い45%を占めた。宗派の教学伝道センターは「調査の実態を踏まえ、遺族の方に寄り添い、ともに歩んでいくことができるのかを考える機会にしたい」と話している。京都新聞


この集まりがあることを知ったのは新聞の記事でしたが、その時点での興味は「浄土真宗(僧侶)が自死に対して、なにかしらの行動を起こせるんだろうか」という部分が大きかったですね。
しかし、実際に今回講師として話された方の視点は「自死で家族を亡くしたものへのケア」と言う部分でした。
ある意味、私にとっては「僧侶の問題」よりも、より「私の関わりの問題」に近くなりました。
結論から言っちゃうと、やはり「カウンセリング」を通じて課題にしている「尊重」ということに大きく関わる話題だからです。

西本願寺が企画していることでもあり、また講師の鷹見さんがすでに別の講習などで僧侶の方と交流をもたれているからでしょう、話の視点が「僧侶の方にはこういう配慮を持って欲しい」ということが底辺に流れていた気がします。

まずは、家族を亡くした遺族がどういう気持ちでいるか、どういう行動を起こすか(起こせないか)ということを概論として聞かせていただき、その中でも「自死」という突然の別離をしなければならなかった人にとっての問題を聞かせていただきました。
資料を基に、細かく書いても良いのですが、興味があればそのあたりは直接見聞きされたほうが良いでしょうから、やめておきます。
こちらにホームページがあります。
リメンバー名古屋自死遺族の会

僧侶に関わるところで行けば「理解する力が無い状態」なので、いきなり「仏教とは…」などという壮大な話をされてもついていけないし、「命の尊厳」などを言われると「自死という選択をした家族が責められている」ということがあるようです。
あと、「難しい言葉は理解できない」ということもありましたし、だからといって優しく「たとえ話」をされても「その意味するところを考える力が無い」と。
これらは、実際に集まられた声と言うことですから、重みがあります。

逆に言うと、そういう話をされる方が多いと言うことなのでしょう。
「伝えたい」という側と、受け取る側のギャップ…
こういう声を聞かせてもらえる機会は少ないと思います。

そうすると「真宗カウンセリング」が大事だなということに思いがつのります。
仏法と言うことを表に出すのではなく、「仏法が根底に流れている」者として、相手に寄り添っていく。

遺族の方は励ますよりも「しっかりと悲しむ」行動をとらせてあげることが大事だと聞かせてもらいました。
物理的には時間に追われゆっくりすることが出来ないのが現実の葬儀事情ですし、その胸のうちを吐き出す相手がいなければ「悲しむ」ことすら出来ません。
話したいことを話したいように話できる環境。
アドバイスや心理操作以前の部分です。
私が真宗カウンセリングで学ばしてもらっていることが、ずばり当てはまる気がします。

また、具体的に「こういう言葉は言って欲しくない」ということも聞かせていただきましたが、相手の方を尊重するということが身についていれば避けられる言葉ばかりです。
逆に言うと、尊重せずに投げつける言葉に、家族を亡くした悲しみに上乗せする形で傷つけられている…
その多くは、その他大勢の方ですが、「法話」の言葉にもその可能性があるということは、教えてもらう必要があると思います。

 

講義を聴かれたのは150名ほどでしょうか。
おそらく大半が僧侶の方だと思います。
今日の話を聞かれて「じゃあ、どうすれば」というところで途方にくれて居られるかもしれません。
(ある意味、一般的におこなわれている法話はほとんど否定されましたから)
ひとつの答えが「真宗カウンセリング」にあるのは確かですね。
私自身は僧侶じゃないですから、私が知らないだけでみなさん「カウンセリングマインド」を何らかの形で勉強されているかもしれませんが、もしひろまっていないのならば、「接する機会がある遺族の方のため」に一度真宗カウンセリングに触れてもらえれば…
そんなことを考えていました。

今、このタイミングで、こういう場に行こうと思ったのは不思議な感じがします。
この話を聴く…ご縁ですね。


春期研修会 7回目

2009-06-24 14:07:01 | ミニカウンセリング

毎日蒸し暑くて寝苦しい日が続く中での、わたしにとって一服の清涼剤のような時間。

今回は逐語録検討から。
カウンセラー役の方にとって初めての逐語録録音。
にもかかわらず、とてもはじめてとは思えない、しっかりしたカウンセリング振りにまず驚きました。
もちろん、個人個人の資質や、育ってきた歴史や、そういうものすべてをひっくるめたパーソナリティがあるのだから、「初めてはこの程度」なんてものは存在しないのですが。

ポイントとしては、クライエントが使った言葉そのままで返す。
これが徹底されていると、気持ちよく聞こえてきますね。
これは形だけのことかもしれませんが、こういう形を大事にしていくことからマインドにつながっていくでしょうから。

今期の研修会は参加者が少ないと言うこともあり、実践の時間がいつもより多くとられていますし、やはり回数を重ねていくことでうまくポイントをつかんでおられるんだろうなと思います。


後半は実践の時間です。
私は逐語録でもクラエント役をされていた方とのペア。
録音は数週間前でしたが、そのときの自分の気持ちと逐語録で出会い、それを通した今の気持ち、以前との対比を話してくださいました。
まさに、今のホットな気持ちですので、すごく湧き上がってくるところが聞かせてもらえました。
途中から関連はあるけれど別の話題に代わりましたが、そうすると少し「周囲をなぞる」というか、言葉にはしていても戸惑いがあるような感じを受けました。
もしかすると、その方とわたしの今までの関わりが、今この時間だけではなく歴史として、また印象として持っているものがあるから感じたのかもしれません。
カウンセリングとしてはどうかなって思いもあるのですが、そう感じたのが「今の私」ならば、そこを誤魔化すことなく、そのままの感じで聞いていた気がします。
振り返りで、そのこともお伝えできましたしね。

代わって、クライエントとして話をしました。
「特にこれを話しようというものがない」ということからスタートしたのですが、まぁホットなところで関心のある話題を話し始めました。
しばらくその話題を、二つのエピソードで話していたのですが、急に「もっと話したい」という気持ちが湧き上がってきます。
話題のテーマは同じなんですが、最初は頭の部分での興味で話していたことが、心の何かに触れて「そう、これが話したかったんだ」というものにつながった感じとでもいいましょうか。
面白いもので、最初は正座して(それはそれで私にとっては楽な格好です)ゆったり話していた態度が、「よし腰をすえて話しよう」というか、足を崩して幾分前のめりになって話している自分がいます。

それは意識したことでなく、後で振り返ってみるとそういう変化が勝手にあったと。

カウンセリングをしていますと、クラエントさんが話したいと思っていることを大事に聞かせてもらうことは当然なのでしょう。
しかし、その関係性において、なにかしらの警戒・戸惑いがあれば、いきなり心を開いて話すことは無いでしょうし、また通じるように頭を駆使して整理して話しようと力が入るのも当然でしょうね。
そこに、「話してもいいんだ」「話しよう」というものが生まれてきたならば、むしろ整理されない形で、湧き上がるままに言葉を発し、あとから自分の頭でそれを聞いているということが生まれてきます。

おそらく、それにはカウンセラーさんの力量があり、それがクライエントに受け取っもらえるという関係の成長が必要なんでしょう。
ミニカン研修会の場合は、この時間と空間の設定時点で「大丈夫」というものが出来上がっていますから、カウンセラーさんがその力量で関係を作ることはあまり出来ていなくても成立します。

ちょっと伝わりにくい感じのことを書いていますが、ミニカンの場では開けはしても、普段の関係ではなかなか開けない…そのことは私の中で明確になっていますから、課題としてもハッキリしています。
そういうことを、態度の変化ということで体験した感じですかね。


言葉では説明しにくいことですが、ぜひその身で「関係が出来ている」という感覚を体験してください。
7月に京都でワークショップがあります。
締切は今週末。
迷っている方はぜひどうぞ。

http://dbpca.web.fc2.com/details/20090704.htm


「尊重」をめぐる話 -3 (法座編)

2009-06-22 23:53:17 | 真宗

相手に何かをわかってもらいたいのならば、まずは相手を尊重して、相手の言いたいことに耳を傾ける。

ということを2回にわたって書いてきた。

「尊重」をめぐる話 -1
「尊重」をめぐる話 -2


実は、このことを書き始めたときは、ある程度の着陸点が見えていたのだが、先週のミニカンでこのことを話題に話してみたところ、私の中にまた違った着陸点が現れてきた。
というか、部分的に私自身の思いに迷いが出てきた。

面白いもので、以前ならばそういう湧き出してくるものを隠したり、あるいは横において、最初の思いに突き進んでいくのが私だった。
まぁ、所詮ゆらゆら揺れる心を相手にしているのだから、トーンが変わってきてもそれはそれで今の私なのだから良しとしているところがある。

まぁ、論文をまとめているのではなく、ブログ=日記なんだから、その時々の思いを切り出していくのもいいだろう。

「相手を尊重する」ということを法座の場面で考えたときに、できるだけゆっくりと、その人の言いたいことをまず出してもらいたいということがある。
その人にはその人の歴史があるし、「真宗を求める」と同じ看板を掲げていても、興味の度合いも違えば、求めている到達点も違う。
また、関わりあうのは人間同士だから、表に出てくる言葉だけですべてが通じない。
そう、人間同士の部分で「大事にしてあげたい」ということがあるのだ。

そういう意味で、真宗カウンセリングワークショップなど、できるだけゆったりと時間をとり、何を話しても大丈夫だという空間を作り、無理に仏法を持ち出さなくとも「人格を超えた(超個)」ところで仏性を共有できる場というのは、「今ここに居る人間」を大事にしている。

それに対して、「相手のため(尊重)に真実をわかって欲しい」と言いながらも、いつしか「聞いて欲しい」というこちら側の感情が前面に出てしまう場面を見る法座も在る。
「余計なことを言っていないで、一直線に向かってもらうために」という「配慮」からスタートしているんだろうが、いつしか「判ってくれない」相手を責め、自分の「思いどおりにならない」ことに苛立ち、相手の言い分を受け入れず…という「尊重」とは真反対の姿が現れる。

「私はこうしたいから」という風に、自分を尊重することも大事だろう。
無理に言いたいことを我慢して、自分がしんどくなることを進めるつもりも無い。
しかし、そこに少しでも「こう言われたら相手はどう思うだろう」という配慮が加われば…。

誰しも、「私はこうなんです」という自己を持っている。
それが相手に受けとめてもらえたときに、尊重されていることを感じられる。
そういう経験があれば、逆に相手も受け止めてあげれば「尊重されている」と感じてくれるのでは、と思いをめぐらすことも出来るだろう。

仏法というのは聞かせてもらう以外にない。
自己で積み上げていけるものではないのだから。
しかし、自分の中に「打ち出したい」ものがあるうちは、そちらに心が縛られ、聞いているようで聞いていない。
ひとつの方法は「あなたは聞けていない」ということをとことん知らせること。
もうひとつの方法は「打ち出したいもの」を徹底的に出してもらい、搾り出されたスポンジに水がしみこむように、すっからかんのところに聞いてもらうこと。

「聞くだけ」とは言いながら、なかなかそうはならないだろう。
そんな時、尊重してもらうことで一歩踏み出すことが出来るならば、お伝えしたい者こそ、じっくりと相手の方に向き合ってあげることが出来ればいいんじゃないだろうか。

と、ここまでは以前から課題にしていることであり、何らかの形でこういうことを実感できる場を作って行きたいなという気持ちはぶれていない。

その一方で、「法座で相手を尊重するということは」と考えたときに、やはり、今ここでの「信心獲得」が大事だという思いもある。
明日があると思えるのか…ということならば、たとえ相手が拒否反応を起こしていようとも、「今だ、今だ」と勧めていくことに「相手を大事にする」という面があるのでは、と。
いくら、人間関係のところで「あなたが大事だから、無理しなくていいですよ」と配慮したところで、後生の一大事の解決が出来なければ、その方のためになるんだろうか。

ただ、相手に優しくすることが大事なのではない。
それはそれで判る気がする。


では、どうするのが「尊重」ということになるのか。
もちろん、「後生をはっきりとしてもらう」ことができれば、それに勝ることは無い。
その道筋として、「聞いて欲しいという気持ち」をいかに伝えるかと、そのために私が出来ることは何かを、丁寧に丁寧に見つめていく。

ここで勘違いしてはいけない大事なことがハッキリしてくる。
「聞いて欲しい」という気持ちを満足させることが大事じゃない。
あくまで「聞く」のはその方。
おしつけて「こう思いなさい」というのは愚の骨頂で、その延長で「さあお念仏しなさい」とか「お仏壇の前に出て」とか指示的に振舞うのはいかがなものだろうか。

法に触れ、縁に触れて、自分が一歩踏み出していく…
そこにしか法を「聞く」ということは無い。
だれも責任を取れない。
唯一「どうか我が名を称えておくれ」といえるのは阿弥陀仏だけなのだ。
そのことを口伝で、また自ら称名することで、伝えていくだけ。

と、ここに話が帰結する限り、私のあさはかな「配慮」や「尊重」など吹っ飛んでしまうのだが…
しかし、人間関係の中で動いていく限りは、人間的な「尊重」も捨てることは出来ない。
また、いくら法のためとはいえ、尊重のかけている場面は辛く感じる。

うん、法のことは阿弥陀仏に任せればいいのだから、私は私の動けるところで、「尊重」を求め続けてみよう。


二種深信 - 聞かない姿

2009-06-21 21:56:30 | 真宗

今日は華光の京都支部法座。
増井悟朗師をお招きして、「二種深信」のお話をしていただいた。
このテーマは、3月にあった講習会で1泊2日で話されたテーマだったが、「最後のほうが時間が無かったのでぜひもう一度」という世話役さんの希望で実現した集まり。
世間の法座は良く知らないが、講師の先生にテーマを指定してお願いするって言うのは、そうそう無いんじゃないだろうか。
それが出来る華光のよさと、受けてくださる先生の深さが身に染みる。

「二種深信」の中身についてはここでは述べないが、その渦中で「二種深信」に対する異安心・邪義を話してくださった上で、もう一度そういう間違いを超えた領解を示してくださった気がする。

そのあとの質疑・座談で話す方の姿を通して、まさに今話していただいた「聞きそこね」ということを感じた。

「機の深信」をたずねいていく過程で、「まだ罪悪”感”がたりません、もっと深めないといけないのか」という人がよくいる。
自分で機を深めようとするのは、自力の所作で、「機法一具」ではない。
法に照らされるからこそ、自分で都合よく見つめる「罪悪」ではなく、本当に流転し続けている我が身の本当の姿がわかるというのに。

また、「地獄行きだという事がわかりました」とそれで一丁上がりだと喜ぶ人もよくいる。
確かに、罪悪観を突きつけられても「自分のこととは思えない」という人よりは一歩進んでいるようにも思える。
しかし、そんな軽い地獄行きで知ったつもりになっているのは、「なんのために、これほどまでの願を立てられたのか」というところも軽くしてしまい、「救うとおっしゃってるんだから、任せとけば大丈夫ですわ、わっはっは」と、阿弥陀様を尻にいしいて高上がりしている姿でしかない。

そしてもうひとつ、「もう阿弥陀様にお任せです」と頭を下げておきながら、「これで安心、後生は任せたのだから、自分の機様(きざま)はどうでも問題ない」と済ましにかかってしまう姿。
これだけの仏願にであったならば、どこまでも「救われようの無い身」ということがますますはっきりしてくるのに、「一念」を過去のものとして、今・今を問わない。
「今、ここ、わたし」というのは信前の人のためではなく、”つねに没しつねに流転し出離の縁が無し”のままの私のためのことなのに。
そう、救うというのは阿弥陀様だが、私の機様は変わってはいないのだ。
ちょっと心境の変化があったくらいで、終わったこととする姿…恐ろしいことだ。

このようなことを「異安心・邪義」をいわれると、大事で遠い話(思いっきり間違っている人たち)のような気がしてしまうが、そうではなく、もっと身近な”わたし”の揺れる心境の様ではないだろうか。

ここを、自分のこととして聞かずに、「理屈では判る」とか「理解できる・できない」などとしてしまう姿こそ、「自分で機様を探る姿」じゃないだろうか。
「罪悪観・無常観」だけの話じゃない、「自分を頼りにする」ことが、「機を深く観る」ことを遠ざけてしまう。

「これは予定概念じゃないか」と自分の心ばかり探ったり、「これはどういう心境のお念仏だろうか」と六字を量りにかかる姿。
そこをめがけてただ「南無阿弥陀仏」が仕上がっているんだ、と。
帰ってからの心境を心配するのではなく、今目の前で先生の姿を通して「お聞かせに預かっている」のに、「聞くだけだとはわかるのですが」と耳を閉じている姿…いや、これは人ごとじゃない。

最後に、先生がやかんを手に持って一人一人についで回られた。
なんと申し訳ないことか。
先生にお茶を注がせることが申し訳ないんじゃない。
法が、一人一人めがけて飛び込んできている姿じゃないか。
目の前の出来事に恐縮している場合じゃない。
いったい、何人がそのことを感じたのか…

そのことを感じさせてもらっている我が身が、どれだけお手間をかけてきたかを省みずにいられない。
そこには勿体無いだとか、申し訳ないだとかはいらない。
そのお手間と、飛び込んできた中身に向かって、ただただお念仏申すだけだ。
南無阿弥陀仏

一つには決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に 没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じ て、定んで往生を得と信ず。


真カ研 月例会 6月

2009-06-19 06:52:34 | 真宗カウンセリング
今日は真カ研月例会。

ちょっと遅れての参加だったが、輪読には間に合った。

いつもと違う会場で、部屋に入ると、広い空間。
机は「ロ」の字型になっているのだが、人数は部屋がいっぱいになるほどでもなく、「ロ」の字の半分が埋まっている「く」の形。
その一番端に私が座ったもんだから、もう反対の端の方は対角線の先…とても遠く感じた。

コミュニケーションに、こういう距離感って影響あるんだなと思った。
人数がいっぱいで、このサイズが仕方ないのならまだしも、半分の人数ならば半分の輪で十分。
そういえばミニカンの一対一のときでも、距離を気にする人がいたなぁ、と。

前回から始まった新しいロジャース氏の論文輪読。
今回は短い章だったが、話し合いの中身はとても濃かった気がする。
部分的な言葉へのこだわりや、文面の受け取り方だけでも、それぞれの思いがある。
「いや、自分はこう思う」と言うことを邪魔されない時間…とても貴重だ。

論文の中身も、カウンセラー(セラピスト)とクライエントの関係と、極限に効果があった状態の話だったのだが、クライエントがそのパーソナリティのすべての部分で「ありのままでいられる」状態であることを邪魔されない関係が出来上がったとき…そこに建設的な変化(成長)が現れる。
うーん、ロジャースさんが実体験し確信したことなんだろうが、やはりまだそういう場面を経験していない私にとっては想像の域でしかない。

クライエントがその瞬間瞬間に起こってくる感情を素直にだせる…それにはカウンセラーの作り出す関係が大事になってくる…しかしそれをクライエントが受け取れるかどうか…素直に受け取っても安心できる場を作れるか…
結局はカウンセラーが主導するでもなく、クライエントの力量が問われるでもなく、共に成長していく関係。

今日の話題の中で、「カウンセリング」を日本語にするには何が適切か?という話があったが、私の頭の中には「育ちあう人間関係」と言う言葉があった。
厳密には「カウンセリング」の訳にはならないが、意訳としては離れていないと思う。
と、こういう風に考えるのは、私の目指すものがそこにしっくり来るからなんだろうな。
万人に受け入れることではなく、私に響く言葉として。
そこには私のなかの歴史・経験があり、それを意識化したときにしっくり来るもの。

今日の感覚を、理屈でとどめるのか、今後の実践で体感していくのか。
ここ数日、いろんな出来事が流れを作っている気がする。

春期研修会 6回目

2009-06-17 23:57:45 | ミニカウンセリング


今期は参加者が少ないので、逐語録検討は5回。
ということで、今週は逐語録検討なしで、実践を2回。

この日は京都の南部で大雨や落雷があったそうで、その影響でお一人が後半からの参加。
なので、人数が奇数の前半は私がタイムキーパー。
皆さんがペアを組んでカウンセリング実践している間、30分強、一人でいろいろ考える時間。
とはいえ、周りでいろんな話がなされている状況でゆっくり自分の内側に浸ることも出来ず、手持ちの資料に目を通すも、文字を目では追ってるが頭には入らず…そんな感じでした。

休憩を挟んで、到着された方も含めて8名で4つの組。
私は、今回参加の中ではベテラン格の方とペアを組み、実践。

クライエントとして話をしているときは、話しているうちに「こういう結論に近づくだろうな」と思っていたものと違う感情が突然湧き上がり、そのことを話しているうちに自分の「今の立ち位置」が表出してくると言う面白い感じ。
話題としてはカウンセリングの話題なんだけど、素晴らしい先達に対して、それを目標にしているのかと言うと、そうではないと言う…やるからには目標を持っているかと思ったんだけど、どうもそうじゃないらしい…(自分のことなのにね)
こんな風に、ちょっと思いも寄らない一面を引き出してもらった、不思議な時間でした。

代わってカウンセラーとして話を聞かせてもらう。
話題は私自身も興味のある話で、出来事の流れがよくわかるし、クライエントさんの気持ちにも共感できる。
と、そのときはそれで問題を感じてなかったし、スムーズに関係を作れていたと思う。
しかし、あとの全体の振り返りの中で違った感じを味わった。
相手の話がわかりやすく、話題も気持ちも共感できるとき…下手するとわかりやすいがために、相手の感情に似た「自分の感情」に摩り替わることがあるかもしれないと。
分かりやすく言うと、話の流れから「困ってるんだろうな」と想像してしまったときに、似たようなことを(あくまで似たようなこと)をクライエントさんが話されたときに、「あぁ、困ってるんだ」と自分の中に起こった感情に置き換えてしまう危険があるなと。

あくまで、相手の気持ちに沿っていくことと、分かるからと言って自分の感情を「相手もきっとそうだろう」と気持ちを想像することはぜんぜん違うなと。

幸い、今回はしっかり感情も話してくださる方だったので、大きく間違ったり、錯覚したりすることは無かったけれど、ひとつ押さえておくべきテーマかなと。

話題がわかりやすかろうがわかりにくかろうが、出来事を追いかけたり捉われたりするのじゃなく、あくまで相手の方の気持ちを大事にしていくこと。

うん、6週目ともなると、ブランクが埋まってきた気がする。

今回は終わった後に逐語の録音。
参加が5人なので、私がクライエントになって録音してもらう。
初めて参加の上に、ご都合で数回休まれていることもあって、これから経験を積んでいかれる方。
その辺のことは、逐語録発表の回のときに書くかもしれない。

「尊重」をめぐる話 -2

2009-06-15 17:06:56 | 日常雑感

前回の書き込みで、「ここまでが前置き」と書いたけど、もうちょっと枝葉の話。

これも10年位前の話だと思うが、ネット上で真宗の関係者と掲示板でやり取りしていると、よく「差別問題」に関心を持っている(というか、差別根絶への活動をされている)方々と意見を交わす(そんなやさしんもんじゃなかったかもしれんが)場面が良くあった。
差別の問題をデリケートに扱っておられる方々なのだから、そこには相手への配慮・尊重と言うことが大事になってくる。
そういう尊重をされてこなかったがゆえに被差別という問題にあっている方々のことを問題にされているからだ。

しかし、その活動に熱が入るからか、自分たちの考え方に賛同できない人に対して”攻撃的”になられる場面が多々あった。
今そこにある問題を何とかしたいという思いはわかるが、そこで相手に対して攻撃的になるということは、相手への尊重がなくなっている姿じゃないだろうか。
一方で、まだ若かった私もまた、そういうことを攻撃的に返していた。
そこに相手への配慮は無く、自己主張の塊であり、「相手にわかって欲しい」という気持ちを旗印に、「打ち負かしてやろう」という気持ちが湧き上がってくる。

相手に何かをわかってもらいたいのならば、まずは相手を尊重して、相手の言いたいことに耳を傾ける。
これは他の場面にも通じることだが、そのことは次の機会にするとして。

もうひとつ、同じ頃に出会った場面だが、ある言葉のことについて論争があった。
相手の方は、何冊も本を出されている、その世界では著名な方。
問題を判りやすくするためにその言葉を出すが、「啓蒙」と言う言葉である。
この言葉には「知らない人に教える」という意味が一般的なのだが、かなり上から目線で「お前は無知だから教えてやろう」というニュアンスがあるようだ。
この「蒙」という文字は「モンゴル」のことを現しており、中国が周辺国であるモンゴルを見下して使われたと言う経緯があるらしい。

私自身も最初から知っていたわけではないが、ある人がこのことを問題にし、「嫌な思いをする人が居るのならば、使うべきではない」という意見をされた。
その言葉を使った側の方は、「一般的に通用している」「そういうことを言い出したら言葉狩りになる」という反論をし、お互いにヒートアップしていった。
私の立場は、「嫌な思いをする人が居て、他に置き換える言葉があるなら無理やり使う必要も無いだろう」というもの。
しかし、いつしか「嫌な思いをする」人のことは置き去りになり、「自分の考え方に賛同」するかしないかと言う対立構造になってしまっていた。

ここには配慮はなくなっている。
一面としては、まず「嫌な思いをしている」ひとはどう思っているかに思いを至らす、そういう人の考えを尊重出来れば良かった。
もう一面として、この論争している相手に対して、自分と違うから「間違っている」と枠にはめてしまうのではなく、「そういう考え方もある」と相手を尊重することが出来れば良かった。
また、相手にも相して欲しかった。

そういう尊重を相手に求めだすと、これもまたややこしくなってくるので、ここはまず「私の出来ること」として、相手がどうあろうと「相手を尊重する」ことを私が意識してみること。

きっと、そのためには「あぁ、尊重されているなぁ」という経験が必要だと思う。
ミニカンの研修はまさに、そういう気づきにうってつけだと思う。

最後に、話題に上げた言葉に関して、今も私はその言葉で「嫌な思いをする」人が居ると聞いたならば、その言葉は使うべきではないと言う考えを持っている。
「本当にそう思っている人が居るなら目の前につれて来い」という意見もあるが、「いない」という証明も出来ない限り、無理に使う理由は見当たらない。(啓発って言葉もあるしね)
この考え方は、「日の丸」や「君が代」に対しても一貫して持っている。
ただ、異なる意見の人を一方的に「悪」と決め付ける気持ちは、今はもうない。

 

まだ続きます。