コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

運動会 と 花背山の家

2011-09-30 19:50:12 | PTA

昨日は地域中学校の運動会に来賓で参加。

長女が昔通ってた頃は保護者席からの眺めだけど、今回初めて来賓席からの観戦。

運動場の背景に東寺の五重塔。

すごく素敵な環境だったんだと再発見。

(快晴だったから余計に素敵だった)

 

今日は小P連の交流会。

バスに乗って花背山の家へ。

7月に計画されていたけど、台風で延期され本日無事開催。

 

中身がとてもすばらしく、他のPTA役員さんたちとディスカッションしたこともとてもうれしかった。

そのことをじっくり書きたいけど、今日は仕事も片付けなくちゃならないんで後日改めて。

 

このブログを新たに数名に紹介したんで、挨拶がてらのアップということで。

ようこそみなさん、これからもよろしく。

 

感激と充実感の余韻でブログタイトルを変更。

すでにPTAがらみの話題の比重が高かったから、変更が遅かったくらい。

 

まずは、「親子コミュニケーション」の話題から覗いてやってくださいな。

「親子コミュニケーションのちょっとしたこころがけ」INDEX

 


秋のカウンセリングシーズン

2011-09-27 18:01:41 | 真宗カウンセリング

先週の水曜日に真宗カウンセリング研究会の月例会、土曜日に「聞き方・伝え方の学び」と、私の中のカウンセリングマインドを刺激する集まりが続きました。

 

こういうときは、個別にどうこうというより、継続的にテーマが連なっていく気がします。

特に今回のように、理論と実践という二つの機会があれば、より深まります。

 

月例会でのロジャース氏の論文輪読では、相手の伝えたい”感情”を、聞き手が深く洞察して、表に表れる事柄だけでなく察知していくことの重要性が説かれていました。

話し合いの中でも、その重要性は十分認識できましたが、聞き手の能力が伴わないと「洞察・察知」が「想像・思い込み」になってしまう危険性を私は感じていました。

 

このことは「聞き方・伝え方の学び」において、初めて参加くださった方への説明の中で私の中に大きな位置を占めていたように思います。

 

その学習会では、3人組での聞き方・伝え方の実践をしますが、初めての方には「聞き方」をまず意識してもらうようにしています。

最初に「うなづき」があるかないかでの違いを、ベテラン参加者に実演してもらうことで観てもらいます。

そして、聞くときに「話し手を尊重する」事の大事さをお話し、実践のルール「あなたの時間です・自由にお話ください・秘密はお守りします」という宣言の意味をお話します。

そこに今回は、話しての話の中に”感情”の言葉が出てきたら積極的に「つぶやく」ことを意識してもらうようにお話しました。

 

初めての方には当然難しい注文なんですが、今回初参加のお二人はともに「話を聞く」立場のお仕事を経験されており、今までの経験と照らし合わせて「簡単じゃないこと」ということに気づかれました。

あたりまえのように「出来ている」つもりで居ることと、「出来ていない」と気づくことには大きな違いがあるように思います。

 

月例会での話題にも上がったのですが、私はこの伝え返しのことも「オウム返し」という言葉で通用するのだと思っていました。

しかし、西光先生がこの言葉を「嫌っておられた」という話を聞かせてもらい、単なる言葉返しの「オウム返し」と、相手の話をしっかり聞き、寄り添っていく態度の「伝え返し」とは違うということを認識しました。

もちろん、今私がやっているのは「伝え返し」なんですが、技術的なことだけじゃなく、そのマインドの部分におごりや不誠実があれば、話にとっては「オウム返し」となんら変わることはなくなるでしょう。

 

形から入ることは重要ですし、出来ないよりは出来る方がいいですから、まずは「言葉を伝え返す」ことを意識してもらい、それが技術ではなく相手の”尊重”ということにつながっていけば、コミュニケーションは深まっていくことだと思います。

 

月例会と学習会の両方に参加された方のお話も通じて、「洞察・察知」と「想像・思い込み」の違いを、初めて参加された方とのお話で「オウム返し」と「伝え返し」の違いを、誰よりもこの私がもう一度学ばせてもらう機会でした。

 

 

 

そして、今晩からは「エンカウンターグループ」10週間が始まります。

毎週、カウンセリングを意識させてもらえる機会があるのはとてもうれしいことですね。

 

この流れは、10月後半の「真宗カウンセリングワークショップ」へと続いていきそうです。

こちらはまだ参加者募集しておりますので、興味のある方はぜひ。

第13回 真宗カウンセリングワークショップ

 


出会いと別れ

2011-09-22 18:42:39 | 真宗

今回の旅行先は、越後の地。

親鸞聖人御流罪の地として、また”法然門下のひとり”から非僧非俗の宣言により”宗祖”としてひとり立ちされる過程の地として、重要なものであり、そこに思いをはせることで「真宗とわたし」ということをじっくりと味わうことが出来る。

しかし、私自身にとっては別の意味も色濃いものだった。

 

 

実際、ここ数年聞法旅行は欠席したきたのだが、今回参加したのには個人的なわけがある。

ひとつは、親鸞聖人750回大遠忌事業のひとつとして行われる行事としての、大遠忌事務局の担当として。

ただそれだけだと、ほかの担当との振り分けということになるが、この旅行を担当したのはもうひとつのわけの方が強い。

 

この越後の地には、京都在住時に華光会で活躍されたI先生の御自坊がある。

I先生は、私の連れ合いの父親…ということは私の義父ということだ。

布教師として多忙のI先生は、地元上越に居を移されてからはなかなか華光のお座に参加してくださることが少なくなった。

私自身は、お正月やお盆の際に連れ合いの里帰りに同行し、先生のお話を聞かせていただく機会はある。

しかし、諸事情(苦笑)により、華光で聞かせていただけるような核心を突いた部分はなかなかお聞かせいただけない。

なので、先生が華光という場で、華光同人を前にしてどのようなお話を聞かせてもらえるのか、とても楽しみだった。

 

思い返せば、それまで華光会はおろか、浄土真宗にもまったく縁・興味のなかった私が、たまたま今の連れ合いと知り合わなければ、私の人生…いや三世を貫く魂の行き場は大きく変わっていた。

連れ合いとの交際を認めてもらうには、当然連れ合いのお父さんに気に入られることが必須。

私にとっては、聴聞の姿を通じて「なかなかいい青年だな」と認めてもらうこと。

そう、弥陀の大悲よりも、今生の利益が大目的で、聴聞はその手段でしかない。

 

しかし、そういう理由でもなければ仏道に入る輩ではなかった。

 

それだけ大恩のあるI先生だが、体調に不安を抱えておられる。

数年前にペースメーカーを埋め込み、その後ほかの患いも発覚し「余命」ということを口にされる状態だ。

先生の御自坊にみんなで参詣するという案もあり、場合によっては先乗りして準備のお手伝いも必要だと覚悟していた。

残念ながら、同じ上越とはいえ、聞法旅行行程の「居多ヶ浜」や「ゑしんにの里」から先生のお寺まではかなり距離がある(ほとんど長野県境の山中だ)

結局、宿泊地の「赤倉ホテル」にお出でいただき御法話をいただくことになったが、体調のことも考え、上越に着いたら別行動をして送迎をすることも考えた。

が、ある方がお寺と赤倉ホテルを往復して送迎してくださることとなった。

 

結局、私が特別参加する必要はなく、ひとりの参加者としての位置だけでよくなった。

いや、逆にこれだけの縁が整って、この日、この場所で、I先生を通じて仏縁に出会わせてもらったのだ。

 

 

先生のお話は

“一宗の繁盛と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。

                     一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁盛に候ふ。“ 

という蓮如上人のお言葉を御讃題に、聴聞中心の生活をされたご当地「赤倉のショウおばあちゃん」の逸話、ご自身の体調のお話をもとに、「信をとる」ということをお話くださいました。

 

今回の出会いを通じて、I先生とのご縁に心は引きずられていきます。

しかし、そのご縁に感謝するのではなく、ご縁を通じて「信」を得ると言う身になれたこと…それが一宗の繁盛であり、弥陀の御本願であるということ。

 

知恵のない私には、人のご縁を通じてしか知りえることができない。

感謝の言葉を並べることは出来ますが、それは望まれていないことでしょう。

先生のお姿を思い返すたびに、お念仏でかえさせていただくだけ。

 

南無阿弥陀仏

 

 

 

 

 


大事な人ほどすぐそばにいる

2011-09-20 18:31:05 | 真宗

3日間、華光会の聞法旅行に行って来ました。

今年は親鸞聖人大遠忌750年ということで、聖人ゆかりの地「越後」へ。

 

最近、いろんな方がこのブログを見てくださっているので、一度「浄土真宗」「親鸞聖人」ということについてもお話したいですね。

でも、いまそれやると話がすすまないんで、今回はパス。

 

この越後御旧跡巡拝だけでいろんな話題が書けるのですが、今日は軽く宴会の話題。

 

普通の旅行でしたら宴会と聞けば飲んで歌っておしゃべりして…を想像しますが、華光の聞法旅行はちと違う。

それぞれに趣向を凝らして、味わい深い「仏法」味あふれる芸を披露してくださる。

(そのために、観光や温泉そっちのけで悩む人もちらほら…)

 

以前は司会や進行などの役割が多かったんであまり表舞台に出ることはなかったけど、しばらく聞法旅行を休んでいるうちに後進が続々育ってるので、そのあたりはお任せしてのんびり観賞。

ただ見てるだけもさびしいので、ちょっと歌で参加しようと…というか、出発前から”歌うならこれ”と決めていたものがあった。

カラオケで歌うのも味気ない、というか、オリジナルのテンポは速いんで、ゆっくりとゴスペル・アカペラ風の味付けで。

思惑は、皆さんにコーラスで参加してもらおうと最初に指導したけど、ちょっと平均年齢が高く、洋風のノリはつらかったようで…手拍子だけで参加してもらった。

 

 

この歌は、あるテレビ番組で企画ものとして聞いたときに、メロディと歌詞が心に残った。

この歌詞そのままで、弥陀の大悲心が感じられそうで。

ということでちょっと紹介。

 

1番は省略して2番の歌詞。

 

  あなたは気付く 二人は歩く暗い道でも日々照らす月

  握りしめた手 離すことなく 思いは強く 永遠誓う

  永遠の淵 きっと僕は言う 思い変わらず同じ言葉を

  それでも足りず 涙に変わり 喜びになり

  言葉にできず ただ抱きしめる ただ抱きしめる


  ほら あなたにとって 大事な人ほど すぐそばにいるの

  ただ あなたにだけ届いて欲しい 響け恋の歌

  ほら ほら ほら 響け恋の歌

   (作詞 Kiyosaku Uezu )

 

つかず離れず、決して見捨てないぞとの、かならず救うぞとの誓い。

 

  ただ あなたにだけ届いて欲しい 響け南無の声

  ほら ほら ほら 響け南無の声

 

 

まぁ、一発歌っただけでは歌詞は十分伝わらなかったと思うんで、ブログで紹介ということで。

 

オリジナルは「モンゴル800」というバンドで、かなりはやいテンポのバージョン。

私が聞いたのは、小田和正が毎年やってるイベントのなかで、この作者の「キヨサク」をすごい面々がコーラス参加して歌ったバージョン。

「YouTube」見てたらアップされてたんでリンク貼っておきます。

小さな恋の歌

(こういうコーラス目指してました)

 

 

 

 

 


思い込み・誤解・想像・創造

2011-09-17 00:05:00 | 日常雑感

ちょっと我が身の周辺で揉め事が起こった。

その出来事の内容を書くつもりはないし、ヒントになるようなことも書かないが、その出来事をめぐる周辺の動きでいろいろ感じることがある。

 

揉め事はひとりでは出来ないので、最低1対の当事者がいる。

最初からその場面に遭遇していれば事実を知ることも出来るだろうが、たいていは後から話を聞くことになる。

それもどちらか一方の視点の話だ。

 

そこに嘘や誤解も含まれることが多いとは思うが、発信者は嘘をつこうとも間違った情報を流そうとも思っていないんだろう(そういう場合もないとはいえないが)

 

だれでも、自分の考えを最初から”否定される”ために発信することはない。

話し相手に味方になってほしいから話するのだと思う。

そうするとそこに”自分に有利”言い回しになる。

さらには思い込みや願望も加わる。

 

それが今度は回りまわって相手の耳に入ると、その思い込みや願望が”嘘”をついていると映る。

「むこうは嘘をついている」ということが発信されると、今度は最初の事実まで”嘘”と第三者に伝わってしまう。

 

これでは話はこじれるだけで、”相手が悪い”という感情論が先頭に立って、最初の出来事どころじゃなくなってくる。

 

ネットなんかで”炎上”といわれるのもこういう流れだろう。

 

 

また、その周辺の出来事というのは、当事者がいないところでも起こる。

いわゆる”噂話”だ。

 

 

もちろん、何もないところに噂は生まれないので、なんらかの”タネ”があるのはある。

しかし、そのことの中身を”想像”し”創造”し、第三者が発信する。

それを聴いた別の人は、その”想像・創造”が事実だと思い、さらに”感想”を交えて別の人に伝わっていく。

しまいにはその”感想”も事実憎みこまれてしまう。

 

 

噂の攻撃対象になる人には、少なくともひとりにはそう誤解されるだけの普段の言動があるのかも知れない。

しかし、その対象の人が今回はまったく被害者であっても「普段ああだから、こっちの人が原因じゃないの」と噂されてしまう。

事情により、当事者が口をつぐんでいるときほど、周りの噂は”事実”にされてしまう。

 

タイミングを逃すと、本来の弁明であっても「本当かしら」といぶかしむ目で見られてしまう。

 

 

 

こうやって、気楽な第三者が「傷つけている」ことがあることを忘れないでほしい。

セカンドレイプってのは、結構身の回りでおこっているのだ。

 

 

想像・思い込みは、してしまうのだから仕方ない。

それを責めようとは思わない。

だからせめて、「これは私が想像してるんだけど」と話の責任を自分で負ってほしい。

 

問題解決は、ちゃんと当事者がするのだから、回りのものが想像で判決を下す必要はない。

 

 

以前も似たようなことを書いてるのでよければこちらも…

「噂の真相」

 


安全ボランティア

2011-09-16 16:20:19 | PTA

うちの子が通う学校では、登下校時にボランティアさんが通学路の横断歩道数箇所に立って、児童の誘導をしてくださっている。

 

このうちのおひとりが、近日引越しをされるというので、来週の20日でボランティアを退役される。

 

今朝、感謝とお礼を込めて、PTAの方からお花を贈呈させてもらった。

 

雨の日も風の日も、かんかん照りの日も、大変お世話になった。

 

ほかの方も交えて、少しの間お話を聞かせてもらう時間が持てた。

毎日、児童に声をかけ、子どもらのちょっとした話を聞いておられる。

もしかしたら、実の親より毎日の子どもの様子を知っているかも知れない。

 

私自身、夜勤の帰りに、登校時間終了直後の学校前を通るが、「○○ちゃんがまだ来てないんですよ」と、待って下さっていることがたびたびあった。

誰がすでに通って、誰がまだか、把握されてるのだ。

 

そういう子らが中学になり、高校生になっても通りすがりには声をかけておられる。

 

あたりまえのように自分のことを知ってくれている大人がいることを、このボランティアさんが引越ししていなくなったときに気づくんだろう。

 

 

「毎日が楽しみで、子どもらの声を聞くことで元気をもらってました」

そういってくださった。

 

「引越し先でも行為活動してるんでしょうかね?もうおばあちゃんだから駄目って言われるかな」

とちょっとさびしそうにされていた。

 

 

この引越し退役の話を聞いたときに、校長先生にお願いして児童の感謝の言葉を用意してもらうことになった。

今日のお別れには間に合わなかったが、後日届けてくださるそうだ。

 

 

このボランティアさんのほかに、PTAでも毎日数箇所で旗振り当番をしている。

一応、輪番制だが、各家庭の事情もあり、強制という形には行かない。

今回おひとり退役されるが、すぐに誰かかわりが見つかるということでもないらしい。

 

子どもの安全のために、「当たり前」と思っていたことが、実は「在り難い」ご苦労によって守られていたことを改めて感じた。

 

今年度中に、この「安心安全の取り組み」もいろいろ話し合って整備する必要がありそうだ。

 

私としては、簡単に「PTAで受け持ちましょう」といってしまいたいところだが、そうも行かないので、じっくりと意見に耳を傾けながら…


発達障害についての学び

2011-09-10 21:33:44 | PTA

昨日は「はぐくみ委員会」の学習会でした。

「はぐくみ委員」は各学校に設定されているのですが、我が校では役員の中から役割のひとつのして担当者を決めます。

 

そして、毎年テーマを決めて継続的に学習をしていかれるのですが、今年は「発達障害」についての学びがテーマになります。

 

発達障害については、専門的な知識を学んだことはないのですが、カウンセリングや相談を受けていく家庭で、この問題に直面している方のお話を聞く機会は多くありました。

また、自分の子どもに関しても、その兆候は見受けられるので遠い話ではありません。

 

 

今回は大阪教育大学名誉教授の竹田先生のお話を聞かせてもらいました。

普段は、教育現場の先生方や、これから教員になろうという学生に向けて話されていることが中心のレジュメでしたが、PTA対象ということで発達障害についての認識と、教育現場にどういうことが望まれるかと言うことを中心に抜粋して話してくださいます。

 

大学の先生がまとめて1時間半に納まりきらない話を、知識のない私がブログにまとめても意味がない(というか、まとめるの無理でしょう)ので、興味のある部分を中心に。

 

 

まず、発達障害の様々な兆候を「特性」と言う言葉で示してくださいました。

病気であったり、身体的な欠陥と最初から決め付けるのではなく、表に表れているひとつの「特性」

これは私自身も、いろいろ不安に思われている保護者の方に似たようなことをお伝えしています。

 

算数の得意な子、国語の得意な子、運動が得意な子、絵を描くのが得意な子、友達作りが得意な子

がいれば、

算数の苦手な子、国語の苦手な子、運動が苦手な子、絵を描くのが苦手な子、友達作りが苦手な子

にいますよね。

たまには全部得意だったり、全部苦手だったり。

自分の子どものある部分が「劣ってるんじゃないか」と悩んでいる親御さんに、このことをお伝えします。

みんながおんなじような成長に仕方はしませんから、それぞれの「特性」があるんですね。

 

発達障害の兆候でよく気にされるのが「人の話を聞かない」とか「じっとしていない」とかいうことがあります。

今回の講演会で最初にこのことをわかりやすく教えてくださいました。

 

「皆さんこちらを向いて」と先生が言います。

ほとんどはその言葉に先生のほうを向くのですが、向かない子がいる。

家庭でもそういうことはあるでしょうが、たいていは「言う事を聞かない」と困り、しかってしまうことでしょう。

でもまず、どうして反応しないのかを理解する必要があると言うことです。


1.先生の話を聞いていない(不注意)

2.言われている意味がわからない(理解力)

3.指示が聞こえていない(聴力)

4.指示はわかっているが優先順位が分からない

 

理解力によっては「皆さん」というのが自分のことかどうか理解できないこともあるでしょう。

聴力に問題がないはずという、こちらの思い込みで相手が思い通りにならないこともあるでしょう。

中には、「先生のほうを向く」ことをしないといけないのは聞こえてるし理解もしているけれど「目の前に虫が歩いているので、それがどこに行くのか確認しないとほかのことが出来ない」という考えに捉われている子もいる…そんなこと想像できたでしょうか?

 

これは笑い話でもなんでもなく、そういう思考の人は確かにいます。

天才といわれる人のエピソードでも良く聞きます。

 

それは思考力がないのでも、知識が劣っているのでもなく、思考の特性が多くの”一般”とは違うだけなんですね。

 

社会的に普通に過ごしている人でも、ある点についてはほかとは違った特性を持つ人もいます。

そういう例もいくつか話してくださったんですが、自分の子どもに思い当たる節があります。

 

私の息子にいつも「ごみはすぐにゴミ箱に入れておきなさい」と教えています。

あるとき、ごみが床に落ちていたので注意しました。

「ぼくはちゃんとゴミ箱に入れた」と言い張ります。

ふと見ると、ゴミ箱はほかのものの上に乗っかって横に向いています。

これではそこに入れてもこぼれるはずです。

それは”私の常識”です。

息子にとっては「ごみはゴミ箱に」という指示にしっかり従っている…間違ってないんです。

その後こぼれようがどうしようが、ゴミ箱に入れるというレベルでは従っている。

 

「お風呂見てきて」 → 「見てきた」

お湯がいっぱいなってるかどうかではなく、お風呂という場所を見に行った。

「お茶碗洗っといて」 → 「洗ったよ」

おなべやコップは洗わず、お茶碗だけを洗ってあった。

 

笑い話で使われますが、本人はいたってまじめで、ちゃんと要望にこたえているのです。

間違えてはいないんです。

 

じゃあ、こちらはどう対応すれば良いか。

そういう特性のある人もいるということを理解し、受容して

「分かってくれているはず」というこちらの物差しを横に置いて

丁寧に伝える

ということが出来るなんじゃないでしょうか。

 

先生のお話を、そのことを教育現場で行うことの大事さと困難さもお話してくださいましたが。

 

ほかにも具体的な奨励のお話がいっぱいあったんですが、このペースだと書ききれるわけがないですね。

 

もうひとつだけ先生が強調してくださっていたことは

育て方・環境で発達障害が起こるのではない

ということ。

 

これは主に周りの人が保護者に対して

「あなたの育てかたが悪い」

という風に責めてしなうことに対す大事な点です。

 

一番悩んでいる親御さんを周りが責めることで、なにか変化があるのでしょうか?

そのことで対応できなくなれば、ますます否定される本人が不登校や引きこもりを起こしてしまいます。

 

この辺は、以前「地域サポータ要請講座」でニート問題を学んだときにも教えてもらっていた部分です。

理解がないことが、別の方向に追い詰めていくことになります。

 

逆に、発達障害の兆候がある人でも、その特性が障害にならない分野で普通に仕事をし、時には一般人以上の活躍を見せています。

 

ちょっと尻すぼみになりましたが、かなり刺激を受けてる私がいるということは事実です。

 

 

さらには、今回の話を聞き、先生が話された応対のしかたの部分で、カウンセリングの学びが生きてくる気がします。

 

こちらのものさしで図ったり創造したりするのではない、相手を尊重した「聞き方」「伝え方」ということが、発達障害の特性を持つ子どもとの関わり方につながっていきます。

この辺を、しばらく念頭に置いてカウンセリングの学びと実践をしていきたいですね。

 

 

今回の講師の竹田先生のお話を寸劇で教えてくださるものがYouTubeにアップされています。

http://www.youtube.com/watch?v=e7J91vsNtgk

良ければごらんください。


小P理事会に参加して   新たな出会い

2011-09-09 17:46:53 | PTA

気がつけば九月です。


学校が始まり、PTAの活動も動き出してきました。

同時に、真宗カウンセリング研究会の「50周年交流会」や華光会の「親鸞聖人750大遠忌」のイベント準備も平行して活発化してます。

(身体ひとつで同時に請け負ったのは間違いですね)


夏休み前から準備していたことなんですが、私が所属している「小学校PTA南支部」での各校会長間の連絡を密にするために、メーリングリストを立ち上げることにしました。

夏休み中に、校長先生とも打ち合わせしていたのですが、さすがに勝手にスターとさせるわけに行かず、まずは南支部の「校長会」で確認を取ってからということに。

ということで、スターとが9月にずれ込んだんですが、ちょっと登録の動きが遅いようです。


今週の水曜日に、小P連の理事会があったので、それまでに各校からの声を集められればと思っていましたが、間に合わない結果に。

まぁ、次回の理事会までに動けば良いなと思っています。


で、その水曜日の理事会、5回目になるのですがまたもや刺激を受ける集まりになりました。

先月末の土日に、広島で「全国PTA大会」が行われ、その報告があったのですが、参加者の生の声がとても熱いものでした。

来年度が京都でその大会があるので、そのPRと視察を兼ねているのですが、その運営はもちろん「おもてなし」の心を大いに感じたという声です。

別に比べたり、敵対意識を持つのじゃないんですが、「自分たちも十分なおもてなしの心で、全国のPTA会員をお迎えしたい」という熱。


その熱は、実際に体感した人と、参加できずにただ報告を受けている人とでは、当然同じものにはなりません。

しかし、ただ出来事や話題を伝える報告よりも、その体感したことを”感動”として伝えてもらうことで、「この方は熱を感じた」という事実がストレートに伝わってきます。

その熱を感じることが出来なかったけれど、来年にそういう”感動”を一人でも多く持ち帰って報告してもらうお手伝いが出来ればなと。

そんなことを感じさせてもらいました。


今回は、理事会後に懇親会が設けられ、2次会含めて日付が変わるまで…

これがまた楽しかった。

(後半はアルコール浸けで、内容の記憶が定かじゃないんですが)


今年、PTA会長となることで、謙遜して「いやぁたいしたことしてないですよ」と言いつつも、じつはいろいろがんばっている自分のつもりで居ました。

しかし、そうやってがんばってるのは私だけじゃない。

子どもに対する思い、児童に対する思い、地域やつながりについての思い。

取り組みは違えど、様々な実現例が目の前に横たわっています。

わたしなど、狭い範囲でやっとよちよち歩きしてる程度です。


そんないろんな取り組みの”熱”を持っている人が集まっている。

単純な私が、その熱にほだされれないわけがありません。



あまり欲張って、足元の自分の学校や地域をおろそかにすることは出来ませんが、ちょっと感じている壁・殻を越えてみたい種火を点けてもらったきがします。

そのひとつが、最初に話題にしたメーリングリストを実用レベルまで動かしだして、できるだけ多くの”熱”を支部レベルでも伝えていくこと。

また、PTA役員は単年の活動になるので、継続的に動いていける地域での「おやじの会」などを活用していく準備を始めること。


理想は、すでにある地域のネットワークを活用するのがいいのでしょうが、そこには枠・殻が存在し、若造の言葉ではなかなか動かない気がします。

いや、そういうネットワークの責任も一緒に背負い込んだら発言力は増すかもしれませんが。


ちょっと卑怯な言い方かもしれませんが、PTA活動やおやじの会だと「子どものために」という足元の共通条件がありますから、動きの方向性がつけやすい気がします。

いや、実際、「子どものため」には、どういう親で居られるかと言うのはとても大きな問題です。

これは、様々な出会いの下で「自己を見つめる」ということが切り離せません。


そこに、「真宗」と「カウンセリング」と「PTA」を経験し動いている私にか出来ない視点があるような気がします。


ちょうど、今日の午前はPTAの「はぐくみ委員会」による学習会があり参加してきました。

(このことも大いに刺激受けてるので後述したいです)

この後は南支部の「コーラス大会」にむけての会議に、会長として挨拶する機会をもらい参加しに行きます。


刺激や熱を伝えてもらう場があり、私が感じたものを伝える場がある。


今年のはぐくみ委員会の活動テーマは 「伝える うけとめる ひろげる」です。

実は、以前の理事会で私が「伝える」と言うことに対して発言したことを受けて「うけとめる」と言う要素を追加してくださったそうです。

一方的な「伝える」から、相手が受け止めたことをじっくり確認していくための「受けとめる」を通じて「伝わる」へ。

双方向のゆっくりとした関わりを通じて、「伝える」「伝わる」が実践できれば、私が今年九条塔南小学校PTA会長、南P会長、小P理事として”居る”意味が生まれるのかもしれません。


と、かなり自己中心のブログエントリーになっちゃいましたが、自分自身への記録として。