コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

DPAということ、非構成エンカウターグループということ ~DPA研究会ワークショップに参加させていただいて

2012-05-20 17:07:33 | エンカウンターグループ

DPA研究会のワークショップ「非構成エンカウンターグループ」に参加してきました。
DPAとは「Dharma-based Person-centered Approach =仏法を根底にした人間尊重のアプローチ」ということで、カウンセリングの要となる「PCA Person-centered Approach」の関わりに、そこに居る一人一人が仏法によりつながっていることを大事にする場だと認識しています。
これは真宗カウンセリング研究会でも共通のことですね。

今回、DPA研究会さんでエンカウンターグループを立案された際に、ファシリテーターとして声をかけていただきました。
私自身はDPA研究会に所属していないのですが「外部の方の方が良い」ということで声をかけたいただいたようです。
そして、真宗カウンセリング研究会の方でDPAの理念は私なりに実践していますので、そう遠い人間でもないようでした。

普段世話人しているワークショップやグループは、その役割上参加者を把握していますが、今回は一部FB上で参加表明されている方以外は当日まで誰が来るか知らないままでした。

このPCA・「人間尊重のアプローチ」ということを考えたとき、その人の経歴・立場・思想・興味などは事前に知る必要はなく、今目の前に居るその人の「ありのままの姿」と触れ合うことが大事だと考えています。
もちろん、触れ合っていく中でその方の「持ちもの」は言動の中に現れてきますし、表に出てきた「今の姿」であるならば、その方がのぞむ「こう見て欲しい」という立場や状況なども受けとめさえてもらいます。

逆に、よく知っている方が参加されているとき、ある程度「知っている」ことがありますし、それを無いものとして関わるのは無理があります。
「その方を知っている私」というのは、その時点での「ありのままの私」ですから。
ただそのことを、当人が言葉にしないのに「この方はこういう経歴で」と私が代弁することは必要ありません。
他の参加者が、今目の前で触れる「その方の姿」であればいいのです。

そこに「Dharma-based =仏法を根底にした」が加わるとどうなるのか。
残念ながら提唱された西光先生にこのことを聞かせてもらう機会がありませんでした。
なので、法座や真宗カウンセリングで西光先生と触れ合ったところから感じている、高橋我流の考えだという前提で。
真宗カウンセリングだからとか、Dharma-basedだからということで、「仏法」「真宗」の話をしないといけないということはありません。
ただ、一緒に語り合っている中で、そのお一人お一人が根底に持っている「法との関わり」は放っておいてもにじみ出てきます。
それは真宗に限らず、いろいろな形で現れます。
「法座」となると、そこに「導き」というものも入ってくるかもしれませんが、一人一人のパーソンを大事にする場とすると、そこに「否定・批判」はなく、「あなたはそう受け取っているのですね」と受けとめあいます。
また、その方がまったく仏法にかかわりが無くとも、そこに居られること、ご縁があって同じ時間と場を共有していることだけで、私には「根底に流れる仏法でつながっている」と感じられます。
私にとっての仏縁ですね。
(それがキリスト教などであっても、私の仏法に刺激を与えてくだされば、私にとっての仏縁ですから)


次に「非構成エンカウンターグループ」という要素があります。
学術的に学んでいないので申し訳ないのですが、実践してきた中で私なりの「非構成エンカウンターグループ」感というものがあります。
聞くところによると、始まりも終わりもまったく「構成されない」ものもあるようです。
私はグループで場を共有するので、ちょっとした導入の区切りや、希望があれば自己紹介などガあっても良いと思ってます。
そして始まってしまえば、話題や進み方、姿勢や態度には縛りが無く「今あなたが話したいことを話ししたいように」と尊重することだけ大事にします。
複数の方がご一緒するので、話題についていけなかったり、気持ちが乗らなかったりすることもあるでしょう。
ただ、「今発言している」方を一番に大事にしたいことだけを芯にすえ、あとは流れに乗っていない思いでも出していける場を作ることを意識しています。

よく、参加する方が「自由にと言われると難しい」とおっしゃいます。
そのとおりだと思います。
ただ、その瞬間の「ありのままの私」が許されていることだけ感じていただければいいのかなと思っています。

そんな「非構成エンカウンターグループ」のファシリテーターはとても難しいものだと思っています。
「自由にしてくださってOKです」といいますが、放ったらかしにしているのはファシリテーターじゃありません。
いちいち言動を確認して交通整理するのも(そういうのもあるのでしょうが)違う感じがします。
もちろん、参加者ひとりひとりの安全を守るのは最低限の仕事ですが、「何が起こっても大丈夫」というところは誰よりも私自身が心得ておくべきことですね。
「放りっぱなしではないが、干渉はしない」というスタンス、それを無理して役割とするのではなく、そうあっても大丈夫な私で居ること。
これは今後も学びと実践の中で経験していくことだと思ってます。


と、昨日のワークショップだけでこれだけいろんなことを振り返れました。
当然、ワークでの話題の中身もいろいろありましたが、それはここで私が触れることではないですのでね。

DPA研究会に興味を持たれた方はこちらへ。
「DPA研究会」 


エンカウンターグループ 第9・10回、打ち上げ

2010-12-21 18:03:54 | エンカウンターグループ

今年も残すところ後10日。
今日、娘の中学校が「終業式で明日からお休み」と聞いたことで、ますます押し迫った感じに襲われた。

今年に入って、仕事の面で多少変化があった。
そのことで、圧倒的に影響を受けたのがブログを書く時間。
このブログもそうだし、もう1つやってる音楽ブログなんかもっと顕著だ。
音楽ブログの中心はその日に聞いた音楽のレビューなんだけれど、ゆっくり音楽を聴きながらレビューを打ち込んでる時間がない。

と、相変わらず、ことあるごとに言い訳じみてるよなぁと。
そんな状況の中でも、人との出会いなど心潤される出来事(まれに煩わされることも)には満ち溢れている。
そう、ただ時間に追われて心を無くしていることはなく、それなりに活きている感じだ。


ブログでは報告が遅れているが、エンカウンターグループが全10回を終え、先週にはその打ち上げ会もあった。
10週にわたり、参加者が思いつくままに話題を振りまき、それぞれがそれぞれのところで刺激を受けて、それを言葉にしていく。
何気ない集まりでありながら、この”自由に”ということが守られていることはそうそうあるもんではないことを感じている。

自分の言いたいこと と 相手の言いたいこと
この双方を尊重すると言うことはとても難しい。
たいていの場合は、相手の言いたいことに刺激を受けた「自分の言いたいこと」を発言して、相手の話をとってしまう。
あるいは、相手を尊重すると言う名目の中で、「自分の言いたいこと」を押し殺してしまう。

それを、非構成的なグループの中で、唯一「尊重」というベーシックな約束によって自由に泳ぎまわることを許される。
その「尊重」の元になるのは、ファシリテーターに対する信頼であり、参加者各位への信頼である。

この参加者への信頼は、やはり最初から生まれているのではなく、繰り返し出会い、言葉を交わし、表情を垣間見ることで積み重ねられてきたもの。
私の場合は、おかげさまでこういう場を何度か経験させてもらっているから、比較的早くから”素”でいさせてもらえる。

変に思われたら変に思われたでいいし、否定的に取られたら否定的に取られても良い。
どう見られようと、その瞬間瞬間の私自身に他ならない。
なにより、仏法によって根ざされた「許されている」感覚に守られている。
「そのままの姿がお前の姿」

ここに、単なる人間的な関わりを超えた、「ダルマ・ベースド・パーソン・センタード・アプローチ」がある。


お酒を飲みながらの打ち上げの場でさえ、一人一人の姿、話題がいとおしくなる。
そんな素敵なメンバーに恵まれた、10週間だった。

 

年明けには、来年度の様々な研修会・ワークの予定を検討していく。
「ダルマ・ベースド・パーソン・センタード・アプローチ」に根ざした、真宗カウンセリングの歩みが、来年度には50年を迎える。

その歴史の長さや、参加者の多さが大事なんじゃない。
今、私がこの流れに乗らせてもらっていることが、何より大事なことだ。
いまここの私一人のために、50年の歳月がある。


エンカウンターグループ 第8回

2010-11-19 10:24:55 | エンカウンターグループ

週明けの(飛び石)連休に法座があるんで、今週はちょっと頑張って早めの更新。
ってことで、火曜日のエンカウンターグループも8回目になりました。

今回はちょっと真宗よりの2時間。
話題の流れが仏法に関わるものになりました。
お念仏の話題から、声明の実践があったり、儀礼の話題まで。
それらも、各自が自由に思い思いのところで話題に参加するもよししないもよし。
まさに、真宗カウンセリングのエンカウンターグループでしたね。

ちぇんとしたお作法にもしっかり意義があって、いくら「信心が大事で行はいらない」とはいえ、正しい姿勢・意識をおろそかにしていいものじゃない・・・。
というか、真実に至る道としては、心に響く感覚的なものから入っていく道もあるんですよね。

今回、お声明を学んでいる方が、流れの中で一節披露してくださったんですが、その声が耳ではなく頭骨に響いてきました。
それだけでもとても心地いいものです。
次に、その一節の言葉と意味を話してくださいました。
弥陀の心と、善導大師の心が、胸に響いてきました。

「あぁ、この声、きれいだな~」ってところから心を揺さぶられ、興味を持ち、その言葉を知ることになり、本願に触れていく…

法を求める人に合わせて、いろんな道があるはずです。
どんな形でも会わせていただける。
阿弥陀仏のほうの力は、あらゆる時間・場所・手段にあまねく働いていますもんね。
それをこちらが勝手に、これは合う合わないってごねてるだなぁって。


もうひとつ、話題の流れで、「宗教の言葉が誰でもわかるようにコンパクトになっていればいいのに」というものがありました。
うん、言葉を理解しようと思うと、結構難しいですね。
でも、それらのエッセンスが「南無阿弥陀仏」の六字になっているってことほどコンパクトなものはないなと。
ひとによっては「ナマンダ」だったり「ナーモー」だったり「マンマンチャンアン」だったりしますが、誰でも称えられるようになってる。
その意味が解ってない、伝わってない、と思うのは、私のほうの解りたいって欲の問題で、その一言がこの口から飛び出すってことは「お働き」が届いてることなんですよね。

じゃぁ、こどもや赤ん坊でも信心がいただけるのか?・・・なんてお尋ねを耳にすることもありますが、そんなことを確認することに意味があるとは思えないんですね。
この「わたし」にはどうなんだ?ってことが大事で、しのごの言ってないで一言称えさせてもらえばいいだけのことですね。

人の口からでてくる南無阿弥陀仏の音が届いて、心が震えるときに、そっとでもいいから私の口から称えさせてもらう。
そんな不思議なことはありませんから。

不思議ってのは思議を越えてるって事です。
この頭であれこれかんぐっても仕方ないってね。


次の日(水曜日)に月例会があったんだけど、私用でお休み。
今年度の論文輪読はいままで皆勤賞だったので、ちょっと残念。
いや、皆勤賞のことより、月に一度の素敵な時間を逃したのがね。


エンカウンターグループ 第7回

2010-11-16 16:09:28 | エンカウンターグループ

エンカウンターの7回目。
この日の昼間、仕事の関係で大阪に赴いていた。
たいていの仕事は車で行くけれど、大阪の中心部に行くときはよほど荷物がない限り電車を利用するほうが早くて便利だ。
で、MP3プレーヤーで音楽を聴きながら電車に揺られ、さらにはのんびり駅から目的地まで歩いていた。
木枯らしが吹きあらした日で、かなり寒くはあったけど、時間に余裕を持ってゆっくりと歩いた。

そこで聞いていた音楽が、この日のエンカウンターでの話題と私の中でリンクしていた。
いままで何度も聞いている詩だけど、イヤフォン越しに頭に響いて繰り返されたフレーズ。
Bump Of Chickenというアーチストの「Merry Christmas」と言う曲。


今夜こそ優しくなれないかな すべて受け止めて笑えないかな


私のほうは「優しくなりたい」という望み(欲)を持ってる。
そして普通はそこに「優しくして欲しい」という望み(欲)も一緒に持ってる。
だから、そのとおりされないとき、優しくされないときに、困ってしまい、戸惑ってしまい、時には怒ってしまう。
それはこちらの欲の心が満たされないと言う私側の問題なのに、思い通りしてくれない相手のせいにしてしまう。

そこを、相手がどのような反応をしようと、それを相手のそのままの姿として受け止める。
それがこちらの望むものでなくても、「あなたはそうなんだ」と受け止めて笑っていられたら…
「あなたはそれでOKですよ」と受け入れることが出来たなら。

カウンセリングで目指している、来談者中心のマインドは、こちらの思惑とは関係ないところで、相手の自由な思考・発言を妨げないことから始まる。
こちらの思惑とリンクして、感情が乱されることなく、「すべて受け止めて」いられること。

エンカウンターの場で、カウンセリングの話と、すべて受け止める阿弥陀様の話をしていたことで、この日にこの詩から感じた思いがずっとあふれて来て、頭の中で今フレーズが何度も繰り返された。

残念ながら、話題の展開が濃すぎて、この気持ちは表明できないまま時間を迎えた。
でも、自分のなかでそっと暖めておくだけでも十分だったし、そういう自分を受け入れることが出来る。

後半にはこう詩われている。

許せずにいる事 解らない事 認めたくない事 話せない事
今夜こそ優しくなれないかな すべて受け止めて笑えないかな
誰にも優しく出来ないかな あなたと楽しく笑えないかな

この曲を聴いてみたい方は下のリンクを(Youtubeです)

http://www.youtube.com/watch?v=QJaareN2z00


エンカウンターグループ 第5・6回

2010-11-08 23:10:45 | エンカウンターグループ

エンカウンターも折り返しを過ぎ、第5回・第6回をレポートしないまま明日はもう第7回目。

第5回目は全員参加だったけど、第6回目は3人お休みでちょっと寂しい感じ。
でも、ここ数回エンカウンターでの裏テーマ(というか、私にとってのテーマだけど)である関係っていうところで、そこに不在の人であっても存在を感じたりしている。

それは以前書いた第4回目の話題で、私の祖母が老いと衰弱のため、周囲と人間的なコミュニケーションを取れていないことを書いたが、そのときの流れで「私に何らかの思いを抱かせているってことで、祖母と私に関係が築かれている」と言う思い。
それがさらに深まって、休んでいる人であっても、その方に関わる(あるいは印象がつながる)話題が出たときに、その方のことを思い出すことがある。
そこに居なくとも、私の中にその人の存在が”話題”として感じられる。
私の思考に影響を与える存在として、私との関係が生まれている。

さらに突き詰めると、無機物であっても、私の思考に影響を与えるものがある。
例えば湯飲み茶碗が目前にあり、それが視覚を通じて意識した瞬間に、私が思考すると言う関係が生まれる。
そこに湯飲み茶碗がなければ、意識することはないのだから。

これは不思議なもので、時には視覚に入っていても”意識”しないものもある。
道を歩いていて、その周囲にあるものすべてを意識してはいない。
視覚に入っていても、意識せず通り過ぎる情報のなんと多いことか。


このことを逆に考えると、心を落ち着けて、ゆっくり内省することで、いままで意識できていなかったものを意識化することが出来ると言うことでもある。
これはカウンセリングの学びのなかで、とても大事なことだと思う。


あるときはそれは感情だったりする。
誰か(何か)に影響を受けて感情が動かされる。
しかし、すぐに思考のブロックで、損得などを判断して感情を押し殺すことがある。
社会での関わり、人間関係などではとても多いことだ。
逆に、そういう損得(配慮)なしで、思ったことを思ったまま伝えることは乱暴だとされる。
まぁ、意識化することと、なんでも口に出すこととは大きな違いはあるのだが。

そういう押し殺して、心の奥に追いやり、ふたをしてしまった”感情”が溜まりに溜まって、ストレスになったり欝になったりしてしまう。
なにも感情を爆発させろと言いたいのではない。
そういう感情が”ある”ってことを、ゆっくり受け止める時間が大事だと言うことが言いたい。


私がカウンセリングで学んでいる傾聴には、自分自身で思ったことを自由に言葉にしていくことで(そのためには安心して話せる環境が必要だが)自分で奥底の感情に気づいていくことが出来る、ゆっくりゆったりしたものがある。
先日の二日間のワークショップでもそれは感じたし、毎週のエンカウターグループでもそれは感じることが出来る。

そういう時間があるのとないのとでは、私にとっては大きな違いがある。


エンカウンターグループ 第4回

2010-10-21 16:05:25 | エンカウンターグループ
今週はエンカウンター、月例会と真カ研の行事が立て続け。
来週はと予定表に目をやると、エンカウンター(火)、ミニカン継続学習会(木)、ワークショップ(土・日)とさらに目白押し。
合間に面談や電話相談やメールでの相談など、なにかとカウンセリングについて味わうというか、身をゆだねると言うか、そういう流れに乗ってますね。

で、いろいろ書きたいことはあるのですが、まずは先日のエンカウンターグループのことを。

早いものでもう第4回となりました。

ゆったりとした流れの中で、それぞれが語る話に興味を惹かれたり、刺激を受けたり。
そうこうしているうちに、私の中でここ数週間くすぶっているある思いが膨らんできて、言葉にしたくなっていました。


私の祖母が3ヶ月前に入院したのですが、もう90を越える年齢なので見るたびに弱ってきているのがわかります。
3ヶ月前までは、耳こそ遠くなり、足腰が弱って歩くことが困難になってはいましたが、食べることは大好きで、ボーっとしながらもテレビを見たりしていました。
それが、食べることに意欲を示さなくなり、栄養・体力が不足していると言うので入院と言うことになりました。
おかげでと言うか、病院ですから点滴や流動などで栄養を取ることは出来、そういう意味での危険は回避されたのですが、ずっとベッドに寝たきりの生活は歩く意欲を奪い、食事をする意欲を奪い、徐々に周りへの反応も薄れてきました。

何度か見舞いにも行きますが、時々息を荒げたり、逆に静かにしていることが多く、耳元での呼びかけに反応はするものの、理解しているかどうかはどんどん怪しくなってきます。
そんな状況に対して、「認めたくない」と言う自分が居ることを味わうことがあり、先日の学習会などでもそのことは言葉にしていました。


今回のエンカウンターグループでの話題の流れで、「関係性を持つことが”生”ということだ」(うろ覚えなので正確な言葉ではありませんが)という言葉が話題になりました。
その言葉を聴いたときに、どんどん社会との、家族との、生活との関係が薄れて、ただ寝ているだけの状態になっている祖母にとって、今の状態を”生”と言えるのかどうか…という思いが、影のように現れ、やがて膨れ上がってきました。

私は漫画もけっこう好きなんですが、そういえば最近は「仁」や「ブラックジャックによろしく」とか、昔読んで本棚の片隅に追いやられていた「一生」など、医療にかかわる問題を扱ったものを無意識に選んで読んでいた気がします。
そういうものを読んだときに感じていたものも、影のひとつだったんでしょう。

エンカウンターグループではうまく言葉に出来なかったとは思いますが、特に結果も求めず、心の動くままに言葉にしてみました。
それだけでも一段落ではあるんですが、参加者のお一人が反応してくださった言葉に心が動かされました。

「そうやって、何かを考えさせるのも、おばあさんとあなたの”関係性”ではないんですか?」(これも正確な言葉はうろ覚えです)

一般的な生活と言う意味では、周囲との関係を持つことが出来なくなってきている祖母ですが、私や家族に「思わせる」というところで、関係が働いています。
よく「思い出の中に生きている」という言葉で、親しい人への損失感を慰める言葉がありますが、そういうものとはちょっと違います。

もちろん、私のためだけに祖母が存在して関係を持ってくれているなんて言うのは、とても驕った考え方なんですが、事実として私にとってのすべての関係性は(好む好まざるにかかわらず)縁として、私のために在り続けます。
一方ではそういった意味で。
他方では、やっぱり肌のぬくもりも感じ、時は荒く時には穏やかなその息遣いでもって、”生”を見せつける、生身の、私にとって大事な大事なおばあちゃんとして、そこに居てくれる。
そこにしっかりと関係がつながって居ることを、改めて気付かせてもらえました。

最近、祖母をなくされた方は、「うらやましい」と言ってくださいました。
生活との関係が薄れてきている祖母でも、まだそこに居てくれること。

今日は、夜の予定が何もないので、病院に会いに行こうと思ってます。


私にとってありのままで居られるエンカウンターグループで、自由にさせてもらったことで大きな気付きがありました。
皆様に感謝です。





エンカウンターグループ 第3回

2010-10-19 18:03:00 | エンカウンターグループ
相変わらず更新が遅いのですが…
先週の火曜日に第3回のエンカウンターグループがありました。

この日もいろいろな話題が数珠繋ぎのようにあふれかえってましたね。

その中でも印象的なのは…というか、私が感じたことでもあるのですが、週に1回、ほんの2時間だけでも「自分を飾らずに、ありのままでいてもいい」時間があるってことは、とても大事なことだなと。

私自身の中にある大きな要素として「他人に良く見られたい」という欲があります。
実際、こうしてブログで書いている文章でも、「できるだけ訂正なしで思いつくままつれづれに」とは思いつつ、どこかで読む人を意識して、あるときは言葉を濁したり、あるときは摩り替えたりしてしまいます。
特に家族の話や、特定の人物の話になると、腹底の言葉をそのまま使うことに躊躇してしまいます。
というか、そういう話題は触れない様にしているとおもいます。

また、「良く見られたい」と言う思いには、「自分をわかって欲しい」と言うものもくっついてきます。
だから、どんどん言葉が多くなって、誤解されないように神経を注ぎだします。
実際は、言葉が多くなればなるほど、自分のシンプルな芯からそれて行くんですが。


それに対して、このエンカウンターグループの2時間は、他人に向けて話をしだすことから始めながらも、その実は自分自身を見つめていく時間に他ありません。
他人の言葉から刺激を受けてうごめきだす自分自身の思い…それを言葉にしていくことで、自分でもおぼろげだった自分自身に触れることができる。
時には怖くなってそれ以上触れることを拒むこともあるけれど、今触れないだけで、そこに”居る”ことを確認する作業。

周りの人にどのように見られようと、事実としてある”自分自身”だから、(多少は飾るだろうけど)ごまかす必要がない関係性。


別の集まりで感じたことでもありますが(後日書こうと思います)、そういう”場”を作ることで、あるいは出来ることで、そこに居る一人一人、パーソンが勝手に動き出して深まりあうことが出来ます。
それは、誰かが先に”場”を作るってことだけじゃなく、そこに居る人が”場”を作りだし深まっていく。
世話人が最初に意識することは当然必要だろうけど、コントロールするんじゃなくて、その空気感に触れて出来上がっていくものだと思う。

卵が先か鶏が先かではないけれど、どちらかが先に必要な条件じゃなくて、まさに深まっていく感じ。
そこに居るパーソンが、重なり合って、交じり合って、場が作られていく。

トランスパーソナルということを深く勉強したことはないのですが、言葉のイメージから行くと今実感していることが、そのことからそう遠くはないんじゃないかなと…(学術的なところが弱いよなぁ…)
また、パーソンセンターということでは、まさに今体感しているものがそうだよなと。

今日はこれから第4回の集まりがありますので、今はこれまでにして、身を投じてこようと思います。

エンカウンターグループ 第2回 の話題からインスパイヤされて

2010-10-09 22:59:20 | エンカウンターグループ
今週も火曜日にエンカウンターグループがありました。

初めて顔をあわせたメンバーなのに、第一回目から一体に深まっていく感じがありましたが、今週も自由に話題が流れて行き、誰かの話題に感化されて別の話題を思い起こす…それを話したくなった今の自分に素直にしたがって話し出す…そんな展開が随所に見られました。

あまりに話題が進みすぎて、ちょっということをためらっていると話題が変わっていることもあるくらい。
でも、話せなかったことが悔やまれることはなく、その流れでは話さないことを選択したのが自分だと言うことに思い至り、そういう縁だったんだなと自然に思えてきます。

そういう話さなかったことのひとつに、以前にあったPTAの会議で出た話題からずっと心に残っている思いが刺激されたものがあります。

エンカウンターグループで出た話題自体は、直接的にこの話題にかかわるものではなかったんですが、刺激されて私の中で熟成されてくる思いとでもいいましょうか。

人というのはまったく同じものではなく、それぞれに差異があります。
そういう差異を認めないことから差別と言うことが起こってきます。
とても悲しいことです。
そこで、そういう差別をなくしていこうという考え方がいろいろと出てきます。
その多くは、差異を問題にしない世の中にして行こうという動きじゃないでしょうか。

それは、その差異の原因になっているものを、変えていこうとするもの。
差異のある人も、多くの人と同じように過ごせるようにしていく。
バリアフリーなんてのもそうですよね。
それはすごく大事なことだと思います。

しかし一方で、「他の人と同じように…」と言う考え方の中には、「今の差異があるままでは駄目なんじゃない?」っていうものが潜んでいる気がします。

私は差異があっても良いと思っています。
ここは間違えて欲しくないのですが、差別が良いというのじゃなく、差異があっても、今そこに居るそのままが「今・ここ・わたし」だと認めていく考え方です。



ちょっと話題がそれますが、見ていたテレビ番組で調子を崩して休んでいるタレント仲間を励ます流れの番組がありました。
仲間の応援…
とても心強いものでしょう。
でも(天邪鬼な)私は、素直に気持ちが入っていきません。
そこに「調子を崩して休んでいる」ことを”良し”としない思いを受け取ってしまいんです。
競争の激しいタレント業界で一生懸命頑張って成功してきた人ですから、頑張れるなら黙って頑張ってるでしょう。
でもそれができなくなったから「休む」という選択をしていると思います。
頑張れない人に「頑張れ」と迫る。
私なら耐えられません。
もちろん、そういう激励をきっかけに動ける人も居るのでしょうが。

動けないときは、動けない「今・ここ・わたし」を認めていく。
差異があっても、自分の理想形じゃなくても、無理のない「今・ここ・わたし」


まぁ、こう言いながらも普段は差異を認めない言動をしている私だという自覚もありますので、その辺はまた書けるときに書いてみたいと思います。

エンカウンターグループ 第1回

2010-09-30 18:00:24 | エンカウンターグループ
世話役としては初めて参加するエンカウンターグループが始まりました。

しばらくエンカウンターはお休みしてたのですが、どのくらい休んでいたか…あんまりそういう日にちだとか期間だとかを覚えられない私が居ます。
というか、あんまり覚えようともしてないし、そういう意味では無頓着。
「いつに何があった」ということよりも「今・ここ」を大事にしているんだな、と。(というかっこいい理由にしときましょう)

といいつつ、ブログの古い記事を読めばそういう昔のことがわかります。エンカウンターのカテゴリーを作ってるんで、それでみると2006年が最後の参加。
2007年に”いろいろあって”不参加にしたっていう記録がありました。
ある意味、まだ3年しかたってないのかっていう感じが強いですね。


さて、今回は1週間前になってやっと開催の最低人数が集まりました。
その後からの参加申し込みもあったので、結局6名の参加。
世話役3人が加わって、9名の開催です。


1回目の顔合わせってこともあって、静かな展開ではあったんですが、ひとつのささいな話題について、9人それぞれの考え方をゆっくり聞きあう時間がいきなり持てたことに、ある意味驚きを、ある意味当然な思いを、感じましたね。

この9人が顔をあわせるのは初めてだけど、それぞれにカウンセリングというものを何らかの形で経験されている方々。
安心できる場がしっかりと形成されていた感じです。


流れの中の話題で、Aさんの発言を通じて大いに刺激される私も居ました。

その中の私が言葉に残しておきたい部分は、先々週の月例会から流れのある話題なんで、そのことを記事にするときにまとめようと思います。

ただ、今回感じたのは、その月例会で私が感じたことを、先日の「学習会」で話題に、それを聞いていたAさんが今回の話題にされ、再び私の中で明確化されてきたというもの。

おそらく、私一人ではここまで深まり、明確化されることはなかったでしょう。
まさにエンカウンターです。

これからの10週間、とても楽しみです。

エンカウンターを感じる法座

2008-08-15 01:36:02 | エンカウンターグループ

仕事は夏期休暇に入っています。
例年お盆は連れ合いの実家寺に行くのですが、そこから富山で行われた「太子講」という法要と、同時開催の北陸支部の法座に参加してきました。

仏法という点で、とてもいい法座だったですし、M先生のご法話もすばらしかったです。

その一方で、私が参加した座談会が良かったですね。
どう良かったかというと、グループとして動きがあり、いろんな側面から声が飛ぶことで、煮詰まりそうになる人が思いもよらぬ形で動き出すという…言葉だけじゃわかりませんね。

私の感覚としては、エンカウンター・グループを感じていましたし、その底には間違いなく法という共通意識が(法座ですから当然ですが)あり、しかもそれぞれの尊重があったということでしょうか。

偶然、ご一緒した方の中にすでに9月のワークショップを申し込まれている方もお二人いましたし、今月末の東京のワークショップに参加する方もいました。

私自身が感じている、真宗とカウンセリングの流れを感じるお座でしたね。

東京も京都も、まだ参加申し込みOKです。
みなさま、いかがですか?

東京ワークショップ

京都ワークショップ