コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

足元を見つめる出会い

2010-04-29 17:36:08 | 真宗
先週の土曜日、一月前に逝去した叔父の納骨に参列した。
高橋の家は代々浄土宗(らしい)
大谷本廟から国道の高架を挟んで南側にある、尼寺が墓所。
子どものころから何度も墓参りには来ている。
もっとも、そのころは宗派なんぞ気にせず(というか知らないし)ただ足がしびれるかどうかだけが気がかりな時間だった。

先月、逝去の後の法事で久々にこの寺を訪れ、浄土宗のお勤めに触れた。
知らないお経も多かったが、「仏説阿弥陀経」は耳なじみだし、「重誓偈」は一緒に声に出せる。
あと間に何度も十念のお勧めがあり、十声の念仏を称えさせてもらう。
周りの親戚方はなかなか声に出すのは恥ずかしいようだが、お念仏はほっといても大きい声で称えさせてもらえるし、堂々とお念仏させてもらえる環境はとても気持ちがいい。

翌日の日曜日にはPTAのパトロールで神社を回った。
地域のお祭りで、子どもの同級生らは法被を着て参加したりみこしを担いだりもしている。
うちの子には参加させないが、縁日として遊びに行くのはやぶさかじゃない。

10年以上前に、ネット上で論戦を繰り広げたことがあった。
浄土真宗というくくりの中で、「自分のこととしての聴聞」を大事にするものや、「教団の改革が先」だという人たちとのやり取りが中心だったが、その中に「浄土真宗であること」をことさら大事にする方が居られた。
その思いは理解も出来るのだが、「浄土真宗以外に触れることすら駄目」だと相手を否定・攻撃する人だった。

確かに、自らの足元、信じるものをハッキリさせずに、あちこちに気持ちが揺らいでいるならばお叱りを受けることもあろう。
しかし、自分の信がハッキリしていれば、逆に他の宗派などに触れることで、なおさら自分の信じさせてもらっているものがハッキリしてくる。

念仏行を大事にする場所でお念仏をすればするほど、ただの行ではなく、そこに回向される信心がありがたくなってくる。
強制される、あるいは奮い立って称える念仏ではなく、縁に触れて湧き上がってくる念仏。

今の自分、環境を変えたくて、ひたすら神にすがる光景に触れれば触れるほど、誰も変わることの出来ない「自業自得」が知れてくる。
もちろん、頼りたくなる気持ちもあるし、そういう人たちの気持ちも理解できる。
ただ神頼みでは自らの罪悪の行き場はごまかされてしまうだけだ。

そういう他の考え方を批判したり責めたりするのではなく、それらを縁に自分自身を問題にする。
他を責めているうちは自分の問題にならないんじゃないだろうか。

クリスチャンじゃないのに、クリスマスに浮かれる私。
現人神は認めないというのに、その祝日の恩恵にはあずかる私。
神を崇めないのに、神社の縁日を楽しむ私。
そんな輩だからこそ、南無阿弥陀仏のおいわれをしっかり聞く。

もちろん私には浄土真宗を通じて気付かせていただいた世界がすべてだ。
しかし、それは浄土真宗がえらいのではなく、阿弥陀仏の願力がえらいのだ。


打ち込んでいて思ったが、「縁日」って漢字で書くと深いなぁ…。

日曜礼拝4月 はなまつり

2010-04-27 05:01:31 | 真宗

日曜日は華光日曜礼拝の「はなまつり」

花御堂もお飾りをされ、お釈迦様に甘茶をかけてみんなでお祝い。
子どもたちによる献灯・献花・献灯のあと散華、おつとめをして、ちかいの言葉。
早めに集まった子どもたちが、何度も何度も練習して行う。

うちの子は二人の息子が「献灯」と「ちかいの言葉」担当だ。

ご法話は本職M先生。
花祭りの「花」と華光の「華」を通じて、「泥中の白蓮華」である仏様の「おこころ」
そして、「こころ」はどこにあるのかというお話。

4月は学生が卒業・就職したり、帰省や職場の変化などでボランティアの先生が入れ替わる時期でもある。
今年も数名の移動があったため、私も子どもの分級のお手伝いに。
園児と小学1・2年生の組を受け持った。
まぁ、この年代は静かに話を聞かせるまでが9割の仕事。
ばらばらに好き勝手するのが当たり前で、1箇所に集めるとちょっかいの出し合い。
当然その辺は織り込み済みで、どなって静かにさせるなんて野暮なことはしない。
こういうときはまず大声を出させる。
その代わり静かにすることもさせる。
具体的には、先生が手を上げてるときは「好きに叫んでよし」、先生が手を下げたら「その場で静かにする」
つまり、ゲームにしてしまう。
これで、声を「出すとき」と「出さないとき」を作ってやる。
で、何度か遊んだ後、「静かにした状態」のときに話しかける。

まぁ敵もさる者で、何度かやってるうちに飽きてしまうし、効力が無くなる。
そうしたら今度は手を水平にしたときは「声は出さずにスローモーションで先生に近づいてくる」なんて新しいルールも加えて、新鮮さを(少しでも)出す。

まぁ、そんなこんなで何回かに分けて自己紹介を交えて「どんなお話だった?」ということを全員に確認。
「忘れた」や「わからん」っていうのも多いけど、「おしゃかさまのおはなし」「こころのおはなし」などとキーワードにふれてくれる子らもしっかりいる。
ご法話の中の「宿題」でもある「こころはどこにある」「どんな感じ」「色で表すなら」ということも試してみるが、反応するのは一部の子。
みんなが遊ぶ中、一部の子でもこうやって先生の話が響いているのがすごいことだ。
「赤」「肌色」「ぴんく」と最初はあったかい色。
「悲しいときも同じ?」とたずねると
「青」「水色」「透明」と答えが返ってくる。
単純にハートのイメージで赤系の色を答えてるだけじゃなく、変化を感じているのは「見つめている」作業をしてるんだろうなぁ。

これを読んでるみなさんもぜひ、いま「心はどこにある?」「どんな感じ?」っていう自分の感覚にたずねる作業をしてみて欲しい。

おやつの時間まで先生役をして、大人の分級座談へ参加。
しかし、途中から入って流れに乗っかる前に、「特別ライブ」のお誘い。
こっちも楽しみだったので、分級座談は中断してライブ見学。

ライブ後再び分級座談に戻ったが、ある方のライブ評によって気分は最悪。
確かに音楽には好みがあるし、「自分の好みじゃない」ということを表明するのは自由だけど、自分の好み以外を否定して「駄目」と相手を攻撃することは「自由にしていい」ことじゃない。
ましてや「ここは自分の思いを自由に言っていい場所でしょ」と本気か皮肉か分からないけど、自分本位の「自由」を振りかざされると「安全な場」を目指しているものが崩されてしまう。

と、実はこの時点で私自身が「自分の求めてる価値」を基準にして、それに沿わない人に「困って」しまっている。
「困っている」ところまでは私の感覚だし、それを表明すればよかったんだろうけど、気持ちはその人を「攻撃」「排除」に向かってしまっていた。
なんのことはない、「気分を害した」感情に巻き込まれて、同じことをしているのだ。

いやぁ、ころころと変わる「こころ」に出会い、そんなドロドロのところに真っ白な華を咲かせてもらえる、そんなことにあらためて出会わせてもらえました。

「はなまつり」のことはかりもん氏もブログにされてますのでどーぞ。
花御堂の前で「ちかいのことば」を読んでる、腕だけ映ってるのが我が息子です。


授業参観日をめぐる雑感

2010-04-25 03:36:06 | 親子コミュニケーション・Light
金曜日は小学校の授業参観日でした。
午前にはPTAの役員会、午後には学級委員選挙の開票と、お手伝いも盛りだくさんだし、PTA役員になったことで今まではスルーあるいは連れ合いに任せていた学級懇談会にも顔を出してみました。

おかげで、いろんなことを思わせてもらえます。

授業参観をして、上の子の4年生のクラスはずいぶんおとなしくなった印象があります。
まぁ、ちらちらと横や後ろの親を探して見るのは相変わらずですが、そこそこ静かに授業を受けてます。
もう4年生にもなり落ち着いてきていることと、先生がちょっと厳しい感じがあるからかな。

下の子の2年生のクラスは、昨年はまだまだ1年生成り立てで、授業参観にもなれてなく、かなり緊張した感じだったのが、2年生になり学校にもなれ(舐め?)先生が話しているときは前を向くものの、各自で考える時間なるととたんに横や後ろをむいておしゃべり。
まぁ、内容は「自分は分かった。お前は?」ってな感じで授業に関することなんでまぁいいのですが、当然それだけで終わらず「お前のかあちゃん来てるぞ」「あのおっさんは誰?」ってな話題も当然花盛り。
参観日以外はそんな話題もする必要は無いでしょうけどね。

で、私としてはその後の懇談会がなかなか考えさせられるものがありましたね。
一通り先生から報告や方針の説明があったあと、参加した保護者に「おうちでの様子を教えてもらったり、ご質問があれば」と順番に話して行きます。
そのなかで漢字の学習方法について話題になりました。

主旨としては「昨年までと漢字学習のやり方が変わったので、子どもが戸惑っている」というものです。
私としては先生ごとに個性や方針があるだろうし、学習要綱の最低限があればいいんじゃないの?って感じでしたが。
ところが、何人かの方が同じことを話題にされます。

PTA役員会での話題でもあったのですが、この「今までと変わる」ということが気になる人が多いんでしょうね。
まぁ振り返れば私も「今までがんばってきた」ということが変えられると「私のやってきたことって…」とショックを受けたり面白くなかったりします。
で、お母さん方もおそらく「今までと変わると”わたし”が困る」ということがあると思うのですが(当然、子どもの戸惑いもあるでしょうが、子どもが戸惑って親が困るんですね)伝え方が「今までと変えて欲しくない、同じにして欲しい」という”要求”になるものですから、ちょっと緊張した場になってきます。

先生としては「こういう理由でこういう方法を取っています」と説明もあるのですが、「今までと同じに」という大前提が先にあるとその言葉もなかなか届かないようです。
で、一旦先生も要求を受け取るのですが、「私も困っている」と後から順番がくるお母さんも同じ話題になります。

こういう懇談会ですから仕方ないんですが、先生が一人で振り、一人で受ける「1対多」のしかも司会的役割なしですから、上手く回らないんでしょうね。
(私も「でしゃばったらまずい」と隅っこでおとなしくする性質なもんで…)
また、表面上は「学習方法」という手段についてやり取りしていますから、「困ってる」という気持ちを確認して受け取る手順が抜けます。
そうするとその手段という要求が呑まれるまで満足できないんでしょうね。
気持ちを受け取ることが出来れば、手段については「考慮します」でいけるかもしれません。

まぁ、気持ちのところでしっかりと受け止めるコミュニケーションをするには、感情を整理する第三者が間に入るか、あるいはじっくり時間をかけて「気持ちを表明しても大丈夫」という場が熟成されるまでの関係をつくるかでしょうね。
というか、そういうことがとても大切なんだと。

今回の懇談会で、先生の方針として一番に「話の聞ける子になってほしい」ということをあげてくださってました。
もちろん、「学習の基本としてまず話を聞かなければすすまない」ということもあるでしょう。
それもこみで、「話を聞く」ことを大事にしている私としては、当たり前のようなこのこともしっかりと言葉にして下さったことがうれしかったですね。


先生もおかあさんも、「子どもを大事に」ってところで一致はしているはずです。
まだまだ関係が始まって1ヶ月。
双方、「こうあってほしい」という要求は多々あるでしょうが、押し付け合いじゃなく、「じゃあどうしようか」という方向で関係が深まっていけばいいなと思ってます。

PTA役員のほうも、まだあまりでしゃばることは出来ないと思ってますが、今までの流れは受け止めながら、その是非だけにとらわれるんじゃなくて「じゃあどうしようか」という方向に向けていけてる気がしてます。

今年、PTA役員になったという”流れ”は、こういうことの渦中に関わっていく”流れ”なのかな、と少し感じてきました。

明日は日曜礼拝。
今年PTA役員をご一緒させてもらってるお母さんがたと、この日曜礼拝でもすでにご縁があったことが分かりました。
こんなちょっとしたことで、関係が深まった気がするのも面白いことです。

物事にはいろんな側面がある

2010-04-23 00:05:03 | 親子コミュニケーション・Light
今年は雨の日が多いような気がします。
毎週木曜は息子らがお習字を習いに行っているのですが、今日は雨の中歩いて行く事になります。
そんなときの次男(小学校2年生)との会話で、ハッと気付かされたことがあります。

私「また雨やなぁ」
息子「雨やなぁ」
私「雨が多いといややなぁ」
息子「でもみかんの木とかは喜んでるしなぁ」

ひとつの出来事を、どうしても自分中心に考えて、自分の損得・善し悪しで判断してしまいがちです。
でも、あるものには損なことでも、その出来事がないと困る側もあるわけです。

普通に通勤する人は雨じゃないほうがいいんですが、作物を作っている人には雨も必要です。
傘屋さんなんかは雨がないと困りますしね。

さらには、そんな人間の損得を超えた、自然の営みもあります。

息子相手に、折にふれてそういうことを教えてきたつもりです。
そのことが刻み込まれていたのでしょう。
しかし、教えた側はもう損得に取り込まれてしまってます。

今日は息子に教えられました。

真カ研月例会 4月

2010-04-22 10:03:47 | 真宗カウンセリング

4月の月例会は総会。
昨年度の事業報告や本年度の事業計画、決算報告や予算案報告、おおむね「総会」というのはそういう流れで運営の現状や予定を話し合うものである。
しかし、良いのか悪いのかはわからんが、そういう報告をきっかけに、「真宗」「カウンセリング」「真宗カウンセリング」に関して、各自が問いかけられる場になり、語り合うことでお互いの「歴史・経験」を通じての「いま・ここ」を見詰め合う”場”になっていく。

考えてみたら、報告議題が全部終わらずに時間切れとなるなんて、「総会」としては問題があるかもしれない。
しかし、満足度は十分ある。

参加した行事の報告を通じて、いろいろな思いがよみがえってくるし、ワークショップや学習を重ねたことで成長(でありたいと思ってる)や変化を感じる。
自分の内部だけで熟成されている「真宗カウンセリング」を、報告するために言葉にする作業で(うまく言葉に出来ないもどかしさもあるが)再確認する。

質問に答えていく中で「法座」や「エンカウンターグループ」との比較を意識し、故西光先生が図式化された「世間の関わり」「法の上にたった出世間の関わり」の差異が明らかにされてくる。
いや、私が明確な意識化、言語化が出来ていなかった部分を、すでにしっかりと教えてくださっていた。
かりもん氏のブログにも話題にされています)

自分の立ち位置というところではハッキリするが、それを説明するのは難しい。
つくづく、学術的に整理する能力に欠けていると痛感する。
良い言い方をすれば「現場主義」となるのだが、これだけ手間をかけてもらって”素人”ってのも…ねぇ。

といいつつ、「自分はこれでいい」って思いもあったりする。
今から理論を学んでいる人と同じになる必要もないし、完璧になりたいと言う欲も無い。
もちろん、出来る人に対して”嫉妬心”はいつも絶えないが。

真宗カウンセリングを研究するのではなく、真宗カウンセリングを体感した「わたし」として、その時々の関わりをしていく…なんとなく、そういうイメージは出来上がっていたりする。

もちろん、その「真宗カウンセリングとはなにか?」と言う部分にゴールは無く、学びと実践で体感していくだけだ。
学術的に後進に引き継いでいくと言う大事な役割もあるのだろうが、それは他の方に任せて、私は姿を見ていってもらうしかないかな、と。

もし、こういう(甘えた?)考え方じゃ駄目だとお叱りもあるかもしれないし、そういう要請があればそのときに動くかもしれないけど、こんなやつもいてもいいんじゃないかな。

(だって、みんな賢くて…って言う感覚があるのは卑屈ってことかな)

と、だいぶ話題がそれてきたけど、総会を通じていろんな味わいがありましたってことで。

こうやって書き込んでみて、卑屈って言葉がいろんな面でいまのわたしにぴったりくるなぁ。


京都支部学習会 4月

2010-04-18 23:35:19 | 「聞き方・伝え方」学習会
土曜日は京都支部学習会「聞き方・伝え方の学び」
先週参加した伝道研究会で聞いた話や、最近の関心事から、この日の学習会を楽しみにしていた。
参加者は9名。
初めての方から、久しぶりの方、レギュラーの方など様々。

いつもどおり2分間の黙想。
初めての方も居られるので、外から聞こえる音と、身体の内から現れるメッセージを意識してみることを先に説明して行う。
そして感じたことの分かち合い。

今回はミニカン実践の前に、少し試してみたいと思っていたことを。
ある「お題」をだして、そこから感じることを紙に書いてもらい、あとで皆で分かち合うという作業。
このワークをやってみたいと思ったのは、法座などで「どんな感じがしていますか?」などとたずねたときに、「わからない」「何も無い」と言う反応が増えてきていると言う話から。
私としては「何も感じていない」ということは無いんじゃないかと思っていて、感じていることを言葉にすることに抵抗があったり、相手に気に入られる答えじゃないからと否定したりしてるんじゃないかな、と思ったりしている。
なので、感じたことを言葉にしてみる練習って出来ないかなと。

そこで、まずは答えやすい「お題」を。
その中身は、また別に機会に行うかもしれないんで内緒にしておくけど、まぁ出るは出るは、その人の個性が現れるものから意外なものまで。

ここで大事なのは、どんな「感じ」があったとしても、それを批判したり詮索したりしないこと。
だから、ひとつのことに対して「白」と感じる人もあれば「黒」と感じる人がいてもOK。
さらに、他の人が表明してから「わたしもその感じがある」と後乗りもOK。
「似てるけどちょっと違う」というものも、独立したものとして拾い上げていく。
それらを黒板に書いていく。
「いろいろあるなぁ」という声が聞こえてくる。

そう、「いろいろある」んだけど、それをなかなか表明できない。
その場に「操作的なもの」があったり「抑圧的なもの」があったりすると、それにそぐわないものは他の誰でもない「この私」がまず否定して、「これは表明したらだめ」と決め付けてしまう。
だから、楽に、自由に、それぞれの感じたことを出してもらえたのはとてもうれしかった。

二つ目の「お題」はちょっと深いものに。
でも、一つ目で「なんでも表明しても大丈夫」という空気を皆が作ってくれたので、こちらも結構いろいろ。
「いつもの法座だったらまず言えないだろうなぁ」なんて声もきこえることも出てくる。

いやぁ、やっぱりみんないろいろ「感じ」を持ってるんだなぁ、と。
それを「出すと駄目かな」とさせるものがある「場」もある。

ちょっとそのことを確認させてもらった気がした。

そのあとで、3人組に分かれて、いつもの「聞き手・話し手・傍観者」にわかれて10分の実践。
初参加の方の組に入らせてもらって、私も参加。

ちょっとは「聞いてもらうことで、勝手に話していく」と言う感じを味わえてもらえたようで、ほっとした感じも。

その後、実践の分かち合いも兼ねて自由な座談に。

最初のワークが思いのほか盛り上がったんで、座談の時間が少なくなったけど、とても充実した学習会に。
参加の皆さんがどのような感じを持ったか、それこそ様々だろうし、様々でOK。
私はうれしかったってことで。

来月は、久々に日曜日に開催。
23日(日)
ぜひ、お試しを。

抱える 放す

2010-04-15 09:35:01 | 親子コミュニケーション・Light
息子の学校でPTA役員になり、いろいろな作業のお手伝いにいっています。
いやぁ、みなさん大変なお仕事を裏方としてがんばっておられます。

作業をしながら、それぞれの子育ての話が聞けたりします。
同じ年代の子どもを育てる人たちの話が聞けるのはとても楽しいですね。

おそらくPTAの役員をされる方々は、ほとんどはそれまでされていた旧役員さんたちとつながりがあって、誘われたり頼まれたりして活動されていると思います。
つながりがある…結局的に活動される…
そういう人たちは自分の抱えてる疑問や問題を、小出しにしながら放せる。
つながりがあると聞いてくれる人がいるんですよね。

一方で、目の前にある名簿を見ていると小さな学校でも多くの子どもがいる…ということは子育てしてる親がいるんですね。
今日は学級委員選挙の名簿作成でしたが、やはりこのご時世働いている親が多く、学校の役はなるべく当たりたくないという思いがあるようです。
そうやって忙しくされていると、他の親とのつながりも少なくなったりする。
小出しにすれば軽くなる問題も、一人で抱え込むと重くなってくるでしょう。

まだ新米役員なんで、まずは必要な役割をこなすのが前提ですが、カウンセリングを学んで、いろいろと受けることが出来るようになってきた今、この役割を引き受けるという”流れ”に乗って、何か出来ることは無いかなと思ってます。

おりしも、連日のように「虐待」のニュースが飛び込んできます。
ほんとうか嘘か分かりませんが、みな「虐待してはいない」と言います。
そんな気持ちが無くても、虐待と言う行為をしてしまっているのならば…
抱えているものを放すことで、何かが変わってくると思います。

社会問題の解決なんて大それたことは出来ませんが、縁あって出会った目の前のお一人お一人くらいなら、思いを話す…重いを放す…そのお手伝いは出来るかなと。


今日も明日も ありがとう

2010-04-13 03:43:32 | 親子コミュニケーション・Light
バスを降りるとき、子どもが運転手に一言「ありがとう」と言って降りる。
病院などで診察を終えるときに先生に「ありがとうございました」と一言。
何気ない風景だけど、大事なことだと思う。

お客さんと接する仕事をしていると、こちら側が「ありがとうございました」というのは、「利用してくださってありがとう」ということで当たり前かもしれない。
しかしお客さんのほうから「ありがとう」と一言いってもらうとき、とてもいい気分になる。

子どもらと食事に行ったときなど、持って来てくれた店員に「ありがとう」と言うようにする。
子どももあたりまえのように「ありがとう」と言うようになる。
こちらから「ありがとうと言いなさい」と押し付けるのじゃなくて、常に言っていれば子どもも自然と言うのが当たり前だと。

普段から言う癖をつけないとなかなか口から飛び出さないが、ちょっと慣れると簡単に言える言葉。
もちろん、感謝の気持ちが加われば一番だが、まずは言ったとき、言われたときの心地よさを味わうことからでも。

ありがとう…

響きも良いとおもいません?

蛇足:タイトルにメロディが浮かんだ方は私と同年代以上かな(笑)

ウグイスの学び

2010-04-11 22:17:15 | 親子コミュニケーション・Light

先日、京都東山の将軍塚というところに車で出かけ、そこの駐車場に車を停めて、少し山の中を歩きました。
その日は天気がよく、山の自然も輝いて見えます。

喧騒からはなれた山の中では、はやくもウグイスの声が聞こえます。
ホーッ ケキョ
ケケキョ

私のイメージしてる「ホーッ ホケキョ」とは少し違います。

まだ子どものウグイスは正式(?)な鳴き方を知りません。
じゃあ自然にどのウグイスも「ホーッ ホケキョ」と鳴くようになるのか。
違いますよね。

親や先輩が「ホーッ ホケキョ」と鳴くのをまねして、いつしか鳴けるようになるそうです。

よく、子どもの言葉遣いなどを心配されている親御さんの話を聞きます。
そういう子どもたちは誰に習ったのか…
もちろん、テレビや友達の影響もあるでしょう。
しかし、一番身近な手本は他にあります。

親が使わない言葉遣いを、子どもに強要しても出来ないですよね。
気になったなら、まずわが身を振り返る。
そして、見本を示してあげられればいいですよね。


花祭り と 本願寺

2010-04-09 16:46:52 | 真宗

昨日4月8日は花祭り。
毎年、どんなことを書いてたかなと過去のブログを振り返ると…2年連続で入学式に絡んでたことが分かる。
(こういうとき、ブログって便利ですね)

そこでも書いてたけど、単に「お釈迦様の誕生をお祝いする」というよりも、お釈迦様がお生まれにならなかったら、私がこの迷いから離れることは出来ようも無かったという事実に打ち震えるばかりだ。

お釈迦様がお生まれになったことは、天の諸仏もお喜びになったという。
人間の世界に、仏のお心を伝えてくれる存在が生まれたのだから。

ということで、本願寺にでもお参りして、灌仏しようかと思っていたら新聞で次のような記事を見つけた

西本願寺飛雲閣を9日特別公開
(Webの記事をリンクしておく)

「花祭りじゃなくなるけど、せっかくなんで行くなら9日にしよう」
と思い、仕事なんかもうまく調整できたので出かけてきた。
思い立ったら、自転車で15分も走れば行けるというのはありがたい話だ。

久々の本願寺参拝。
思ったより人手は少ない。
きっと明日からの週末には多くの参拝・観光があるかもしれない。

で、入り口に向かったら「写真撮影お断り」の無粋な張り紙が。
入り口の案内係(黄色のジャンバーは無粋だなぁ…やっぱ黒衣を着ててくれないと)のお姉さんにここからならいいですか?と確認して、入り口の外から雰囲気だけでも。

二つの戸をくぐって庭園へ。
最初は茶室っぽい建物があって、そこから水路に沿って庭園へ。
でも通路以外は柵で区切って入れない。
要は通路沿いに歩いて景色を見るだけで、飛雲閣の中には入れない。
庭園と外観を楽しむだけ。
でも、普段は見れ無いと思うとちょっとお得な気が。

人でも少ないから、のんびりと散策の感じで池と建物を眺める。
写真が取れたらなぁ…
ということで、本願寺のページをリンクするのでその写真でご勘弁を。

外に出てから、ちょっとでもと思い、いくつかのスポットで撮影。
(塀の外からだから、公開してないときでも見える範囲で)


修復なった御影堂


普段は閉ざされた飛雲閣への入り口(右端に無粋な張り紙が)


外に出て、鐘付き堂から覗く飛雲閣


上の写真からズームで。2層目の襖絵もちらりと。


白い壁の向こうには素敵な庭園が…なのにねぇ。


御影堂縁側から望む飛雲閣


さらに縁側の端まで移動して。下が庭園出口


同じ位置からズームで

この飛雲閣で、誰が何をしてたかは知らないんだけどね。
まぁ、本願寺自体、親鸞聖人がここにいたわけでもなく、伽藍でしかないし。
ただ、御影堂や阿弥陀堂にお参りして、そこでお念仏させてもらう「わたし」が問題なだけ。

でも、あれだけの伽藍の中で、声にしてお念仏してたの私ともう一人くらい…。
衣着てる人も何人かいたんだけどねぇ…。
まぁ、周りがどうあれ、お念仏したいときに堂々とさせていただきますけどね。
他人のことや組織のことなど、私にはどうしようもないしね。


おまけ:御影堂のついで(?)にきれいになってた志納所
懇志が多く集まったからきれいにしたのか、多く集めるためにきれいにしたのか…
と、これ以上書いたらまずいかな。