高橋の家は代々浄土宗(らしい)
大谷本廟から国道の高架を挟んで南側にある、尼寺が墓所。
子どものころから何度も墓参りには来ている。
もっとも、そのころは宗派なんぞ気にせず(というか知らないし)ただ足がしびれるかどうかだけが気がかりな時間だった。
先月、逝去の後の法事で久々にこの寺を訪れ、浄土宗のお勤めに触れた。
知らないお経も多かったが、「仏説阿弥陀経」は耳なじみだし、「重誓偈」は一緒に声に出せる。
あと間に何度も十念のお勧めがあり、十声の念仏を称えさせてもらう。
周りの親戚方はなかなか声に出すのは恥ずかしいようだが、お念仏はほっといても大きい声で称えさせてもらえるし、堂々とお念仏させてもらえる環境はとても気持ちがいい。
翌日の日曜日にはPTAのパトロールで神社を回った。
地域のお祭りで、子どもの同級生らは法被を着て参加したりみこしを担いだりもしている。
うちの子には参加させないが、縁日として遊びに行くのはやぶさかじゃない。
10年以上前に、ネット上で論戦を繰り広げたことがあった。
浄土真宗というくくりの中で、「自分のこととしての聴聞」を大事にするものや、「教団の改革が先」だという人たちとのやり取りが中心だったが、その中に「浄土真宗であること」をことさら大事にする方が居られた。
その思いは理解も出来るのだが、「浄土真宗以外に触れることすら駄目」だと相手を否定・攻撃する人だった。
確かに、自らの足元、信じるものをハッキリさせずに、あちこちに気持ちが揺らいでいるならばお叱りを受けることもあろう。
しかし、自分の信がハッキリしていれば、逆に他の宗派などに触れることで、なおさら自分の信じさせてもらっているものがハッキリしてくる。
念仏行を大事にする場所でお念仏をすればするほど、ただの行ではなく、そこに回向される信心がありがたくなってくる。
強制される、あるいは奮い立って称える念仏ではなく、縁に触れて湧き上がってくる念仏。
今の自分、環境を変えたくて、ひたすら神にすがる光景に触れれば触れるほど、誰も変わることの出来ない「自業自得」が知れてくる。
もちろん、頼りたくなる気持ちもあるし、そういう人たちの気持ちも理解できる。
ただ神頼みでは自らの罪悪の行き場はごまかされてしまうだけだ。
そういう他の考え方を批判したり責めたりするのではなく、それらを縁に自分自身を問題にする。
他を責めているうちは自分の問題にならないんじゃないだろうか。
クリスチャンじゃないのに、クリスマスに浮かれる私。
現人神は認めないというのに、その祝日の恩恵にはあずかる私。
神を崇めないのに、神社の縁日を楽しむ私。
そんな輩だからこそ、南無阿弥陀仏のおいわれをしっかり聞く。
もちろん私には浄土真宗を通じて気付かせていただいた世界がすべてだ。
しかし、それは浄土真宗がえらいのではなく、阿弥陀仏の願力がえらいのだ。
打ち込んでいて思ったが、「縁日」って漢字で書くと深いなぁ…。