きっかけは妹の死
きっかけは妹の死
身体に起こっていることを言語化する
これって結構難しいものです
発達障がいの支援をしていたころ、傾聴の手法を教えることで、い発達障がいで困りを抱えている方は、「自分のことをわかってほしい」と思いながら、それが果たせずに戸惑っています
一番大きな問題は、聞き手側が「おそらくこういうことを言いたいんだろう」と慮って、話し手の言葉を最後まで聞かないこと
「一を聞いて十を知る」スキルのある人ほど、陥りやすいです
一方で伝える側も、その一をうまく伝えられない
それは、自分に起こっていることが「わかってもらえている」錯覚していることです
ここからは私の身体に起こっていることを一例に話します
私はもともと普通の「見えかた」をしていました
普通というのは、あくまで自己判断で、ほかの人が世界をどのように見ているかがわかりませんので、確かではありません
でも、自分の見え方を基準にするしかありません
そこそこ年齢を重ねてくると、乱視でものが2重3重に見えだしました
そのときは「最近ものが見えにくくなってきたな」という程度の知覚ですが、眼鏡を作ったらはっきりしました
かけているときとかけていない時で違いがあります
右が2重、左が3重
眼鏡をかけているときと外しているとき、それぞれの目だけで見ることでその違いが判りました
やがて、病気が進み、右目に異変が起こります
まっすくな線が歪んで見えます
モニターに四角形が映っているはずなのに台形に見えだします
そして、とうとう真ん中のほうが時には黒く、時には白くかすんで、片目だけでは見えているものを認識できません
こうなってはじめて、遠近感がうまく取れていないことに気づきます
そういえば、家族と行くUSJなんかの3Dアトラクションが、そんなに特別飛び出してくる感じがなかったのも、すでに両目の差があって本来の遠近感を錯視させる効果がなかったのかもしれません
と、つらつら書きましたが、私は元の状態と変わってしまった状態を段階的に経ているので、できなくなっていることを認知しています
これが生まれつき機能的に普通と違う人ならどうでしょう
今見えている状態がその人の「普通」であって、ほかの人ができることができなくても、自分の何かがおかしいとは気づけません
遠近っ感がとりづらく、鍵穴にすうっとカギが入れられないとか、少しの段差でけつまづくとか
それをおおくの「普通に見えている」人たちは
あなたはおかしい、どんくさい、いらいらする
などと責めてしまいます
「じつは左右の視力差があって、遠近感が苦手です」
と、自分に起こっていることを認知し、言語化して、他人に受容してもらえれば、少しは関係が変わるのですが
で、書き始めの発達障がいに戻りますが、こういうことが目の機能的なことで起こるのではなく、脳の働きによっておこります
言い換えると、機能的なことはメガネなどの補助具で修正できますが、脳の働きは修正できません(厳密にはいろんなホルモンや脳内物質の補助で改善するものもあるようです)
さらに、自分の中で起こっていることで、ほかの人とどう違うか認知できないし、言語化もできずに困ってしまいます
いや、困っていることもわかってもらえません
それに加えて、うまく伝えられないことで、聞く相手が途中で自己判断したり、想像で受け止めたりいしてしまう、最後まで話を聞かずに「普通じゃない」とレッテルを張ってしまう
そうされると、ますます閉じてしまうことになります
ここでは見え方を例にとりましたが、ほかにも聞こえ方であったり、行動の癖であったり、考え方の癖などがあります。
自分では普通にしてるのに、多数派の常識を基準に考えられてしまうので、発信することが抑えられてしまいます
そこで、この文章を目にとめた方、自分の「普通」が必ず
しも相手にとっても「普通」だと思うのではなく。また逆に「異常」だと思うのでもなく、「いろんな普通がある」ということを心にとめてください
また、できるだけ相手が「伝えたいことを伝えたいように」できるよう、傾聴ということを意識してみてください
いろいろ困っている方には、傾聴・カウンセリングを学ぶことで、自分の中に起こっていることを言語化する学び・訓練ができることをお知りおきください
私自身の体調のこともあって、大きなワークショップなどは開かないようになりましたが、私が学んできたことをお伝えすることはできるかもしれません
積極的には動きませんが。お手伝いできることがあれば
子どもらに仏法を聞いてもらいたい
その根本願望は、力が入っていた時も力が抜けた今も変わりません
私の願望は願望として
でも、それを「絶対」とはせず、子どもらは子どもらの「選び」として
とはいえ、ご縁はつけておきたいので、子どもらの名前を付けるときに思いっきり願いを込めています
子どもらの生まれたときは「絶対に聞かせよう」と思っていたから余計にこだわってますね
4人の子どもがいますが、すべてほとけさまの「おはたらき」を紡いでいます
一人目は「深法」
「みのり」と読みます
「法」というのはほとけさまの願いそのもの
ほとけさまの願いを「仏法」と呼び、願いを聞くことを「仏法を聞く」といいます
法だけのことを「御法」といい、「ごほう」あるいは「おみのり」
といいます
私がほとけさまの願いに出会わせていただいたのが浄土真宗で、その宗歌のはじまりが
「深きみのりに遇いまつる」
なので、その漢字をいただき、深い法で「深法」
二人目は「真実名」
「まみな」と読みます
「名」というのは名前、ここでは阿弥陀仏という名前のことです
この「阿弥陀仏」というのはただの呼び名ではなく、あるほとけさまが、すでにご自身は悟りを開いているのに、衆生を救うためにわざわざ仏の位を捨て修業しなおしてくださった、そしてこの私を救う手立てが出来上がったときに「阿弥陀仏と名乗る」と誓われた
つまり、その名乗りが「お救い」でありほとけさまのおはたらきそのものなのです
「称名」というのはそのお名前を称えさせていただくこと
先に書いた宗歌の中に「六字の”み名”をききひらき」とあります
なので「まことのみ名」なので「真実名」
よく「真美名」と間違えられますが、”真実”というところに意味があります
三人目は「光」
「こう」とよみます
ほとけさまは姿・形がありません
みなさんがよく知る姿は、拝みやすいように人間の形を模して表されたもの
(だから偶像崇拝だと批判する方もいます)
ではどういうものなのか…一番イメージしやすいのが”光”です
まぁ、これも人間の知覚に合わせたイメージですが、光り輝くものは神々しく感じる、崇高に感じる、そういうことですかね
そしてもうひとつ、”光”には、ほとけさまの「知恵」「慈しみ」「願い」という側面もあります
お経を和訳したもののひとつに
ひかりといのち きわもなき
とはじまるものがあります
光明無量 寿命無量
のことで、そのお知恵やお命に限りがないと讃えているものです
だから、いつでもだれでもどこでも「いまそこにあるまま救う」と誓ってくださっています
四人目は「聲」
「しょう」とよみます
残念ながら、この漢字は常用漢字ではないので、学校などは「声」にしています
最近では「聲の形」という漫画・アニメになったので、少しメジャーになった字ですね(その勢いで常用漢字化してほしいのですが)
聲というのはほとめさまの呼び声
お前を必ず救うぞ
という力強いお誓いのことです
名聲超十方
という言葉がありますが、その聲は十方を超えるというもの
十方は四方八方に上下を加えたあらゆる方角、いやさらには過去も未来も超えた「あまねくいまここ」
と、どの名前にもほとけさまそのもの、願いそのものがこめることができました
その想いを子どもらに知ってほしいという力みはやはりありますが、こちらからの押し付けでなく、いつか子どもらが自分から向き合ったときにきっかけ、機縁となれば
そのときに直接伝えられたらいいのですが、こうして記録しておくことで
まぁ遺言ですね
自分が出会いお聞かせに預かった「仏法」というもの
これをどう伝えていくか
この人生の半分以上をかけて模索してきた気がする
活力ある頃は「聞かせていただいたものを、次に伝えるのは当然のことだ」という半ば使命感のようなものでとらわれていた気がする
特に、我が子に対して「それが親の責務だ」と
そう思わされた根拠は「この”私”において」お聞かせにあずかったのは、先達たちが私に伝えずにおれないという思いをもって伝道してくださった事実があるから
もしその流れの誰かが「もう伝えるのをやめよう」と思っていたら、私への道は閉ざされていた
だから、私が止めるわけにはいかない、と
しかし、いつしかそれは相手に対しての押し付けの感情となり、「私が止めるわけにはいかない」という思いへの自己満足となっていることに気づいた
相手のための伝道ではない、自分のためのものだ
もちろん、そのことは私にとって意味がある
もう一方で、子どもへの執着という面もある
この子が私のことして生まれてきた”ご縁”は、仏法を聞くためだ、と
しかし、その思いも力が入りすぎていたように思う
親子といえど仏法の前では「個」だ
子どもの後生・迷いの世界の責任を親がとることはできない(もちろんその逆も)
独生独死
もしこのまま我が子が仏法と縁がなく、哀しむべきことになったとしても私はその責任をとれない
そして、私がその哀しい思いをする責任は子どものせいではなく、私が私の”業”によって、引き起こし、引き受けていかなければならないもの
仏法を聞かない子どもと縁があったのは、私のせいなのだ
もし、喜ばしいことに仏法に出会う子になってくれたとしたら、それは私の手柄ではなく、仏様の手柄だ
当然のことだろう
などということを最近漠然と考えていた
伝道を押し付けることはしないが、私の思いを残すことで、もし何かが生まれるのならば
そんなことを考えて、少しずつ記録しておこうかなとも思う
ちょっと思索にふけるまとまった時間をもらう環境になったので
でも、長時間のPC作業に目が耐えられないので、とぎれとぎれになるのはご容赦願いたい
(あと、誤字脱字や文章の区切りのおかしいのもご容赦を)