ちょっと時間があったので、思い立って彼岸花を見に行った。
昔から好きな花で、秋になれば仕事でわざわざ山道を選んで走り、道端の花をめでていたものだ。
最近、歳を取ったか(体調不安もあるだろう)ふとした時に「懐かしいあの風景をもう一度見たい」という衝動に駆られる。
さて、この写真、皆さんにはどう写っているだろうか?
私の記憶の中の彼岸花は、「毒々しいほど鮮やかな赤」である。
今回見て回った花たち、遠くから眺めると鮮やかな色合いなのだが、近づくとなにかイメージと違う。
”淡い”のだ…
私の脳裏に残る記憶と、いま脳が認識しているものに違いがある。
まぁ、分析するならば、ここ1年で視力の問題が大幅に悪化した。
特に濃淡認識の衰えはきつく、パソコンも白画面に細い黒文字では読めず、黒背景に白文字にしてなんとか付き合っている。
プラモデルを作るにも、小さな文字の解説は全く読めず、タブレットで写真を撮り、引き伸ばしてみている次第。
だから、思っている「毒々しい赤」に見えないのだと思う。
右目はとうに見えなくなっており、ほぼ白霞状態
最初はその画像と、左目に見える画像が混在してつらかったが、最近は脳が諦めて、右目の画像は無視している。(左目を塞げば、普段意識していない右目の風景を認識できる
で、酷使している左目だが、見えているか見えていないかだと「見えている」
まぁ、乱視だったり老眼だったりは仕方ないけど。
じゃぁ、目の前にあるものを「そのように見ている」かどうかだと怪しくなる。
昔「見えていた」記憶と、今「見えている」ものは明らかに違う。
私の場合、かつて「見えていた」ものが衰えているから違い・差を意識しているけれど…
生まれつき、見え方に偏りがある方は、最初から「目で見て脳が意識しているもの」は、”一般的な見え方”と違っていることに気が付かない。
それを責められることはとてもつらいことだと思う。
だって「そのようにしか見えていない」のだから。
目の機能の問題だと、機械で測定して矯正することもできるかもしれない。
しかし、認識の偏りはそうはいかない。
それに本人も偏っていることがなかなか自覚できない。
まだ、目が見えるうちにいろいろ「見ておきたい」と願い、いろいろな役割をお断りし、わがままに時間を費やすことにしだした。
しかし、このような現実に直面すると、すでに遅いのかも…という気にもなる。
まぁ、思う通り見えなくとも、五感で触れて、出逢うことはできる。
ただ、一人で思いついてドライブに行くことは考えならんな…と。